親鸞の宗教ですらも無非難で良いわけはなし?他の要素のつけたしの重要性を認識すべし? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
マックス.ウェーバーは、日本の文系大学のほとんどで取り上げられる大学者ではないでしょうか?
かくいう私も、文系大学に属し、その4年間、この人の名を聞かない年はなかったです。
その人の偉大さは、資本主義のエートス−つまり、人間の資本主義的な行動に向かわせるための動機づけがプロテスタンティズムにあるということを発見したことなのです。
それについては、いろんな本が出ているので、興味を持った人は読んでみるのがいいでしょう。
大学の講義だけで済ませるのはもったいないです。
話題はプロテスタンティズムからは変えまして、ウェーバー(下写真)曰く、「不幸とは、未来の価値が逆転することである」としました。

そうですよね。
そういう、当たり前と思っていたことが、まるで一変してしまえば、かなり不幸なことになるのは言うまでもない事です。
大震災などの、それ以外の類似するような経験。
そういう経験はしたことがない私ですが、ちょこっとだけそれに似た経験はありますから、その定義は傾聴に値するのではないか、と思われるのです。
身近な人が死んでしまうといったようなことですね。
私もそういうことを体験したので、その精神的なツラさには同情の余地がかなりあります。
そんなとき、どんな言論が有効でしょうか?
「ピンチはチャンス、宿業を恨んで戦っていても消耗するだけ。」
そう思うことで、受容できると自分の命、存在というものの価値が変わり、人生観が変わるのは言うまでもない事ですが、自分ひとりでう〜んと唸っていてもこういう考えが発現することはほぼないのではないでしょうか?
ゆえに著作家というものは、そういうことを発信して、読んだ人の人生観が一変させるような言葉を書くことが大事なのでしょう。
また宗教においても、そういう人を啓蒙するような言論が発せられることが往々にしてあり、その言論が瞠目に値することがあり、目が離せないことがあるのも事実です。

この事実を観るに、やはり宗教の言論も注目に値するでしょう。
ゆえに読んで参考になったら賞賛の意志を伝えることにしているのです。
現代においては、努力を蔑ろにする傾向があります。
やはり、神仏に縋らなくても生活していけるから、そういう世界観になるのでしょう。
科学の発達によって便利にことで、神仏に縋らなくてもいいので、神仏にすがらなくてはいけないという世界観が信じられるか、となり、そこで一歩翻って、宗教における書物を紐解いて読んでみることをお勧めします。
それをするかしないかで、神仏が信じるべきかそうでないかが決まるのです。
それ以後はまさしく自身の精神性の内容は自由であり、こちらが矯正するかどうかは無関係なのです。
神仏を信じるか信じないか?
やはり神仏に縋るのが妥当と思っていても、神仏を信じない人の意見を聞いていると、その立場の人間の理解ができてきてしまい、やはり融合してしまう。
それは古今東西変わらぬ事実でしょう。
これがいいか悪いか?
やはり肯定的に捉えるべきであるとは思います。
そういう両方の立場を理解することによって、相互理解が可能になるわけですから。
その相互理解というものは、宗教に限らず、社会に出て非常に大事なことであると私は思います。
浄土真宗は日本の宗教界で信者が一番多い宗教であると知って驚きました。
まるで自分の身の回りにその信者がいないものですから、そんなに多くはないだろう、というスタンスでいたのです。
それゆえに、浄土真宗の信者の人は、浄土真宗に対して無批判でいていいのでしょうか?
そんなことはないでしょう。
完璧なものなどこの世にないのであって、瑕疵と思われる部分については、自ら矯正しなくてはならない性質なのです。
浄土真宗においては先祖供養しないのが基本なのです。
それは、ここの信者は、生前において、南無阿弥陀仏と唱えれば死後、極楽往生できるというのが基本的な教えだからです。

しかし、この信者ではなかった祖先や他の人など自分に何らかの関係があって、それらの不成仏霊の障り等に苦しんでいる例があったら、その場合は、やはり供養が必須だろう、ということです。
また宗教で講義される内容には時間的、または紙幅的な制約もあって、社会生活で必須と思われる内容まで講義することはできませんので、自身で本などを買って読んで、自身の糧にして、そして行動することが大事でしょう。
宗教に入る人はややもすれば、その宗教に無批判になりがちで、しかも、その他の事については学ぶのを怠りがちになるのです。
それによって幸福になるはずが、そうなれないパターンは往々にしてあります。
明治時代においては国民の半分が文盲だったようです。
ゆえに、寺子屋はじめ他の宗教施設において、口伝による教育が大きな役割を果たしたのです。
しかし、今は文盲などほぼいないですし、簡単に本が手にはいり、そこにおいていろんなものがいくらでも学べる時代なのです。
しかし、親鸞の生きた鎌倉時代当時から近世においては、本などが庶民が簡単に入手できなかったし、縋るものがなかったのです。
ゆえに宿縁にしたがい、親鸞はじめいろんな宗教ににすがるしかなかった。

こういう背景が、日本最大の仏教団体になった理由でもあるのは言うまでもないでしょう。
なら、宗教などこんにちには要らない…それも間違いなのです。
便利になった社会においては大きな趨勢として、勝ち負けだけの価値観から離れることはできないのです。
その社会で疲弊した際に精神的な拠り所が重要になってくるのです。
そこで浄土真宗に縋り精神の蘇生がかなったという経験談が多くあるのです。
ゆえに、科学に依存する一方で、宗教にも依存すべき根拠はやはりあるのですし、その両方を等閑視するべきである、というのが私の基本的モラルなのです。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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