偉大なる宗教祖はどちらか一方だけを採択するのではなく中庸を貫く? (親鸞とユダヤ.キリスト)

こんにちは。
大学で学ぶ学問は、現代社会と密着した理論を学んでそれを生かすためにあるのは明白です。
ゆえに、これを学んで実際の社会生活が良くなるように行動しなくてはならないのは言うまで
もないことです。
ゆえに、その学問の本に載っている理論が、現代社会で生かせるものでなければ意味がないですし、学ぶ学生が関心を惹くようなものでなくては、聴講している学生としてはテンションが下がるのが必然です。
机上の空論と化してしまったことや、学生にとって意味の感じれないことを滔々と述べているだけ、そういう本を出しているだけの教授は教授失格ではないか、と思われてならないのです。
書かれた本が、現代社会から遊離してしまったものであってみれば、意味がないのです。
逆に、いまいる社会にとって大事だ、と思われる本に出くわすと、私はいつまでも保管してしまうのです。
そして、そこに書かれた理論が、今いる社会にとって大事なものが感じれば、その内容を人に話したくなる衝動に誰もがかられるのではないでしょうか?
そんな衝動を浄土真宗の親鸞(下写真)もかられたのではないか、と思われるのです。
以下読んでくださいませ。
キリスト教の教会において、大抵、人間は罪深い存在であるということを教えられます。
それはどういうことでしょうか?
自分では罪を犯したいと思っていないのに、気がついたら嘘をついていたり、悪口を言ってしまったというのはよくあることですよね。
どうしてそのように罪を犯してしまうのか気になりますよね。
ここからは、罪がどのようにして人間に入ってきたのかを、聖書から見てみたいと思います!
どんなに立派な人でも、偉い人でも関係なく、全ての人には生まれながらにして罪があります。
そのことを「原罪」と言ったりもします。
この言葉自体はアウグスティヌス(4−5世紀にキリスト教教義の基礎を作ったとされる聖人)が作り出した表現なので聖書には出てきませんが、私たち人間の罪をわかりやすく説明していると思います。
罪の性質「原罪」というのは、私たち人間がはじめから受け継いでいる罪のことを言います。
赤ちゃんは純粋に生まれてきてまだ世の中の汚れた部分も知らないので、後々罪が入ったのではないかと思われる方もいるかもしれません。
しかし少し考えてみてください。
生まれてまもない赤ちゃんも、人のおもちゃを取ろうとしたりします。
また、親は子どもに嘘の付き方を教えますか?
喧嘩の仕方やお友だちのおもちゃを取ること教えますか?
そうなんです。
誰も教えていなくても、生まれた時から罪の性質があるために、自然と罪を犯してしまいます。
ここまで罪の意味について見てきましたが、罪があっても殺人や盗みなど法にふれるようなことをしていなければ別に問題ないのでは?と感じるかもしれませんが、それは大間違いなんです!
「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)
恐ろしいことに、聖書は罪の結果が「死」であると言っています。
はじめの人アダムの罪ゆえに、死がこの世に入ったと書かれています。
しかし、ここでいう「死」とは、ただ肉体的な死だけを指して言っているのではありません。
「死」とは本来、創造主である神との関係が損なわれてしまっていること、神との関係が断絶状態にあることを意味しています。
神は聖なるお方なので、原罪があるままでは人は神に近づくことができずに、永遠の滅びに至るということなのです。
そのためにクリスチャンに残された方途は?
それはのちに明らかにしましょう。
こういうことを十全に教えられることなく「人間はだれしも罪深い存在だ」などといわれても納得できないでしょう。
ある宗教の冊子を読んでいた時に、そこにその信者のエピソードが載っていました。
そこには、「人間は誰もが罪深い存在だ、ということを言われた私はキリスト教に疑問を抱き、その信仰には献身的にはなれなかった。
それでその教会を脱会して、今はこの宗教に入信して幸福に過ごしています。」という経験談があり、それを読むと苦笑を禁じれなかったのです。
やはり、話す教会側としては、こういう基礎的なことまで誰にでもいつまでも永久に話さなくてはならないでしょう。
でなければ、疑問をいだく人が出るのが必然です。
あまりに基本的なことを何度も講義していれば、いつしか「これくらい誰にでもわかるでしょう」という幻想に変わってしまうのは必然ですから注意が必要です。
親鸞が唱えた罪概念の詳細は、誰もが罪を負った存在である、ということです。
そういう概念は、キリストの観念なくして発想はなかったのが必然でしょう。
そうです。
親鸞は、キリストの聖書を読んでいたのです。
その聖書は西本願寺(下写真)に保管されているのです。

そんな罪深い存在であるが、南無阿弥陀仏と唱えれば死後誰もが極楽浄土に往生できるとしたのです。
それが日本では大きな潮流になっていた仏教という場において、いきなりキリスト教に鞍替えするのは不可能と断じて、自身の浄土教にキリストの教えを盛り込んだのでしょう。
このページの最初に「自身が読んだ本に書かれた理論が、今いる社会にとって大事なものが感じれば、その内容を人に話したくなる衝動に誰もがかられるのではないでしょうか?
そんな衝動を親鸞もかられたのではないか」と書いたのはまさにそういうことなのです。
それで布教に更に熱心になったのではないか、そんな気がしてならないのですね。
やはり、偉大なる宗教者は中庸の道を採択するのです。
どちらか一方だけを選択するのではなく、自分と反する立場の人間の言い分もきっちり聞くのが王道なのです。
言い争いをしている2人がいて、どちらか一方だけの意見だけを聞いて、その言い争いを裁断するのはナンセンスでしょう?
それと一緒なのです。
そういう王道を行った親鸞の後々までの影響力がどんなものだったかを知りたい人は以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。
これまでにはない切り口で書いてあります。
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⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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