汗牛充棟.ブログ

人類が創造した本という素晴らしきもののうち、私が接したのは、その内の限りなく少ないものですが、その片鱗でも素晴らしさを伝えたいと思っております。どうぞお付き合い下さいませ。
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人類が創造した本という素晴らしきもののうち、私が接したのは、その内の限りなく少ないものですが、その片鱗でも素晴らしさを伝えたいと思っております。

どうぞお付き合い下さいませ。

法然も親鸞も中国を経たキリスト教から影響を受けて覚醒し、それが日本の思想に大きな影響を与えた? (親鸞ととユダヤキリスト)




こんにちは。

親鸞のいでたちやその寺院をみると純和風な感じがして、西洋からの影響はまるで感じれないでしょう。

しかし、その教えの内容を他の宗教と比較したり、並行して他の宗教を研究していると、その共通点が浮かび上がってくるのです。

その親鸞の教義が、キリスト教(プロテスタント)との共通点があるのは驚きでしょう。


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ここで紹介している書籍を読むと、また、景教(キリスト教ネストリウス派)からの影響もうけているのがわかるでしょう。

ここで読めば、ここで紹介してきた書籍の表題が偽りではなかったことが納得されることだろうと思います。

古代の宗教にしろ、社会を超越する思想にしろ、「陣取り合戦」かつ「先物勝ち」と軌を同じくしています。

未開あるいは半未開の状態において布教をすればすぐさま多くの信者を取り込むことがしやすくなるということです。

勿論、受けいれられる魅力がなくてはならないのは言うまでもないですが…。

その結果、洋の東西という相反する文化が影響を受けた様には見えなくなってしまう。

本願寺にしろ、その寺内の様相にしろ、僧侶たちの着ている袈裟にしろ、一見して和風であり西洋的な雰囲気など微塵もない。

ないゆえに、この宗教がキリスト由来などということなど誰もが信じれないでしょう。

しかし、その対象物を他の文化と比較したり、事細かに分析していく作業を経ると、意外なものからの影響を受けていたことが判明し驚嘆する。

それがまた興味深く、関心をそそらざるを得ないです。

それがまさに親鸞(下写真)の宗教なのです。


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その師の法然の浄土宗も当然のことながらキリスト由来であるし、中国の浄土教もしかりなのです。

イエスの弟子だったトーマスが宣教のために、中国まで来ていたのが明白だったのです。

それゆえに、中国の浄土教もキリストの影響が受けていたのです。

それが自然なのは言うまでもない。

そうなると、ここでキリストの貢献を考慮せざるを得なくなるだろうことは間違いないです。

いくら半未開の状態で思想がいきわたりやすくなったとしても、その内容が多くの人に受け入れられるような魅力があったからこそ、ここまで広まった、ということが言えるでしょう。

ゆえに、この本は親鸞を中心に書かれたものですが、読めばキリスト教徒でも自身の宗教を誇れる内容になっていることは間違いないでしょう。

また浄土真宗信徒でも、親鸞の思想の根幹が多くの創業者の心を捉えてはなさなったがゆえにそれが企業の社訓になっていることや、江戸時代の商業の繁栄の礎になったことを知れば、自身の宗教にかなり自信が持てる内容であることは明らかです。

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ありがとうございました!


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景教(キリスト教ネストリウス派)がグッドなタイミングで日本に来ていたがゆえに、親鸞がそれを学んで悪人正機説を創設した? (親鸞とユダヤ.キリスト) 




こんにちは。

7世紀に、ユダヤ人とくに秦氏が日本にやってきて全国に神社を建てました。

これは日本古来の神社ではなく、秦氏の信仰していたキリスト教ネストリウス派の教会が日本の風土になじむように変化したものであることのようです。

それが日本に宗教のみならず、あらゆる文化や習俗をも持ち込み、それが日本のそれらの基礎になっていることも明らかです。

やはり未開あるいは半未開の状態において布教することは爆発的な広がりを持つうえでは大事なことです。

その好機が実って、景教の教えを学んだ親鸞(下写真)が、それを自身の教えに盛り込んだのです。





その最たるものが人間の罪的な存在論です。

それが悪人正機説につながったのです。

生まれてから悪事を犯さなかった人はいない…etc

人間は古来の仏教では禁忌とされていたものを時代の変遷で破らなくてはいけない存在。

こういった面を考慮するとやはり人間誰もが悪人である、という認識は間違いではなかったのです。

こういう認識は古代の仏教ではありえなかったです。

それがかなったのは、ひとえに親鸞が景教に学んだことが由来しているのです。





また半未開とは、ほとんどの国民が文字を読めないで口承で事を伝えていたということでもあります。

こういう状態においても、宗教や超越的な思想は広がりが早いし、広がりやすいのです。

社会主義思想の歴史を見てみればいいでしょう。

この主義が最初に樹立された国はロシアです。

そしてその近隣の東ヨーロッパ諸国、そして中国や南米、アフリカといった国々で、これらの国々では文盲が多かったがゆえに、もっともらしく多くの人々に認識されて広がりが早かったのです。

逆に、先進国では、国民の大部分に教育がなされていたがゆえに、また吟味する機関が存在していたがゆえに、もっともらしい理論には反論する余地があり、社会主義の樹立は不可能だったのです。

ただ、その社会主義の理念には共感する部分があったのは確かです。

秦氏(下写真)が日本に来て全国に教会(=神社)を建てたのはタイミングが良かったのです。





その教えを親鸞が学ぶ機会があったがゆえに、悪人正機説を唱える契機にもなったのです。

それを考えると景教の貢献は大きいのがわかります。

そして、中国浄土教を親鸞が学んだことで、自利利他精神をも広めて、のちの日本経済に大きく貢献することにもなったことは疑いもない事実です。

こういう経緯を俯瞰すると、まず1つの宗教思想を学んで、それから書物を濫読して多読して、いろんな観念を取り入れて思想を気宇ふくよかなものになり、自身の宗教を開祖するのです。

文化は、ひとたびその国や地域に取り込まれると、その国の文化や風土に合うように、そして調和されるようにアレンジされてしまうので、開祖の本来の思想が、異文化から由来しているということが見えなくなってしまうのです。

しかるに親鸞がキリスト教から自身の思想のヒントを得たとはなかなか信じれないのはよくわかります。

しかし、それは事実なのです。

ただし、親鸞にとっては、自身の宗教を創始するするつもりはなかったのですが、その後、あまりに大きな団体になったがゆえに、一宗教団体としての登録をしなくてはならないことになり、明治時代に、そういう名称(=浄土真宗)にしたようです。

やはり、行き先を考えずに行動を一途に布教をしていると、いろんな人が寄り集まっていつしか大きな団体になっている、ということが往々にしてあるようです。


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キリスト教にしても、ユダヤ教徒だったイエスが、ユダヤ教の布教を一心不乱にこなしていった結果、キリスト教という新たな宗派ができた、というのが真相のようです。

こういった史実を観ると、自分の力を最大限に引き出して願いをかなえるという自力ではなく、周りの人間に依拠しつつ、感謝しつつ、合同で一心不乱に行動していった結果、良き結果が逢着したことについて神仏に感謝するという他力の考え方の方が説得力がある気がします。

ただし、こんにちのように、競争に勝つというような側面が、親鸞が生きた鎌倉時代には希薄だったようです。

ゆえに親鸞に先見の明があった、というような行き過ぎた過大評価はしないでおきます。

しかし、自身や他の人類の歴史を勉強しながら、自力本願にするか他力本願にするかは自身で決めるのがいいでしょう。

自力本願の仏教で有名なのは日蓮正宗、日蓮宗でしょう。

それと比較して、浄土真宗はどのように自身に映るか?

魅力的に映るか、非魅力的に映るかは人によって違ってくるでしょう。

やはり宗教に誰にでも当てはまる王道などないのです。

自身で吟味して決めるのが王道でしょう。


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開発のもともとの意味を親鸞の文類偈を読んで考えていきましょう。(親鸞とユダヤ.キリスト)





こんにちは。

日本では、創価学会こそが、日本で一番信者が多いと思っていましたが、実際は浄土真宗なので驚きました。

かつては、真宗王国といわれたのが北陸なのです。

かつて、浄土真宗寺院の数は、1960年代に、富山県が1位(78.9%)、石川県が2位(72.0%)、福井県は5位(52.2%)…そんな時代があったことは事実です。

その人気の理由は何かといわれてもわからないですね。


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浄土真宗信徒全員に、「他の宗教にはいらないで、この宗教に入った理由はなぜですか?」と訊いて、その内容を吟味しないないことには無理な気がします。

しかし、その浄土真宗の内容を分析していくことで、真理には近づくのは間違いないでしょう。

「すべてのものは相互に関連しあっている、他者のお陰で今の自分がいる」という意味を持つ他力は自己中心主義を振り捨てる力、阿弥陀如来の本願力として親鸞は使う、ということです。

自然と人間を切り離すことは両者の相互関連を断ち切ること、「他力」によって自己が生かされていることを否定するエゴイズムにほかならず、その帰結は人間の滅亡になる、とはある浄土真宗信徒の言葉です。

そういう結びつきの大切さを認識することが出来るのは良いことでしょう。

私もそのことを実感しているのです。

自分1人では何もできない。

水、空気、食べ物、太陽、月、その他、自然、その他末端消費材etcがあるからこそ自分は生きれる。

ゆえに誰もが、自然や物や人間を大事にしなといけないでしょう。

そういう心暖かいものの考えが根底にあるからこそ、多くの人を魅了したことも、信徒が多い理由なのでしょう。

いろんな職場で働いた経験がありますが、どこでも、自分の気に入った人としか話さない、付き合わないという人は必ずいたものですが、そういう人間は存在自体が信じれなかったですし、その人を半面教師にしてきたものです。

開発…かいほつはインド、中国を経て、菩提心が起こることを意味するようになり、親鸞においては「内的な真実が開かれる」という意味で使っていたようです。

親鸞の書いた文類偈には「信心開発即獲忍」−真実を見抜く眼が、阿弥陀如来より賜り、それが私の中で花開くと、その場で真理に心を落ち着けることができるのだということです。

開発とはもともと、外的力を加えて、自然を変形、破壊するという意味は全くないようです。

ゆえに、親鸞の言葉を引き合いに出して、普通に言われている開発に対して異論を唱えているのです。

ダムを作る、河口堰を作る、橋を作る、道路を作る…これら開発は、人間の文明的な安全な生活を送るうえでは必須でしょう。

しかし、そこにアカウンタビリティ(説明責任)が大事でしょう。

これこれこういう理由があるから、こそ開発が必要というような説明をですね。

それがないならば、これらを作るべきではないでしょう。


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中央から資金を持ってこさせるために無理やりこれらを作る。

開発に際して、巨額なリベートがもらえるから不必要な開発をする、というのでは政治家や官僚は失格ですね。

このような不必要な開発をしていく政治家や官僚をコントロールするのは、その人の倫理を矯正するしかないような気がします。

そこで宗教が大きな役目を果たすのではないかと期待されている節もありますが、それは一般的な父母による教育でもあれば、学校教育の役目でもあれば、自身の役目でもある気がします。

宗教だけではなく。

教育が大きな比重を占めていた江戸時代の寺院ならいざ知らず、今では本が安価に買えていくらでも、自身を啓蒙できるのですから。

私の祖母の時代では、宗教によって嘘をつくと、閻魔様に舌抜かれる。

地獄絵図を見て喜捨したり、善行を積まなければ浄土には救われないといわれたようです。

宗教が大きな役割を果たしていたのがわかります。


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これはしかし、識字率が低いとこうなるのがわかります。

当時の識字率はどの程度かはわからないですが、今のほぼ100%の識字率を果たしていた時代とは違うはずです。

ゆえに、悪いことをしてはならぬ、という教えが希薄になっていってるのは間違いないですね。

その認識をすることは大いに結構なことでしょう。

それを矯正しなくては、と思った父母さんは自身の子供にそういう教育を施すのを人や学校がやってくれるのを待つまでもなく積極的にしていくべきでしょう。

一般人は自身の啓蒙をすべきでしょう!


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しかし、浄土真宗を研究していくと驚きのは、その教えが精神的な平等と社会的平等の結合、自立と連帯という点において、15世紀における共同体としての郷村制(荘園制の中で形成された地縁てきな村組織)のイデオロギー的な支柱になった、ということです。

とくに北陸、東海、近畿で顕著。

加賀の国で門徒領国制が90年以上も続いたようです。

これらの地域では500年にわたって共同体と結合した浄土真宗が主流となり、すでに述べた自然、開発、人間についての諸概念が生活文化として人々の間に根付いている。

「開発」の強行はこのような地域文化の活性化を結果的に生み出すことになるのです。

それはアパルトヘイト支配が感動的な黒人文化を生み出したのと同義である(解放の神学、状況神学)。

グローバルな開発が進行すればするほど、地域の文化は活性化し、反開発の地域文化のグローバル化が進むのは歴史の弁証法の皮肉?ということです。


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私は、今の宗教における教育を全部が全部、受け入れられないのが正直なところです。

そこで教えられているものが世界の全部だ、これだけ修めていればいい、という観念を生み出し、それしか学ばない人が増えるからです。

実際、学ぶことは大いにあるけれども、それが人類社会の全部ではないし、一側面でしかないことを考えれば、それだけで充分、という思想には与せないものがあるのは言うまでもないことです。

しかし、全部が全部、自身が積極的に、本を読んだり、セミナーに出席していくだけでいいかというとそれだけでも賛同できないのは事実です。

自分の好きなことだけ学び、自分が苦手とすることに関しては忌避してしまうことが往々にしてあるからです。

その苦手な部分を学ぶことで、学ぶ部分が見つけれることもあるのです。

やはり、その中庸を行くのが王道のような気がします。


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古今東西、人間は人智を超えた神仏に縋らざるを得ない弱い存在。親鸞も? (親鸞とユダヤ.キリスト)




こんにちは。

親鸞は鎌倉時代の僧侶ですが、いまだに話題の俎上に上るほどのカリスマ性を有しているようです。

この人の生涯を描いた映画までもあるようです。

また、親鸞の浄土真宗には、いろんな派があり、そのうちの1つの大谷派の講師で有名な本多弘之氏(下写真)は、親鸞やその教えについて書いた本がたくさんあるようで、その数はかなり膨大なものになります。





そのうちの1つに『親鸞と救済』という本がありますが、これはどんな趣旨なのでしょうか?

親鸞に縋れば、病気が治る、怪我をしたら治る…そういうものではないようです。

物ごとの考えを、親鸞に学んで変えれば精神内容が変わり、救われるということのようです。

興味ある人は読むのがいいでしょう。

その本多氏を交えていろんな作家や著作家が集まって講演した内容が本になりましたが、そのうちの1人に、以下のように講演している人がいました。

「現代社会は、解答なければ試験もない。それに慣れすぎている。今の時代、何のために生きているか?

人生に意味があるのかは、無駄な問いになっている。

根源的な問いは失われ、ソリューションを求めて、突き進んできた果てに、臨界点に達して、茫然自失としている時代になった。

今の教育は、教養全般を身に着けるのではなく、個々の問にどれだけ効率的に解答できるかに腐心している。

人間は、自らの力だけで生きているものではなくいろんな連なりの中で生きているのであって、その力の根源は阿弥陀様に見守られているからである。」






こういうものの考え方を身に着けることが出来たことで、その人は、人生がバラ色に変わったということです。

これは、親鸞の以下の言葉からヒントを得た、ということです。

「自分の力でいつでも善をなしうると思っている人は一心に本願をたのむこころが欠けているのだから、弥陀の本願に沿うものではない。

しかし、そのような善人も自力の心を妄念であると気づいて本願力にすべてを任せることが出来るならば、阿弥陀如来の真実の世界へ生まれることが出来るのである。
」

やはり、単に困難にぶつかったということで、そこで打開してくれるのを、神や仏に縋って頼むのではなく、縋りながらも、考えや思考をその宗教の人物が遺した書物から得て、それを精神の糧にする、ということで打開が開ける、ということでしょう。

やはり、そういうスタンスには共鳴するものがあります。

「情報は人を選ぶ」ということを聞いたことがあります。

努力している人間に、神や仏がキーポイントになる情報をもたらしてくれる。

神は自ら助けるものを助ける…これはキリスト教会で聞いた言葉です。


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それが、ヒントになり、共鳴できるのであれば、仏教徒だろうが神道家であろうと自身に糧にするのがいいでしょう。

人間たるもの、やはり人智を超えた存在に縋る性質は、古今東西消えない性質のものでしょう。

多少の差はあれ。

日本の中世において、いろんな仏教の派が勃興しましたが、どの開祖も聖徳太子に生きていた、といえるでしょう。

道元(曹洞宗)にしろ、日蓮(日蓮宗、日蓮正宗)も、そして親鸞(浄土真宗)も同じく!

道元にしろ、日蓮にしろ、聖徳太子の書物によって、自身の教義を作る際の参考にしたのです。

そして親鸞は道元や日蓮とは違って、行き詰まると聖徳太子に助けをも求めたのが史実として残っているのです。

聖徳太子の御廟で受けた「磯長の夢告」が有名です。

そこで聖徳太子の観音が親鸞の前に出てきて、「あなたはあと14年しかいきれない」といわれる。

その時、親鸞は19歳でした。

それが元で、親鸞は必死になって教えをまなんでいったのです。

19歳+14年で33歳で死ぬ予告でしたが、実際は90歳まで親鸞は生きることになるのです。

これは聖徳太子(下写真)が逢着させた結果なのでしょうか?






それはだれにもわかりません。

浄土真宗の本尊である、阿弥陀というのは無限なる光、無限なる智慧、無限なる命など、いろいろな意味があるのです。

その無限なるもの=アミタ―がいつでも守ってくださっている働きを阿弥陀というのです。

親鸞や真宗で講義されている因縁という言葉の内情は、以下です。

自分の存在を成り立たせているのは、自然では大地、空気、水、こうしたあらゆる条件が与えられて初めて自分があるということになる。 

私も共感するのです。

ゆえに、自分が勝手に一人で生きているというのは妄念であり、間違った考えであるといいます。

「どこかで(大きなものが)自分を見ている」ということを感じられる眼というものがある。それは客観ではなく、いわば仏観というものだろうか?

阿弥陀様が、いつも寄り添って励まして育ててくださっているという考えがあります。


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時に厳しく非難してくださっているという世界観も真宗内ではあります。

これはまるでキリスト教?と思われるに充分です。

そうです、親鸞はキリスト教に学んでいたのです。

その聖書は、今では世尊布施論という名で、真宗寺院である西本願寺に保管されているのです。

万般にわたる書物の乱読によって、人には考えつかないものの考え方が生まれるのです。

阿弥陀様が見守って自分を良き方向へ導いてくださっている…こういうものの考え方は古代仏教には希薄だったのです。

無量寿経を読誦していた親鸞が、読経を始めて4日目の明け方、ああそうかとつぶやき、人の執心や自力への過信はなかなか消し去ることに気づき、読経もやめると病状も回復したということです。

それによって自力本願ではなく他力(阿弥陀仏に縋る)本願に生きると決心したようです。

現代人から見れば、根拠薄弱ではないか、そんなことで…という意見がでそうですが、そこをどう考えてこれから行動していくかを決めるのはご自身であり、その行動の後に、自分に逢着した結果は自身の責任、ということを覚えておいてもらいたいものです。



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五木寛之や吉川英治や吉本隆明を魅了した親鸞は変わり者だった? (親鸞とユダヤ.キリスト)




こんにちは。

人は決して自分1人だけで生きれるものではないのです。

勿論、私もです。

ゆえに、生きていくうえでの規範を学ぶ上でも、謙虚に人から学んでいく姿勢が必須でしょう。

しかし、すぐさま多くの事柄を、少ない人数から学んでいった方が効率がいいのは言うまでもないことです。

そういう多面性を持った人とはなかなかいるものではないですが、その時に俎上に上りやすいのが、小説上の人物であったり、歴史上の人物であったりするわけですが、実在した人物ということで、歴史上の人物の方が親近感がわくのは当然でしょう。

ゆえに、いつの世でも歴史小説は、多くの人の心を惹いてやまないのでしょうね。


しかるに親鸞は、カリスマ的な人物として語られることが多いようです。

五木寛之や吉川英治といった小説家や、吉本隆明といった著作家まで「親鸞」という単語を冠した本を刊行しているのです。

親鸞は鎌倉時代の人物ですが、今でも通用する理論の数々を編み出した、あるいは導き出したので、学ぶ価値があるといえるでしょう。

親鸞曰く、「自分の力でいつでも善をなしうると思っている人は一心に本願をたのむこころが欠けているのだから、弥陀の本願に沿うものではない。

しかし、そのような善人も自力の心を妄念であると気づいて本願力にすべてを任せることが出来るならば、阿弥陀如来の真実の世界へ生まれることが出来るのである。」

ということですね。





仏の前では人間の力は全然及ばない。

その力では、善をなしても無力に近い、ということを言いたかったのでしょうか?

あるいは傲慢になることを戒めたのでしょうか?

私はその両方であると思うのです。

1人では人間は生きていけないのであるし、そのことを思えば、虚心坦懐になって、明鏡止水の心の境地になることは必至でしょう。

そういう思いこそが、人生を最も充実感に溢れたものになることは間違いないでしょう。

私もそのことを実感しました。


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しかし、人生何事も守破離が大事です。

善行を自らなしうる人は尊敬しますし、真から勧めたい事柄です。

それが自らできるようになる人は、自分を誇っていいでしょう。

しかし、そのことで傲慢にはならないように注意しましょうということは留めおいた方がいいでしょう。

そして続けて親鸞は、

「自らの煩悩(欲望、不安、後悔など)に振り回されている私たちは、どれほど人間的に努力を尽くしてみても、そうした苦しみの生活から根本的に開放されることはない。

このような私たちを深く悲しまれて、本願を起こしてくださったのである。その本願の心はそのような悪人(自分の罪と愚かさを自覚し、自分では助からないとわかった人)をこそ、真に開放してくださるのである。

だから、他力(阿弥陀仏の力)すべてをお任せする悪人の自覚こそ真実の自己になれるのであれば、尚更、悪人はいうまでもないことである。」としたためました。

悪人に(自分の罪と愚かさを自覚し、自分では助からないとわかった人)と付けましたが、更に注釈が必要のようです。

親鸞のいう悪人とは、それだけではなく、古代仏教では人を殺したり、生物を殺してそれを食べるなどということは最大級の御法度だったのです。

しかし、当時は戦乱の世。

相手の兵士を殺さなくてはならなかったし、魚介類や動物を殺して食べなくては食料の足りなくなった時代になっていたのです。


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そんな状態になってしまった人たちを悪人と規定したのです。

その「悪いこと」を懺悔して、阿弥陀仏に縋れば成仏できるとしたのです親鸞は。

決して、悪いことを率先してやるべきといっているわけでも、窃盗や悪口や悪戯などの悪いことをしてきた人たちのことを言っているわけではないのです。

親鸞が今も支持されるのは、出家仏教(人里離れたところに、共同体をつくり、時代や社会と離れたところ人間としての独立を回復させようとする)ではなかったからです。

それまでの仏教とは違う形で実存共同体を作るのが、目的だったのです。

その象徴的な言葉が「非僧非俗」。僧にあらず俗にあらず。

妻も子供もいて、肉や魚を食べて、悟りを開くこともなかった。

いわば非僧。

世俗にまみえることなく、1人ひとりにとって救いとなる教えを弘めていこうという明確な意思があったのです。

これが非俗だったのです。

こういう非僧非俗という立場になって、衆生に分け入って、弘教を敢行した親鸞は、一気に念仏に縋る人を信者として引き入れることに成功したようです。


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真宗王国といった団体を形成するまでになったのは言うに及ばず、今や現代日本で信者が一番多いのは、親鸞の浄土真宗だそうです。

信者が一番多いのは創価学会だとばかり思っていた私には超意外でした。

今の感覚でいえば、当時の大衆に共通する要求事項は、豊富な食べ物だったり、住みよい住環境だったり、素早くとれる漁網だったりしたのかな、と思いがちですが、そうではなかったようです。

やはり、こういう歴史的事象を見れば、死んでからの安らかな極楽浄土とそこへ往くための確固たる方途だったようです。

それを、親鸞がどういう経緯で得たかは不明ですし、あるいは神仏のお告げがあって、そういう行動に移したのかはわかりかねますが、普通に僧侶をしていれば食べるに困らなかったことは間違いないですが、そういう安易な道を選ばずに、弘教を敢行した僧侶は変わり者だったのです。

しかし、忘れてはならないのは、そういう「変わり者」こそが世の中を、社会を変えるのです。

そのことを踏まえれば、これからの自分の人生は良い意味で変わってくるのは間違いないでしょう。


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親鸞は「哲学者」だった?その内情はどんなものだったか? (親鸞とユダヤ.キリスト)




こんにちは。

昨今では五木寛之の小説である『親鸞』というのが話題になっているようです。

私も、小学生時には、小説を読んだものです。

その効用は、自分の人生だけでは人徳の規範を知ることは出来ないがゆえに、小説の作者が描いた登場人物の行動や心の動きから、それらを学んで実際の社会で行動していかなくてはないということでしょう。

その登場人物が歴史上に実在し、多くの人を啓蒙してきたというのであれば、猶更、登場人物として挙がっても当然でしょう。

それが歴史小説というものになるのです。

しかし、その小説を読むにあたり、前もって、その人物の歴史や当時の社会の背景を知っているかどうかで、理解力の幅は違ってくるのは言うまでもないでしょう。

そういう効用を期待するか期待しないかは別にして、興味ある人は読んでみてくださいませ。

親鸞は、鎌倉時代の僧侶です。

源平合戦の最終戦として有名な壇ノ浦の合戦が起きたのは、親鸞13歳のときでした。





かなりの栄華を誇っていた平清盛が、この戦に敗れて没落していく姿が衆生に知れ渡るのです。

それまでゆるぎなく存在していたものが、全く無価値と思われるようなものにとってかわられるという局面だったのです。

そういう局面は、歴史を学べば幾十にも見て取ることが出来ます。

当時は戦や飢饉、大地震で多くの人が死んでいく末法の世でした。

動乱の時代には、やむを得ず出家するしかない状況の追い込まれる人が多かった。

伯父が学者だった親鸞は文面による啓蒙がかなって僧侶になったのです。

これは、親鸞が僧侶にあった理由として挙げられるものですが、果たしてそれだけだったのでしょうか?

やはり仏などの人智を超えた存在に帰依して、こういった大激動の時代に自分は何かできることはないかということを探索していたのではないかなと思われる節があるのです。

そして当時の日本の最高学府であり、最高の仏道修行の場だった天台宗の延暦寺(下写真)に行って仏教を学ぶのです。


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しかし、当時の延暦寺は貴族たちの出世の手段の場と化してしてしまっていて、親鸞をひどく落胆させるものだったといいます。

ひとくちに仏教といっても、古代からかなり時代が隔たっていた当時には、仏教も多岐化していたのです。

大きく4つの流れがあったのですが、そのうちの2つ、法華信仰と浄土教信仰が天台では講義されていたのです。

前者に失望した親鸞は必然的に、後者を選らんだのです。

詳しいないようについては割愛しますが、その浄土教信仰に対して親鸞はえらく入れ込んだようです。

その延暦寺には、のちの師となる法然もいて、この人も浄土教を信仰する人だったのです。

ただ親鸞は世俗に身を投じて、その教えを弘めるという気概を持って、それを実際に行動に移していったのです。

そんなことをしなくても、充分生活はして行けたのにも関わらず…親鸞は立派ですね。

いつの世でも、誰もが向上心や欲望はあります。

それをかなえるべく政治というものはあるわけで、かなり後世になって代議制というものが発明されたのですが、その社会全体に通低する民衆の欲望は何か、ということになると誰にもわからないものです。

わかるようでわからないものです。

それがわかるのは一部の哲学者だけであって、その他の人々は勝手に自分の欲望をいっているに過ぎないのです。

しかし、親鸞が衆生に分け入って弘教していったことで、一気に信者を獲得していった歴史を見れば、その社会全体に通底する民衆の欲望は、浄土信仰だったのがわかります。


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いまや日本で一番信者が多いのは浄土真宗ということです。

もっと住みよい家が欲しい。

もっと食べ物が欲しい。

もっと容易に牽ける水路が欲しい。

こういう欲望は当時はもっともでしたが、それよりも大多数の人々の心を動かしたのは、死後の安らかな浄土だったのがわかります。

こういう歴史的な事実を踏まえれば、親鸞は「哲学者」だったのがわかります。

その教えを深く研究していくと興味深く、民衆を引き付ける魅力があるのがわかります。

親鸞は「他力(阿弥陀仏の力)によっていま凡夫である罪悪の身であるままに浄土がある。

この濁世がひっくり返ったら浄土になる、光の中にある」

と説いたのです。

つまり、罪悪深重の自覚から出る欲は、不純粋でしかない。

その愚かな衆生を救いたいという欲は、無条件に一切を摂して助けようとするその無限の慈悲の働きを現在に感じる救いを信じるのです。

「どこかで(大きなものが)自分を見ている」ということを感じられる眼というものがあります。

それは客観ではなく、いわば仏観というものでしょうか?

阿弥陀様(下写真)が、いつも寄り添って励まして育ててくださっている。






時に厳しく非難してくださっているという世界観が親鸞の宗派である浄土真宗にはあります。

こういった世界観を聞くと、大多数の衆生はものすごく惹かれてしまっていったのがわかります。

しかし、こういう世界観を聞くと、「キリスト教?」と思ってしまいます。

しかし、そういう世界観が親鸞に生まれたのは間違いないのです。

親鸞はいろんな書物を読み漁り、それらからいろんな知識はもちろん理論や世界観をも取り入れて模倣していったのですから。

そのうちの1つがキリスト教だったのです。

親鸞がキリスト教を学んだ?

そんなはずはないと思われるのも無理からぬことです。

しかし、親鸞の生きた時代よりも、500年以上も前に、キリスト教が日本に入ってきていたのは明白な事実なのです。

それは景教といわれるキリスト教の一派なのです。

●その内容について知りたいかたは以下の電子書籍.ペーパーバックを読んでくださいませ!(※ペーパーバックとは、注文が入った後に、印刷.製本されて発注者のお家に配達されるシステム本の事です!電子書籍850円、ペーパーバック1738円で提供中です!)

⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性




今回はこれにて失礼いたします。

ありがとうございました!



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宗教教義の変遷は必然?親鸞も従来の仏教に変遷を加えてきた? (親鸞とユダヤ.キリスト)





こんにちは。

これまで親鸞について述べてきましたが、親鸞は1173年に京都で中級貴族の子として生まれ、9歳の時に比叡山で慈円の弟子になり、ついで法然の弟子になり、その法然の教えを弘めようとしただけであって、一宗派を築く気はなかったといいます。

当初、天台宗の延暦寺に僧として入りましたが、そこで貴族たちの出世手段と化して、権威的に廃れていったことに失望し、そこで天台宗を学ぶのではなく、勃興しつつあった念仏について興味が出ていったのです。

その念仏を奉じていたのは法然。

その法然は比叡山の高僧であり、この人を師事するという気概を持ったのでしょう親鸞は。


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そして、「この人の教えを弘めよう」という気概で始めた伝道ですが、やはりいくら巧みに伝道しても、これまで自分の脳内にためた知識や価値観が法然とは違うために、アレンジが加わってしまったのでしょうし、それが必然であることから、そのことに批判を加えようとは思わないのです私は。

開祖といわれた人で、公然の妻帯したのは親鸞だけ。

浄土真宗では、祖先への尊崇や供養を不要とした。

法然が寺を建てるなと遺言し(実際は無数に浄土宗の寺院が存在する)、親鸞がわが屍を川に捨てよとした。

親鸞の語、漢文を活かして全く新しい訓読を示したり、創語をなしている。

こういう事象を観て、アレンジが加わる必然性がわかるでしょう。

そして、信者を思って最優先事項がわかれば、それに適うように教義も変遷するのが必然のようです。

法然が専修念仏を説くまでは、浄土は現世にではなく、死後の世界であり死んだ後に辿りつけるとしたが、現世において救われるということで転換がある。

それが親鸞の説いた還相回向です。

これは浄土に生まれた者がこの迷いの世界に還りきて人々を救済し続けていくすがたの事です。


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これは、親鸞がいろんな書物の濫読によってその箇所を探したのか、神や仏のお告げによって、その真実が親鸞に逢着したのかはわかりかねます。

でも、その新しい事実によって、講義された衆生の胸は晴れたことでしょう。

「弥陀の本願には、老少善悪の人を選ばず、ただ信心をかなめとすべし」とは親鸞の書いた『歎異抄』の1条に書いてあることです。

これは、当時階級社会だった日本の衆生に新しい視点を与えたことで、これにても多くの人が感動して、信者が増えたことにもつながったのでしょう。

『雑種文化』で有名な著作家である加藤周一曰く、「親鸞は日本思想史に未曽有の徹底した超越思想の平等感を樹立し…」と高評価していたのです。 

親鸞は、階級的な対立を明確に意識したわけではなく、支配への抵抗を説いてはいないのです。

親鸞の信者による土一揆や一向一揆が展開されるには、200年の歳月を要したのです。

本願寺教団を組織した覚如(親鸞の孫)とともに、蓮如(下写真)の活動がなければ後年、ここまで親鸞が有名になることはなかったといいます。


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宗教を研究していくに、日本では親鸞の浄土真宗が一番信者が多いのがわかりびっくりしました。

私はてっきり創価学会が一番大きな組織であると思っていたからです。

それは、開祖の言ったことをそっくりそのまま、旧態依然として変えずにいることは、やはり滑稽なことでしょう。

やはり慣習や文化などは時代とともに変遷するわけであって、その動きと一緒に教義すらも変えていく必要があるのは言うまでもない事でしょう。

しかし、何でもかんでも衆生や信者に媚びを売れということではないのです。

熟考に熟考を重ねたうえで教義をも変えていかないことには、時代に取り残されていくし、当代の人を説得することはできなくなっていくということです。

そういう多くの信者を変遷によって説得して、更なる信者の獲得に成功したのが、蓮如なのです。

真宗再興の人として有名なのです。

しかし、その際の変遷内容について、やはり賛否が分かれてしまうのも、また人類の歴史を観ればわかることなのです。

しかし、信者全員を説得することは不可能なことなので、そこは割り切らないといけないようです。

変遷させた蓮如の元を去っていった人も多く出たことでしょう。

こういったことを理解した上で、その開祖の説いた内容に、自身で判断して一番妥当と思われる教団に帰依するのがいいようです。

そんなことを考えてしまったのです。

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神仏を畏れ敬う心は、さしたる根拠なく信じてしまう心ゆえか?それでいいでしょうか? (親鸞とユダヤ.キリスト)




こんにちは。

宗教というものは、いつの時代においても人間の心を捉えて離さないもののようです。

いくら科学が発達して、便利な世の中になってもです。

そのことによって、逆にそういう帰属してしていきたいものが必須になっていくのでしょうか?

あまりに、宗教に関する知識が学校などで教えられないがゆえに、その重要性がない、あるいはそんなものは必要ない、という思いを抱かせてしまうこともあるから、重々にその危険性は認識しなくてはいけないでしょう。

寺社の祠やオブジェや建物を壊したりした人の末路などを実体験として知った私は、おぞましくもなりました。

そうなったら、その人の人生は終わりですから、注意が必要です。

そういう面ではもちろん、敬いの念をもつことで、明鏡止水の境地になり、世の中ひいては人との結びつきの心地よさや快楽的な心を持つことも重要でしょう…って抽象的でわかりにくいですが(笑)、興味ある人は、1つでもいいから宗教について学ぶなり、その寺社の中に入ってそこに携わっている人の話しを聞いてみるべきでしょう。





そうしたら、私の言わんとすることがわかるのではないでしょうか?

親鸞の思想にぞっこんになり、浄土真宗に関する本も出し、住職も務めたこともある野田宣雄氏は、以下のように書いています。

「宗教がなければ、人はどこにも確乎とした帰属意識を見いだせず、生きているという実感を持つことも難しいでしょう。」

そうすると、哲学者として有名なニーチェの言葉が思い浮かびます。

ニーチェに言わせれば、神がいないことは明白になった。

神なき時代において、宗教なしで生きていけるのは超人だけである。

そうなると、私は無宗教者だ。

だから私は超人なのか?ということですね(笑)。

そんなことはないでしょう。

しかし、寺社の祠やオブジェや建物を壊したりした人はまさに超人なのでしょう。

やその祟りをも絶対的に畏れなかったのですから。

しかし、その超人の末路は非常におぞましいものでした。


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まさにオカルト映画のような現象が次々に起こり、発狂して自殺してしまったのですから。

そういう映像を小さなころから見たり読んだりしてきた私にとっては頷けることでした。

「そんなことは作り話だ」というような意見も出てくるでしょうが、そういう実体験が、世界中で話されているのですから、全部が全部作り話という結論に行く方が奇妙というほかないです。

神や仏を敬い大事にすることによって、明鏡止水の境地になり、人生を上昇させることができる反面、関係物を壊したりすることで地獄になるのですから恐ろしいことですね。

まさに真逆の結果になるのです。


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やはり神や仏は、畏れ敬うものなのですね。

畏敬の念とはよく言ったものですが、畏れと敬いという真逆なものが連なった単語なのです。

実に不思議な単語ですが、普段からずっと触れている聖職者にとってみればあたり前なのでしょう。

先の野田氏の言葉の根拠はどこから来たのだろうか?という素朴な疑問が湧きますが、おそらく、親鸞の以下の言葉ではないでしょうか?

「煩悩具足の凡夫が作り出す世界は、火災で燃え盛る家のような焦躁感にあふれた不安定きわまりない世界である。

そこではあらゆることが、すべて信用ならない空疎なことなのであって、真実はどこにも見出せないがただ念仏だけは真実である。
」
(歎異抄)


ゆえに阿弥陀仏に帰依して、念仏を唱えよ、ということであったようです。





疑問が湧くのは、どういう尺度でこの論を導き出したのか?ということですね。

それは親鸞は、どの宗教の開祖と共通するように、いろんな書物を濫読してきたのです。

その結果、阿弥陀仏に帰依する事こそが…という論理に達したのでしょう。

その論拠は書かないままでこういう論を進めてもあまり説得力が…という理屈が私には湧いてきてしまうのですが(笑)、それは一宗派を設立する意図が親鸞にはなかった、ということでしょう。

こうなるとまた難しい問題になりますね(笑)

念佛すれば絶対的な境地になれる、ということを親鸞は言いたかったのでしょうが、その根拠はという疑問が湧くのも必然です。

それもまた濫読に拠る結果ということもあるでしょうし、生涯に4度にわたって夢告を受けているのです親鸞は。

人智を超えた存在からのお告げを受けることで強気なれるのは誰でも頷けます。

それはまたカリスマ=神憑性という言葉でも表せます。

その神憑性のある人というのは、さしたる根拠を示さなくても、衆生が信じてしまう性質を持っているものなのです。

それによって衆生が割り切って行動することが出来るのです。

それは偉業でしょう。

しかし、そのカリスマ性によって行動しても、常に吟味が必要でしょう。

かならずしも、その行動が正しいとは限らないのですから。

その矯正を経て人類社会は質的な上昇をしてきたのですから。

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望ましい資本主義の精神とはどういうものか?その精神が醸成されたのが浄土真宗がその1つだった? (親鸞とユダヤ.キリスト)




こんにちは。

マックス.ウェーバーは文系の大学では必ず誰しも名を聞くほど有名でしょう。

そのウェーバーが、浄土真宗の持つエートスを資本主義に必須のエートスと同じものを持っていたとして、それについて論じているのです。

その箇所を読んで私は驚いたのです。

まるで、当時、無関心だった浄土真宗が世界的に有名な文系学者によって取り上げられていたのですから。

また、のちになって、浄土真宗が日本で一番信者の多い団体であることも知って、その時も驚きました。

ウェーバーの分析内容は、どう考えても凡人ではできない解析脳を持っているので、ただひれ伏すのみ、といった感じです(笑)

さすが世界的に著名な学者といった感じです。

そのウェーバー(下写真)が、『中間考察』という本において、救済宗教の特徴を分析したのです。






それが以下です。

1、救済は、万人にとって到達可能だとする同胞倫理によって構成されている。

これは、選ばれた者だけが救いに預かれるピューリタニズムとは対をなすのがわかります。

2、この世は罪あるもののために作られている世界とする考え方が中心である。

この世は罪を負った人間が寄り集まってできた世界であり、現世の不完全さは動かしがたい事実である、という考えが蔓延されているということです。

3、不合理なるがゆえにわれ信ずという要請なしにやってゆけるような生命力にあふれた救済宗教は存在しない、ということ。

救済宗教は、日常生活においては呪術を排斥するが、その核心には超越的な絶対者を据えて、それに対する無条件の信仰を求める。

救済宗教は、知性の犠牲を伴わずに不可能であるということです。

これら現世的に見えるものが一見、宗教に代わって人々に人生の意味を与えるように見えながら、右に挙げた救済宗教の要件を満たしていないから完全にとってかわるのは無理だ。

経済活動や芸術や学問などの現世的な営みの限界が明るみになり、職業や性愛をも含めてどんなに人々を夢中にさせるものでも、地上の営みは究極的な人生の意味を与えることはできない。

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こういうことを分析内容を観ると、非常に説得的ですね。

無宗神論者は、こういう部分を読まないで、無神論を決め込んでいるのでしょうが、こういう特長を認識することなくしてその立場を選んだわけですが、そのことによって自分に逢着した結果は、自身で責任を持つべし、という立場でいるのです私は。

その無神論者に、宗教的なメリットを周りの人間が教えなかったからだ、といったような議論はすべきではないでしょう。

古代ならいざ知らず、今のようにいろんな本が格安で入手出来て、簡単に読める時代なのですから。

読むための力は9年間の義務教育で身についているわけですから。

こういう立場なので、私は無宗教の立場なのです。

しかし、紙や仏の存在は信じているので無神論者ではないのです。

「完全無神論、大いに結構、しかしその結果については自己で責任持つべし!」なのです。

そのウェーバーの『中間考察』は廃刊なので興味ある人はこのブログページを保管しておいた方がいいでしょう。

先の救済宗教の特徴をまとめた文ですが、その特徴はまさに浄土真宗の教えと整合しているのです。

ゆえにウェーバーは浄土真宗を取り上げたのでしょう。

しかし、取り上げただけであって、賞賛はしていないのです。

ただの分析内容の表示だけなのです。


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かたや、ヨーロッパにおける神は、人間から隔絶した超越的な存在であって、神の意志や決断は人間の量りうることではない。

神の意志を人間が推し量ったりすることは、神に対する冒とくであって、人間には許されないことである。

人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在する。

地上におけるあらゆる事物出来事は、神の自己栄化の手段であって、人間もその例外ではない。

つまりヨーロッパの宗教(ユダヤキリスト)において、人間は神の道具である。

ここも、阿弥陀仏信仰と類似する内容を持っているのです。

これに対してアジアの宗教では、人間は修行を積むことによって欲望を断って悟りを開き、神や仏の域に到達することができる。

ヒンドゥーのバラモンにせよ、天台宗や禅宗の修行僧にせよ、修行を重ねて禁欲を守ることによって絶対者の域に近づくことができる。

言い換えれば、人間は自らのうちに神の性格を受け入れることができる「神の容器」であるということです。

蛇足ながら、こういった論理から「神を受け入れないと地獄」という悪い意味での跳躍した思いや感情がクリスチャンから生み出されたことも、植民の際の現地人のジェノサイドを正当化したのでしょう。

人類史上、一番人を殺したのはクリスチャンなのです!

ヨーロッパとくにカルヴァン派は、人間は「神の道具」であるという観念とその独自の職業観が結びつき、この世で神の栄光を顕すために、職業について禁欲的に働く敬虔な人々の群を生み出しました。


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この大衆の中ででてきた敬虔なプロテスタント信徒こそが、呪術を排斥しつつ、初期の合理的な近代資本主義の担い手となった、ということですね。

禁欲は、プロテスタンティズムを理解するうえで重要なものですが、これは、何々をしてはいけないという意味ではなく、ただ単に物事に打ち込む、というニュアンスの概念なのです。

それならば、「天台宗や禅宗もひたすら座禅等に打ち込んでいるではないか?なら、天台宗や禅宗も取り上げてしかるべきではないか?」という反論も起きても不思議ではないでしょう。

その通りです。

しかし、もっと重要なことは、プロテスタントの人が仕事に打ち込んでいることだけでなく、天下国家のためにという視線を心に抱えながら、仕事に打ち込んでいた、ということを取り上げているのです。

そう、浄土真宗信徒もまさにそういう視点があったのです。

それは浄土真宗の教義にそういう文言が盛り込まれていたというのではなしに、自ずからそういう視点を増幅させざるを得ないような教えがあった、ということです。


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宗教というのは人づてに教えられると、どうしても話し手の価値観などが入ったりするのもさることながら、説明が完璧に伝わらない弊が存在するのは言うまでもないですし、必然ゆえに批判することではないのです。

それに巷にあった思想と融合して、更にふくよかなものに増幅していったのです。

しかし、それが結果的に浄土真宗にとって好結果をもたらすことになったのは言うまでもないのです。

もとの真宗の教えに触発されてかされないでかはケースバイケースですが、世俗からの思想も加わって、「相手良し、売り手よし、世間良し」という三方良しの思想を生みだし、いろんな著名な商業者を生み出したのです。

著名な商業者はどんな人か興味あるでしょうか?

やはり、1つの宗教、1つの思想だけで、団体や人の思想を形成するわけではないのは明白です。

色んなものが良き媒体になって形作るのです。


ゆえに、1つの宗教には拘らない、拘らないがゆえに、宗教者には私はならないのです。


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江戸時代に、真宗含む様々な思想や教育が日本人の精神を形成していたのです雑学的に!(親鸞とユダヤ.キリスト)




こんにちは。

江戸時代の教育や宗教は、近代日本の文明開化や経済発展の素地を大きく形作ったものとして、大きく注目されているのです。

その内容をちょっと垣間見てみましょう。

山鹿素行は、『武教小学』で、武士は早寝早起きをして、常に正しい言葉を使い、些末なことに走らないように戒め、仕事に従事していない時も、身を忙しくして、あらゆる場合に、礼儀作法と機敏さを保つようにして、自分の収入以上の消費をしないように戒めています。

まさに禁欲的な生活を奨励していたのです。

禁欲的な生活様式の特に重要な2つの特徴は倹約と勤勉です。

個人の消費を最小限に減らし、勤勉は主君の奉仕に対する献身を最大限に高める行為です。

明治時代の商業と工業において指導的な役割を果たした大多数の武士の行動を理解するに重要ですね。

「勤勉に働け、仕事を怠けるな、時間を浪費するな」と発破をかけ、決して訓戒にとどまらなかったのです。


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幕府や多くの藩は、新田開発を奨励するために、これを始めるものに、租税の免除やその他の特権を与えるなどかなり強力でした。

五人組の規制は、娯楽、贅沢、スポーツ、賭博を厳しく戒めたのです。

全面的かつ、体系的に贅沢禁止令という法律として支持された。

上杉治憲の改革においては、藩内の地域に巡回教師を任命した。

儒教の儀式や、理論、勤勉、正直、倹約の徳を教えました。

儒教の大学が細井を学長として任命され設立されました。 

これには、才能があり、貧乏な人間には奨学資金が与えられたのです。

また忘れてはならないのは宗教とりわけ仏教で語られる内容が、市民の精神を形成していたのです。

浄土真宗の小冊子『当流茶呑囃』は弘化4年に書かれて、それが教育にも取り入れらていたのです。

勿論、こんにちのように文部科学省などという全国一律に統制する省などありませんでしたから、全国ではないのはお断りをしておきたいです。

その『当流茶呑囃』で語られているのは、貪欲は、基本的な罪の1つであり、しかも貪欲は商人の利益追求と密接に結びついています。

商人の、不当な利益や過度の利益は強く蔑まされたのです。

しかし、真宗の師達は、このような否定的な態度を超えて、自利利他の教義から商業上の利益を宗教的な用語で、正当化したのです。

「商業といい、工業という共に他を利するの心行のみ。他を利するの心行によりて、自ら利するの心行によりて、自ら利するの功徳を受く。之を自利利他円満の功徳という。…利他心はすなわち菩提心なり。菩提心を発して、一切衆生を済度する。これを菩薩行という。…ゆえに、商工業は菩薩行なり。凡そ、商工業に秘訣は、菩薩行に依って得るに在り。」

この文章は、1927年に書かれた『幻々要集』というものからの抜粋ですが、これは禅の立場から書かれたのです。

こういう禅にも浄土真宗からの影響を受けていたのは興味深いです。


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いな、こんにちのように禅宗や浄土真宗といった区分けは江戸時代.当時はなかったのです。

区分けがおこなわれたのは明治期ですが、それ以降の直後の時期においても自分は禅宗だから浄土真宗からは学ばなくていい、といった排他的な考えはなかったし、あったとしてもこんにちのように排他的な性質ではなかったのは明白です。

この興味深い教義、および倫理的訓戒は、江戸時代の浄土真宗に広く教えられました。

当然、このような教義や戒めは、実際の行動にどのような影響を与えたか興味深いです。

幸いなことに近江商人が真宗の熱烈な信者であったことは、主要な商業地に真宗派の寺院が著しく集中したこと、寺院の記録に、多数の商人が載っていたこと、このような主々の商人はしばしば信心深い記述があること、で明らかです。

また武田信玄の『塵芥集』にしろ、室鳩巣の全般的な思想にしろ、国民に広くいきわたり、明治期以降の経済発展の素地として非常に大きな影響を与えていたのです。

そういう人の思想形成は1つのモノからだけでいいという風潮には反対するものです私は。

いろんなものから学んで形成することが可能なのです。

いや多くのモノから万般に学ばなくては不可能なのです。


ゆえに「この教えを学ぶだけであなたの人生は大丈夫だ!」などということは言えないがゆえに、私は1つの宗教に拘り、それを人に勧めるということが出来ないので、宗教にも入らないし、人にも勧誘をしないのです。

こと親鸞も一緒です。

この人も決して念仏だけで、この人の思想形成が可能だったわけではないのです。


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天台、中国浄土教、日本の浄土教、そして景教(東方ネストリウス派)の教えも、その他いろんな宗教からの教えからも万般に学び1つの大教団にまで発展し、それからの学び続けたのです。

こういった雑学性は何も親鸞特有のものではないのです、誰もが雑学性なのです。

自分をのモラルを形成してきたのは、いろんな媒体からであるゆえに。

いや雑学こそ、いろんなものを多角的に観れるようになり、ひいては、その人を高尚な高みに引き上げることに繋がるので、そこは哲学といっても差し支えないでしょう。


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