絶対的に阿弥陀仏に縋れるか縋れないかは、バックグランドが違うから? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というものは、1つの本尊だけに対して絶対的な真を置く行為です。
その真がかなった上で、人にその宗教への勧誘を勧めるのでしょう。
しかし、そういう絶対的な真を置きたい!という衝動に駆られたことはないので、私はいまだに無宗教者です。
しかし無宗教者でも神や仏といった対象は信じていますので無神論者ではないです。
いろんな宗教を研究していくうちに、それぞれの宗教の内情を知っていけば、それなりに説得力があるので、こういう立場もあるのか、そういう立場もあるのか、という気持ちで、それぞれの宗教の本を読んだり、宗教に入っている人の話しを聞いていることで、興味深い時間を過ごしているのです。
しかし、それだけで終わってしまい、たった1つの本尊だけに帰依する、ということができないのです。
浄土真宗の親鸞の言葉に以下のものがあります。
「臨終に念仏して阿弥陀仏の來迎を望んでいる人は、まだ阿弥陀仏の絶大な力を本当に信じていない。念仏をしているけど、念仏する自分の力をどこか信じている。」
正直、私は阿弥陀仏に対して、ここまではいけないのです。

浄土真宗は阿弥陀仏を本尊にする宗教団体ですが、その本尊に対してここまで真が置ける理由が、ここまで真を置かなくてはいけない理由がわからないのです。
浄土真宗信徒に話しをすれば、いろんな体験談があるでしょうし、それなりに説得力があるものが聞けるでしょう。
しかし、あえてそれを聞かないのは今の生活で充分に精神性が満たされているからです。
いろんな本を読むことで障害が出てきたら、それを乗り越える糧が得れるからです。
しかし、明治や大正の時代にあっても本というものは貴重なもので、昭和の時代にあっても高価なものだったようです。
ゆえに、大学に入った人たちは、授業中必死になって教授の言ったことを必死にノートに書き貯めたものだったようです。
教授が話している時に誤ってクシャミをしてしまい、学生がノートに「はくしょん…」とまで書いていた例も聞いたことがあります。
そういう時代においては、僧侶の役目も大きかったのです。
困ったことがあったら、僧侶に聞きに行ったことも庶民の間ではあったようです。
しかし、今では経済が豊かになって本はいくらでも入手することが出来るのです。
中古本ではもっと廉価にいらないほど買えるのです。
それによって学ぼうと思えばいくらでも学べる時代なのです。
ゆえに、大学に行って高い学費を払っていく必要はないということを私は前著で指摘したのです。
しかし、そういった本を読むのが苦手な人は、そういうものを避けて、宗教に入って経文を唱えて事の打開を図ろうとするのです。
しかし、それだけでは万般の解決にはならないのです。
やはり論理性、合理性を有した科学的な方法で打開を図らなくてはそれが遠くなるのです。
先の「臨終に念仏して阿弥陀仏の來迎を望んでいる人は、まだ阿弥陀仏の絶大な力を本当に信じていない。念仏をしているけど、念仏する自分の力をどこか信じている。」という言葉ですが、ここまで思想ができた理由は…といぶかし気に思うのです。
また、親鸞は、「そこではあらゆることが、すべて信用ならない空疎なことなのであって、真実はどこにも見出せないがただ念仏だけは真実である。」と『歎異抄』に書いているのですが、その尺度は?根拠は?という疑問がわくのです。
また同じく『歎異抄』において、「諍論のあるところには、もろもろの煩悩が起こるから智者はそこを避けるべきだ。」として、雑音を避けることの重要性を説いているのです。
それは俗世においては、反論が渦巻くので、そこに身をゆだねては、真なる心を研ぐことは出来ないということです。
そこまでして念仏に帰依する重要性を説くようになったわけを誰もが知りたいと思うでしょう。
親鸞(下写真)は比叡山の延暦寺に行って仏道修行に励むも、当時のこの寺は、貴族たちの出世のための機関になり下がっていたがゆえに、失望しその山を下り、念仏に帰依したということです。

それによって自分の人生が好転した、念仏に帰依することで好転した人が輩出した、という経験を多くした、ということで一気に弘教に励むようになったのではないかと思われるのです。
その他、衝撃的な体験が親鸞にとって引き金になったのではないかと思われるエピソードが以下です。
「…無量寿経を読誦していた親鸞が、4日目の明け方、ああそうかとつぶやき、人の執心や自力への過信はなかなか消し去ることに気づいた。読経もやめると病状も回復した。
夢という意識の深層部において「弥陀の本願信ずべし」という決して夢ではない真実が親鸞の脳裏にぱっと閃いた。親鸞85歳のとき。」
これは『正像末和讃』にエピソードが書かれているのです。
やはりこういった決定的な体験談があるかどうかで、やはり帰依の具合は変わってくるのは自然な成り行きです。
ゆえに、親鸞の言葉や浄土真宗で言われていることに対してそっくりそのまま受け入れて絶対的に阿弥陀仏に帰依する!と意気込む必要はないでしょう。
どれだけ阿弥陀仏に帰依するか、その割合は自身で決めていくのがいいでしょう。
全然阿弥陀仏に帰依できないというのならば、それもそれでいいでしょう。
その結果、招来した結果についてはすべて自身に帰するということですから、そこは心に留めておいてほしいものです。
こういった親鸞の経験、思い入れ、価値観、好み…こういったものが阿弥陀仏に絶対的に帰依する結果になったのです。
それらの割合が違うゆえに、帰依の割合は違ってくるがゆえに、絶対的な帰依にならなかったとしても決して卑下することはないでしょう。
もしかしたら何らかの事象によって親鸞のような精神状態になるかもしれないし、ならないかもしれないのです。
それについても、決して卑下することはないでしょう。
私の言いたいことは以上です。
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ありがとうございました!

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書物の難解性もカリスマ性の一種?それを神や仏がその人に付与した? (親鸞とユダヤカリスト)
こんにちは。
宗教を様々に研究してきて、開祖といわれる人たちの書いた書物はどれも博学性、学術性に富んでいる、ということが挙げれると思います。
浄土真宗の親鸞が書いた『教行信証』は膨大な資料によって知識量がわんさか詰まっているのです。
そこに内包されている知から醸し出される雰囲気が、強く美しい文体を彩る結果になっているのです。
博学であったのは、日蓮正宗、日蓮宗の祖であった日蓮と一緒です。
当時の日本はこんにちのように北海道から沖縄まで公用語としなくてはいけない東京弁のような共通の言語というものはなく、いろんな無数の方言があったのは間違いないです。
それゆえに、当時の書物を訳すのはかなりの困難が待ち構えているのです。
しかも、親鸞は一宗派を作るつもりはなく、師である法然の教えを日本国中に広めようという気概で弘教に励んだのです。
こんにちのように仏教がそれぞれの派を形成するようになったのは明治時代からなのです。
その派内で、興味を持った人にだけ講義をするというスタンスもなくただ、法然の教えを広めたいという気概だけであったので、猶更読者を想定した書き下しを想定はないのです。
そんな状態にもかかわらず、親鸞の教えを解読したい、という気概に襲われた人たちが、親鸞の書いた独自の単語や用語を列挙して訳した辞典も今でもあるのです。
よほどカリスマ的な魅力や威厳が親鸞にあったのがわかります。
他のあまり興味のない著者の本で、いろんな難解な表現や意味不明な単語が羅列してあった本があったら、そのまま読まずに捨てたか、中古本屋に売ったでしょう。
しかし、親鸞の本に関しては「解読して読まなければ!」と思わせるカリスマ性があったのでしょう。
多くの人がそう感じ、親鸞特有の単語や言い回しの解読をして辞典まで上梓されることになったのです。
私が、幼少のころに親鸞の書物にあって、そういう衝動に駆られて、全部読みこなしたかどうかはわかりません。
私としては読みやすい表現こそ王道と思っているので、難解な表現ばかりの著書だったら、30ページくらい読んで、意味が解らなかったら、中古本屋かオークションに出して、他のわかりやすい本を読むことになるでしょう。
時間がもったいないので。
確かに難解な表現の本は、読者に「これどういう意味だろう?」と興味を喚起させる効用もあることは確かです。
しかし誰でもいいかというとそうではなく、それは人によりけりということです。
「難解でも読みこなしたい!」という衝動に駆られる人と、「こんな難解な本読むに値しない!」と忌避する人が同著者の本でもあるということです。
難解でもカリスマ性があり、ビッグセールスを挙げれている人というのは、前者のような思いにさせてしまう筆致なのでしょう。
それゆえに、その人が逝去してもファンが途絶えないのです。
そういう好例として、日本の丸山眞男(下写真)という政治学者が挙げれるかと思います。
この人は、信奉者が多くいて、私の大学時代においても、この人を神と崇める教授が何人もいたくらいです。
そういう状態ゆえに、この人の本を買って読みましたが、どうも難解で読みにくく、最後まで読破しても感想が出なかったくらいです。
その後、3冊くらいこの人の本を買って読みましたが、印象が変わることはなかったです。
なのに、なんでこんなに崇める人が出てくるのかわかりませんでした。
ここで問いたいのは、「難解さ」が、丸山の魅力の1つになるのだろうか?、ということです。
確かに簡潔すぎる単語を使うよりも、若干難解な語を使うことで、読み手に思考の契機を与えてくれるもので、覚醒作用があることは確かです。
しかし、あまりに難解すぎて、読む気が失せるほどのモノであっては、意味がないでしょう。
私にとってはまさに丸山が好例なのです。
加えて現代人にとっては難解な古文の引用が多いのも問題でした。
それゆえに、丸山よりも、自分の言葉でわかりやすく論述している著作家の方が好感が持てたのは間違いないです。
明治期に、日本の学界ではドイツ語やフランス語の文献を翻訳していたが、そこでは日本語に訳しきれない未知の単語を、面白難しく書いていたのです。
日本は、第二次世界大戦の敗戦国ゆえに、後ろめたさを感じ、そういった先進国からの学問から得た難解語を交えて表現するのが科学の本質という誤った知的土台があったのではないか、と思われてならないのです。
社会を大幅に変革する思想(宗教内でのそれを含む)はぞっこんになると、ややもすれば、その対象に無批判になりがちです。
親鸞の正信偈や和讃によって民衆がわかりやすい教えになったのです。
しかし、難解であることによって、読者の関心を喚起する作用があるのは間違いないのです。
かといってあまりに難解すぎても、読み手のモチベーションを下げることになるので、そこは注意しなくてはならないでしょう。
何事も、過ぎたるは及ばざるがごとし、とはよく言ったものです。
しかし、そんなカリスマ性を親鸞に付与したのは神や仏といった人たちの仕業だったのでしょう。
一途な思いで、ただ念仏を衆生に伝えたい…そんな思いで、日々寝る間も惜しんで努力をしている人たちにそういうカリスマ性を神仏が付与するのでしょう。
いろんな事柄を観ていくうちに、そういう非科学的な事象は起こってくるのです。
しかし、そのカリスマ性も、誰にでも相性が良いというわけではなさそうです。
そういうカリスマ性を有した人物を受け入れられない輩は一定数どの組織にもいるのです。
親鸞にもいたでしょうし、こんにちでもいるでしょう。
先の丸山眞男も仮にカリスマ性を有した人物であると仮定しましょう。
しかし、私のような受け入れられない人物も一定数出てきてしまうのです(笑)。
心底、この人は素晴らしいと思っても、他団体の人間の中からも内の団体の中からも素晴らししくないと烙印を押してくる人が表れてしまうのです。
自派の人間からは無批判な態度でいられることの方が圧倒的に多いでしょう。
それに甘んじて、無批判でいられるとついその宗教の長は全能感に覆われて裸の王様状態になり、全能感に覆われて、思考判断力が尋常ではなくなり、その宗教の組織が誤った方向に向かってしまうことがおおいにあるので、そこは充分に注意すべきでしょう。
しかし、親鸞の書物が難解なのは、こんにちのように標準語がなかった時代でもあり、親鸞は念仏を多くの人に伝えたいという思いゆえに、読者などというものを想定していなかったということもあり難解という事情だったのです。
それでも、親鸞の書物を読むための辞典まで後世になって出てきた、ということは、親鸞に注目を集めさせるための神や仏の計らいだったのかなという気がしてくるのです。
その真実は、誰にも分りません。
やはり神や仏のみぞ知る、ということでしょう。
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宗教には柔軟性こそ大事。原理主義は排除すべし? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教はいつの時代でも変革を要するものです。
やはり、社会の様相が違ってくるわけですから、それに合わせて宗教の規則だったり、教義の解釈も変えていかなくてはならないのは言うまでもないのです。
その社会の変容を無視して、開祖のいったことを頑なに守ろうとするのは原理主義というもので、好ましくはないものです。
日蓮正宗の信徒団体だった顕正会の長だった故.浅井昭衛氏(下写真)は、戒壇を日蓮正宗で作ろうという気風に満ちた時期において、頑なに反対していたのです。

そのわけは「「日蓮上人は、広宣流布が達成した時に、天皇の許可を得て、富士山天生が原に戒壇を立てよ」と御遺命を書いてあるが、広宣流布は達成していない(=日本国民全員が日蓮に帰依していない)し、天皇の許可を得ていないし、建てようとしているのは大石寺境内だ。」ということです。
日蓮が言う広宣流布という文言は、非常に曖昧模糊としており、具体的に日本国民の何割が帰依した時かということは書いていないのですが、浅井氏の解釈では日本国民全員が帰依した時と考えていたようですが、そんなことは幼稚園生でも不可能とわかるでしょう(笑)
そして、戒壇を立てるには鎌倉時代においては天皇の許可を得なければならなかったのですが、そんなことは政教分離の現代においては不可能なのは中学生でもわかる論理です。
そして、富士山天生が原は、非常に水はけが悪く、戒壇を建てたら耐震の面でも非常に危ないし、辺鄙な場所ゆえに人の行き来が非常に難しい場所なのです。
それにも関わらず、そこに建てようとするのは、さながら原理主義というものでしょう。
日蓮正宗本山と日蓮正宗.創価学会は戒壇を建てようとしているにもかかわらず、浅井氏は固くなに建てさせまいと反対し続けたのです。
それが主原因として顕正会は、日蓮正宗から破門を言い渡されるのです。
こういった原理主義者は、見ていてばかばからしくなって議論するのもはばかれるのです。
やはり社会状況の変化を考慮に入れて、変化させなくてはならないところは変化させなくてはならないのです。
たとえ開祖の言ったことに反するものであってもです。
浄土真宗の親鸞(下写真)は、そういうことに抜かりはなかったようです。

いい意味での柔軟性があったのです。
その柔軟性は、いろんな事柄を真摯な精神で虚心に学んでいくことで可能になるのです。
この人は、初めは延暦寺で天台宗を学んでいたのです。
しかし、そこでの頽落ぶりに辟易して降り、念仏を学ぶのです。
そして、法隆寺で因明(仏教論理学)を学ぶことにもなったのです。
そういったあくなき勤勉さによって、神仏といった人智を超えた存在が親鸞の前に姿を現すのです。
観音姿の聖徳太子が親鸞に夢告を告げたのは有名な話しです。
その途次、河内国磯長(大阪府南河内郡太子町)の聖徳太子廟に3日間こもり、聖徳太子が祭られている六角堂(下写真)で救世観音からのお告げを受けるのです。

「もし修行者が過去の行いによって不淫戒を破り、女性と関係しなければならないのなら、私が玉女となって現れて関係を持ちましょう。そして生涯修行者の人生を飾り、一生添い遂げ、臨終の際には極楽に導きましょう」
この言葉をもって、親鸞は妻帯に踏み切ったというのです。
当時までの仏教界では、僧侶にとって妻帯は禁忌そのものでした。
しかし、自らも妻帯し、他の僧侶の妻帯も放免したのです。
これのみならず、よく親鸞は行き詰まると聖徳太子(下写真)に助けを求めたのです。
また、古代仏教では殺生を厳しく戒めていました。
人を殺す、動物(魚を含む)を殺す、ということを戒めていたのです。
しかし、その古代と鎌倉時代では世相が違ってきてしまいました。
戦乱の世では、戦において相手の敵を殺さなくてはいけない。
また川や海の民は、魚や貝類を採って人に提供しないことには、生業が成り立たない。
それゆえに、生物を殺すことをも放免したのでしょう。
親鸞はマクロ的な視点があった人で、自分が生きていけるのは、いろんな民があってこそ。
そのありがたさを認識していたからこそ、こういう放免に踏み切ったのだろうと思います。
生物や魚や貝類などを採って生活していける人が発生してしまった世の中においては、古代仏教の禁忌をひたすら固守するには及ばないという思いになって当然という認識でした。
もちろん、固守する事しか能がない石頭の人間はどの世にもいます。
そういう人たちからは、かなり批判の的になったことは予想がつきます。
それを押して放免に踏み切った親鸞は瞠目すべきことでしょう。
猟師や漁師の職を古代仏教の禁忌ゆえに赦さない、という論理は成り立ちましょう。
しかし、その後の彼らの食い扶持はどうするのでしょうか?と問われて明答が出ればいいのですが、出ないのであれば無闇な反対はすべきではないでしょう。
戦で相手の人間を殺さなくてはならない時代、そしてい動物や魚介類を採って生活していかなくてはならなくなってしまった当時、人間はどれも古代仏教の観点から見れば悪人だったのです。
そこで罪を犯した人間=悪人という定義づけが成り立つのです。
そして悪人正機説を持ち出して、誰もが南無阿弥陀仏と唱えれば成仏できると説いたのだろうと思います。
やはり古代と鎌倉時代は社会の様相や常識が違うのです。
そこもまた親鸞の人間としての優しさなのだと解釈しているのです。

悪人正機説…これは悪人でも念仏を唱えれば極楽浄土に往生できるという意味ですが、決して悪いことをしてもいいということではないのですね。
ここは曲解してはならないことです。
そういう曲解をする人間が出てくるがゆえに、自分に帰依する気のある人にだけ話せと親鸞はしていたのです。
非常に、宗教用語は難しいですし面倒くさいですね!(笑)
でも学ぶ価値があるからこそ、そのめんどくささを押しても学び続けたいのです。
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宗教対象に絶対なるものはない。ゆえに、自身で至高と思うものを崇拝対象にすべし? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というものは、やはり人にとってなくてはならないもののような気がします。
神や仏などは、一般人には見えません。
そういうものは見れる人にしか見えないですし、神や仏はこの世での使命を委託された人のもとにしか来ません。
多くの宗教を研究してきて、そのことを痛感しています。
しかし、そんな一部の人にしか見えないのにも関わらず、何故か人は宗教にぞっこんになったりします。
いくら科学が発達して、そういうものに一見、不要と思えるものでも、縋りたくなるもののようです。
そういう依拠するものがあることによって人の精神を強靭な糧にさせるようです。
それが宗教だ、と言えるでしょう。
でも、それは何も神や仏のように人智を超えた存在ではなくてもいい気がします。
超越した能力を持った人を自身にとっての神にしてしまえばいいのです。
生涯で100冊以上もの本を出した著作家がいたりしますが、こういう人も神や仏にこの世での使命を委託されたからこそ、出来る芸当なのです。
まさに神懸かりの状態なのです。
そして、常人には書けないような素晴らしい文章を書いたりすることも往々にしてあるのです。
その人の本を一気に集めてしまうのみならず、その人が書いた雑誌のバックナンバーをすべて集めて、その人の書いた事柄や文章をパソコンに書き連ねて、上書きしてデータベース化してしまう。
誰に強制されるわけでもなく、自主的にこういう困難な作業を無意識のうちにしてしまう。
こういう人が人生にいるかいないかで、その人の人生は明かるくなり強靭に生きていけることは必至です。

私は、これといった神や仏といったようなものを対象に崇めていくつもりはないです。
シヴァ神、アッラー、阿弥陀仏、廬舎那仏…こういった特定の対象を崇めたりすることはないのですが、神懸かりと思われる著作家をそういうものとして尊崇しているのです。
こういう人がいるからこそ、私は力強く生きていける、という気がするのです。
こういう思いでいる人は少ないでしょうが、大幅な精神的な不満を解消してくれる宗教的思想の持主が崇拝の対象になっているのです。
一般的に宗教にぞっこんになってしまう人は、同じように大幅な精神的な不満を解消してくれる思想を擁した宗教団体に依拠するのでしょう。
そういう対象物に出会ったことがない私は、今のままのスタンスを貫きたいと思っているのです。
いろんな著作物を読んだりしていると、センセーションを巻き起こしたりするパターンが往々にしてあるのです。
その著作家の本を興味がてら買って読んでみる。
しかし、何のことはなく味気ない本だったり、意味不明で難解極まる本だったりで、まるで自分の食指を満たさないものだったりすることがよくあるのです。
「こんな思想家が?」と思える人であっても、大学教授たちが凄く崇めてやまないのです。
その人の著作物を何冊読んでも、その感想は変わりません。
でもそういう人を自分にとっての糧にはできないものです。
感動できないものを、感動しているふりをしたところで時間の無駄ですから。
そういう理解できないけれども周りの大勢の人に崇められている著作家の最適な例は丸山真男なのです。
この人は政治学の神様などということを言っていた政治学史の教授が言ってましたが、私にはそういう称号はふさわしくないと思いました。
難解で読みづらく、言っていることは大したことはなかったですし、西洋主義者で西洋のことは正しいと措定して、日本のものは後進だというスタンスがよくわからなかったのが正直なところです。
西洋には学ぶべきところはあれど、すべてを無批判にしていいというのであれば、その論拠を書いてもらわなければこちらは納得できないのです。
その論拠がなかったのです。
また私はロックを聴くのが好きですが、自分が「こんなアーティストが何故こんなに人気あるの?」と訝し気に思うパターンもあります。
メロディはそこそこいいものの、歌詞は意味のない言葉の羅列で、聴いていて学ぶものがないし、時間の無駄と思えるものがよくあるのです。
そんなアーティストの例はONE OK ROCK(下写真)ですね(笑)
意味のない言葉の羅列を聴いていても、感動しないし、聴いていて時間の無駄と思えるに充分なので、有料放送でライヴをハードディスクに録っていたものの、消去しました。
だがそれは私の個人的な意見であって多数派の意見を代弁するものではないのです。
流行っているからといって迎合していたのでは時間の無駄になるという経験があるので聴かないしライヴにも行かないのです。
自分が、人と比べてではなく、それをしているだけで自然と集中して読んでしまう、聴いてしまうというものを選び、それに接していくことで幸せになれるという経験理論があるので、そうしているだけです。
しかし、このバンドは東京ドームで2日間満員にするのですからかなりの人気があるのでしょう。
私には意味不明なのです。
こういうアーティストでも、ファンになる人を蔑んだりはしないのです私は。
同じように宗教ならば、それら崇拝対象を崇拝したい人は崇拝すればいい、というスタンスなのです。
やはり価値観、好みなどは千差万別なので、自分がいいと思っても他人がそうなる保証はないのです。
また自分が悪いと思っても、他人は良いというかもしれないのです。
これも千差万別です。
こういった相対主義こそが、宗教へのスタンスとして適当なのではないかと思われてならないのです。
親鸞は自分の宗教に対して「人に強制することはできない」としていたのです。
崇めたい人は崇めればいいし、崇めたくない人は崇めなくていいということです。
これこそが絶対と決めつけて、無理やり宗教勧誘をすることによって犯罪になる可能性があるので注意しましょう。
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今回はこれにて終了します。
ここまでの精読に感謝いたします!

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1つの宗教団体には属さなくても、宗教教育は必須…何ですかそれは?(笑) (親鸞とユダヤ.キリスト)

こんにちは。
いきなりですが、宗教教育というものは必須だと思います。
これは何も、ある特定の宗教団体に入れということではなく、こういうことをしたら死後どういうことになるかとか、神や仏を言動的にも物理的にも忌憚することでどういうことが現世で起きるかといったことを勉強し、そして日々行動することは大事でしょう。
あの世でも現世でも幸福に生きるためにも。
また現世で罪を犯した場合、自分にはもちろん、自分の次代の人にも災いをもたらす、といったことも当然ながら知ることが大事でしょう。
卑近な例でいえば、妊娠したにもかかわらず、育てるのが嫌だ、養育費などのお金がかかるからいやだといったことで、中絶をすることで、その中絶してしまった胎児が水子となって、その親たちに災いをもたらすのです。
そういうことは脅しでもなんでもなく、無数にあることです。
ゆえに、こういった宗教的な知識を学ぶか学ばないかで、その人やその次代、そのまた次の世代の運命が変わってくるのです。
ゆえにそういった知識が大事といっているのです。
私はこれまでいろんな宗教団体に対して否定的でしたが、これは1つの宗教団体に入ってそこで学んだだけで充分といった風潮に対して否定しているだけであって、その宗教団体のすべたが悪いということではなく、宗教全般に対して否定しているわけではないのです。
無神論者ではないのです私は。
浄土真宗の親鸞は宿業論にまで触手を伸ばして書物を書いているのです。
親鸞いわく「兎や羊の毛の先にある塵のような小さい罪を犯すのも、すべて思いを超えた無限の因縁が背景にあると感知すべきである。」ということです。
普通に何気なく暮らしていても、幸運になる人と不幸になる人の違いが出てきます。
それはやはり、前世やこれまでの行動といった様々な背景をまで考慮に入れて探索することなくして、解決のめどが立たないのです。
その背景については千差万別です。
各自で様々な面からアプローチして探査していってくださいとしか言いようがないのです。
日々の生活だけでなく、宗教的な観点からも視野に入れたマクロな視点が大事といっているのです。

参拝すれば金持ちになるといわれる神社、あるいは参拝すれば良運に恵まれるといわれる神社…いわゆるパワースポットといわれるところはありますが、単に参拝するだけで必ずお金が舞い込んだり、運に恵まれるのでしょうか?
ならないですよね?
千差万別です。
それについては、幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏が示唆深いことを書いています。
「大聖人になったような人に起る奇跡」と題して、以下の様に書いているのです。
「信仰心のない人には何も起きませんが、信仰心のある人には、だんだん、意外なよいこと、思わぬ良いことが起きてきたり、1年前の自分から考えると信じられないような他の人からの良い反応や良い結果が出てきたりすることがあります。
そういう奇跡のようなことが増えてきた時には、「これは守護霊、指導霊の光をかなり頂き始めたな」と思って間違いないでしょう。
結局、信仰心の発展段階に応じて、あの世からの指導があるのです。
守護霊は、自分とだいたい同じような魂なので、「これは守護霊の力にしては大きすぎる。自分以上の力だ」と感じたら指導霊が援助し始めています。
もう一段上の段階まで来ています。
人類全体に対して責任をとるとはどういうことでしょうか?
それはやはり、真理を広めること、伝道することです。
生きている内に教えてあげなければなりません。
死んでからではなかなか大変なのです。
ルルドの地に聖母マリアがきて病気が治るという奇跡が起きた。

奇跡とは全く関係がない、泉の成分も関係がない。
ずいぶん多くの人がこの地にいっている。
しかし、実際に病気の治る確率は100分の1もない。
病気が治った例はごくわずか。
奇跡が必要な人には奇跡があらわれる。
それが天上界の計らいなのです。
全員が治るわけではない。
奇跡が必要な人とは、仏神の証明役として予定されている人。
もう1つには、奇跡が起きることによって、その後、大きな活動が期待できるような人。
その泉にまつわる高級霊たちが、伝道の観点から、奇跡現象をおこしている。
そうでない人には奇跡を起こさない。」
ということです。
大川総裁(下写真)は、自身は生きる身でありながら、あの世に行けて帰ってこれる特別な能力を持っている、としていたのです。

また霊視もできるとしていたのです。
それを信じるか信じないかはその人の自由ですが、総裁の著作をいくつも読んだり、講演を何度も聴いているうちに、そのあまりの具体的、写実的なあの世の描写に思わず、その能力は本物ではないか、と思われるに充分でした。
にもかかわらず、その宗教(幸福の科学)を信じるか信じないかは、その人の自由だと総裁は言っていたのです。
かたや親鸞は、あの世に行く能力がなかったのではないかと思われる様相でしたし、もしかすると親鸞は行けたのかもしれないという微妙な立ち位置なのです。
親鸞曰く、
「この私においては、ただ念仏によって実在を回復できるという如来の本願の道を法然上人からいただいて、それを信じるのみである。
念仏は、本当に浄土という世界へ往くための原因なのか、また地獄という世界へ落ちる行為なのか、私は一切知らない。
法然上人にだまされた念仏して、地獄に堕ちたとしても決して後悔しない。」
ということです。
こういう文章を読むとはたして親鸞(下写真)は…と疑問に思うのですが、確かに天国に行かせるか地獄に行かせるかは閻魔大魔王の判断であって、親鸞の判断ではないわけです。
ゆえに、こういう表現をしたということもありうるわけです。
ゆえに、行けたか行けなかったの判断は難しいということです。
こうスタンスで毅然と弘教していって多くの信者を獲得した親鸞は20年後、京都へと戻ったのです。
その際に3度目の聖徳太子の夢でのお告げを得るのです。
仏教広布の最大の功労者として祀られている聖徳太子ですが、その観音菩薩が3回、親鸞の元に現れて夢告を告げたのは有名な話しです。
その夢告がのちの親鸞の高評価になる結果をもたらす事になるのです。
よしんば、親鸞があの世に生きた身のまま行き来できなかったとしても、こういう夢告を受けるだけでも常人ではないことがわかります。
やはり選ばれた人ではないことには、こういうことは起こりえないわけですから。
ならそれだけでもいいじゃないか?と思われる向きもあるでしょう。
しかし、先の大川隆法総裁の言葉に興味を持って、具体的にあの世について知りたい、という気が起きる人もいるでしょう。
そこは千差万別です。
ゆえに、このままでいいという人は詮索する必要はないですし、興味を持った人は総裁の本を読んでみるべきでしょう。
そして、得た情報によって決まった行動によって逢着した結果は全部自分に帰する、ということは覚えておいてほしいものです。
そんな内容の事を、以下の電子書籍.ペーパーバックに書いてあります。
●興味持った人は読んでみることをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入った後に、印刷.製本されて発注者のお家に配達されるシステム本の事です!電子書籍850円、ペーパーバック1738円で提供中です!)
⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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宗教の会合や新聞で素晴らしいことが言われているから感動することはある。しかし、それだけに依拠すべからず? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
私はこれまで、いろんな科学的な本を読んでそこから学び、それを現実社会で生かすように行動することを勧めてきました。
それゆえに、宗教だけに依拠すること批判してきました。
世のなかをよくする。
一番身近なことでは、やはり人間関係でしょう。
それをよくするために何をすべきか?
元気よく挨拶する。
人を貶すのではなく褒める。
職場の人全員と毎日話しをする。
こういうことをその宗教の新聞や冊子に書いて信者を鼓舞するのは良い事でしょう。
そういうことをよく書いてある創価学会の聖教新聞は賞賛したいのです。

しかし、そういういいことが書いていたからといって、それだけに依拠するのは間違いだといっているのです。
自分の人生を好循環させたいのであれば、多くの人にこの仏法を弘め、信者を獲得すべし、ということを書いているのです。
この仏法とは、この団体が依拠する日蓮の仏法です。
この団体は日蓮正宗の信徒団体でしたが、92年にその正宗から破門処分にされているのです。
その日蓮が、「この仏法を多くの人に広めることによって好循環が起きる」ということを書いているのです。
何故、そういうことを言ったのかといえば、鎌倉時代にはほとんど紙というものがなくて、教えは人から人へは口伝えしかできなかったのです。
しかし、その仏法は、人生哲学的なものも含まれていてその内容を人に伝えて、伝わった人が実践すれば、その人の人生はよくなるし、社会もよくなる。
そういう確信の元、そういうことを言ったのだろうと思います。
しかし、現代では当時とは社会の様相が違います。
紙などは腐るほどあるし、それによって本なども無数にあります。
それによって宗教の事も、対人関係の事も、人生哲学についても主体的に学び、行動することができるようになったのです。
私は以前、創価学会に入っていた時がありましたが、その新聞や講演の内容を聞くにいつも思ったのは「こういう内容ならば、わざわざ新聞を読まなくても、講演を聞かなくても、いろんな本を読んでいけば学べるたちのものじゃないか?」ということですね。
ゆえに、新聞も購読を停止し、講演にもいかなくなりました。
しかし、その宗教で言っている事には巷では知れない重要なものも含んでいることは確かです。
日蓮の興した団体は別名で法華宗とも呼ばれるもので、中国から伝わった法華経を経典としつつ、これに依拠すべしとしているのです。
この法華経こそが、仏教の始祖.釈迦の言ったことのすべてであり本物であるということです。
その法華経に依拠します、という意味で「南無妙法蓮華経」と唱えるのです。
南無は依拠します、帰依します、という意味です。
その創価学会は、日蓮(下写真)という法華経を奉じていた僧侶の教えを伝える団体ですが、「法華経では真の声聞にならなければならない」というのです。

真の声聞とは、自己の能力を他者のためにつくす、ということです。
そして、その目指すべき境界が菩薩界で、自分自身も他者もどちらも幸福になるべく努めるようになるということです。
つまり、自らが向上心をもち、仏の悟りをもとめ続けとともに、人々にも仏の教えを伝え、救っていこうという人を菩薩というのだそうです。
内なる慈悲の心に従い、人々の幸せを願いつつ、自身も向上心を忘れなければ、私たちは誰にも菩薩界を表すことができるというのです。
非常に心晴れやかになる言葉ですね。
こういった事柄は、非常に学ぶものがあります。
しかし、私は天邪鬼なのでしょうか(笑)…これと似たようなことを、幸福の科学の故.大川隆法氏も語っていたことなのです。
「社会のために良きことをする人間が死後、天国に行くことが出来る」
ということです。
そして、浄土真宗の親鸞(下写真)も同様にです。

親鸞曰く「如来の力に対する信になお自力が混じっている間は往相回向しかないが、絶対他力の信に対しては往相回向と還相回向の両方が同時にある。
還相とは、極楽浄土に生まれ変わってから瞑想修行をして悟りを開き、そのうえで、今度はこの世に戻って衆生に功徳を回向して衆生を救済することである。」
世のために良きことをせよということです、この場合は人にこの仏法を伝えよということです。
これは宗教とは自身の宗教の正当性だけを主張し、他の宗教を排斥することを日々の日課にしている、というイメージがある人がいるかもしれませんが、そうではないことはあきらかかでしょう?
非常に学ぶべきものがあるのです。
人の人生や社会をよくする…こういうことが書かれている箇所を読んで、その宗教にぞっこんになってしまう人は、失礼ながらメタ認知、またはマクロ的な視点が足りないのです。
その宗教だけではなく、他にも同様のことを言っている宗教団体はないのか?
そういう好奇心で探していけば、他にもいろいろあるということがわかるのは、このページでも証明済みですね?
ゆえに、1つの宗教団体だけには依拠しない。
その宗教で学ぶことがあっても、他の分野についても主体的に学んでいく…ゆえに1つの宗教団体だけに属してぞっこんにはならない、としているのです。
売り手よし、買い手よし、世間良しの三方良しが社是になっているのが伊藤忠であり松下電気であり、高須クリニックなのです。
こういった大企業の社長がどれも浄土真宗の信徒だったと聞いて私は驚きました。
やはり幼いころから良質の哲学を脳内に取り入れることの重要さは大事ですね?
しかし、それは本で学べるので、良いと思ったら宗教が教えてくれるのを待つのではなく、自身で学び、自身の会社や周りの人間にもその教えを広めることは誰にでも学べます。
ゆえに1つの宗教には依拠しないのです(笑)
しつこいですね(笑)
でも自分のモラルを変える気にはならないのです。
しかし、先に紹介した親鸞の言葉である「極楽浄土に生まれ変わってから瞑想修行をして悟りを開き、そのうえで、今度はこの世に戻って衆生に功徳を回向して衆生を救済することである。」ですが、これはまるでキリスト教?と思われるに充分です。
親鸞がキリスト教を取り入れた?

そんなのありえない、と思われがちですが、そんなことあるのです(笑)
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中世とは違って観念の増大した現代人の宗教への望ましいスタンスはどんなものか? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というのはいろんな団体を研究していくと興味深いもので、その宗派によってことの対処の仕方が違うのです。
先祖供養はどのように仏教宗派はしているのでしょうか?
やはり毎日の経文あげの際に、先祖供養の経文をあげたり、心の中で供養の念を押したりするのでしょう。
しかし、こと浄土真宗では違います。
そういった供養の文言もあげなければ、心の中で唱えたりすることもないのです。
この団体では、普段から南無阿弥陀仏と唱えていれば、極楽浄土に往生できるとしていたので、信徒が死んでもそういう経文をあげたりすることはないのです。
誰もが阿弥陀仏に帰依すれば成仏できるとしていたがゆえに。

しかし、疑問が湧きます。
阿弥陀仏に帰依しなかった親族が、この世に彷徨い出て、浮遊霊などになっていたらどうするのでしょうか?
あるいは不慮の事故で亡くなってしまった地縛霊になってしまった他の家族の例の場合はどうすればいいのでしょうか?
ということですね。
また、実際は生前においてしきりに南無阿弥陀仏と唱えていても、実際は極楽浄土に行けずに現世に彷徨っているかも知れないのです。
その際は、親族に災いをもたらしたり、霊障をもたらしたりすることは間違いないでしょう。
その際はそういう霊を成仏させてくれる祈祷師に頼んだり、陰陽師に頼んで除霊してもいいのはわかりきったことでしょう。
そこは「親鸞聖人の言いつけだから…」ということで卑屈にならずに、真剣になってこういったことを検索して、依頼に踏み切ることが大事でしょう。
やはり守破離はいつの世でも必須なのです。
また兼教ということをしている仏教団体が現代ではどれだけあるでしょうか?
そして、それが現代でもどれだけ可能でしょうか?
兼教とは三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗の6つを修めるのが奈良時代以降の仏教の常識だったのです。

そんなことは今のような観念の増大している、その宗教の事について書かれたいろんな本や冊子が無数に存在している時代には、6つもの仏教を修めるのは無理なのは言うまでもないのです。
それが可能なのは、仕事の就業を一切やめて、それらを修める気概のある人でなければ無理です。
可能であるとすれば、この6つのうち2つだけを中心にして仏教を修めていくことなら可能でしょう。
それ以上はほんの触り程度であれば修めていけるでしょう。
そして自分の属す宗教を修めればいいのでしょう。
自分の専門の分野+隣接する分野を1つ、というのが大学教授の修め方の王道であるというような文を読んだことがあります。
それでもいろんな議論はあるので、それ以外にもほかの道は充分にあるような気がするのは確かですが…。
また宗教の根源を探っていくと共通点があるのです。
鎌倉時代に興った日蓮の日蓮宗や日蓮正宗、道元(下写真)の曹洞宗。

この2つには共通点があって、日蓮や道元はともに天台宗の園城寺に教学したのです。
ゆえに、その天台宗で経文として読まれていた自我偈というものは、日蓮宗や日蓮正宗や曹洞宗の毎日の日課の経文として読まれているのです。
その他、どの宗教にも存在する本尊の名を呼ぶことによって救われる、という思想は日蓮宗、日蓮正宗とともに浄土真宗でも一緒なのです。
このように違う宗派でも、共通する点はあるのです。
要するに思想はいきなり無から有が生み出されて、それが純粋培養されるわけではないのです。
もちろん宗教思想も同様です。
宗祖がいろんな思想を得て、そこから重要と思われるものを取り入れて、いらないものを取り入れないという取捨選択を経て、それが長きにわたって熟成され、また取捨選択を経て、という繰り返しによってその宗派の思想を形作るのです。
そして他の宗教、非宗教問わず、いろんな団体や人物の発した思想をもとに社会で様々な活動が行われて、一国の経協がなされるのは、これまでの歴史を垣間見れば明らかでしょう。
また、こういった宗祖たちの共通点として、いろんな書物を読みに読んできたということです。
その数は、おそらく今の現代人の方が上でしょう。
安価で、無数に本が入手できる現代においては猶更に。
ならば、自身でいろんなジャンルの本を濫読して、必要か不必要かで取捨選択して、そこから得たものを脳内に入れて熟成させ、考えて自身の哲学を構築することを勧めたいのです私は。
確かに偉大なる宗祖には一般人にはないなみなみならぬものが感じられることがあるのは言うまでもないでしょう。
その際は、そこからヒントを得るためにその宗教書を読んだり、その宗教の会合に行ったりするのもいいでしょう。
しかし何から何まで、その宗教に任せるというのでは必ず片手落ちになることは必至なのです。
そうならぬように、普段から情報収集はしていくのがいいでしょう。
開祖の言動に学ぶ…それは、一般人には付与されなかった神仏から与えられた視野だったり、能力だったり、威厳性だったりするわけですが、こういったものを開祖になった人たちには複数持ち合わせているのです。
それは真摯に受け止めるべきであろうとは思います。
往相とは、自己の功徳を一切衆生に廻向しながらこの世から阿弥陀仏の極楽浄土へと生まれ変わる。

これは親鸞の言葉ですが、こういう人智を超えた世界に関する言葉は、誰にでも招来するわけではないので、やはり脳内に入れておくべきでしょう。
そこから、どれだけ信じるか?
どこまで深入りして学んでいくべきかはその人の価値観によって変わってきますが、その採択して行動した結果に招来したことについては、すべて自身の責任であるということを私は哲学として措定しているのです。
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実在したかしないかの検証は不可能…でも、その宗教に信仰心篤くなってしまう人の精神状態はどういうものか? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というのは、不可思議な面を持っているもので、その信仰という行為によって、その効果は目に見えるものではないのです。
ゆえに、証明が肉眼で出来ないものであってみれば信用などできない、という人が出てきてもおかしくはないでしょう。
宗教には入らないとする無宗教者もいれば、神や仏の存在まで否定する無神論者もいるわけです。
私は、宗教に入る人、入らない人のどちらにも与するわけではないですが、その立場によってのちのち自分に招来した結果は自分に帰すということを覚えておいてほしいものです。
もちろん宗教を信仰する、という立場の人も、その信仰によって招来した結果は自分の責任です。
私は、どの宗教にも属しないですが(=ゆえに無宗教者)、神や仏の存在は信じています。
ゆえに無神論者ではないです。
しかし、ある宗教に入った人は、入って信仰した結果、何らかの変化が表れたのでしょう。
ゆえに、その宗教にぞっこんになった。

しかし、その結果が信仰によるものなのか、全然関係ないことかはわかりません。
ゆえに、その事象の数々を客観的に観察する必要があるので、それは論文の本を読んで吟味していく必要がある、と私は思うのです。
自分が属す開祖の過去の偉業の話しを聞かされることは、その宗教内ではよくあると思います。
日蓮系宗教では、熱原の法難や小松原の法難といったことはきかされるでしょう。
これらの法難を生き抜いてきたがゆえに日蓮大聖人(下写真)は神や仏の加護を得てきた。
だからこそこの信仰をしていくべきだ、といったようなことを聞かされました私も。
しかし、それが果たして本当の話しなのか、作り話しなのかは私にも、他の誰にもわかりません。
なにしろ800年以上前の話しなのですから。

よしんばそれが本当の話しだとしても、肝心のその開祖の書いた書物に感動できなければ、信仰の意味がないですよね?
そう思い、私は日蓮が著した『報恩抄』という書物を買って読みました。
しかし、何の感動も呼び起こしませんでした。
ゆえに、この宗教は断片的に学ぶところはあれども、自分の人生の根幹になったり人に勧めたりというレベルにまではいかないな、と感じた次第です。
こういった日蓮の書いた本を読んで感動した人はそれはそれでいいと思います。
そのまま信仰に突っ走ればいいと思います。
人の感性は千差万別ですから、私が感動しなかったからといって、私は異端扱いなど絶対にしないものです。
要するに、信仰とは気持ちの問題なのででしょうか?

あまり指摘はしたくないものですが、浄土真宗の信徒たちで知っている人はそれなりにいるでしょうが、親鸞の著とされている『歎異抄』は、実は親鸞の弟子の唯円が書き記したものなのです。
親鸞が生前に言った事柄を、唯円がまとめたものなのです。
これまでこれを知らなかった人たちは「これは親鸞聖人が書かれたものなんだ!」と報恩感謝の思いで読み、そして勉学してきたのでしょう。
威厳のある人とそうでない人では、その本へ対する信者のスタンスがまるで違うのです。
威厳のある人の書かれた本とあって信じていれば、真剣さも違ってくるし、有難さも違ってくるのです。
その威厳、言い換えればカリスマ性とは、誰もが努力で身に着けられるものではなく、確かに努力も必要ですが、生まれもっての面がかなり強いのです。
その唯円が書いた、ということを知らせなかったらよかったのかもしれないですが実際はどうなのでしょうか?
しかし、親鸞が書いた言葉も当然入っているので、まったくの違う代物ということはないのは事実ですから、それなりにというかかなり学ぶ意味はあるのは間違いないです。
また『親鸞伝絵』も親鸞がなくなってから33年たってから書かれたものゆえに、かなり脚色が加わっているし、作り話し的な面が伏在しているのです。
ゆえに、そっくりそのままその内容を信じるのは間違いだと思うのです。
しかし、信徒たちはそういう思索をすることをほとんど怠っているのが現状でしょう。
そして、無批判のまま通り過ぎてしまっている…。
これは何も、浄土真宗だけではなく、他のあらゆる宗教に共通する事だろうと思います。

開祖の生涯について書かれたものについては無非難になってそっくりそのまま信じて、それを英雄視して、そして自分の内面に至高の存在として留めおき、それが人生の根幹になっているがゆえに、人生を生き生きとしていける。
そういう良き面があるがゆえに、私は宗教の存在を否定はしないものです。
生き生きとなるならば、それはそれで結構なことでしょう。
そういう存在ゆえに、宗教はいつの時代でも人々の心を捉えて離さないのでしょう。
しかし、宗教だけに依存するのは間違いでしょう。
違う面をいつも心の片隅に開けておいて、宗教に頼らなくても打開できる道を探す努力をしていかないことには、人生が停滞することは間違いないのです。
それに自分が属す宗教に対して無批判になっていては、誤った方向へその宗教が行っていっても、軌道修正が効かなくなるのは間違いない事です。

やはり、人間として人智を超えた孤高の存在は魂にとっては必要なものです。
でもそれだけに拘るな、ということを私は言いたいのです。
しかし、同じ宗教でも時代がくだるごとに、変動、そして変遷していくもののようです。
これは必然なのです。
キリストはカトリックとプロテスタントに大きく分かたれました。
信仰の違いは以下です。
カトリックは、遠心力によって神さまをはるかかなたにいらっしゃるとみる。
しかし、プロテスタントは神を自分の内面世界の中に発見しようとしている。いわばプロテスタントは求心力によって神を見つめるということです。
これはどうしてこういう違いが起きてしまったのか、ということですが、それは大きい理由として、聖書が簡単に誰でも買えて読めるようになったから、ということでしょう。
自分の部屋、あるいは図書館、あるいは喫茶店で黙読しながら誰でも自分1人で読めるようになれば、信仰のスタイルが変わって当然です。
その結果、求心力によって神をみるようになった、ということでしょう。
その違いに優劣はありません。
しかし信仰スタイルの違いをみると、どうも浄土真宗はカトリックのようなスタイル寄りのような気がします。
そして若干、求心力的な面もあることは間違いないのです。
厳密な定義づけは意味がないでしょうが、どうも、「はるかかなたにいるとする阿弥陀仏を心で想定して、その仏が自分を見つめている。
その仏が、死後私を極楽浄土で迎え入れてくれる」ということで浄土真宗は成り立っているのです。
ゆえに遠心力で対象を見ているといえるでしょう。

しかし、その阿弥陀仏の存在を明らかにしていくことは、好奇心旺盛な人間には抑えがたい衝動的な結果なのでした。
仏典には、阿弥陀仏は648億年前に、地球上の1人の人間であったということです。
そういったことは浄土信仰を通して誰もが知ることがらでしょう。
こんな昔のことを証明する手立ては一般の人間にはないのですが、しかし、信仰とは、それが、実在であったかどうかはどちらでも構わない。その人の信仰の中で、実在であったればいい、ということを信仰に心篤い人は誰もが同じことを言うのです。
逆に、そんな昔のかなたの話しゆえに信仰出来るし、信仰が揺るがないということでもありましょう。
誰もが、歴史小説や歴史物語に夢中になるのは古今東西変わらぬ事実です。
それを基にしたテレビ番組の内容の真偽をいちいち検証しながら観る人はいないでしょう。
その夢中になっている人の中で真実であればいいのです。
それと一緒でしょうか?
しかし、繰り返すようですが、そのことを完全に信じ切っていては、現実に直面した時に打開の方法がみれなくなるなってしまうがゆえに無批判でいることなかれといっているのです私は。
病気になったとして、それを経文を唱えることで治る、などという戯言を信じていては更に病気が悪化するのです。
そうではなく、その病気に効くことを探して、調べて妥当と思われることを施していく、これが王道なのです。
主体的に調べて勉強し、病気にならない事を普段から施すというのならば猶の事良いのです。
浄土真宗中興の祖として知られる蓮如は、従来の本尊に親鸞の像を加えるというアレンジを施したのです。

それによってその組織および人生が晴れやかになったのであれば、そのアレンジは批判すべき筋合いのものではないと私は思うのです。
こういう守破離は大事なのです。
だから、その宗教で言われていることに無非難にならずに、自分でもアレンジせよ、ということを私は提言したいのです。
その際は考えに考えてせよということです。
何でもかんでも変えていけなどという暴論は申しますまい。
そういうことです。
阿弥陀仏の全貌と浄土真宗の至高性について論じた電子書籍.ペーパーバックは以下です。
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親鸞の平等思想や、信者の三方思想(売り手よし、買い手よし、世間よし)の根源はどこから? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
鎌倉時代を生きた親鸞は、新しい思想を展開し、その内容が瞠目すべき内容だったということで、私は注目しているのです。
当時の階級社会において、このような平等主義、無教団主義を唱えたことは当時の仏教界においては一大転機だったのです。
『雑種文化』で有名な日本思想研究者であった加藤周一は「親鸞は日本思想史に未曽有の徹底した超越思想の平等感を樹立し…」として、親鸞を讃えているのです。
こういう一大転機となる思想の転換は、どのようにしてなるのかということを思索しますと、いきなり無から有を生み出すことは考えにくいのです。
やはり他分野からヒントを借りて、それで脳内で考え、発酵させていくことで、従来の考えが変わるわけです。
やはり開祖になりうる人の共通点は、いろんな書物を読んで読みまくっているということが挙げれます。
そのことで、脳内が柔らかくなり、妥当な道筋を開くことができるのです。
親鸞(下写真)も同様でした。
しかし、阿弥陀仏の前ではみな平等…何かに触発されているのは明白ではありませんか?
そうキリスト教です。
「神の前ではみな平等」ということをしきりに言っています。
この時代に日本にキリストは伝わっていない…その通りでしょう、と言いたいところですが実際は違います(笑)。
確かに日本史の教科書では、15世紀のスペインのフランシスコ.ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えた、と書かれていますが、実際は6世紀にはすでに入ってきていたのです。
それが全国に広まっていたのです。
それが、当時、特権階級の1つだった僧侶という身分だった親鸞も読み、それに感化されて、そういう平等思想を樹立したのです。
その本尊となる人智を超えた存在への回向、信仰、帰依…こういった敬虔な精神的な態度は人間にとって不可欠でしょう。
そういう心を持つことで心が明鏡止水の境地になり、謙虚さがにじみ出て、明日への未来を馳せる思いになる。
これほど心地よいことはないでしょう。
浄土真宗の住職を務めたこともある大峯顕氏は、その著書の中で以下の様に書いています。
「罪悪深重の自覚から出る欲は、不純粋でしかない。その愚かな衆生を救いたいという欲は、無条件に一切を摂して助けようとするその無限の慈悲の働きを現在に感じる救いを信じるのです。
しかし、自力は自らの努力や修行、善い行いをすれば悟りを得られる極楽浄土へ行けるという教え。
しかし、人間はどれだけ真面目にこつこつ骨努力しても真の意味の真実にたどりつけない。そのことをしって、他力イコール阿弥陀仏に本願力の働きにお縋りつく。
弥陀というのは無限なる光、無限なる智慧、無限なる命など、いろいろないみがある。その無限なるもの=アミターがいつでも守ってくださっている働きを阿弥陀といいます。」
これもまたキリストからの影響が伺えます。
キリスト教のプロテスタントでは、「神にいくら縋っても、死後の運命は握られている。ゆえに、いくら努力してもその道はこちらでは決められない。ゆえに、人生をかけて生業に勤しむべきだ」ということを教授しているのです。
こういう謙虚な精神の姿勢が、人を勤勉にさせるのです。
怠惰では済まされないのです。

しかし、同じ思想でも世代を経れば変形してしまうのです。
それゆえに、元にかえってその宗教思想を見直す必要があるのです。
そこで、その原始の状態を知っても、そのままの状態で布教せよということは控えなくてはならないでしょう。
幾ら偉大なる宗教思想でも、その原始の状態が、現代社会とそりが合っているか、その思想が現代と妥当か、といったことも検証しなければなりません。
元の思想に戻って、それを吟味することなく無理やり現代社会に当てはめて遵守させようとするのは単なる原理主義に堕しかねないのです。
それで妥当と思われる道を探って、その道を敢然と進まなくてはならないのです。
しかし、私が親鸞思想の瞠目すべき内容として勧めたいのは、同胞倫理ですね。
他者とのつながり性を重視しているのです。
周りの人間がいるからこそ、自分は生きていける、そんな当然のことですが、意外と忘れがちなのです。
親鸞は晩年において、私が死んだらその体を川に沈めるように言ったようです。
それは、この年齢まで生きてこれたのは、いろんな生物や人がいたらこそ。
そして、自分が死んだらこの身が今度は生物の食料になる番だからだ、ということです。
ここまで深く考えているとは…と私は驚嘆しました。
その思想を受けて、浄土真宗の信者だった近江商人の隆盛を支えたのはほかならぬ、自利利他思想だったのです。
自分よし、相手よし、世間よしの3つを基本として商行為をおこなっていったがゆえの隆盛だったのです。
また伊藤忠兵衛(下写真)の生家も浄土真宗であったわけですが、その基本理念も上記の三方良しを基本として、商人たちにそのことを書いた冊子を読ませていたようです。

これには驚きでした。
今では、ビジネスをスタートする際には、自分の利益を最大限あげることだけに視線がいきそうですが、それだけでなく三方良しを基本としないでいる場合、やはり途中でうまくいかなくなってしまうようです。
その三方良しの理念が今でも妥当といえるゆえに、やはり時代を超えた古典的な理論といわざるを得ないですね。
そして、自己肯定は、他者とのつながりの中で生まれるのです。
人間は愚かで弱く、煩悩から逃れるのは到底無理だから、もう煩悩尚の中に立ってしまえと全く発想を転換させたのが親鸞です。
ゆえにこれまで仏教界では禁忌とされていた妻帯を放免したのだろうか?という疑問が湧いてきます。
その禁忌は時代が流れれば、その妥当性が疑われるほど変形することを余儀なくされるのは言うまでもありません。
ただし何でも変形せよなどということではないのはお断りします。
考えに考えた結果、変形しなくてはいけないのならば、やはり変えなくてはならないのです。
これまで禁忌とされていたのは妻帯だけでなく肉食もです。
これも親鸞は放免したのです。
魚や肉を殺して食べるのも禁忌だったのですが、時代の流れと共にそれを変えなくてはならない事態にまで来ていたのでしょう。
そういうことをして、生業をしている人がいるからこそ、自分が生きていける。
それを古代からの禁忌だからという形式的な議論で片づけるのはおかしい、ということでしょう。
そういう意見には賛成です。
やはり、時代の変遷とともに、それまでの規則等は変えなくてはならなくなるのですから。
こういう視点に立てば、人間は誰もが悪人であるというのが親鸞の認識だったのです。
もちろん自身も。
古代の仏教では禁じられていたことを破っていかなくては生活していけない悪人ということです。
その悪人でさえも、阿弥陀仏に縋れば誰もが極楽に往生できる。
これが悪人正機説なのです。
悪人でさえも成仏できる…ならば率先して悪事をおこなってやろうとして、曲解してしまう人が大勢出てきてしまったのも、浄土真宗の哀しい歴史なのです。
決して悪事を勧める仏法ではなかったのがわかりますでしょうか?
親鸞(下写真)曰く、「他人のことではなく、あくまで自分が悪人なのだ、その自覚こそが仏性の顕現。」ということです。

こういう思想は当時の仏教界では間違いなく前衛でした。
親鸞は新しい言葉は使わず師である法然からもらった言葉に新しい意味を吹き込んで、阿弥陀仏の教えを革新的に展開させていったのです。
こういう肉付けという作業も日々おこなってきたのも、これまでの開祖といわれる人たちの共通点だったのです。
日蓮宗や日蓮正宗の開祖であった日蓮も一緒でした。
悪人正機説の根本である人間はだれしも悪人である、という理論ですが、これは何に由来しているのでしょうか?
やはり思いつくのはキリストの聖書です。
そこには、「この世に義人である人は一人もいない」と書かれているのです。
それが親鸞思想に影響したのは言うまでもないです。
親鸞が聖書を読んで…そんなことありえない!と思われるでしょうが、そんなことあるのです(笑)。
その聖書は、『世尊布施論』という名になっていますが、その内容は間違いなく聖書でした。
それは西本願寺(下写真)に保管されているのです。

興味が出た人は、西本願寺(京都府)に行って確かめるのがいいでしょう、この夏休みに…ってもう盆休みは今日で終わりですが(笑)
でも行こうと思えば行けるでしょう。
以上です。
●こういった親鸞思想に興味がわいた人には是非とも読んでほしいのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります!(※ペーパーバックとは、注文が入った後に、印刷.製本されて発注者のお家に配達されるシステム本の事です!電子書籍850円、ペーパーバック1738円で提供中です!)
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ありがとうございました!

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自身がその宗教にぞっこんになっても他人がその宗教にぞっこんになるかどうかは保証のしようなし…何故? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教に入信して、その宗教を徹底的に学んだり、その宗教に人を勧誘する生活に様変わりするようになるということは、その宗教にもの凄いぞっこんになる魅力が、かんじれたのでしょう。
それはその人にとって、であって、万人にとってではないことは心に留保しておかなくてはならないでしょう。
誰にとっても、ぞっこんになるわけではないのです。
それは趣味と一緒なのです。
その人にとって良いと思われるものであっても、他の人がそう感じるかどうかは保証の限りではないことは覚えておかなくてはならないことでしょう。
浄土真宗の住職まで務めたことのある大峯顕氏は、自身の著書の中で以下の様に書いています。
「臨終に念仏して阿弥陀仏の來迎を望んでいる人は、まだ阿弥陀仏の絶大な力を本当に信じていない。念仏をしているけど、念仏する自分の力をどこか信じている。だからこれは、「他力の中の自力」であって自力をすっかり捨てた純粋無雑の他力、絶対他力の立場ではない。臨終の人が阿弥陀仏から引いた5色の糸を自分の手にしっかりと握らねばならないというところに自力の痕跡があるのです。まさしく、自力の念仏ゆえに、臨終念仏の人と浄土との間には、どうしても超えられない一線がのこらざるを得ない。つまり人間の自力が浄土を遠ざけている。」
このような文章を書くということは、親鸞に、そして浄土真宗にかなりぞっこんになったのでしょう。
最後の「つまり人間の自力が浄土を遠ざけている。」という文章はかなりぞっこんだったのが伺えます。
この宗教は自力を廃して、他力になることを基本としています。
つまり阿弥陀仏に依拠せよということです。
しかし、自力に依存しなければ、打開できない場面も往々にして人生では出てくるものです。
それを他力だけに依存せよとは、かなりこの宗教にぞっこんなのがわかります。
宗教は、その開祖が自身の価値観でもって、既存の観念から取捨選択して、自身の哲学を構築したモノであって、必ずしも万人の哲学と合致するものではないはずです。
ゆえに、自身で良かれと思うことに関しては、他から取り入れるなり、その宗教が自分にとって要らないと思われる部分があるのであれば、受け入れる必要はないでしょう。
それなのに、自力への徹底的な排除をここまでするとは…と思わざるを得ないのです。
それは、親鸞の宗教だけでなく、日蓮や道元、栄西といったいろんな宗教でも事情は一緒なのです。
こういった宗教は、かなりの広がりを見せて、日本国内はもとより、海外にまで広まっている。
だからこそ、全部無批判で受け入れるべきだ、というようなことを、それぞれの宗教信者に言われたことがあります。
確かに、そういう面は否定できないです。
偉大さがあったればこそ、そういう世界的な広がりを見せる結果になったのでしょう。

しかし、どの宗教でも「この宗教は誰にでも受け入れられるはず」という根拠のない理論が前提にあるからこそ、無理やり勧誘してそれが法的な事件にまで発展してきたのでしょう。
そういう例は枚挙に暇がないです。
私が先に書いたような前提に立っていれば、そんな事件は起こらないはずなのです。
それが信じれない人は、自分の趣味を考えてみればいいでしょう。
自身が「これは最高だ。誰もが感動するに違いない!」という自信で、人に勧めても全然スンとも反応してくれない…そんな経験はないでしょうか?
ゆえに宗教も一緒なのです。
その宗教にぞっこんになるのは結構。
しかし、その宗教に誰もが万般の信頼を寄せるかどうかは保証のしようがないのです。
それを理解しましょう。
しかし、私は、親鸞(下写真)および浄土真宗の研究をするうちに、その偉大さに感服しました。

しかし、現代は中世や近世の昔のように、思想の依拠する対象が宗教だけの時代ではないのです。
ゆえに、これだけに依拠するのは間違いでしょう。
他の媒体、最も卑近なものは本ですね。
これを多数読めば、いくらでも人生に大事な指針は得れるのです。
ゆえに万般の信頼を宗教だけに望むのは間違いでしょう?
親鸞が、衆生にわけいって念仏の素晴らしさや重要さを説いていったのは、そんな本などがまるでなかった時代だったからです。
紙自体がかなり貴重な時代だった故なのです。
しかし、今は腐るほど紙や本などはあるのです。
こういう社会背景を無視して、その宗教の素晴らしさだけを説いてもあまり説得力はないのです。
親鸞の広布によって、凡夫であっても阿弥陀仏に縋り、南無阿弥陀仏と唱えることで極楽浄土に往生できるという他力仏教が広まったのです。

これは非常に大事な観念だったのは間違いないです。
こういう理論を多くの民衆に教えなくてはならない、という使命感が親鸞の全身に襲ったのでしょう。
当時の階級社会において、このような平等主義、無教団主義を唱えたことは当時の仏教界においては一大転機だったのです。
「阿弥陀如来のもとに、人はすべて平等である」と明言した、この哲学は一大転機だったのは間違いないでしょう。
こういう哲学が多くの人に受け入れられたこそ、「真宗王国」とまで名付けられた地域一帯を形成するまでになったのですし、今や浄土真宗は日本で一番信者の多い宗教団体になったのです。
しかし、その宗教の思想を形成するには、違う媒体からも助けを借りなくてはできた話しではないのです。
感想文を書くにしても、他の本以外の本を読んでおくことで、読まないよりも容易さが増すのと一緒です。
では親鸞はどんな媒体を得ることで、こういう哲学を形成したのでしょう?
親鸞は非常な読書家でいろんな媒体書を読んでいたのです。
そのむさぼるように読む姿勢が、のちの時代への影響を大きくしていったことは間違いないのです。
それはキリストで有名な聖書だったのです。
これが彼の哲学形成に寄与したのです。
驚きでしょう?
阿弥陀仏の前ではみな平等…こういう思想からしてキリスト教を想起させるに充分ですよね?
それは世尊布施論という名で、西本願寺に保管してあるのです。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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