浄土真宗から出た芸術の高尚性とは?開祖に無批判でいると芸術は生まれなかった? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
以下は、浄土真宗の寺院芸術について話したいです。
その代表例として惠光寺の描写をしたいです。
浄土真宗の寺院の中央の上方に掲げられた「惠光」という寺号を記した額は、知恵と慈愛に満ちた仏の無量光を意味している。

仏壇を前にして、まず参観者の目に迫ってくるのは、その溢れるばかりの黄金色です。
こうした彩色は、中国や朝鮮の伝統的な宮殿建築に由来するのですが、この仏壇全体は西方浄土そのものを再現しようとするもので、ここに満ちる黄金の光は、衆生を救おうと歩みよる阿弥陀仏から輝き出る無量の光であるとされているのです。
金地濃彩の左右の襖には、 阿弥陀仏の西方浄土が描かれています。
こういう描写の絵を見てれば、浄土についての信仰を深めることは間違いないでしょう。
そして深く浄土真宗について学び、のめり込んでいくことでしょう、誇りをもって。
しかし、浄土真宗をふくむ浄土教について信仰を持った人は、芸術を表現する能力のあった人は、さらにその浄土を巧みに描くための腕をあげるのでしょう。
そして、さらに芸術的な高みを目指すのでしょう。
ゆえに宗教は哲学を生み、そして類似する思想をも引き込み、その宗教も、その周囲をも更なる高次の世界に引き上げるのでしょう。
宗教の効用は侮るべからず…というか、かなり驚愕的な事実ではないでしょうか?
襖絵は、屏風と並んで場の荘厳の中心をなしているのです。
この金箔と濃彩の色感が濃密な空間を形成する15世紀の狩野派による豪華な画風は、その後の日本絵画に大きな影響を与えた。
1つの宗教団体である、浄土真宗からこういう芸術的な影響を他の団体にまで与えるゆえに、心暖かい浄土真宗信徒の人は、こういう効用をもってして、浄土真宗に誇りが持てて、さらに精進するでしょう。
この襖絵も、背景の黄金色の効果によって容易には統一がとれないような色彩のコントラストがバランスのとれた調和、安定へともたらされ、奥行きを抑えた中に、岩石や竹の茂み、なだらかな野や川が空間を凝縮させ、 孔雀や牡丹の花が見る者の方に迫り来るような印象を与えている。
阿弥陀如来が、その絵を見る者へとまさに「来迎」するのです。
阿弥陀堂の地下には、日本のほかの伝統的宗派が儀式や修行を実践できる講堂があり、ここの仏壇は、釈迦如来、大日如来の絵像などが掲げられる可変式のものになっており、様々な仏教宗派のお勤めや催事が行われているのです。
そこでまた信仰を同じくする人たちが集まって、その浄土について語り合い、更に自身を誇りに思え、周りの人間との結びつきを強化するのでしょう。
こういったことを垣間見ると、浄土真宗が日本で一番、信者が多いのも頷ける気がします。
確かに、芸術を生み出し、それを高みに引き上げるといった効用を持つのは他の宗教でもあり得ることでしょう。
しかし、浄土真宗の受けいられやすさの一番の秘訣は、単純さでしょう。
きつい修行も不要かつ、難解な書物を解読する必要もなく、ただ南無阿弥陀仏と唱えれば、死後、極楽浄土に往生できる、ということが謳われていることが、受けいられやすい最大の理由になっているのでしょう。

こういう簡易さが信徒が多い理由でしょう。
そこで思い出すのは、日蓮正宗の信徒団体だった創価学会です。
この団体も簡便さでは浄土真宗と一緒でしょう。
「南無妙法蓮華経と唱えればことは必ず成就する」というのですから。
この団体の信者数は日本国内で800万世帯ということです。
いな、それは誇張であって実際は200万世帯だという学者もいるくらいです。
しかし、200万世帯であってもかなりの数です。
しかし、この宗教団体の祖である鎌倉時代の日蓮(下写真)は、「私の言ったことだけを遂行すればいい!」と書き遺したのです。

儒教、道教、神道一切学ぶ必要もなく、他の事も取り入れる必要はない、としたのです。
6人の弟子のうち、1人日興という弟子はその通りにしたのですが、他の5人の弟子たちは、その御遺命を破り、他の要素を取り入れたということです。
その是非は自身で考えてもらいましょう。
その5人の弟子たちが布教した団体を日蓮宗と総称しているのですが、こと日興の流れを汲む団体が日蓮正宗という名称なのです。
しかし、皮肉にも日蓮宗や浄土真宗の門徒たちの中には、日本史の教科書に出てくる芸術家を多数生み出しました。
それが他の国の芸術家にも影響を与えるほどの偉大なる人物だったりするから驚きです。
しかし、こと日蓮正宗の門徒からは、そういう人物をついぞ生み出すことはできなかったのです。
それは日蓮の「私の言ったことだけを遂行すればいい!」という言葉を真に受けて布教だけしてきたが故の結果だったのです。
しかし、日蓮宗の門徒たちは、良い意味での守破離を断行したがゆえに、偉大なる芸術家を多数生み出すことに成功したのです。
日蓮正宗の流れを汲む団体の1つである顕正会の人に言わせれば、「日蓮宗は日蓮大聖人様の御遺命を破った邪教だ」ということですが、私はそんなに固く考える必要はないとしているのです。

そんな邪教の団体であるからして、池上本門寺という日蓮宗の寺院に行って、その境内で売っていたお菓子をその人にプレゼントしようとしたら「そんなものいらない!」といって突っぱねられてしまいました。
邪教の団体のものなどもらいたくない、ということでしょう(笑)
どうしてこうも頭が固くなってしまうのかと訝し気になるのです。
もっと広くことを考えて自身の哲学にする、という姿勢がその人には見られないのです。
あまりに日蓮の教えにぞっこんになってしまっていたがゆえに。
先にも指摘したように宗教芸術は、哲学を生み、そして類似する思想をも引き込み、その宗教も、その周囲をも更なる高次の世界に引き上げるのです。
そういう効用を無視して、日蓮の御遺命に背いたといって日蓮宗を批判するのはいかがなものかなという気がしてならないのです。
しかも、邪教呼ばわりするもどうかと思います。
日蓮が、生前のころに、日蓮は浄土教を批判していたのです。

ゆえに、顕正会はもちろん日蓮正宗系の人間は、浄土真宗をも批判しています。
そういう固い頭をもみほぐして柔軟な考えができるようになるためにはどうすればいいか?
簡単です、その他の本について、いろいろ濫読するのです。
そうすれば、1つの宗教だけに拘る必要はない事がわかるでしょうし、何故、日蓮が「私のいったことだけをしていけばいい」といさいたのかがわかります。
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宗教団体の成立は2パターンある? どちらのパターンの宗教でも、維持すべき生活スタンスはどういうものか? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
1つの宗教団体を形成するのは2つのパターンがあって、1つは、その団体の長が自ら団体をつくると宣言して開始するパターン。
もう1つは、1つの団体をつくるつもりは全くなかったけれども、ある1人のカリスマ的な人物の行動に多くの人がついていき、そこでいつしか1つの宗教団体ができていたというパターン。
この2つがあるようです。
キリスト教の場合、後者のようです。

イエス.キリスト(上写真)存命時のユダヤ教は、エッセネ派、パリサイ派、サドカイ派に分かれていた。
エッセネ派の中には過激なゼロテ党というのがあった。
イエスはそのゼロテ党員だった。
エジプトからの錬金術に通じたゼロテ党の賢者たちは、天童イエスの将来に一方ならぬものを感じ、他派からの干渉を避けて彼を隔離してひそかにエジプトへ送った。
すべてを理解したイエスはユダヤ教のラビたちからのどんな問答に対しても負けなかったようです。
カバラの秘儀を会得したイエスは秘術も会得していた。
パウロは、その熱烈さのあまり、イエス.キリストの教えを広めるにとどまらず、キリストそのものを神に祀り上げてしまった。
これがキリスト教の始まりなのだそうです。
こういった1人の神秘的な能力に惹かれて、宗教団体ができるパターンは往々にしてあるのが研究結果でわかりました。
秘術や、凡夫ではどうやってもたどり着けない能力を備えた人間に追随して行きたくなる衝動は、古今東西、人間に共通してあるようです。
その人間の数があまりに多くて、いつしか宗教団体に発展してしまう、というようなことですね。
そして、神秘的な能力は持ち合わせてはいなかったけれども、そのあまりに真摯な態度や惹かれざるを得ない理論や書物の制作によって多くの人を惹き付けて、いつしか1つの団体になっていた。
それが親鸞の浄土真宗のようです。
親鸞には、1つの宗教団体をつくるつもりはなかったけれども、布教の結果、いつしか寺ができ、団体ができていたのです。
明治期に、宗教団体には、団体名称をつけなくてはいけない法律ができて、その名が浄土真宗になったのです。
その宗教団体の魅力は、さしたる難しい理論を唱えることなく、誰でも日々実践できるということでしょう。
日々,堂内や山を走ったり、堂内の雑巾がけをしたり、何十もの日数をかけて難解な文章を読み解くといった苦行をすることなく、南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも死後、極楽浄土に往生できる、という実践内容ゆえに多くの人を惹き付けたのでしょう。

その結果、浄土真宗は日本で一番多くの信者を抱える団体にまでなったのです。
ことは、日蓮系の団体も一緒でしょう。
そういった苦行も必要なく、ただ南無妙法蓮華経と唱えれば、ことは必ず成就するという教えは多くの人を惹きつけるのです。
日蓮正宗の信徒団体だった創価学会は、日本でベスト5に入る信者の多さを誇るのです。
こういった簡便さが人を惹きつけるのに必要なことは間違いありません。
そして、現代になればなるほど、生活は便利になり、宗教に縋らなくても生活していけるのであれば、科学的な恩恵に目が行きがちになります。
そして、神秘体験や霊能といったことは、少しばかりあり得ると信じながらも、そういうものを日々の生活に盛り込むのはちょっと…という気になる人が多く出てきてしまうのもまた致し方ないことでしょうか?
そういうことを教義に盛り込んでいる宗教団体よりも、盛り込まない団体の方が無難に思えてくるのも致し方ないでしょう。
その能力を自身が証明せよといわれても凡人にはできた話しではないのですから。
そういう無難な宗教である浄土真宗や日蓮正宗系の団体の方が一般的には魅力的になるのでしょう。

しかし、どちらも、私が研究してきた結果、生活上、人生上、まだ盛り込むべきことはあるのではないか?
これで万全か?
という疑問点が残るのが正直なところです。
「これさえ極めれば生活は盤石!」と思われる宗教は私には1つもなかったというのが正直なところです。
偉そうですが(笑)、完璧さがないということです。
それは完璧な人がいないのと同様です。
私だって完璧ではないのです。
それに、完璧な宗教などないので、「この宗教に入れば全部大丈夫だよ!」といったことは絶対に言えないので、創価学会に属したことがあった私ですが、誰にもこの団体への入会を勧めたことなどないのです。

また、ほかにもそういう宗教は見いだせなかったのです。
ゆえに、これからずっと無宗教になるのでしょう私は。
しかし、神や仏の存在は信じているので無神論者ではないのです。
でも誰しも、宗教的な生活はどの時代においても必須のようで、宗教など全部なくなると思われても、絶対になくなることはないのです。
ゆえに、どこかの宗教に属すことは良い事でしょう。
しかし、その他、必須と思われるものはいくらでも存在するので、他の分野でも学び続けながら、それを加味していくことはものすごく重要でしょう。
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奇跡はこの宗教に入って縋れば必ず起きる?そんなことは絶対にありえません! (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教に関する研究をしていると、どうも奇跡じみた話しを聞くことがままあります。
祈っていたら難病が治った。
祈っていた結果、絶対に死んでいる事故だったにも関わらず奇跡の生還を遂げた。
祈っていたら営業成績でトップになった。
…こういった例ですね。
以下、参照してほしい文があります。
『日本霊異記』からの抜粋です。
その本の(下,21)になります。
「長義は右京の薬師寺の僧だった。
宝亀3年のある時、長義は全く目が見えなくなってしまい、そのまま5か月ほどが経った。
日夜恥じ哀しんで、多くの僧を招き入れて3日3晩金剛般若経を読誦した。
すると、目がはっきりと見えて元通りに回復した。」
やはり神や仏といった存在はあるので、こういうことはあり得るのでしょう。
私は、特定の宗教には所属していないし、特定の神仏は信じていないので無宗教ですが、無神論者ではないので、こういった奇跡はあり得ると信じています。
しかし、誰にでもそういう奇跡が起きるのでしょうか?
そうではない気がします。

またパワースポットといわれる、「この神社にお参りしたらお金持ちになれます」と謳った神社に行けば、必ず金持ちになれるのでしょうか?
そうではない気がします。
ではどうすれば、必ず神仏の加護を得ることができるのでしょうか?
浄土真宗の親鸞は、広く布教していきました。
師である法然の思想を世間に広めたいという純真な気持ちで弘めていっただけです。
当時は、戦さや、気候不順によって多くの人が死んでいく時代でした。
そんな世の中において、「純真に阿弥陀仏に縋っていけば、死後だれしも極楽浄土に往生できる」という思想を弘めていったのです。

そういう思想が、多くの人にとって大事であると認識されたからこそ支持を受けて、それが真宗王国といわれるほどの規模に発展したのでした。「それがこうも絶好のタイミングで広まったか!」というタイミングで親鸞によって説かれたことで、衆生からの信頼を受けて一気に広まったのは、神仏の加護を親鸞が受けていた。
神仏が親鸞にカリスマ性を付与した、ということであると私は解しているのです。
しかし、カリスマ的な人物には誰にでもなろうとしてなれるわけではない。
一気に努力を惜しみなく続けることで、名誉も、金も、地位もいらないと一心不乱に打ち込み成果を出した人間にそういう力が神仏から賦与されるのでしょう。
その努力はどれだけすればいいかは計測できるものではないです。
否、計測できる程度ではおぼつかないでしょう。
その結果、人並みならぬ能力を備え付けた人物にまで成り上がったタイミングに付与されるようです。

先の難病が治った、盲目だった人が目が見えるようになったといった奇跡の話しですが、誰でも、神仏に縋ればそういう奇跡が起きるのでしょうか?
そんなことはないと思います。
やはり、日ごろから世のため人のために行動していた人が、神仏の判断で、「この人にもっと生きさせねば、この人が目が見えるようになって生きてもらわねば」という判断を下して、奇跡が起きたのです。
その人の半生をつまびらかにしていくとそういうことが判明しているのです。
誰もかれもが神仏に縋ることで奇跡が起きるのであれば、そんな簡単なことはないですし、そんなことはあり得ないのです。
その奇跡を取り上げて、「この宗教に入って祈れば奇跡が起こりますよ」といって布教したり、その宗教のグッズやお守りを売ったりしてお金を稼ごうとしたりする。
しかし、そういった奇跡は神仏の判断で起こるのであって、単に縋るだけで起こるものではないのであるから、「この宗教に入って祈っても奇跡は起きない」といって非難の的になるのです。
やはり、世のため人のために一心に行動している人にこそ神仏は奇跡を起こしてくれるのでしょう。
そのことを心に留めておくべきでしょう。
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親鸞の悪人正機説や、日本仏教の観音像もキリスト由来?そんなことありえない?いやありえます! (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教の開祖になる人は決まって読書家ということが共通しているのです。
ものすごくたくさんの書物に接しているからこそ多面的に物事が見れて、その当時の衆生が欲していることをも、貫き通して観ることができて、それに救いとなる教えを展開して、支持を得て、多くの信者を取り込むことが出来たのです。
その開祖たちは、その関連する宗教の他に、異教ともいえる宗教を学んでいることが往々にしてあるのです。
あの浄土真宗の親鸞は、キリストを学んでいたのです。
それが悪人正機説に繫がったのです。
親鸞がキリストを学んだ?と訝し気に思われるでしょうが事実なのです。
京都の西本願寺には親鸞が学んだ漢語訳された景教(東方ネストリウス派)の経典である『世尊布施論』があるのです。

これは、7世紀に景教徒によって日本にもちこまれているのです。
これはいまも西本願寺において大切に保管されているのです。
内容は、イエスの「山上の垂訓」(マタイの福音書5〜7章)等に関するものです。
「あなたに罪を犯している人がいるなら、その罪をあなたが赦すなら聖なる方も、あなたの罪を赦してくださいます。…あなたの宝を地上にたくわえるのはやめなさい。盗人や強盗に略奪されたり、きず物になったりしてしまいます。あなたの宝は天国にたくわえなさい。そこではこわされることも失われることもありません…」
『世尊布施論』はその後、アダムの創造と堕落、イエスの降誕、生涯、教え、さらに基督教的な救いなどについても述べています。
これを親鸞が学んでいたからこそそれが親鸞の思想を形成するうえで重要な部分を占めているので、西本願寺に保管されているのです。

キリスト教の聖書には十戒の記載があります。
それは以下の通りです。
あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
みなさんはこの十戒をみてどう思われますか?
これだけならば、「何だ遵守するのは簡単だ!」と思われるでしょう。
しかし、その章の下には、300以上もの禁忌が明示されているのです。
ゆえに、それをすべて遵守するのは不可能でしょう。
ゆえに、親鸞が「人間誰もが罪を犯している悪人である」という論理に達したのは当然の事でしょう。
その悪人でさえも、南無阿弥陀仏と唱えれば、死後、極楽浄土に往生できるとしたのです。

決して悪いことを率先してやれということではないのです。
悪人でさえも往生出来るというのならば率先して悪行をこなしてやろうという思いに至った人がいてもおかしくはないでしょう。
社会が大変革、あるいは大仰に変わる時代になると、誰もが宗教に救いを求めがちになるようです。
そんな雰囲気を察して、激動の時代に、法然、親鸞、日蓮、道元といった僧たちが一斉に新仏教を創始したのでしょう。
やはり、平和な時代に英雄は出ない、というのはどの時代でも真理のようです。
ただ同じような宗旨の宗教では、あまり目立つことはできなかったでしょう。
いろんな店が建っている時に、自分も同じような店を出しても注目はされないでしょう。
そこで大事なのは差別化ということでしょう。
鎌倉時代に親鸞が差別化に成功したのは、やはり悪人正機説であり、その由来がキリスト教だったということでしょう。
人を殺してはいけない、生物を殺してはいけないという古代仏教では禁忌だったことを破らざるを得なくなった。
戦があれば相手の人間を殺さなくてはならなくなった。
魚や貝を採って殺して、それを食べなくてはならなくなった。
それゆえに当時の人間は誰もが悪人。
様々な規定外の禁忌を犯している当時の人々は悪人。
これはキリスト由来でのことです。
そこで注目したいのは、浄土教を中心とした仏教に潜むキリスト性です。
罪概念にしろ、観音信仰にしろすべてキリスト教由来なのです。
観音も?と思われるでしょうが事実なのです(下写真は群馬県真言宗寺院の慈眼院の白衣大観音)。
古代仏教にもともと慈母観音の信仰はなかったのです。
マリヤのイエス+観音信仰、菩薩信仰が合体したのです。
観音とは正式には「観世音菩薩」といいました。
菩薩はもともと仏教の教理ではみな男なのです。
女の菩薩、女の観音は古代仏教上ありえないのです。
その後、日本に地蔵信仰が生まれました。
早死にしてしまった幼子を死後の世界で助けてくれる菩薩という信仰ができたのです。
その由来は何か?
マリヤのキリストは幼子を抱きしめて幼子を天国に向かいいれてくれる、という信仰から生まれたのです。
仏教も、キリスト教も同じユーラシア大陸において布教されました。
ゆえに、その教えが触れ合えば必然的に、融合してしまうものなのです。
それが必然ゆえに、批判しても仕方のない事でしょう。
そこでどのようにして自分の哲学を形成していくか、がポイントになるのでしょう。
純粋か雑種かということを問うことではなくて。

阿弥陀仏(光)にしろ、浄土教の教え全般にしろ、聖徳太子の思想にしろ、キリスト教の影響を受けていたのは明らかだったのです。
すると、いかにキリスト教が仏教に大いに影響を受けさせたかが明らかになっているでしょう。
ゆえに、キリスト教が神の使途となって大いに世界大の布教を成し遂げられたかが明白でしょう。
ゆえに、キリスト教こそがこの世で誰もが至高の信仰にすべきである、という意見が出てきてもおかしくはないでしょうね。
しかし、それでは短絡的であるとするのが私の意見なのです。
そのわけは何か?
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現代人に宗教心は薄れてしまった。だが、宗教心は必須…なぜ? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教を研究していると、どうも古代や中世や近世の人々と、現代の人々では、感性が違うなと感じる次第です。
教育を昔の人たちは、ほぼ仏教に頼っていたがゆえに、かなり権威的な存在に成り上がっていたのがわかります。
比叡山延暦寺(下写真)は、鎌倉時代においては、日本最高峰の大学であり仏教大学の観を呈していたのです。
誰もが、この山に赴いて仏教を学びに行ったのです。
法然、親鸞、道元、日蓮といった鎌倉時代に新仏教を興した開祖たちは例外なくこの山に学びにいったのです。
一般庶民も仏教に全般的に縋る生活が当たり前でした。
現代は、そんな生活からかなりの程度、隔たってしまったがゆえに、当時の人々の精神性を理解するのがかなり困難でしょう。
そういう宗教性のない生活、あるいはスピリチュアルな生活が皆無になってしまった現代人は、唯物論的な生活が当然という気概になってしまっているがゆえに、虫の知らせや、神や仏の声や、第六感といったものに信頼を置けなくなってしまっているのが現状でしょう。
その気持ちはわかりますが、一度保留しておいて、そういうものが書かれた本を読むなり、宗教に関する講義を聞きに行くのがいい気がします。
当時の庶民の精神生活を伝えるエピソードを紹介しましょう。
これは『日本霊異記』からの抜粋になります。
(中,22)
「和泉の国に殺盗を生業に因果を信としない盗人がいて、日ごろから寺にある銅製品を盗んでは、それをたたきのばして売っていた。
ある時、この盗人が尽恵寺の仏像の手足や首を切ろうとしてと、近くを通った人には、その金属音が「痛きかな、痛きかな」という叫び声に聞こえ、この悪事が露見した。
参集した尽恵寺の僧と信徒たちは、泣き愁え仏像を寺に運んで殯をして盗人を処罰することなく追い払った。
先の通行人が、盗人を役所に送り、盗人は獄につながれた。」
仏の声を聞くといったことは、そういう精神性になじんだ生活をしていない事にはかなわない事実です。

『日本霊異記』は景戒の著書ですが、その内容は、景戒の作り話なのか、ノンフィクションなのかはわかりかねます。
しかし、敢然と書かれていることを観れば、当時こういうことが当たり前にあったことがわかります。
「痛きかな、痛きかな」などという声が聞こえるなどというのはおとぎ話だろう、と現代人には片付けがちですが、真摯に仏に帰依している人には往々にして起こることであるといえましょう。
そういう似た話しでは、神が眼前に現れて、お前が宗教を創始しろというお告げがなされたということが現代社会においてもあるのです。
それが本当かウソかは、その創始者の書いた本を読み、その後、その宗教がどのような変遷を遂げているかを観た上で、自身で判断するのがいいでしょう。
神や仏などいないし、それらに帰依する必要もない、という所謂、唯物論の世界観で生きている人は、死後、地獄に堕ちるとまでいう開祖もいるくらいです。
それが幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏です。

ただ私が言いたいのは、宗教的世界観が信じれないという気持ちはわかる。
しかし、そこは謙虚になって、その宗教に関する本を一冊でいいから読んで、そこに書かれていることを脳内に止めながら、自身の生活をくらしながら、変化なりを見つけたり、変化がなくとも生活に必要なことがあるなと感じたら、その世界観を受け入れたらどうか、ということを提案したいのです。
それで興味が出てきたら、さらにその宗教について勉強していき、多大なる影響を受けたというのならば、その宗教の信者になるのがいいでしょう、ということです。
そして更にその宗教での生活を続けていけば、神や仏の声が聞こえるようになるのではないか、と思われてならないのです。
「そんな神や仏の声が聞こえて何になるの?」と反論が聞こえそうですが(笑)、そういう声は大抵、その人の人生に有意義なこと、あるいはその周りの社会をよき方向へ導く意図だったりするのが、常のようです。
いろんな宗教を研究していって、そう感じることが多いです。
経済学、法学、経営学、文学、人類学、民俗学、考古学…といろんな区分けが大学ではできていますが、それは膨大な情報を捌くのに都合がいいからそうしているだけであって、他の学問が自身の属す学部の研究に役立たないなどとは言えないのです。
否、他の学問から学び、非常に役立つことは往々にしてあるのが実情です。
ゆえに、宗教も一緒なのです。
非科学的といって一蹴するのではなく、謙虚に学ぶことが大事でしょう。
すると、自身の生活を向上させる働きを持ったものであることが往々にしてあるのです。
しかし、心しなくてはならないのは、いくら偉大なる教祖が書いた教義でも、現代社会との兼ね合いを考慮せずに、そのままその教祖の言ったことを強行突貫させるなどということは慎まなくてはならない、ということです。
開宗された当時には妥当であっても、現代社会ではどう考えても妥当ではないことは往々にしてあるのです。
それにもかかわらず、開祖の言ったことを突破させようとするのは、単なる原理主義として疎まれることがあるので、最大の注意が必要でしょう。
そういう注意点を心に留めながら、宗教に関する勉強はしていく必要性は現代でもあると感じている次第です。
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プロテスタンティズムの精神が、親鸞の浄土真宗にも内包していたがゆえに江戸時代に大いなる結果に? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
ドイツの総合社会学者であるマックス.ウェーバーは文系の大学では、どの人も必ず耳にする人でしょう。
その代表作である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、学生必読の書とまで言っている教授もいたほどです。
その内容は、プロテスタンティズムの精神が資本主義の根底を支えるものであったということを明らかにしたのでした。
その精神は、カトリックにおいては、禁欲は世俗外だったのが、プロテスタントにおいては世俗内に持ち込まれることになり、それで革命が起きたという事なのだそうです。
これが資本主義の精神に画然たる基礎を与えた、ということです。
また、利潤や利子こそは資本主義のいわば本領である。
それがあるからこそ自分は働く、そして貯金もするという気概を持たせることになるのです。
そしてお金を借りたほうは、それがあるからこそせっせと働く、そして商売がうまく行くように倫理的な態度が良くなる、良い商品やサービスを開発しようというインセンティブが働くのですね。
その動きが社会大で広まれば、更にその社会が相乗効果で良き社会を招来するのです。
こういった事を発見できた人は何世紀もたっても語られる大家になるのでしょう。
マックス.ウェーバー(下写真)はまさにしかるべき大家になったのでした。
「おおや」ではないですからね、「たいか」ですからね(笑)

しかし、ウェーバーの嘆きは、現代のアメリカでは、その資本主義の精神がかなりの程度、減退してしまったということです。
再投資はされず、企業内でため込まれる傾向にあるようで、持てる者と持たざる者の資産の格差は天文学的なものに変貌してしまっているのです。
アメリカほどではないにしろ、日本も同じ傾向にあるようです。
それは、やはり成熟化社会になっていくにつれ、物が売れない、良いように景気が立ち行かない、だから賃上げもそんなにできない、ということでしょうね今の日本は。
かつての戦後直後のような神武景気、岩戸景気のような爆発的な成長は望めないにしろ、やはり資本主義の精神は必須なのは確かでしょう。
アダム.スミスは「経済の世界は合理的な計算、あと先の配慮、慎重な見通し」と書きました。
それに倣う如く、緻密な精度の上がった手段を使って、投資は続けていかなくてはならないのは明白なのは明らかです。
隣人愛の実践などこういった倫理の日常生活での実践は、「神からの言葉であるから」という理由で行動するのではなく、自分の内面からの衝動であってこそ意味があるといえましょう。
そういう性質でなくては、途中で挫折してしまうことは間違いないです。
いやいややっていたのでは意味がない。
ですからクリスチャンでなくとも、この精神に共感を覚えた人は、日常生活上で実践していくことをお勧めしたいです。
確かに戦争直後の爆発的な経済成長は望めないにしろ、投資は大事でしょう。
あまりに長期的な成長も望めないのならば、短期的にでもしていくことがなければ、成長は停滞してしまうのですから。
こういう社会の大きく俯瞰してみた結果、なになにが大事だという精神は、やはり社会貢献ということになるのでしょう。
まず、個人的な生活を潤すことは大事なのは言うまでもないのです。
そこから、もっと世間を広く見て、何が大事か、何が社会で欲されているかをリサーチしたことで得られたことをもとにして、投資をする。
あるいは、自前で店を作る、という精神が大事なのがわかります。
そういう教育が、江戸時代に大いになされていたことを知って驚きました。
儲けたお金を再投資していく、世のため人のため…こういう視点をもち、行動していく人が出てくることも科学の効用の1つなのです。
その江戸時代の教育はこれとこれだといった画然としたものでも、教科でもないのです。
いろんなものが混然となって、教育を形成しているのです。
その1つに親鸞の浄土真宗が貢献していたこともあきらかなのです。
その事を知って私は驚いたのです。
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⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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キリスト教は古代から現代において日本の様々な宗教に与えてきた。ゆえに、この宗教こそが最高の宗教…ではないです? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
聖徳太子の活躍する前に、キリスト教の一派であった東方ネストリウス派の人間が、日本に来て、それを布教していったということがわかり、非常に興味深いと思いました。
その東方キリスト教の最大級の功労者は秦河勝だったのです。
秦氏は、日本中に教会を作ったのです。
とは言っても、キリスト教会ではなく、神社が当時の教会だったのです。
それが今の神社の原型だったのです。
これには驚きでした。
そのネストリウス派は、父と子と聖霊の三位一体の教義を根幹としていたのです。
神を祀るのが神社なのです。
そして教会も同じく。
しかし、逆に仏を祀るのが寺であるのは言うまでもないのです。
秦氏は全国に神社を作りましたが、たった1つだけ寺を作りました。
それが、広隆寺でした。
その広隆寺は観音像が有名ですが、それは指で三角形を作っているのです。

それこそまさに、ネストリウス派の三位一体の体現なのです。
ゆえに、広隆寺は仏を祀る寺院ではなくキリスト寺だったのです。
戦国時代に、スペインの宣教師だったフランシスコ.ザビエルが日本に伝えたのが、キリスト教の宣教の始まりであるということが、日本の教科書では教えられているからです。
しかし、実際はそうではなかったのです。
それ以外にも、他の宗教への影響の数々は、ここで紹介している電子書籍.ペーパーバックに書いてありますので、そこで読んで確認して下さいませ。
秦氏の布教したキリスト教や、その他の影響を与えてきたことを鑑みれば、神仏やそれ以上の上位的な存在の導きなのかなと思えてならないのです。
世界の3大宗教は仏教、キリスト教、イスラム教です。
イスラム教の始祖であるモハメッド.アリーも元はクリスチャンだったのを、その後、イスラム教を創始したのを考えてみれば、やはりキリスト教の通底性は半端ないのがわかります。
そういう面でもやはりキリスト教の増幅性は他の追随を許さないでしょう。
しかし、私のキリスト教への印象は何しろよくないのです。
良くないというか悪いのです。
なぜならば、キリスト教こそはこれまでの人類の歴史の中で一番人を殺してきた宗教なのです。
それは間違いないのです。
ただし景教についてはその限りではないのです。
キリストの教えを広めるために、そして経済的に第三世界や第三国を搾取するために、あるいは植民地化するために、キリストを盾に殺戮が正当化されたのです。
しかし、元をたどれば、社会との調和を最初にありきの素晴らしさを内包した教えを持っているのがわかります。
しかし、それを運営するキリスト団体の長のあらぬ方向への走りのために暴走に歯止めがかからなくなってしまったのであることは間違いないのです。
「この宗教こそは最高の」という名目のために大量殺戮が敢行されたのです。
最高の宗教ゆえの免罪符だったというわけだろうか。
こういうことを垣間見れば、いくら高尚な教えを内包している宗教でも、無批判でいることこそを批判しなくてはならないだろうことは間違いないです。
ゆえに、そこで距離を置いて眺めながら、第三者の目で批判や軌道修正をおこなっていかなくてはならないのだろうという気概が私にはあるのです。
群集心理を学べば、いかなる集団であっても、間違った方向へいっても歯止めがかからなくなる、ということが歴史から学べるのです。
こういった面を鑑みれば、クリスチャンにはなれないのが明白です私は。
その他、どんな宗教でも完璧なものは何もないのです。
ゆえに、どの宗教団体にも属さないのです。
しかし、神や仏といった存在は信じているので、無神論者ではないことは断っておきたいです。
ただ望ましい方向へ行くときも歯止めがかからずに一気に進むということが言えるのです。
それが親鸞の悪人正機説や自利利他の精神です。
これには私も再認識する機会が出来たと正直に思うのです。
親鸞の浄土真宗は、この本尊である阿弥陀仏の名のもとに、殺戮や植民を正当化されたという歴史はないのです。
ゆえに、この宗教こそが最高で誰にでも勧めれるということは言いたいけれども、そういう気はしないのです(笑)
自身で、その宗教について書いた本を読んで、自身でいいとおもったら、入ればいいでしょう、という他人の自身任せにしているのです。
私に、誰もが反論なく入信させるというような、カリスマ性はないのです。
だから自身任せなのです。
今回はこれにて終わります。
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法然も親鸞も中国を経たキリスト教から影響を受けて覚醒し、それが日本の思想に大きな影響を与えた? (親鸞ととユダヤキリスト)
こんにちは。
親鸞のいでたちやその寺院をみると純和風な感じがして、西洋からの影響はまるで感じれないでしょう。
しかし、その教えの内容を他の宗教と比較したり、並行して他の宗教を研究していると、その共通点が浮かび上がってくるのです。
その親鸞の教義が、キリスト教(プロテスタント)との共通点があるのは驚きでしょう。
ここで紹介している書籍を読むと、また、景教(キリスト教ネストリウス派)からの影響もうけているのがわかるでしょう。
ここで読めば、ここで紹介してきた書籍の表題が偽りではなかったことが納得されることだろうと思います。
古代の宗教にしろ、社会を超越する思想にしろ、「陣取り合戦」かつ「先物勝ち」と軌を同じくしています。
未開あるいは半未開の状態において布教をすればすぐさま多くの信者を取り込むことがしやすくなるということです。
勿論、受けいれられる魅力がなくてはならないのは言うまでもないですが…。
その結果、洋の東西という相反する文化が影響を受けた様には見えなくなってしまう。
本願寺にしろ、その寺内の様相にしろ、僧侶たちの着ている袈裟にしろ、一見して和風であり西洋的な雰囲気など微塵もない。
ないゆえに、この宗教がキリスト由来などということなど誰もが信じれないでしょう。
しかし、その対象物を他の文化と比較したり、事細かに分析していく作業を経ると、意外なものからの影響を受けていたことが判明し驚嘆する。
それがまた興味深く、関心をそそらざるを得ないです。
それがまさに親鸞(下写真)の宗教なのです。
その師の法然の浄土宗も当然のことながらキリスト由来であるし、中国の浄土教もしかりなのです。
イエスの弟子だったトーマスが宣教のために、中国まで来ていたのが明白だったのです。
それゆえに、中国の浄土教もキリストの影響が受けていたのです。
それが自然なのは言うまでもない。
そうなると、ここでキリストの貢献を考慮せざるを得なくなるだろうことは間違いないです。
いくら半未開の状態で思想がいきわたりやすくなったとしても、その内容が多くの人に受け入れられるような魅力があったからこそ、ここまで広まった、ということが言えるでしょう。
ゆえに、この本は親鸞を中心に書かれたものですが、読めばキリスト教徒でも自身の宗教を誇れる内容になっていることは間違いないでしょう。
また浄土真宗信徒でも、親鸞の思想の根幹が多くの創業者の心を捉えてはなさなったがゆえにそれが企業の社訓になっていることや、江戸時代の商業の繁栄の礎になったことを知れば、自身の宗教にかなり自信が持てる内容であることは明らかです。
●そんな内容に興味ある人は以下の書籍.ペーパーバックを是非とも読んでくださいませ!(※ペーパーバックとは、注文が入った後に、印刷.製本されて発注者のお家に配達されるシステム本の事です!電子書籍850円、ペーパーバック1738円で提供中です!)
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景教(キリスト教ネストリウス派)がグッドなタイミングで日本に来ていたがゆえに、親鸞がそれを学んで悪人正機説を創設した? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
7世紀に、ユダヤ人とくに秦氏が日本にやってきて全国に神社を建てました。
これは日本古来の神社ではなく、秦氏の信仰していたキリスト教ネストリウス派の教会が日本の風土になじむように変化したものであることのようです。
それが日本に宗教のみならず、あらゆる文化や習俗をも持ち込み、それが日本のそれらの基礎になっていることも明らかです。
やはり未開あるいは半未開の状態において布教することは爆発的な広がりを持つうえでは大事なことです。
その好機が実って、景教の教えを学んだ親鸞(下写真)が、それを自身の教えに盛り込んだのです。

その最たるものが人間の罪的な存在論です。
それが悪人正機説につながったのです。
生まれてから悪事を犯さなかった人はいない…etc
人間は古来の仏教では禁忌とされていたものを時代の変遷で破らなくてはいけない存在。
こういった面を考慮するとやはり人間誰もが悪人である、という認識は間違いではなかったのです。
こういう認識は古代の仏教ではありえなかったです。
それがかなったのは、ひとえに親鸞が景教に学んだことが由来しているのです。

また半未開とは、ほとんどの国民が文字を読めないで口承で事を伝えていたということでもあります。
こういう状態においても、宗教や超越的な思想は広がりが早いし、広がりやすいのです。
社会主義思想の歴史を見てみればいいでしょう。
この主義が最初に樹立された国はロシアです。
そしてその近隣の東ヨーロッパ諸国、そして中国や南米、アフリカといった国々で、これらの国々では文盲が多かったがゆえに、もっともらしく多くの人々に認識されて広がりが早かったのです。
逆に、先進国では、国民の大部分に教育がなされていたがゆえに、また吟味する機関が存在していたがゆえに、もっともらしい理論には反論する余地があり、社会主義の樹立は不可能だったのです。
ただ、その社会主義の理念には共感する部分があったのは確かです。
秦氏(下写真)が日本に来て全国に教会(=神社)を建てたのはタイミングが良かったのです。

その教えを親鸞が学ぶ機会があったがゆえに、悪人正機説を唱える契機にもなったのです。
それを考えると景教の貢献は大きいのがわかります。
そして、中国浄土教を親鸞が学んだことで、自利利他精神をも広めて、のちの日本経済に大きく貢献することにもなったことは疑いもない事実です。
こういう経緯を俯瞰すると、まず1つの宗教思想を学んで、それから書物を濫読して多読して、いろんな観念を取り入れて思想を気宇ふくよかなものになり、自身の宗教を開祖するのです。
文化は、ひとたびその国や地域に取り込まれると、その国の文化や風土に合うように、そして調和されるようにアレンジされてしまうので、開祖の本来の思想が、異文化から由来しているということが見えなくなってしまうのです。
しかるに親鸞がキリスト教から自身の思想のヒントを得たとはなかなか信じれないのはよくわかります。
しかし、それは事実なのです。
ただし、親鸞にとっては、自身の宗教を創始するするつもりはなかったのですが、その後、あまりに大きな団体になったがゆえに、一宗教団体としての登録をしなくてはならないことになり、明治時代に、そういう名称(=浄土真宗)にしたようです。
やはり、行き先を考えずに行動を一途に布教をしていると、いろんな人が寄り集まっていつしか大きな団体になっている、ということが往々にしてあるようです。
キリスト教にしても、ユダヤ教徒だったイエスが、ユダヤ教の布教を一心不乱にこなしていった結果、キリスト教という新たな宗派ができた、というのが真相のようです。
こういった史実を観ると、自分の力を最大限に引き出して願いをかなえるという自力ではなく、周りの人間に依拠しつつ、感謝しつつ、合同で一心不乱に行動していった結果、良き結果が逢着したことについて神仏に感謝するという他力の考え方の方が説得力がある気がします。
ただし、こんにちのように、競争に勝つというような側面が、親鸞が生きた鎌倉時代には希薄だったようです。
ゆえに親鸞に先見の明があった、というような行き過ぎた過大評価はしないでおきます。
しかし、自身や他の人類の歴史を勉強しながら、自力本願にするか他力本願にするかは自身で決めるのがいいでしょう。
自力本願の仏教で有名なのは日蓮正宗、日蓮宗でしょう。
それと比較して、浄土真宗はどのように自身に映るか?
魅力的に映るか、非魅力的に映るかは人によって違ってくるでしょう。
やはり宗教に誰にでも当てはまる王道などないのです。
自身で吟味して決めるのが王道でしょう。
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開発のもともとの意味を親鸞の文類偈を読んで考えていきましょう。(親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
日本では、創価学会こそが、日本で一番信者が多いと思っていましたが、実際は浄土真宗なので驚きました。
かつては、真宗王国といわれたのが北陸なのです。
かつて、浄土真宗寺院の数は、1960年代に、富山県が1位(78.9%)、石川県が2位(72.0%)、福井県は5位(52.2%)…そんな時代があったことは事実です。
その人気の理由は何かといわれてもわからないですね。
浄土真宗信徒全員に、「他の宗教にはいらないで、この宗教に入った理由はなぜですか?」と訊いて、その内容を吟味しないないことには無理な気がします。
しかし、その浄土真宗の内容を分析していくことで、真理には近づくのは間違いないでしょう。
「すべてのものは相互に関連しあっている、他者のお陰で今の自分がいる」という意味を持つ他力は自己中心主義を振り捨てる力、阿弥陀如来の本願力として親鸞は使う、ということです。
自然と人間を切り離すことは両者の相互関連を断ち切ること、「他力」によって自己が生かされていることを否定するエゴイズムにほかならず、その帰結は人間の滅亡になる、とはある浄土真宗信徒の言葉です。
そういう結びつきの大切さを認識することが出来るのは良いことでしょう。
私もそのことを実感しているのです。
自分1人では何もできない。
水、空気、食べ物、太陽、月、その他、自然、その他末端消費材etcがあるからこそ自分は生きれる。
ゆえに誰もが、自然や物や人間を大事にしなといけないでしょう。
そういう心暖かいものの考えが根底にあるからこそ、多くの人を魅了したことも、信徒が多い理由なのでしょう。
いろんな職場で働いた経験がありますが、どこでも、自分の気に入った人としか話さない、付き合わないという人は必ずいたものですが、そういう人間は存在自体が信じれなかったですし、その人を半面教師にしてきたものです。
開発…かいほつはインド、中国を経て、菩提心が起こることを意味するようになり、親鸞においては「内的な真実が開かれる」という意味で使っていたようです。
親鸞の書いた文類偈には「信心開発即獲忍」−真実を見抜く眼が、阿弥陀如来より賜り、それが私の中で花開くと、その場で真理に心を落ち着けることができるのだということです。
開発とはもともと、外的力を加えて、自然を変形、破壊するという意味は全くないようです。
ゆえに、親鸞の言葉を引き合いに出して、普通に言われている開発に対して異論を唱えているのです。
ダムを作る、河口堰を作る、橋を作る、道路を作る…これら開発は、人間の文明的な安全な生活を送るうえでは必須でしょう。
しかし、そこにアカウンタビリティ(説明責任)が大事でしょう。
これこれこういう理由があるから、こそ開発が必要というような説明をですね。
それがないならば、これらを作るべきではないでしょう。
中央から資金を持ってこさせるために無理やりこれらを作る。
開発に際して、巨額なリベートがもらえるから不必要な開発をする、というのでは政治家や官僚は失格ですね。
このような不必要な開発をしていく政治家や官僚をコントロールするのは、その人の倫理を矯正するしかないような気がします。
そこで宗教が大きな役目を果たすのではないかと期待されている節もありますが、それは一般的な父母による教育でもあれば、学校教育の役目でもあれば、自身の役目でもある気がします。
宗教だけではなく。
教育が大きな比重を占めていた江戸時代の寺院ならいざ知らず、今では本が安価に買えていくらでも、自身を啓蒙できるのですから。
私の祖母の時代では、宗教によって嘘をつくと、閻魔様に舌抜かれる。
地獄絵図を見て喜捨したり、善行を積まなければ浄土には救われないといわれたようです。
宗教が大きな役割を果たしていたのがわかります。
これはしかし、識字率が低いとこうなるのがわかります。
当時の識字率はどの程度かはわからないですが、今のほぼ100%の識字率を果たしていた時代とは違うはずです。
ゆえに、悪いことをしてはならぬ、という教えが希薄になっていってるのは間違いないですね。
その認識をすることは大いに結構なことでしょう。
それを矯正しなくては、と思った父母さんは自身の子供にそういう教育を施すのを人や学校がやってくれるのを待つまでもなく積極的にしていくべきでしょう。
一般人は自身の啓蒙をすべきでしょう!
しかし、浄土真宗を研究していくと驚きのは、その教えが精神的な平等と社会的平等の結合、自立と連帯という点において、15世紀における共同体としての郷村制(荘園制の中で形成された地縁てきな村組織)のイデオロギー的な支柱になった、ということです。
とくに北陸、東海、近畿で顕著。
加賀の国で門徒領国制が90年以上も続いたようです。
これらの地域では500年にわたって共同体と結合した浄土真宗が主流となり、すでに述べた自然、開発、人間についての諸概念が生活文化として人々の間に根付いている。
「開発」の強行はこのような地域文化の活性化を結果的に生み出すことになるのです。
それはアパルトヘイト支配が感動的な黒人文化を生み出したのと同義である(解放の神学、状況神学)。
グローバルな開発が進行すればするほど、地域の文化は活性化し、反開発の地域文化のグローバル化が進むのは歴史の弁証法の皮肉?ということです。
私は、今の宗教における教育を全部が全部、受け入れられないのが正直なところです。
そこで教えられているものが世界の全部だ、これだけ修めていればいい、という観念を生み出し、それしか学ばない人が増えるからです。
実際、学ぶことは大いにあるけれども、それが人類社会の全部ではないし、一側面でしかないことを考えれば、それだけで充分、という思想には与せないものがあるのは言うまでもないことです。
しかし、全部が全部、自身が積極的に、本を読んだり、セミナーに出席していくだけでいいかというとそれだけでも賛同できないのは事実です。
自分の好きなことだけ学び、自分が苦手とすることに関しては忌避してしまうことが往々にしてあるからです。
その苦手な部分を学ぶことで、学ぶ部分が見つけれることもあるのです。
やはり、その中庸を行くのが王道のような気がします。
●この教えや親鸞全般について知りたくなった人や親鸞の知られざる側面について知りたい人には以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします!(※ペーパーバックとは、注文が入った後に、印刷.製本されて発注者のお家に配達されるシステム本の事です!電子書籍850円、ペーパーバック1738円で提供中です!)
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