親鸞の人間への認識は肯定であり否定の両側面を有したものだった? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
鎌倉時代のにできた新宗教である浄土宗の法然の弟子である親鸞による布教によって日本で一番の信者数を獲得するまでになりました。
今のような死など身近な存在ではない時代においては、想像もできない事態ですが、死が身近な存在だった時代においては、多くの衆生にとって、そのストレスのない、光明に溢れた死を迎えることが最大の関心事だったのがわかります。
こんにちのように、医学も発達していなければ、食料の確保などもいつどうなるかわからなかった時代においては、そういうストレスのない、光明に溢れた死こそが衆生にとって一番知りたかったことなのだということがわかります。
そこで、親鸞(下写真)は、生前において南無阿弥陀仏と唱えれば、死後、極楽往生できるとしたのです。
南無とは、その対象に対する尊称です。
そして、それに帰依します、という意味でもあるのです。
ゆえに「私は阿弥陀仏に帰依します」という思いを、この言葉に託した、ということです。
「極楽往生」や「摂取不捨」などの概念は確かに死後のことです。
けれども重要なのは、現世で生きている間に、信心を得て念仏を申し、自分が死後に極楽往生を約束された身であることを知ることです。
このことを「正しく仏になることが定まったもの」という意味で「正定揫」というのです。
「煩悩具足の凡夫が作り出す世界は、火災で燃え盛る家のような焦躁感にあふれた不安定きわまりない世界である。
そこではあらゆることが、すべて信用ならない空疎なことなのであって、真実はどこにも見出せないがただ念仏だけは真実である。」(歎異抄)とは親鸞の言葉です。
しかし、ここで思うのは、どれだけその世界観を信じればいいのかという尺度に関する疑問が湧きますよね?
または、阿弥陀仏に縋ればいいというけれどもその根拠は?という疑問がわくのも事実です。

しかし、そういったことを疑問におもっていても、いつしか、その疑問は忘れて、ひたすらその宗教で講義されている内容について無批判になってしまうのです。
こと、カリスマ的な指導者がする講義を聞いてれば、猶更、そういう傾向を紡ぎ出してしまうのです。
それはひとえに、親鸞の阿弥陀仏に対する一途さがあったからということもあるでしょう。
親鸞は、比叡山の延暦寺で天台宗を学ぶ僧侶でしたが、その天台宗に疑問を抱き、それに対する反発心で念仏にすがる結果になったのです。
そういう経緯があるからこそ、阿弥陀仏に対する執着心は半端がなかったのだろうことは想像に難くないです。
親鸞と同じように何かに疑問があったからかどうか、あるいはただひたすら帰依したくなる魅力が念仏にあったからなのかはわかりかねますが、真宗の住職を務めたこともあり、大学教授になったこともある野田宣雄氏によれば、「現代社会においては、どこにも確乎とした帰属意識を見いだせず、生きているという実感を持つことも難しいでしょう。」 とその著書に書いているのです。
ゆえに阿弥陀仏に縋ることを勧めているのです。
現代はニヒリズムの蔓延した時代であるとした、ニーチェの言葉を思いだします。
こういう、宗教にぞっこんになってしまう人は、元から心のよりどころがわからなくなっていた節があるのです。
それが、ある時、大いなる帰属の対象が宗教にあると、その宗教にぞっこんになってしまうのです。
それがいい事なのか、悪いことなのかはわかりかねます、自身で判断してほしいものです。
それで大いなる帰属対象が見つかると、それに一辺倒になってしまい、その宗教に勧誘したり、その宗教を褒めそやす文をネットに乗せたり、挙句の果てにはその宗教の職員や僧侶などになっていくようです。
しかし、神仏やそのほかに何か縋れるものがある人は、そういう行動にはならないものです。
私もその1人ですが…。
ただ親鸞のカリスマ性については、瞠目していることは確かで、その書いた文章ひいては書物から今でも学んで、これからの人生に役立てたい、という箇所にぶつかることは事実です。
いくら親鸞がカリスマ的な人物であっても、その宗教である浄土真宗に国民全員がなるはずはなく、親鸞と意見を対にする宗教も現れてきていたのは事実です。
その急先鋒が日蓮でした。
その信徒が、親鸞の理論に対する批判を浴びせてきたのも事実ですが、それを親鸞は見越していたのです。
そういう場合、どうすればいいかを親鸞は自身の信徒から相談されたことがあったようで、その際の親鸞の言葉は、「諍論のあるところには、もろもろの煩悩が起こるから智者はそこを避けるべきだ。」(歎異抄)ということです。
ただ避けるべしというのではなく、「煩悩が起るから」という理由に拠っているのです。
煩悩が起れば、周囲ひいては社会も乱れるとしていたのです。
それが不安定なものにするがゆえに、人間というもの全般が世の中の悪に繋がるとしていたのです。
人間肯定が親鸞の基本ではありましたが、否定的な観念でもあったのです。
ゆえに、いつまでも社会の様相が、どれだけ時代がたっても不変なものであり続けていたならば、それはそっくりそのまま親鸞の教えに無非難であってよかったでしょう。
しかし、科学による飛躍的向上がかなった現代においては、そっくりそのまま信じ切る事には否定しなくてはならないでしょう。
否定した部分については、自身で穴埋めをしなくてはならないでしょう。
こういう、人間は罪を負った存在であるという教えですが、罪悪の概念はもともと原始仏教にはなかったものです。
やはりどこか、西洋的なニュアンスを感じさせるでしょう?
そう、キリストの教えです。
この教えが書かれている聖書を、親鸞は生前において読んでいたのです。
その聖書が、西本願寺に保管されているのです。
その聖書を元に、自身の教義に採り入れたのです。
そういう内容については、誰もが興味深くなるのではないでしょうか?
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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