宗祖は博学であり、神仏からその能力を付与された。ゆえに無批判でいいか? (幸福の科学)
宗教の開宗は人間の歴史を見れば、多く存在します。
そのいずれの場合でも宗祖の資質を分析すると、多くの分野に長けているということが挙げれると思います。
宗教だけの知識だけでなく、いろんな隣接する宗教に関する幾多の知識はもちろん、科目や分野に関する知識をふんだんに持ち合わせている、ということが挙げれるでしょう。
そして、本を書く能力があり、一気に幾冊も書いてしまう能力があるということでしょう。
こういうことに興味が持てた私は、聖徳太子や空海、日蓮といった僧侶を垣間見ると、これらの人たちは、いろんな知識に博学であり、開宗当時の時代のような紙がものすごく希少だったにもかかわらず、分厚い本を何冊も書いてしまっていたのです。

誰もが中学生や高校時代において、いらない紙に何度も書いて知識を詰め込んだり、マーカーで線を引いて、そこを下敷きなどで隠してそのマークした部分を当てる、という勉強をしていたとは思いますが、開祖たちは、そんなことをせずとも、本を読んだり、人から伝えられただけで内容をすぐに脳内に叩き入れることができたがゆえに、当時の時代においても幾冊もの本を書き、それを現代でも遺していることができたのです。
まさに神懸かり状態だったのです。
そういう能力を神や仏といった人智を超えた存在が、開祖たちに能力を見出して、開宗のための悟りを開かせたのではないか、開宗のための能力を付与したのではないかと思わざるを得ないのですね私は。
真似をしようにもできないのです凡人には。
そんな神懸かりの資質を幸福の科学の故.大川隆法総裁(下写真)にも見出さざるを得ないのですね。

かなりの博学、そして本を書きあげてしまう能力ですね。
これまでに書いて出した本の数は3100冊以上です。
計算すれば、約10日に1冊のペースで出してきたのです。
これほどのものは、到底凡人にはたどり着けない能力でしょう。
その神懸かりの能力の体感は、総裁の書いた本を読むことでも感じるでしょう。
興味のある人は、総裁の書いた本を1冊でも良いから読むことをすべきと思います。
大川総裁の書いた『智慧の法』には以下のように書いてあります。
「七十億人になりなんとする、この世界人口のなかで、間違った独裁者や専制者のような人が出てきて、多くの人々を間違った方向に導いていかないようにすることなのです。」(P,43)
先程、宗祖はいろんな分野の知識にも通じていなければいけない、ということを書きましたが、その一端をこの文章からも見いだせるでしょう。
これまでの人類の歴史から抽出した理論を構築したのが歴史学なのです。
それにも通じているのがわかります。

ただ単に宗教についての知識が豊富にあるだけでは、多面的に人を惹きつけることにはつながらないのです。
こういう歴史学に通じることによっても、人を啓蒙することができるのです。
ただ単に宗教に入って経文を唱える…これだけで人類の先行きを打開できるはずもないのです。
これまでの歴史から学ぶメリットは、「歴史は繰り返す」というテーゼを前提にしながら、人に警告の念を思い起させたり、心に留めておくべき事実を提示するのです。
こういうことも、宗祖には求められる姿ではないでしょうか?
また総裁は、専門以外を学ぶメリット、外国語を学ぶメリット、歴史を学ぶメリットを同じく『智慧の法』で書いているのです。
人類の歴史を垣間見るとわかるように、人類には最初に哲学があり、そこから情報爆発が起こり、学びやすくするために、専門分化が起こり、経済学や法学や心理学といった諸々の科学が派生したのです。
学びやすくするために分化が進んだのであって、1つの専門に閉じこもるのはナンセンスでしょう。
1つのものだけを学んでいては、他の科学では学べない視点や考え方や知識を得ることができないがゆえに、出来る限り総合的に学ばなくてはならないのは言うまでもないのです。
そういう姿勢を大川総裁は逝去するまで貫いたのです。
こういう姿勢には瞠目すべき点として称賛したいと思います。
先に「そういう能力を神や仏といった人智を超えた存在が、開祖たちに能力を見出して、開宗のための悟りを開かせたのではないか、と思わざるを得ないのですね私は。」と書きましたが、だからといって、そういった古代や中世やそれ以降の時代などに宗祖となった人たちの出した理論を、そっくりそのまま無批判に受け入れていいとは思わないのです。
例えば、日蓮は生前に「仏法僧を敬え」としていたのですが、その言葉を引き合いに出して日蓮正宗の法主や住職といった人たちが、堕落に向かっていったのは周知の通りですし、その実態は、それまでの歴史について書かれた本やエピソードを読めばわかります。
自分は敬われる存在なんだ、という思いからか、供養金をもらうことだけに意識のバイアスがかかってしまう僧が出てきたり、横柄な僧が出てきたりするのは幾十もの例を読ませてもらいました。
こういう僧が出てくることを日蓮は、歴史的経緯を見ることができなかったがゆえに、わからなかったのは言うまでもないのです。

ゆえに日蓮を批判しようとは思いませんが、だからといって無批判で良いわけはないのです。
そこは批判的になって、僧侶を正していかなくてはならないでしょう。
もちろん、日蓮正宗の僧侶のだれもが必ず堕落する、あるいは堕落していくなどという極論は当てはまらないです。
誠心誠意、民衆の立場になって対応している誠実な日蓮正宗の僧侶と会い、話しをしたことも私はあります。
しかし、日蓮の遺した言葉を依拠して、堕落してしまう僧が出てきてしまうことも事実ゆえに、無批判でいることの危険性を指摘しているのです。
また時代にそぐわない宗祖の言葉も出現してしまう、ということもあり得るのです。
それも、また現実社会との照合を通じて見極めていくことが大事でしょう。
また、こと幸福の科学についても、後世になって時代との照合の結果そぐわない、ということも当然起きるでしょう。
そこは信者の人たちが自身の脳で考えて、取捨選択をしてそして吟味していくことが大事でしょう。
私が言いたいのはそういうことです。
そういう理論に共鳴できる人にとってお勧めしたいのが以下の本です。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
●以下よりどうぞ!
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯宗祖の素質♯幸福の科学
そのいずれの場合でも宗祖の資質を分析すると、多くの分野に長けているということが挙げれると思います。
宗教だけの知識だけでなく、いろんな隣接する宗教に関する幾多の知識はもちろん、科目や分野に関する知識をふんだんに持ち合わせている、ということが挙げれるでしょう。
そして、本を書く能力があり、一気に幾冊も書いてしまう能力があるということでしょう。
こういうことに興味が持てた私は、聖徳太子や空海、日蓮といった僧侶を垣間見ると、これらの人たちは、いろんな知識に博学であり、開宗当時の時代のような紙がものすごく希少だったにもかかわらず、分厚い本を何冊も書いてしまっていたのです。

誰もが中学生や高校時代において、いらない紙に何度も書いて知識を詰め込んだり、マーカーで線を引いて、そこを下敷きなどで隠してそのマークした部分を当てる、という勉強をしていたとは思いますが、開祖たちは、そんなことをせずとも、本を読んだり、人から伝えられただけで内容をすぐに脳内に叩き入れることができたがゆえに、当時の時代においても幾冊もの本を書き、それを現代でも遺していることができたのです。
まさに神懸かり状態だったのです。
そういう能力を神や仏といった人智を超えた存在が、開祖たちに能力を見出して、開宗のための悟りを開かせたのではないか、開宗のための能力を付与したのではないかと思わざるを得ないのですね私は。
真似をしようにもできないのです凡人には。
そんな神懸かりの資質を幸福の科学の故.大川隆法総裁(下写真)にも見出さざるを得ないのですね。

かなりの博学、そして本を書きあげてしまう能力ですね。
これまでに書いて出した本の数は3100冊以上です。
計算すれば、約10日に1冊のペースで出してきたのです。
これほどのものは、到底凡人にはたどり着けない能力でしょう。
その神懸かりの能力の体感は、総裁の書いた本を読むことでも感じるでしょう。
興味のある人は、総裁の書いた本を1冊でも良いから読むことをすべきと思います。
大川総裁の書いた『智慧の法』には以下のように書いてあります。
「七十億人になりなんとする、この世界人口のなかで、間違った独裁者や専制者のような人が出てきて、多くの人々を間違った方向に導いていかないようにすることなのです。」(P,43)
先程、宗祖はいろんな分野の知識にも通じていなければいけない、ということを書きましたが、その一端をこの文章からも見いだせるでしょう。
これまでの人類の歴史から抽出した理論を構築したのが歴史学なのです。
それにも通じているのがわかります。

ただ単に宗教についての知識が豊富にあるだけでは、多面的に人を惹きつけることにはつながらないのです。
こういう歴史学に通じることによっても、人を啓蒙することができるのです。
ただ単に宗教に入って経文を唱える…これだけで人類の先行きを打開できるはずもないのです。
これまでの歴史から学ぶメリットは、「歴史は繰り返す」というテーゼを前提にしながら、人に警告の念を思い起させたり、心に留めておくべき事実を提示するのです。
こういうことも、宗祖には求められる姿ではないでしょうか?
また総裁は、専門以外を学ぶメリット、外国語を学ぶメリット、歴史を学ぶメリットを同じく『智慧の法』で書いているのです。
人類の歴史を垣間見るとわかるように、人類には最初に哲学があり、そこから情報爆発が起こり、学びやすくするために、専門分化が起こり、経済学や法学や心理学といった諸々の科学が派生したのです。
学びやすくするために分化が進んだのであって、1つの専門に閉じこもるのはナンセンスでしょう。
1つのものだけを学んでいては、他の科学では学べない視点や考え方や知識を得ることができないがゆえに、出来る限り総合的に学ばなくてはならないのは言うまでもないのです。
そういう姿勢を大川総裁は逝去するまで貫いたのです。
こういう姿勢には瞠目すべき点として称賛したいと思います。
先に「そういう能力を神や仏といった人智を超えた存在が、開祖たちに能力を見出して、開宗のための悟りを開かせたのではないか、と思わざるを得ないのですね私は。」と書きましたが、だからといって、そういった古代や中世やそれ以降の時代などに宗祖となった人たちの出した理論を、そっくりそのまま無批判に受け入れていいとは思わないのです。
例えば、日蓮は生前に「仏法僧を敬え」としていたのですが、その言葉を引き合いに出して日蓮正宗の法主や住職といった人たちが、堕落に向かっていったのは周知の通りですし、その実態は、それまでの歴史について書かれた本やエピソードを読めばわかります。
自分は敬われる存在なんだ、という思いからか、供養金をもらうことだけに意識のバイアスがかかってしまう僧が出てきたり、横柄な僧が出てきたりするのは幾十もの例を読ませてもらいました。
こういう僧が出てくることを日蓮は、歴史的経緯を見ることができなかったがゆえに、わからなかったのは言うまでもないのです。

ゆえに日蓮を批判しようとは思いませんが、だからといって無批判で良いわけはないのです。
そこは批判的になって、僧侶を正していかなくてはならないでしょう。
もちろん、日蓮正宗の僧侶のだれもが必ず堕落する、あるいは堕落していくなどという極論は当てはまらないです。
誠心誠意、民衆の立場になって対応している誠実な日蓮正宗の僧侶と会い、話しをしたことも私はあります。
しかし、日蓮の遺した言葉を依拠して、堕落してしまう僧が出てきてしまうことも事実ゆえに、無批判でいることの危険性を指摘しているのです。
また時代にそぐわない宗祖の言葉も出現してしまう、ということもあり得るのです。
それも、また現実社会との照合を通じて見極めていくことが大事でしょう。
また、こと幸福の科学についても、後世になって時代との照合の結果そぐわない、ということも当然起きるでしょう。
そこは信者の人たちが自身の脳で考えて、取捨選択をしてそして吟味していくことが大事でしょう。
私が言いたいのはそういうことです。
そういう理論に共鳴できる人にとってお勧めしたいのが以下の本です。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
●以下よりどうぞ!
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!



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