世間は文字嫌いが大半!?ゆえに創価学会は大きくなった? (幸福の科学)
アリストテレスは中学校の社会科の教科書に出てくる哲学者です。
しかも古代の人間ですね。
何故、そんな昔の人のことを学ぶ必要があるかといえば、そんな昔の人の言葉でも、今の人が読んでも人生の役に立つからですね。
役に立たなければ学ぶ必要はないのです。
国語でも、古典というものを学びます。
それは現代人でも学ぶべき点が多々あるからですね。
先のアリストテレスの言葉では以下のものがあります。
「人は正しい行為を行うことで正しい人間となり、節度ある行為を行うことで節度ある人間になり、勇敢な行為を行うことで勇敢な人間になれる。」
いかにも現代人にも学ぶべきものがありますね。
しかし、これを学んだ人がいつまでもそれを脳内に入れておくことは不可能でしょう。

仕事、趣味、人づきあいに忙しくて、いつしか脳内からフェイドアウトしてしまうのです。
ゆえに再度思い出すためには、本を読まななくてはならないのです。
簡単なことですね。
そういうことができない人は、自分が属す宗教の機関新聞を読むことで満足してしまうのです。
創価学会では、日刊の新聞である聖教新聞を信者のだれもがとっています。

そこには、故.池田大作会長が、学んだ内容が、講演内容として書かれています。
それを読んだ信者たちは、「学ぶものがある」あるいは「池田先生は事をよく学んでいる」として感心してしまうのです。
ちょっと待ってほしいのですが、他の著作家や哲学者の言ったことを引用する、あるいはそれを流用して講演内に組み込むことは誰でも可能なのです。
池田大作だけの特権ではないのです。
私から言わせれば、その機関新聞を読まなくても、自分から主体的にそういった本を読めばいいだけの話しです。
しかし、それが信者のだれもがわかっていない。
いやわかっているけれども行動に移せない。
なぜか?
世間の大半の人は文字嫌いだからです。
それはアメリカの哲学者のウィリアム.ジェイムズ(下写真)が明らかにしています。

哲学者が言ったからといって賛同しているのではなく、世間を見渡してみればいいでしょう。
最高学府である日本の大学で、授業をどれだけの人が全部出席しているか?
1割前後なのです。
全国でです。
それは調査結果で明らかなのです。
年末の試験前には、大学内はもちろん、近所のコンビ二では、友人知人にノートを借りてそれをコピーする人によって行列ができているのは自明のことです。
それに、創価学会はかつては国民の10人に1人が信者だった時代がありました。
何故、それが可能だったか?
教える内容が非常に分かりやすく、楽観的で、なんども同じことしか書かれていないからですね。
やはり文字嫌いな人は、毎回違う内容を教えられるよりも、同じようなことを教えられる方が精神的に楽だからですね。
私は逆に文字好きで、大学時代に300冊は本を読んだでしょうか?
いろんなことを学びたいと思っていたし、今もそうです。
ゆえに、創価学会に入会して創価の機関新聞を読むも、毎回毎回同じことしか書かれていないので辟易し、購読をやめましたし、会合にも全然参加しなくなりました。
しかし、周りの創価学会員は、毎回毎回同じようなことを言っている会合に喜んで参加し、新聞も購読し続けている。
創価学会員の人の家に上がるも、そこには創価学会関連の冊子や本しかないのが通常です。
他の分野に関するものなどほとんどないのです。
先のウィリアム.ジェイムズの言ったことと見事に符合するでしょう?
しかし、私と大勢の創価学会員とはスタンスが全然違うので、大宗教団体であっても賛同できないのです。
いうまでもなく、創価学会は日蓮正宗の信徒団体が発端なのです。
鎌倉時代に生まれた日蓮(下写真)という僧の言ったことだけを信じていけ、というのが趣旨なのですこの宗教は。

何故、そういうことを日蓮は言ったのか?
この僧は、いろんな仏教の宗派の内容を学ぶために、それらの寺院に赴いて勉学を重ね、それのみならず儒教や神道や歴史(おもに仏教と関連ある中国やインドなど)を万般にわたって学んできたのが、その遺した御書を読めばわかります。
よくここまで学んだなあ、よくあの紙のあまりない時代においてもたくさんの本を書いたなあと感心することしばしばでした。
しかし、一般の人たちは、紙が貴重だったがゆえに、そういった本を毎日読むことは出来ない。
ゆえに、博学の結果できた私の教えを学んでいくことだけにした方が、理解しやすくなるだろうと踏んだがゆえに、そう諭したのだろうと思います。
それに、自分の教えが後世においてどんな弊害を導き出すのかなということまで検証のしようがなかったのは言うまでもないです。
ゆえに、そのその場面について私は日蓮という僧を批判する気にはなれないです。
しかし、後世において弊害が発しているのであれば、やはりそれは矯正する必要があるでしょう。
やはりどんな偉大な開祖の言ったことであっても、無批判でいることはできない、というのが私のスタンスなのです。
日蓮が、「私が死んだ後にあたしのいったことで弊害が出たのならば、その改良も大事」と書けばよかったのですが、そんなことは御書には書いていないのです。
しかし、私は敢然と矯正はしていきたいし、していかなければ市民としてのの存在意義がないのです。
市民とは、自身の周りの社会を日々良きものにしていこうという気概を持った民のことです。
そういう姿勢を維持していきたいと思っているのです。
●そんなスタンスに共鳴できる人におすすめの本(電子書籍)が以下です。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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しかも古代の人間ですね。
何故、そんな昔の人のことを学ぶ必要があるかといえば、そんな昔の人の言葉でも、今の人が読んでも人生の役に立つからですね。
役に立たなければ学ぶ必要はないのです。
国語でも、古典というものを学びます。
それは現代人でも学ぶべき点が多々あるからですね。
先のアリストテレスの言葉では以下のものがあります。
「人は正しい行為を行うことで正しい人間となり、節度ある行為を行うことで節度ある人間になり、勇敢な行為を行うことで勇敢な人間になれる。」
いかにも現代人にも学ぶべきものがありますね。
しかし、これを学んだ人がいつまでもそれを脳内に入れておくことは不可能でしょう。
仕事、趣味、人づきあいに忙しくて、いつしか脳内からフェイドアウトしてしまうのです。
ゆえに再度思い出すためには、本を読まななくてはならないのです。
簡単なことですね。
そういうことができない人は、自分が属す宗教の機関新聞を読むことで満足してしまうのです。
創価学会では、日刊の新聞である聖教新聞を信者のだれもがとっています。

そこには、故.池田大作会長が、学んだ内容が、講演内容として書かれています。
それを読んだ信者たちは、「学ぶものがある」あるいは「池田先生は事をよく学んでいる」として感心してしまうのです。
ちょっと待ってほしいのですが、他の著作家や哲学者の言ったことを引用する、あるいはそれを流用して講演内に組み込むことは誰でも可能なのです。
池田大作だけの特権ではないのです。
私から言わせれば、その機関新聞を読まなくても、自分から主体的にそういった本を読めばいいだけの話しです。
しかし、それが信者のだれもがわかっていない。
いやわかっているけれども行動に移せない。
なぜか?
世間の大半の人は文字嫌いだからです。
それはアメリカの哲学者のウィリアム.ジェイムズ(下写真)が明らかにしています。

哲学者が言ったからといって賛同しているのではなく、世間を見渡してみればいいでしょう。
最高学府である日本の大学で、授業をどれだけの人が全部出席しているか?
1割前後なのです。
全国でです。
それは調査結果で明らかなのです。
年末の試験前には、大学内はもちろん、近所のコンビ二では、友人知人にノートを借りてそれをコピーする人によって行列ができているのは自明のことです。
それに、創価学会はかつては国民の10人に1人が信者だった時代がありました。
何故、それが可能だったか?
教える内容が非常に分かりやすく、楽観的で、なんども同じことしか書かれていないからですね。
やはり文字嫌いな人は、毎回違う内容を教えられるよりも、同じようなことを教えられる方が精神的に楽だからですね。
私は逆に文字好きで、大学時代に300冊は本を読んだでしょうか?
いろんなことを学びたいと思っていたし、今もそうです。
ゆえに、創価学会に入会して創価の機関新聞を読むも、毎回毎回同じことしか書かれていないので辟易し、購読をやめましたし、会合にも全然参加しなくなりました。
しかし、周りの創価学会員は、毎回毎回同じようなことを言っている会合に喜んで参加し、新聞も購読し続けている。
創価学会員の人の家に上がるも、そこには創価学会関連の冊子や本しかないのが通常です。
他の分野に関するものなどほとんどないのです。
先のウィリアム.ジェイムズの言ったことと見事に符合するでしょう?
しかし、私と大勢の創価学会員とはスタンスが全然違うので、大宗教団体であっても賛同できないのです。
いうまでもなく、創価学会は日蓮正宗の信徒団体が発端なのです。
鎌倉時代に生まれた日蓮(下写真)という僧の言ったことだけを信じていけ、というのが趣旨なのですこの宗教は。

何故、そういうことを日蓮は言ったのか?
この僧は、いろんな仏教の宗派の内容を学ぶために、それらの寺院に赴いて勉学を重ね、それのみならず儒教や神道や歴史(おもに仏教と関連ある中国やインドなど)を万般にわたって学んできたのが、その遺した御書を読めばわかります。
よくここまで学んだなあ、よくあの紙のあまりない時代においてもたくさんの本を書いたなあと感心することしばしばでした。
しかし、一般の人たちは、紙が貴重だったがゆえに、そういった本を毎日読むことは出来ない。
ゆえに、博学の結果できた私の教えを学んでいくことだけにした方が、理解しやすくなるだろうと踏んだがゆえに、そう諭したのだろうと思います。
それに、自分の教えが後世においてどんな弊害を導き出すのかなということまで検証のしようがなかったのは言うまでもないです。
ゆえに、そのその場面について私は日蓮という僧を批判する気にはなれないです。
しかし、後世において弊害が発しているのであれば、やはりそれは矯正する必要があるでしょう。
やはりどんな偉大な開祖の言ったことであっても、無批判でいることはできない、というのが私のスタンスなのです。
日蓮が、「私が死んだ後にあたしのいったことで弊害が出たのならば、その改良も大事」と書けばよかったのですが、そんなことは御書には書いていないのです。
しかし、私は敢然と矯正はしていきたいし、していかなければ市民としてのの存在意義がないのです。
市民とは、自身の周りの社会を日々良きものにしていこうという気概を持った民のことです。
そういう姿勢を維持していきたいと思っているのです。
●そんなスタンスに共鳴できる人におすすめの本(電子書籍)が以下です。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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今回はこれにて終了します。
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