自分のモラルと相いれない部分は、どの宗教にも必ず存在する。ゆえに1つの宗教にこだわるべからず? (幸福の科学)
こんにちは。
読書というのは、私にとって必須の行為です。
この行為によって、非常に楽しい時間が過ごせますし、ブログを書くための情報を得るためにも必須ですし、困難に出会ったときに打開策を得ることができるのですから。
非常に大事なことは、読書をするということで誰しも自分の可能性を広げてくれるのです。
困ったときや、相談したいときに誰かを頼るわけです。
その相手が、ポジティブなことを言ってくれる人ならいいですが、逆に、ネガティブなことしか言わない人であったり、貶すことしか知らない人であれば、げんなりしてしまうのです。

ポジティブな人に出会えればいいですが、それだけでも足りない気がします。
この世の中について何でも知っている人などいないですから。
また、ことが高尚なことだったり、壮大だったりしたら、無闇に相談などできようはずがないのですから。
そういった壮大なことを探求するためには、やはり読書は欠かせないものなのです。
いろんな分野にわたって、いろんな本が出ているわけですから、困難にぶつかったときに、その分野について複数の本をいろいろよんで行くことで、解決の道が見えてくるわけです。
その際に、ただ宗教に縋って解決していこうという気にはなれないのです私は。
非常に読書というのは重要なことなのです。
解決の道が見えてくるだけでなく、可能性の開けてくるからです。
文系の大学に行ったことのある人ならば誰しもドイツの社会科学者であったマックス.ウェーバー(下写真)の名は知っているでしょう。

ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』は、文系学生ならば誰しも読んでなくてはならない、とすら言う教授もいました。
プロテスタンティズムの精神が資本主義の元になっているということを発見したのです。
その理論が非常に明晰で、誰もが納得しうるものだったゆえに、この著が世界的に有名になったのでしょう。
その理論を抽出するまでに、どれだけの勉学を重ねたか、想像を絶するものがあるのは言うまでもないです。
科学を修めるのに基本的な行為は、無数の本の多読、濫読なのはいうまでもないです。
そして、自身の理論を検証するために関連する資料を、探索していかなくてはならないでしょうし、理論の妥当性を確証にするためには月日を重ねて熟成も行わなくてはならないでしょう。
日々論文を書いていかなくてはならないのも基本的な行為です。
ウェーバーは、かなりの勉強家だったようで、奥さんから「なんで貴方はそんなに勉強するの?」と問われて、「自分が何者かをしりたいんだ!」と返答したようです。
やはり世界的に有名な学者のいうことは、他の人とは違いますね。
この世に生まれた使命感のようなものも研究を重ねることで、勘づいた可能性が大きいです。
その過程で他の多くの人とは違う世界観を身に着けていったのでしょう。
やはり他の人とは違う能力を持っていたがゆえに…。
ことは、幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏(下写真)も感じたのではないでしょうか?

彼も読書に次ぐ読書を重ねたのです。
その数、逝去されるまで10万冊読んだいうことです。
彼も、他の人と違う能力や経験を通して、自らの使命感が何か、自分が生まれ出た理由といったものを探索したい衝動にかられたのでしょう。
大学時代に、自動書記が現れて、「イイシラセ」という文字が勝手に自身の指を動かして書かせ、その後、エルカンターレが自身の前に現れて使命を託された。
これが、幸福の科学の存立理由になってるのです。
ただこれだけで、確証は持てなかったのでしょう総裁は。
その後、いろんな本の多読濫読を重ねていったことで、それまでのいろんな宗教の開宗者のエピソードなどを中心に読んでいったのでしょう。
真言宗の開祖である空海(下写真)の伝記を読むことで、また文鮮明やジョセフ.スミスなど自分の前にキリストや天使が現れて開宗者としての使命を託したことや、作家時代に霊に乗り移られて自動書記で小説を書くようになった三島由紀夫の伝記を読んだりして、自分との共通点を見出し、開宗の資質を自身に見出したのでしょう。

これは決して自惚れではなく、確証でしょう。
開宗者のその内容はかなり詳細になりますが、それと一致するのですから。
これをどう評価するかは、その人次第です。
評価する前に、それらの開宗者たちについて書かれた本をそれぞれ読んでみるのがいいでしょう。
大川隆法総裁が、この宗教を開始した時に、大きく空海のした道を踏襲したことは、この宗教の歴史を見れば明白です。
空海は、西暦800年前後に生きた人で、中国にわたり仏教を学んできたのですが、かなり教義も複雑多岐になっていて、一般人では到底学びつくせるものではなくなっていたのです。
ゆえに、かなり習得能力の高い人でなければ仏教を学ぶ資格が与えられなかったものに変貌を遂げていたのです。
その当時、空海が学んだ密教においては、灌頂ということが重要視されていたのです。
灌頂とは単なる儀式ではなく、言葉を超えた悟りの境地を直接、師から弟子へと伝えるもので、受け継ぐためには、それにふさわしい器量や師との深い縁を必要としたのは言うまでもないです。
この歴史的な事実を見つめて、やはり、宗教を真に修めるためには、やる気とそれにふさわしい能力が必須と判断したのでしょう総裁は。

当初、幸福の科学に入信するためには、入信のテストが行われていたようです。
しかし、時代の要請からか、それはいまではなくなっているようです。
その入信テストが取りやめになった理由は、部外者である私にはわかりかねます。
その入信テストの存立理由から学ぶのは、その入ろうとする宗教に対する真摯な態度や勉学の姿勢でしょう。
それなくして、朧気でいい加減な姿勢では、人に語ることはできないですし、そんな姿勢では神や仏に対して失礼というそしりをまぬかれないでしょう。
やはり、真に学ぼうという姿勢を日々維持していかなくてはならないでしょう。
そして大川総裁は、あの世にも行けて、霊視もできるとしていたのです自身で。
それは、本物か、あるいは世にある無数の本によって脳内を矯正していたのかは私にはわかりません。
そして、総裁曰く、転生輪廻はあり得るということです。
人は死んで、あの世へ帰り、また来世に生まれ変わるとしているのです。
ただし、人が死んで来世また人間になる、ということではないようです。
動物に生まれかわることもある、ということです。
この輪廻転生は、これまでいろんな宗教の開祖や哲学者によっても唱えられていたことなのです。
ゆえに、釈迦は魚を取ったり、獣を取って生計を立てていた人を仏教に入信させなかったのでしょうか?

ゆえに中世の仏教では獣や魚を食べることを禁止したのでしょうか?
また『日本霊異記』において以下の寓話があります。
「僧侶が小石を投げて誤って鳥にあたって死んだ。その鳥が猪に生まれ変わった。その猪が石をかき分けて食べ物をあさっていると、石が転がり落ちて僧侶に当たって死んでしまった。」
これを真摯に受け止めると、動物を殺したり、それを食べることへの禁忌を示しているのでしょうか。
そんな気がします。
この因果応報の話しや類する話しを多く読むと、やはり動物をころして食べることを多くの仏教の宗派では禁忌にしていたのもわかります。
しかし、このことを知り、輪廻転生は厳然と存在するということを前提にすると、今、肉を食べている人は、因果応報で自分も辛い目に、あるいは悲惨な目に逢うという言うことでしょう。
また、そうでなくても、前世に自分とゆかりのあった人の生まれかわりを食べることになる、ということでしょう。
それならば、当然、肉食を禁忌にしなければならないのですが、現代の多くの仏教宗派や幸福の科学ではそうはなっていないのです。

やはりこれも時代の要請でしょうか?
「肉食を厳禁にする!」と宗規に盛ると、怪しげな宗教と思われてしまう、あるいは多くの信者が離れてしまう、と判断したのでしょうか。
やはりどの宗教でも、時代や社会との調和を考慮に入れなくてはいけないのは言うまでもないです。
それゆえに、本来、しなくてはいけないことをしなくてもいいということにしなくてはいかない。
そして、禁止すべきことを禁止できないという結果になってしまうわけです。
完璧な宗教などあるはずはないので、それを見つけたら、自身で適うように工夫するべきなのです。
それゆえに、私はベジタリアンやビーガンを目指さなくてはならないと日々、動物の肉は食べないように極力努力しているのです。
しかし、飲み会などで、自分1人だけ「これは注文しなくていい」あるいは「これは食べれないから残す」といって肉を忌避していては、その場の調和を乱すことになりますから、無言で受け入れるわけです。
しかし、普段の日常では動物の肉は一切食べないことにしているのです。
これは先の日本霊異記や幸福の科学の本を読む前に、ユーチューブで草食動物が肉食動物に捉えられて食べられるシーンを幾度となく見て、「こんな残酷なことなんだ動物の肉を食べることは!私たち人間はもっと残酷なことをして動物を殺して食べているんだ」という意識に変わり、その日から食べないようにしてきたのです。
THE BEATLESのメンバーだったポール.マッカートニー(下写真)は厳然たるベジタリアンなのです。

ロック音楽好きな私ゆえに、そのことにも感化されたのです。
このように、厳然たる理論的な根拠があるにもかかわらず、宗規にはそれが盛られていなし、自身のモラルとは反する。
しかし、その宗教の宗規とは違うことをしなくてはならない。
これが私が1つの宗教だけに入って、その宗教を極めたいと思わない理由なのです(笑)
しかし、こと幸福の科学については、非常に多面性を有しているがゆえに、支持したい団体ではあるのです。
しかし、完璧な宗教はありませんから、足りない部分については、自身で主体的に補っていく、そんな姿勢が求められるのではないでしょうか?
そんなスタンスに共鳴できる人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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読書というのは、私にとって必須の行為です。
この行為によって、非常に楽しい時間が過ごせますし、ブログを書くための情報を得るためにも必須ですし、困難に出会ったときに打開策を得ることができるのですから。
非常に大事なことは、読書をするということで誰しも自分の可能性を広げてくれるのです。
困ったときや、相談したいときに誰かを頼るわけです。
その相手が、ポジティブなことを言ってくれる人ならいいですが、逆に、ネガティブなことしか言わない人であったり、貶すことしか知らない人であれば、げんなりしてしまうのです。

ポジティブな人に出会えればいいですが、それだけでも足りない気がします。
この世の中について何でも知っている人などいないですから。
また、ことが高尚なことだったり、壮大だったりしたら、無闇に相談などできようはずがないのですから。
そういった壮大なことを探求するためには、やはり読書は欠かせないものなのです。
いろんな分野にわたって、いろんな本が出ているわけですから、困難にぶつかったときに、その分野について複数の本をいろいろよんで行くことで、解決の道が見えてくるわけです。
その際に、ただ宗教に縋って解決していこうという気にはなれないのです私は。
非常に読書というのは重要なことなのです。
解決の道が見えてくるだけでなく、可能性の開けてくるからです。
文系の大学に行ったことのある人ならば誰しもドイツの社会科学者であったマックス.ウェーバー(下写真)の名は知っているでしょう。

ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』は、文系学生ならば誰しも読んでなくてはならない、とすら言う教授もいました。
プロテスタンティズムの精神が資本主義の元になっているということを発見したのです。
その理論が非常に明晰で、誰もが納得しうるものだったゆえに、この著が世界的に有名になったのでしょう。
その理論を抽出するまでに、どれだけの勉学を重ねたか、想像を絶するものがあるのは言うまでもないです。
科学を修めるのに基本的な行為は、無数の本の多読、濫読なのはいうまでもないです。
そして、自身の理論を検証するために関連する資料を、探索していかなくてはならないでしょうし、理論の妥当性を確証にするためには月日を重ねて熟成も行わなくてはならないでしょう。
日々論文を書いていかなくてはならないのも基本的な行為です。
ウェーバーは、かなりの勉強家だったようで、奥さんから「なんで貴方はそんなに勉強するの?」と問われて、「自分が何者かをしりたいんだ!」と返答したようです。
やはり世界的に有名な学者のいうことは、他の人とは違いますね。
この世に生まれた使命感のようなものも研究を重ねることで、勘づいた可能性が大きいです。
その過程で他の多くの人とは違う世界観を身に着けていったのでしょう。
やはり他の人とは違う能力を持っていたがゆえに…。
ことは、幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏(下写真)も感じたのではないでしょうか?
彼も読書に次ぐ読書を重ねたのです。
その数、逝去されるまで10万冊読んだいうことです。
彼も、他の人と違う能力や経験を通して、自らの使命感が何か、自分が生まれ出た理由といったものを探索したい衝動にかられたのでしょう。
大学時代に、自動書記が現れて、「イイシラセ」という文字が勝手に自身の指を動かして書かせ、その後、エルカンターレが自身の前に現れて使命を託された。
これが、幸福の科学の存立理由になってるのです。
ただこれだけで、確証は持てなかったのでしょう総裁は。
その後、いろんな本の多読濫読を重ねていったことで、それまでのいろんな宗教の開宗者のエピソードなどを中心に読んでいったのでしょう。
真言宗の開祖である空海(下写真)の伝記を読むことで、また文鮮明やジョセフ.スミスなど自分の前にキリストや天使が現れて開宗者としての使命を託したことや、作家時代に霊に乗り移られて自動書記で小説を書くようになった三島由紀夫の伝記を読んだりして、自分との共通点を見出し、開宗の資質を自身に見出したのでしょう。

これは決して自惚れではなく、確証でしょう。
開宗者のその内容はかなり詳細になりますが、それと一致するのですから。
これをどう評価するかは、その人次第です。
評価する前に、それらの開宗者たちについて書かれた本をそれぞれ読んでみるのがいいでしょう。
大川隆法総裁が、この宗教を開始した時に、大きく空海のした道を踏襲したことは、この宗教の歴史を見れば明白です。
空海は、西暦800年前後に生きた人で、中国にわたり仏教を学んできたのですが、かなり教義も複雑多岐になっていて、一般人では到底学びつくせるものではなくなっていたのです。
ゆえに、かなり習得能力の高い人でなければ仏教を学ぶ資格が与えられなかったものに変貌を遂げていたのです。
その当時、空海が学んだ密教においては、灌頂ということが重要視されていたのです。
灌頂とは単なる儀式ではなく、言葉を超えた悟りの境地を直接、師から弟子へと伝えるもので、受け継ぐためには、それにふさわしい器量や師との深い縁を必要としたのは言うまでもないです。
この歴史的な事実を見つめて、やはり、宗教を真に修めるためには、やる気とそれにふさわしい能力が必須と判断したのでしょう総裁は。

当初、幸福の科学に入信するためには、入信のテストが行われていたようです。
しかし、時代の要請からか、それはいまではなくなっているようです。
その入信テストが取りやめになった理由は、部外者である私にはわかりかねます。
その入信テストの存立理由から学ぶのは、その入ろうとする宗教に対する真摯な態度や勉学の姿勢でしょう。
それなくして、朧気でいい加減な姿勢では、人に語ることはできないですし、そんな姿勢では神や仏に対して失礼というそしりをまぬかれないでしょう。
やはり、真に学ぼうという姿勢を日々維持していかなくてはならないでしょう。
そして大川総裁は、あの世にも行けて、霊視もできるとしていたのです自身で。
それは、本物か、あるいは世にある無数の本によって脳内を矯正していたのかは私にはわかりません。
そして、総裁曰く、転生輪廻はあり得るということです。
人は死んで、あの世へ帰り、また来世に生まれ変わるとしているのです。
ただし、人が死んで来世また人間になる、ということではないようです。
動物に生まれかわることもある、ということです。
この輪廻転生は、これまでいろんな宗教の開祖や哲学者によっても唱えられていたことなのです。
ゆえに、釈迦は魚を取ったり、獣を取って生計を立てていた人を仏教に入信させなかったのでしょうか?

ゆえに中世の仏教では獣や魚を食べることを禁止したのでしょうか?
また『日本霊異記』において以下の寓話があります。
「僧侶が小石を投げて誤って鳥にあたって死んだ。その鳥が猪に生まれ変わった。その猪が石をかき分けて食べ物をあさっていると、石が転がり落ちて僧侶に当たって死んでしまった。」
これを真摯に受け止めると、動物を殺したり、それを食べることへの禁忌を示しているのでしょうか。
そんな気がします。
この因果応報の話しや類する話しを多く読むと、やはり動物をころして食べることを多くの仏教の宗派では禁忌にしていたのもわかります。
しかし、このことを知り、輪廻転生は厳然と存在するということを前提にすると、今、肉を食べている人は、因果応報で自分も辛い目に、あるいは悲惨な目に逢うという言うことでしょう。
また、そうでなくても、前世に自分とゆかりのあった人の生まれかわりを食べることになる、ということでしょう。
それならば、当然、肉食を禁忌にしなければならないのですが、現代の多くの仏教宗派や幸福の科学ではそうはなっていないのです。

やはりこれも時代の要請でしょうか?
「肉食を厳禁にする!」と宗規に盛ると、怪しげな宗教と思われてしまう、あるいは多くの信者が離れてしまう、と判断したのでしょうか。
やはりどの宗教でも、時代や社会との調和を考慮に入れなくてはいけないのは言うまでもないです。
それゆえに、本来、しなくてはいけないことをしなくてもいいということにしなくてはいかない。
そして、禁止すべきことを禁止できないという結果になってしまうわけです。
完璧な宗教などあるはずはないので、それを見つけたら、自身で適うように工夫するべきなのです。
それゆえに、私はベジタリアンやビーガンを目指さなくてはならないと日々、動物の肉は食べないように極力努力しているのです。
しかし、飲み会などで、自分1人だけ「これは注文しなくていい」あるいは「これは食べれないから残す」といって肉を忌避していては、その場の調和を乱すことになりますから、無言で受け入れるわけです。
しかし、普段の日常では動物の肉は一切食べないことにしているのです。
これは先の日本霊異記や幸福の科学の本を読む前に、ユーチューブで草食動物が肉食動物に捉えられて食べられるシーンを幾度となく見て、「こんな残酷なことなんだ動物の肉を食べることは!私たち人間はもっと残酷なことをして動物を殺して食べているんだ」という意識に変わり、その日から食べないようにしてきたのです。
THE BEATLESのメンバーだったポール.マッカートニー(下写真)は厳然たるベジタリアンなのです。

ロック音楽好きな私ゆえに、そのことにも感化されたのです。
このように、厳然たる理論的な根拠があるにもかかわらず、宗規にはそれが盛られていなし、自身のモラルとは反する。
しかし、その宗教の宗規とは違うことをしなくてはならない。
これが私が1つの宗教だけに入って、その宗教を極めたいと思わない理由なのです(笑)
しかし、こと幸福の科学については、非常に多面性を有しているがゆえに、支持したい団体ではあるのです。
しかし、完璧な宗教はありませんから、足りない部分については、自身で主体的に補っていく、そんな姿勢が求められるのではないでしょうか?
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『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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ありがとうございました!



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