宗教乱立の時代に望ましい宗教へのスタンスとは?
こんにちは。
世の中にはいろんな宗教が乱立しています。
何かの縁で,その宗教に入ることは誰にでもあるでしょう。
しかし、大抵の宗教では、その宗教に関する正当性を論じ、いかにこの宗教が素晴らしいかを説くのに躍起になっているだけの観があるのは否めないです。
他の宗教について交えて論じることはまれなのです。

これで納得してしまうのが、古今東西人類の変わらぬ事態なのでしょうか?
それでは正直、納得できないのが私の立場なのです。
その宗教がこの世で一番素晴らしいというのならば、複数、それも最低でも5つ以上の宗教と比較してから、自分の宗教の正当性を論じるべきでしょう。
そういう作業なくして、その宗教がこの世で一番素晴らしいなどといわれても、私は納得できないのですが、その宗教にぞっこんになってしまった人は、汲々として、その宗教の素晴らしさを人に語ったり、信者になるように勧めたりするからわからないのです(笑)
そのぞっこんになってしまった人に「他の宗教についての本を何冊読みましたか?」と問うても、「1冊も読んでいない」というのがほとんどなのです(笑)
あまりに論理的に私は考えすぎなのでしょうか?
そんなことはないと思います(笑)
宗教的な力…仏力、霊力といったものには敬意を払いつつも、いろんな宗教を垣間見て、それぞれのいいところを身に入れて、感謝しつつ、生活を生きていく…そんなスタンスが最良と思うのですが、世のなかの人はそうでないのが通常の例なのです。

それは言論を提示していくに際しても、おなじであるべきなのです。
意見Aと、意見Bがあるとします。
それぞれの意見を最初から最後まで聞く、あるいは全部読む。
それに関する本を、いっぱい読む、そのうえで自分の意見を練り上げて、中道を行く。
中道とはいっても、キッチリ真ん中ではないです。
どの程度に中道かは、その人の価値観や、得てきた情報によって違ってくるのです。
ゆえに、意見Aと意見Bに関しての意見や論文は、10人10色、100人100色であってしかるべきなのです。
しかし、こと宗教団体になると、ほぼ10人1色、100人1色になってしまうのです。

神仏という尊い存在に対して謙虚になるのはいいことだと思います。
しかし、時代の変遷とともに、その内容が通用しなかったり、まったく的外れになることもままあるのです。
ゆえに、無批判というのはいただけないのです。
それに、その宗教指導者が、信者を欺くために虚偽の言説を流している場合もあるのです。
それに気づかずに無批判というのはどうなのかな、という気がします。
論文の著者の本をいろいろ買い、読んできた私としては、中道で書き本を出し、その内容を読んで感銘を受けた人がその人の著作家のファンになるかどうかが決まる、という気がします。
決して1つの立場に一辺倒という著者にはファンは限られてくるでしょうし、そもそもファンすらつかない気がします。
そんなスタンスの言論に興味のある人に、おすすめの本が以下です。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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世の中にはいろんな宗教が乱立しています。
何かの縁で,その宗教に入ることは誰にでもあるでしょう。
しかし、大抵の宗教では、その宗教に関する正当性を論じ、いかにこの宗教が素晴らしいかを説くのに躍起になっているだけの観があるのは否めないです。
他の宗教について交えて論じることはまれなのです。

これで納得してしまうのが、古今東西人類の変わらぬ事態なのでしょうか?
それでは正直、納得できないのが私の立場なのです。
その宗教がこの世で一番素晴らしいというのならば、複数、それも最低でも5つ以上の宗教と比較してから、自分の宗教の正当性を論じるべきでしょう。
そういう作業なくして、その宗教がこの世で一番素晴らしいなどといわれても、私は納得できないのですが、その宗教にぞっこんになってしまった人は、汲々として、その宗教の素晴らしさを人に語ったり、信者になるように勧めたりするからわからないのです(笑)
そのぞっこんになってしまった人に「他の宗教についての本を何冊読みましたか?」と問うても、「1冊も読んでいない」というのがほとんどなのです(笑)
あまりに論理的に私は考えすぎなのでしょうか?
そんなことはないと思います(笑)
宗教的な力…仏力、霊力といったものには敬意を払いつつも、いろんな宗教を垣間見て、それぞれのいいところを身に入れて、感謝しつつ、生活を生きていく…そんなスタンスが最良と思うのですが、世のなかの人はそうでないのが通常の例なのです。
それは言論を提示していくに際しても、おなじであるべきなのです。
意見Aと、意見Bがあるとします。
それぞれの意見を最初から最後まで聞く、あるいは全部読む。
それに関する本を、いっぱい読む、そのうえで自分の意見を練り上げて、中道を行く。
中道とはいっても、キッチリ真ん中ではないです。
どの程度に中道かは、その人の価値観や、得てきた情報によって違ってくるのです。
ゆえに、意見Aと意見Bに関しての意見や論文は、10人10色、100人100色であってしかるべきなのです。
しかし、こと宗教団体になると、ほぼ10人1色、100人1色になってしまうのです。

神仏という尊い存在に対して謙虚になるのはいいことだと思います。
しかし、時代の変遷とともに、その内容が通用しなかったり、まったく的外れになることもままあるのです。
ゆえに、無批判というのはいただけないのです。
それに、その宗教指導者が、信者を欺くために虚偽の言説を流している場合もあるのです。
それに気づかずに無批判というのはどうなのかな、という気がします。
論文の著者の本をいろいろ買い、読んできた私としては、中道で書き本を出し、その内容を読んで感銘を受けた人がその人の著作家のファンになるかどうかが決まる、という気がします。
決して1つの立場に一辺倒という著者にはファンは限られてくるでしょうし、そもそもファンすらつかない気がします。
そんなスタンスの言論に興味のある人に、おすすめの本が以下です。
●以下よりどうぞ!
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!



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