幸福の科学主催の映画『ドラゴンハート』から現代社会への警鐘を考える!(幸福の科学)

幸福の科学主催のアニメ映画『ドラゴン.ハート』を映画にて鑑賞してきました。
壮大な気宇に包まれて、観ている人の心を浄化してくれるような威力を秘めていたということができると思いました。
この映画の舞台になっているのは、幸福の科学の故.大川総裁(下写真)の故郷である徳島県になっています。

その田舎の広大な舞台も、都会の敷き詰めた空間に暮らし続けている人には癒いの空間になることは間違いないでしょう。
この映画の主人公の竜介と知美が山の川に行き、河童に出くわし、その姿を確かめたくて河童のあとをつける。
そして河童は川には逃げ、追いかけようと川に入った主人公の2人は深みにはまってしまう。
そして奥深くに流されてしまったと思ったら、巨大な竜が2人を背中に乗せて、山の高みの麓に到着させておろす。

すると、1人の仙人が登場し、2人はもうこの世の人間ではないことを告げられる。
それにかなうように、2人の足は透けてしまっているのが悟られる。
すると、その仙人は、2人に人生でなすべきことを見つけたら元の世界に還してくれると告げ、2人はその言葉に従い、あの世に探訪することになる。
あの世は1つではなく、空赤黒く、重い空気に包まれ、人間はいるが、そのほとんどが魑魅魍魎に心を支配された社会であったり、患者を殺したり手足を切断することしか治療するすべを持たない病院だったり、広大な暗い岩ばかりの蛇の神が支配する世界であったり、人身を束縛するホラーな西洋館だったりといろいろなところに出向いたりしながら、そこで危機に陥っている人をすくことに躍起になる主人公の2人が印象的だったのです。

そして最後は、故.大川総裁もまねかれていたと自身が書いていたシャンバラの世界が最後に到達する。
シャンバラは、政界中の宗教や芸などの各界の選ばれし選民たちの集まる場所で、透明感のある心の持ち主たちが集まるということです。
これは故.大川総裁もまねかれていたということを総裁の書『メシアの法』で知っていました。
こういう場所は招かれていた人たちの心もさることながら、その場の雰囲気も当場していた選民たちの心もかなり透明感のあるものであることが、鑑賞していてわかりました。
その無数の人たちの前で、エルカンターレがビシュヌ神から戴冠されるシーンは、この映画の中で最大の広大な気宇を有していたのが感じれました。
その後、気が付いたら主人公の2人は、家の中で気を失っていて看病されているシーンに移動します。
よかった…この2人は生還することができたのです。
注目すべきは、この映画の中で感じれる臨場感ですね。
あの世やシャンバラ(写真下)といったこの世とは違う場所の広大な気宇は、想像力では表現できない性質のものであったことは確かです。

記憶力によってはじめて可能はないかと、思わざるを得なかったのです。
いろんな人たちの記録をたくさん集めて、制作することも可能ではありますが、そんなに時間をかけてできたものではないだけに、やはり総裁の記憶を頼りに制作したものではないかと思わざるを得なかったのです。
ゆえに大川総裁は、自身はあの世への行き来ができる数少ない人間の1人であるとか、霊能力があるとか、エルカンターレの使途であると生前に語っていたのは、やはり本当のことではないのか…そう思わざるを得ない力を感じたのです、今回の映画においても。
今回の映画のナレーションにおいて、「総指揮.大川隆法」としていたこともそうですが、やはり実際に映画の中で感じた壮大な気宇の再現には瞠目せざるを得なかったのです。
やはり宗教たるもの、あの世といったものも視野に入れて講じないことには説得力に乏しいと感じるのは私だけでしょうか?
こんにちの仏教界では、浄土真宗、日蓮正宗が、大幅に支持を集めているのです。
いずれも鎌倉期の、仏教の勃興期にできたものです。
その他、曹洞宗、臨済宗、時宗といった宗派も、この時期にできたものですが、それらの開祖たちのこんにち遺されている書物を読むと、いずれもあの世といったものは視野に入れてはいるものの、具体的な描写がないのです。
それは、こういった宗派の開祖たちが、あの世に行ける能力がなかったからでしょう。
しかし、大本の仏教の開祖であった釈尊にはそういう能力があったのだそうです。
それがこんにちの仏教界の悲劇の始まりだったのでしょうか?

あの世に行ける能力がなかった開祖の言っていたことだけに依拠して教義を伝えてしまっていたがゆえに、あの世を視野に入れなくてもいいという風潮が跋扈してしまった。
証明できないがゆえに、教義に入れることができなかった。
だから、死去した後の閻魔による裁きで天国にいくか地獄にいくということになる、ということに現代人のほとんどが認識できずに終わってしまっている。
この世での行いが死後、裁判にかけられ、地獄に行くか天国に行くかが決まる、ということですね。
死後のことは考えなくていい、という思いゆえに、現世において法の穴を潜り抜けて悪事を重ねることを平然とこなしている人が多い、ということですね。
故.大川総裁曰く「現代人の半分以上が死後、地獄にいく」ということです。

そういうことは某キリスト教会でも語られていたようです。
それを本気で信じていたクリスチャンは、煙管乗車ができない、ということです。
なぜなら、神様が自分を見ている、あるいは現世での行動の結果、天国いきか地獄いきかが決まると知っていたからですね。
しかし、仏教でもキリスト教でも、地獄や天国が想定されているのを見ると、宗教は元は1つだった、という見方も成り立ちますね。
しかし、その教会の長が変わることで、その長の価値観によって、現世での行いによって死後の…云々の講義をしなくなれば、せっかくのキリスト教会でも道を踏み外す信者が出てくることは必然になります。
証明なくんば、語る必要なし。
これはかなり難しい問題になるということです。
しかし、そのことを信じるのであれば、故.大川隆法総裁の教えを語る必要はあるでしょう。
私が一番尊崇している大山倍達(極真会館総裁、下写真)も、同じようなことを生前に発していたのでした。

証明なくんば信用されず、と。
その言葉によってあの世といったものは、一般人には証明できないがゆえに、証明できないもの=ないものというレッテルが貼られて、世俗はもちろん、宗教においても講義されることがなくなってしまったのでしょう。
しかし、一般的な世俗とは違い、大山総裁は、神仏に対する畏敬の念は保持していたのです。
道場には、神棚を置いていたし、自分の家では、身を徹底的に奇麗にしたうえで、祖先を祀った仏壇の前に座り、線香をたき、子供たちと一緒に家訓を読み聞かせていたのです。
しかもこれは毎日です。

大山総裁はきれい好きで、少しでも汚いところがあったら、自ら進んで掃き、雑巾がけをしていたのです、家の中でも道場内でも。
神仏はきれいなところを好む、とは風水でもあまたの宗教でも説かれることですが、それを地で行っていたのです総裁は。
その結果、総裁は一代で世界125か国に極真会館の支部を広げることに成功したのです。
道場訓の1つに、「1つ我々は、神仏を尊び、謙譲の美徳を忘れざること」と大山総裁はしていたのです。
特定の神や仏は信仰しないけれども、あると措定したうえで、人智を超えたものに対する畏敬の念、そしていつまでも永遠に自分は修行者だ、という心がけを忘れない事の重要さを説いていたのです。
宗教に入らない人にとっても、こういうスタンスは勧めれるでしょう。
というか、このブログで何回も幸福の科学の特長については説いてきましたが、私は幸福の科学の信者ではないのです(笑)
そのスタンスはいつまでも変わることはないでしょう。

しかし、特定の神や仏は信仰せず、そういうものがあると措定した上で、畏敬の念を持ち、心身ともの成長は忘れない、というスタンスになるのだと思います。
謙虚に、神や仏についても学び続けて、ひと様に誇れる人格になるのを目指していたいということです。
今回もこの映画を虚心坦懐に鑑賞し、他のいろんな宗教についての本も多数よみ、この世の真理は何かということと探究し続けています。
そういうスタンスもありかなという思いでいます。
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。
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ドラゴン・ハート-霊界探訪記- 公式ガイドブック/大川隆法製作総指揮・原作『ドラゴン・ハート−霊界探訪記−』製作プロジェクト | ||||
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!



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