望ましい資本主義の精神とはどういうものか?その精神が醸成されたのが浄土真宗がその1つだった? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
マックス.ウェーバーは文系の大学では必ず誰しも名を聞くほど有名でしょう。
そのウェーバーが、浄土真宗の持つエートスを資本主義に必須のエートスと同じものを持っていたとして、それについて論じているのです。
その箇所を読んで私は驚いたのです。
まるで、当時、無関心だった浄土真宗が世界的に有名な文系学者によって取り上げられていたのですから。
また、のちになって、浄土真宗が日本で一番信者の多い団体であることも知って、その時も驚きました。
ウェーバーの分析内容は、どう考えても凡人ではできない解析脳を持っているので、ただひれ伏すのみ、といった感じです(笑)
さすが世界的に著名な学者といった感じです。
そのウェーバー(下写真)が、『中間考察』という本において、救済宗教の特徴を分析したのです。

それが以下です。
1、救済は、万人にとって到達可能だとする同胞倫理によって構成されている。
これは、選ばれた者だけが救いに預かれるピューリタニズムとは対をなすのがわかります。
2、この世は罪あるもののために作られている世界とする考え方が中心である。
この世は罪を負った人間が寄り集まってできた世界であり、現世の不完全さは動かしがたい事実である、という考えが蔓延されているということです。
3、不合理なるがゆえにわれ信ずという要請なしにやってゆけるような生命力にあふれた救済宗教は存在しない、ということ。
救済宗教は、日常生活においては呪術を排斥するが、その核心には超越的な絶対者を据えて、それに対する無条件の信仰を求める。
救済宗教は、知性の犠牲を伴わずに不可能であるということです。
これら現世的に見えるものが一見、宗教に代わって人々に人生の意味を与えるように見えながら、右に挙げた救済宗教の要件を満たしていないから完全にとってかわるのは無理だ。
経済活動や芸術や学問などの現世的な営みの限界が明るみになり、職業や性愛をも含めてどんなに人々を夢中にさせるものでも、地上の営みは究極的な人生の意味を与えることはできない。
こういうことを分析内容を観ると、非常に説得的ですね。
無宗神論者は、こういう部分を読まないで、無神論を決め込んでいるのでしょうが、こういう特長を認識することなくしてその立場を選んだわけですが、そのことによって自分に逢着した結果は、自身で責任を持つべし、という立場でいるのです私は。
その無神論者に、宗教的なメリットを周りの人間が教えなかったからだ、といったような議論はすべきではないでしょう。
古代ならいざ知らず、今のようにいろんな本が格安で入手出来て、簡単に読める時代なのですから。
読むための力は9年間の義務教育で身についているわけですから。
こういう立場なので、私は無宗教の立場なのです。
しかし、紙や仏の存在は信じているので無神論者ではないのです。
「完全無神論、大いに結構、しかしその結果については自己で責任持つべし!」なのです。
そのウェーバーの『中間考察』は廃刊なので興味ある人はこのブログページを保管しておいた方がいいでしょう。
先の救済宗教の特徴をまとめた文ですが、その特徴はまさに浄土真宗の教えと整合しているのです。
ゆえにウェーバーは浄土真宗を取り上げたのでしょう。
しかし、取り上げただけであって、賞賛はしていないのです。
ただの分析内容の表示だけなのです。

かたや、ヨーロッパにおける神は、人間から隔絶した超越的な存在であって、神の意志や決断は人間の量りうることではない。
神の意志を人間が推し量ったりすることは、神に対する冒とくであって、人間には許されないことである。
人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在する。
地上におけるあらゆる事物出来事は、神の自己栄化の手段であって、人間もその例外ではない。
つまりヨーロッパの宗教(ユダヤキリスト)において、人間は神の道具である。
ここも、阿弥陀仏信仰と類似する内容を持っているのです。
これに対してアジアの宗教では、人間は修行を積むことによって欲望を断って悟りを開き、神や仏の域に到達することができる。
ヒンドゥーのバラモンにせよ、天台宗や禅宗の修行僧にせよ、修行を重ねて禁欲を守ることによって絶対者の域に近づくことができる。
言い換えれば、人間は自らのうちに神の性格を受け入れることができる「神の容器」であるということです。
蛇足ながら、こういった論理から「神を受け入れないと地獄」という悪い意味での跳躍した思いや感情がクリスチャンから生み出されたことも、植民の際の現地人のジェノサイドを正当化したのでしょう。
人類史上、一番人を殺したのはクリスチャンなのです!
ヨーロッパとくにカルヴァン派は、人間は「神の道具」であるという観念とその独自の職業観が結びつき、この世で神の栄光を顕すために、職業について禁欲的に働く敬虔な人々の群を生み出しました。
この大衆の中ででてきた敬虔なプロテスタント信徒こそが、呪術を排斥しつつ、初期の合理的な近代資本主義の担い手となった、ということですね。
禁欲は、プロテスタンティズムを理解するうえで重要なものですが、これは、何々をしてはいけないという意味ではなく、ただ単に物事に打ち込む、というニュアンスの概念なのです。
それならば、「天台宗や禅宗もひたすら座禅等に打ち込んでいるではないか?なら、天台宗や禅宗も取り上げてしかるべきではないか?」という反論も起きても不思議ではないでしょう。
その通りです。
しかし、もっと重要なことは、プロテスタントの人が仕事に打ち込んでいることだけでなく、天下国家のためにという視線を心に抱えながら、仕事に打ち込んでいた、ということを取り上げているのです。
そう、浄土真宗信徒もまさにそういう視点があったのです。
それは浄土真宗の教義にそういう文言が盛り込まれていたというのではなしに、自ずからそういう視点を増幅させざるを得ないような教えがあった、ということです。

宗教というのは人づてに教えられると、どうしても話し手の価値観などが入ったりするのもさることながら、説明が完璧に伝わらない弊が存在するのは言うまでもないですし、必然ゆえに批判することではないのです。
それに巷にあった思想と融合して、更にふくよかなものに増幅していったのです。
しかし、それが結果的に浄土真宗にとって好結果をもたらすことになったのは言うまでもないのです。
もとの真宗の教えに触発されてかされないでかはケースバイケースですが、世俗からの思想も加わって、「相手良し、売り手よし、世間良し」という三方良しの思想を生みだし、いろんな著名な商業者を生み出したのです。
著名な商業者はどんな人か興味あるでしょうか?
やはり、1つの宗教、1つの思想だけで、団体や人の思想を形成するわけではないのは明白です。
色んなものが良き媒体になって形作るのです。
ゆえに、1つの宗教には拘らない、拘らないがゆえに、宗教者には私はならないのです。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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