絶対的に阿弥陀仏に縋れるか縋れないかは、バックグランドが違うから? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というものは、1つの本尊だけに対して絶対的な真を置く行為です。
その真がかなった上で、人にその宗教への勧誘を勧めるのでしょう。
しかし、そういう絶対的な真を置きたい!という衝動に駆られたことはないので、私はいまだに無宗教者です。
しかし無宗教者でも神や仏といった対象は信じていますので無神論者ではないです。
いろんな宗教を研究していくうちに、それぞれの宗教の内情を知っていけば、それなりに説得力があるので、こういう立場もあるのか、そういう立場もあるのか、という気持ちで、それぞれの宗教の本を読んだり、宗教に入っている人の話しを聞いていることで、興味深い時間を過ごしているのです。
しかし、それだけで終わってしまい、たった1つの本尊だけに帰依する、ということができないのです。
浄土真宗の親鸞の言葉に以下のものがあります。
「臨終に念仏して阿弥陀仏の來迎を望んでいる人は、まだ阿弥陀仏の絶大な力を本当に信じていない。念仏をしているけど、念仏する自分の力をどこか信じている。」
正直、私は阿弥陀仏に対して、ここまではいけないのです。

浄土真宗は阿弥陀仏を本尊にする宗教団体ですが、その本尊に対してここまで真が置ける理由が、ここまで真を置かなくてはいけない理由がわからないのです。
浄土真宗信徒に話しをすれば、いろんな体験談があるでしょうし、それなりに説得力があるものが聞けるでしょう。
しかし、あえてそれを聞かないのは今の生活で充分に精神性が満たされているからです。
いろんな本を読むことで障害が出てきたら、それを乗り越える糧が得れるからです。
しかし、明治や大正の時代にあっても本というものは貴重なもので、昭和の時代にあっても高価なものだったようです。
ゆえに、大学に入った人たちは、授業中必死になって教授の言ったことを必死にノートに書き貯めたものだったようです。
教授が話している時に誤ってクシャミをしてしまい、学生がノートに「はくしょん…」とまで書いていた例も聞いたことがあります。
そういう時代においては、僧侶の役目も大きかったのです。
困ったことがあったら、僧侶に聞きに行ったことも庶民の間ではあったようです。
しかし、今では経済が豊かになって本はいくらでも入手することが出来るのです。
中古本ではもっと廉価にいらないほど買えるのです。
それによって学ぼうと思えばいくらでも学べる時代なのです。
ゆえに、大学に行って高い学費を払っていく必要はないということを私は前著で指摘したのです。
しかし、そういった本を読むのが苦手な人は、そういうものを避けて、宗教に入って経文を唱えて事の打開を図ろうとするのです。
しかし、それだけでは万般の解決にはならないのです。
やはり論理性、合理性を有した科学的な方法で打開を図らなくてはそれが遠くなるのです。
先の「臨終に念仏して阿弥陀仏の來迎を望んでいる人は、まだ阿弥陀仏の絶大な力を本当に信じていない。念仏をしているけど、念仏する自分の力をどこか信じている。」という言葉ですが、ここまで思想ができた理由は…といぶかし気に思うのです。
また、親鸞は、「そこではあらゆることが、すべて信用ならない空疎なことなのであって、真実はどこにも見出せないがただ念仏だけは真実である。」と『歎異抄』に書いているのですが、その尺度は?根拠は?という疑問がわくのです。
また同じく『歎異抄』において、「諍論のあるところには、もろもろの煩悩が起こるから智者はそこを避けるべきだ。」として、雑音を避けることの重要性を説いているのです。
それは俗世においては、反論が渦巻くので、そこに身をゆだねては、真なる心を研ぐことは出来ないということです。
そこまでして念仏に帰依する重要性を説くようになったわけを誰もが知りたいと思うでしょう。
親鸞(下写真)は比叡山の延暦寺に行って仏道修行に励むも、当時のこの寺は、貴族たちの出世のための機関になり下がっていたがゆえに、失望しその山を下り、念仏に帰依したということです。

それによって自分の人生が好転した、念仏に帰依することで好転した人が輩出した、という経験を多くした、ということで一気に弘教に励むようになったのではないかと思われるのです。
その他、衝撃的な体験が親鸞にとって引き金になったのではないかと思われるエピソードが以下です。
「…無量寿経を読誦していた親鸞が、4日目の明け方、ああそうかとつぶやき、人の執心や自力への過信はなかなか消し去ることに気づいた。読経もやめると病状も回復した。
夢という意識の深層部において「弥陀の本願信ずべし」という決して夢ではない真実が親鸞の脳裏にぱっと閃いた。親鸞85歳のとき。」
これは『正像末和讃』にエピソードが書かれているのです。
やはりこういった決定的な体験談があるかどうかで、やはり帰依の具合は変わってくるのは自然な成り行きです。
ゆえに、親鸞の言葉や浄土真宗で言われていることに対してそっくりそのまま受け入れて絶対的に阿弥陀仏に帰依する!と意気込む必要はないでしょう。
どれだけ阿弥陀仏に帰依するか、その割合は自身で決めていくのがいいでしょう。
全然阿弥陀仏に帰依できないというのならば、それもそれでいいでしょう。
その結果、招来した結果についてはすべて自身に帰するということですから、そこは心に留めておいてほしいものです。
こういった親鸞の経験、思い入れ、価値観、好み…こういったものが阿弥陀仏に絶対的に帰依する結果になったのです。
それらの割合が違うゆえに、帰依の割合は違ってくるがゆえに、絶対的な帰依にならなかったとしても決して卑下することはないでしょう。
もしかしたら何らかの事象によって親鸞のような精神状態になるかもしれないし、ならないかもしれないのです。
それについても、決して卑下することはないでしょう。
私の言いたいことは以上です。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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