親鸞が学んだキリストの罪と、自分が展開した罪の内容は違う。それは当然です! (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
こんにちにおいて、宗教というのは人間の精神の救済措置の一部をなしているのがわかります。
やはり、何か悩みがあってそれが解けない。
そんなときに、某宗教に入って、そこでその宗教の本尊に対して祈る、あるいはその宗教の教義や開祖の書いた書物などを読んで解決策を探る、こんなパターンが往々にしてあるようです。
やはり人間というものは、いくら科学が発達しても、人智を超えた神仏という存在に縋りたくなる、あるいは縋らざるを得ない性質があるようですね。
そういう宗教性について前々から興味があったので、いろいろ研究してきたのです。
やはり注目せざるを得ないのは、親鸞の浄土真宗ですね。
この教団は日本で一番、信者が多いのです。

しかし、それだけで褒め称えることにはなりません。
寄らば大樹の陰のような感覚は好きではないです。
音楽ならば、多くの人が聴いているから自分も聴く、というのは良いでしょう。
しかし、多くの人が好きだから私も好き、というのはおかしいと思うのです。
好きか嫌いかは本人のこのみであり価値観によって違ってくるので、あるいはそんな好きではないのに、好きと言い張るのは自分の心を偽っていることになるので、好ましくはないでしょう。
その、信者が多い、という理由を探りたくなったので研究した、それまでのことです。
エッセイストの田口ランディ氏(下写真)は、浄土真宗に帰依した人ですが、その帰依について賞賛を施しているのです。
その内容は以下です。
現代は解答なければ試験もない。
そんな生活に慣れすぎている今の時代、何のために生きているか?
人生に意味があるのかは、無駄な問いになっている。
根源的な問いは失われ、ソリューションを求めて、突き進んできた果てに、臨界点に達して、茫然自失としている時代になった。
今の教育は、教養全般を身に着けるのではなく、個々の問にどれだけ効率的に解答できるかに腐心している。
自分の力でいつでも善をなしうると思っている人は一心に本願をたのむこころが欠けているのだから、阿弥陀の本願に沿うものではない。
しかし、そのような善人も自力の心を妄念であると気づいて本願力にすべてを任せることが出来るならば、阿弥陀如来の真実の世界へ生まれることが出来るのである、ということです。
自分の力で何でもできると妄想するのではなく、自己の精神を阿弥陀仏に捧げることによって、精神が救われる、ということでしょうか?
その思いの内容は、すべて字面で推し量ることはできないので、想像も入れなくてはならないようなので、そこは完全に理解した、とするのではなく、留保をしておいた方がよいのでしょう。
やはり人智を超えた存在への精神の委託は、心の状態を気宇壮大なものに変えてくれるのは確かです。
親鸞の唱えた、悪人正機説というのは、人間みずからが悪人であるということを自覚せよ、ということを言っているのです。
その悪人すらも阿弥陀仏に縋ることで成仏できるとしているのです。
決して悪いことをすることを奨励しているわけではないのです。
その認識を促すことを自分の門下たちに諭したのだといいます。
しかし、いつの世でも悪いことをして反省のない、いわゆるサイコパスという人はいます。
しかし、広い範囲でいえば、正しいことをしようとしている人の方が多いのは明白です。
なのに、なぜ、悪人であることを認識せよというのだろうか疑問に思いますね?
古代仏教では、人を殺す、あるいは動物を殺すということは禁忌とされていたのです。
しかし、親鸞の生きた時代は、まさしく戦乱の世であり、戦に駆り出された人たちは、相手を殺さなくてはいけないことになったのです。

そして、こんにちのように作物の品種改良などなかった時代において、魚や貝を採って食べないことには、生活していけなくなったのです。
それゆえに、悪人になってしまったのです民は。
ゆえに、自身は悪人であることを認識せよということになったのでしょう。
私はそう解釈をしているのです。
しかし、口コミなどや、人の価値観によって本来、親鸞が言っていたことと違う、あるいは若干ニュアンスが加わって講義されるようになってしまったことは否定できないでしょう。
これは何も浄土真宗だけでなく、他の色んな宗教でも同じようにして起こる事象でしょう。
ある親鸞関係の本を読んでいたら、以下のように講義されていました。
「親鸞は人間一般を「煩悩具足の凡夫」とした。
その内容は、人間は欲やいかりをはじめ、この汚れた煩悩が不足なく揃った存在として、根本的に否定的にみていた。
しかし、「煩悩のなきやらんとあやしくさふらひまなし」とあるように煩悩がそろっていることは、阿弥陀仏の救いに与る必須の条件だった。
つまり煩悩はあくまでも悪でありながら、それを不足なく持っている人間が、本願他力の救済に与る資格者であるということだ。」
ということです。
古代仏教の禁忌を犯さなくてはならない人間は悪人という認識と、煩悩がそろっていることが阿弥陀仏の救いにあずかる条件というのでは認識が違ってくるのは明白です。
これでは、傑出した人間を生み出すことがいかにも悪いことのように感じれてしまうのです。
そういう、本来の意味から逸脱してしまうという齟齬の現象はどの人間社会でもあることなので、それを否定しても仕方ないでしょう。
しかも、私が本来の意味と思っていること自体が誤解しているかもしれないのです。
ゆえに宗教って難しいなと思うのです(笑)。
しかし、親鸞が人間自体を悪人としたのかは、古代仏教と当時の社会との隔たりを認識しただけではないと思うのです。
それは自身が思想を展開するのに、依拠した書物によってそのように変化したと思わざるを得ないのです。
そこで親鸞はどのような書物に触れて自身の哲学を形成したのでしょうか?
それはキリストの聖書です。
今は、『世尊布施論』という名に変わっていますが、それが浄土真宗の西本願寺(下写真)に保管されているのです。

その内容を読むと、まさに聖書なのです。
キリスト教会では、しているところとしていないところがあるのですが、反省と悔い改めを毎日行うのが基本です。
やはり1日を振り返って、自分が悪いことをしていないかどうかを回顧して、思い当たることがあったら、それを神の前で懺悔するのです。
それで赦しを乞うのです。
人と接していた時に、ちょっときつい物言いでいってしまった。
誠心誠意で対応するべきところをちょっと誠意が足りなかった。
悪気がなくても嘘をいってしまった。
これもキリスト教では罪なのです。
喋れない、立てない赤子ならともかく、幼少期から現在まで私含めてほとんど全員の人たちはこういったいくつもの罪を犯してきた、ということが言えるでしょう。
ゆえに悪人であるということを認識せよとしたのでしょう。
しかし、先の本の注釈において、「煩悩はあくまでも悪でありながら、それを不足なく持っている人間が、本願他力の救済に与る資格者」という認識では、わざわざ自分を低く見るべし、というような考えをもってしまい、果ては自己卑下になってしまう可能性があるのは否定できないでしょう。
そこはニュアンスを変えて、自己流で解釈しなおし、日々私たち人間は罪を犯している、という認識にしてもいいのではないでしょうか?
そういう解釈のし直しは自発的にしていくべきではないでしょうか?
そんな気がするのです。
親鸞はキリストの聖書を読みながら、それを散りいれたが、若干違った解釈で自説を展開した。
こういうことは人間社会ではどこにでもあることなので否定もしないし批判することも私はしないです。
そこで自身はどうすればいいか?
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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