鎌倉時代の人間はだれもが悪人だった。しかし現代人はもっと悪人? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
昨日から雨が続いて寒くなってきましたね。
秋の訪れを感じると心まで寒くなってきますね(苦笑)
真夏であれば、水によるシャワーで済ませられますが、晩秋になるとそれが出来なくなり、またガスを使わなくてはならなくなるのが嫌ですね…(笑)
さて、前回の続きとして、親鸞の悪人正機説ですが、これはだれびとも悪人である。
その悪人も、阿弥陀仏に縋って南無阿弥陀仏と唱えれば、死後極楽に成仏できる、という教えだったのです。
しかし「だれびとも悪人…」と引っかかるものを感じる人は多いと思います。
これは解説すると、古代仏教では人を殺したり、動物を殺すことは禁忌だったわけです。
しかし、親鸞の生きた時代はまさに戦乱の世の中。
そんな中、戦時において相手の兵士を殺さなくてはならない。

また穀物だけでは食料が足りず、魚や動物や貝を殺して、それらを食べなくてはならない時代に変遷していたのです。
そこで、こういった事態になってしまった人間一般を親鸞は悪人と措定したのです。
その悪人でも、念仏を唱えれば、死後、極楽に往生することが出来る、という信仰の救済を説いたのです。
決して悪いことを行うことを奨励していたわけではないのです。
こういう誤解をする人が出てくるために、親鸞はわが教えを聞きたいという人にだけ説法せよとしていたようです。
そういう私は悪人であるという認識を持つことは非常に良いと思います。
それは現代でもいえるでしょう。
人殺しは戦乱の世ではないので、しないけれども、動物や魚や貝を食べる、という行為は継続している、ということだけではなく、電気を使う、シャンプーや洗剤を使う、またいろんな消費財を使って捨てることで地球環境には負担をかけるのです。
エコ製品はあるものの、やはり完全に地球環境に負担をかけないでいることは出来ないのです。
人間が生活していくことそのことだけで環境に負担をかける…ゆえに悪人という意識は持つべきでしょう。
夏にも冬にもエアコンをバンバンかける。
そのことで、気温は上昇し、温暖化に拍車をかけるのです。
ゆえにそういったモノを使わない人が多ければ多いほどいいのは言うまでもないのです。
ゆえに、私は家にはエアコンがありますが、パソコンで作業しなくてはならない時には、マックや喫茶店に行って、そこで作業します。
そうすれば家でエアコンを使う必要もないゆえに、温暖化の速度を遅めることが出来ますので。
某タワマンにのぼったことがありますが、そこは密閉しているので、夏にも冬にもエアコンが必須です。
そのためにどれだけエアコンを使い、温暖化の進行に寄与しているかを考えれば、タワマンには住まないという考えにいきついたのです私は。
また、シャンプーや洗剤を使うことでこれが下水に流れて、それを処理場で処理されても真水になることは出来ないのです。
やはり環境に悪い水のままです。
処理するのでそっくりそのまま流すわけではないにしろ。
ゆえに、いろいろ勉強して、環境に負担を少なくするシャンプーや洗剤を買って使うことが大事でしょう。
そして使う回数を少なくする。
それを維持しています。
科学的な知識とは、単に勉強するだけではなく、それを実際の社会生活で行動していかなくては意味がないのです。
私が、小学生くらいの時期に、こういう環境に悪い水はいずれ真水に変えられる技術が出来るんだろうと期待していたのですが、実際は無理なままです。
ならできる限り、エコなものを選んで使っていくことが大事でしょう。
そして使う回数を少なくする。
親鸞の言ったことを拡大解釈して、「われわれ文明化した人類は環境に負担になるものを使い続けなくてはいけない悪人」という認識を持たなくてはいけないでしょう。
これは政府だけでの義務ではなく、市民一人ひとりがそういうことを主体的に学んで、行動に移していくことが大事ということです。
これは何も、大学などの高等教育施設だけでなく、普通の市井の人間でも学べるのです。
そう巷にはそういった類の本が誰でも買える時代になったのですから。
中古本ならもっと安く変えるのです。
市民として無償でしていくべきことはいっぱいあるのです。
親鸞の時代ではなかった物は、何十いや何百とあるのです、自分の身の回りには。
それの悪弊を主体的に勉強して、行動していくことは無数にあるでしょう。
ゆえに政府だけに任せておくことで自然と解決するなどという妄想は捨てなくてはいけないでしょう。
オーストリアの精神分析学の大家であったフロイト(下写真)は、日々社会を良くしていこうという気概のない人とは付き合わなかったといいます。
その是非は自身で考えてもらいたいですが、社会にはいろんな問題が隆起してくる。
それを行動で改善していく気概の大切さをフロイトは認識していたのでしょう。
やはり科学者ゆえの結論だったと思います。
しかし、その努力もいつしか無駄に終わるのでしょうか?
自力本願は自らの努力や修行、善い行いをすれば悟りを得られる極楽浄土へ行けるという教えです。
しかし、人間はどれだけ真面目にこつこつ努力しても真の意味の真実にたどりつけない。
そのことをしって、阿弥陀仏に本願力の働きにお縋りつく。
これが親鸞の他力本願の教えなのです。
阿弥陀というのは無限なる光、無限なる智慧、無限なる命など、いろいろな意味があるのです。

その無限なるものがいつでも守ってくださっている働きを阿弥陀というといいます。
因縁という言葉は、自分の存在を成り立たせているのは、自然では大地、空気、水、こうしたあらゆる条件が与えられて初めて自分があるということになる。
そこは私も共感します。
ゆえに、自分が勝手に一人で生きているというのは妄念であり、間違った考えである、ということです。
それゆえに、地球環境に良いことをしているから、自分は偉い、という妄想を抱くのはよくないでしょう。
フロイトにしても、自身が研究に没頭できたのは、他に食料を作る人、売る人、電気を発明した人、それを運用してくれた人、机を作ってくれた人、売っていた人…その他、もろもろ、いろんな様々な人が働いていたからなのは明白です。
社会に良いことをしようにも、忙しくてできなかった人も大勢いたでしょう。
それを無視して、社会を良くしようとしなかった人とは付き合わない、では過酷もいいところでしょう。
しかし、よいことを他の人にしてもらうのは限界があるし、自身がしているからといって威張れることではないということです。
しかし、社会に良いことをするのは非常に喜ばしい事なのは言うまでもないです。
その環境や社会に悪いことは、親鸞の時代よりも完全に多いわけです。
ゆえに、親鸞のいったことが至言とはいっても、親鸞のいったことだけ学んでいるだけでいいとはいえないのは明白です。
なので、更に本を読み、会話をしたり、講演に出かけて、それらの内容を認識して、問題点を見つけ、適う行動をする努力は別途でしていかなくてはならないでしょう。
そういうスタンスゆえに、いくら偉大なる開祖の宗教でも、それだけに拘泥していくことはできないので、どの団体にも私は入信しないのです。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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