他力、自力どちらが王道で、どちらが邪道か?そんな答えはないです(笑)! (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
現代では自分の内に秘めている能力を発揮して、それをによって職業やスポーツや勉強などにおいて成功することを良しとする風潮があります。
それは必須でしょう。
その際に一番大事なのは自力でしょう。
自力の発揮を最大限にするために、仏の力を借りようとしてその対象の名を経文上で唱えることに励むのが良しとしているのです。
それでもっとも大きな団体は日蓮正宗の信徒団体だった創価学会でしょう。

しかし、日本でいま一番多い信者を擁するのは浄土真宗なのです。
その浄土真宗では、そういった自力に意識は行かずに、ひたすら他力(阿弥陀仏)への帰依をすることで、自分の含めた世の中がよくなることを目指しているのです。
しかし、その自力と他力、どちらを採択して、どちらを完全に切るというような一者択一の論理では現代はない気がします。
そういう自力の論理も、他力の論理も巷にはあるからです。
やはり、どちらもそれぞれ良い点や学ぶ点があるので、択一するだけで満足は誰もしないでしょう。
私は、どの宗教団体にも属していないがゆえに、自力の宗教へも他力の宗教へもどちらも良いとしているのです。
ではどちらか?と問われても、自分の好きなように自力、他力両方を配合して、良いようにアレンジしてください、としか言いようがないのです(笑)
丁半博打のようなことは言えないのです。
もし、片方を選んで、それでもうまくいかなかったらどうすればいいの?と問われたら、「それはあなたの信仰心が足りないからでしょう?」などということもできないのです。
その物事成就に必要なことを洗いざらい列挙して、それを毎日敢然とこなすしかないでしょう。
そういう作業を抜きにして、ひたすら神仏に縋ってもうまくいくはずがないのです。
そういう理にかなった方法を毎日敢然とこなしている人に神仏は味方してくれるのです。
努力を蔑ろにして、神仏の加護を得ようなどとは虫が良すぎるでしょう。
しかし、負の人生を正の人生に転換させる他力の存在はどのように実感されるのでしょうか?
「自分が煩悩具足の凡夫であることをの深い自覚。親鸞の教えにあっては煩悩の大きさと阿弥陀仏の他力とは不即不離の不思議な関係を成している。」
これは浄土真宗の住職を務めたことのある大峯顕の言葉です。
自分自身は壮大な社会、ひいては世界においては小さな存在である。
多くのものや人が連なって自分が生きていける。
そのことを阿弥陀仏に帰依することで、自身の存在のありがたさが実感されて、ひいては阿弥陀仏への感謝の念が起きる、ということでしょうか?
そういう教えは非常に大事と思います。

そういう壮大な気宇を有した心の状態を保つことで、元気が出る、活力が出る…そんな気がします。
しかし、先の創価学会の例でいえば、ひたすら「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経…」と唱えることで法華経の力を得て、自力を発揮することが出来る、としているのです。
しかし他力、自力両方に欠けているのは具体的な方策論、方法論を説くことをおざなりにしていることです。
それでは物事の成就は叶わないでしょう。
それを無視して、ひたすら阿弥陀仏に縋り、法華経に縋ることでいいとしていたのでは成就は叶わないのは言うまでもないのです。
それは確認しておいてほしいものの最重要事項です。
しかし、浄土真宗を研究していて驚いたのは、名をなした経営者で浄土真宗の信徒であるパターンが多いことです。
他力本願の宗教に接していれば、他のものやことによって自分が生かされている、運も得ることができているという世間に対しての感謝の念がわくのでしょう。
まさに、売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よしが経営の基本になっているのです。
経営というとがむしゃらに自分やその会社の利益だけを最大限に上げることばかりを考えているように感じる向きもありますが、実際そういう人もいるでしょうが、何年何十年何百年と会社を存続させていけている会社経営者はその三方良しをが基本になっているのです。
浄土真宗の親鸞は煩悩の過度な抑圧には違和感を感じていたのです。
人間としての煩悩も深く重かったようです。
六角堂参篭中の夢告、救世観音の垂迹の聖徳太子が姿を現し「仏道の修行の身が前世の宿因の報いとして妻帯することがある時は、自分が妻となってそなたを受け入れて一生の間、その身を飾り、臨終に導いて極楽に生まれさせよう」と告げたようで、それから親鸞は妻帯を結行したようです。
聖徳太子は仏教広宣の最大の功労者とされていたのです。
その仏法を学ぶべく、その聖徳太子の建てたとされた四天王寺に赴いてその仏教を学んだのです。
その人の観音が目の前に現れて夢告を告げたとあれば、誰だって敢然とこれまでの禁忌を破壊しようという気概を持ったのは自然でしょう。
親鸞を悩ませたのは性欲だけでなく、あらゆる煩悩が悩ました。「念仏に帰すれども真実の心はありがたし」「悪性さらに辞めがたし、心は蛇蝎のごとくなりき」としたのです。
こういった古代仏教では禁忌とされたものを破っていかなくてはならないわれわれ凡夫は悪人という認識で親鸞はいたのです。
いにしえの仏教では禁忌とされてきた。
だからそれを破るのはけしからん、という僧侶もいたでしょう。
しかし、そういう議論に拘り続ける人は、単なる形式主義として好ましくないと認識したのでしょうし、私もそう思います。
これまでやってきたから、これまでそういうものはないから、という理由で新奇なものを拒む形式主義者は私は好きではないのです。
全体を見渡して自分はどのような位置に立っているのか?
戦においては相手の兵を殺さなくてはいけない。
魚や貝などの魚介類を取ってそれを売らなくては生活していけない民の出現。
人や生物を殺すことは、古代仏教では禁忌とされていたのです。
それを破らざるを得ない人が親鸞の時代には多く出てきたのです。
しかし、そういう民がいるからこそ、自分は生活していける。
勿論、他の人たちも。
禁忌を犯した人たちは極楽に往生できない。
では、そういう人たちも極楽に往生できるようにするためにはどうすればいいかという救済措置を親鸞は模索していたのでしょう。
その措置こそが、念仏を唱えて、その教えを弘めよ、ということだったのです。
悪人でも救われる、というのは悪いことをする人でも救われるという悪事の容認ではなく、古代仏教での禁忌を犯さざるをえない人民も救われるとしていた論理なのです。
また親鸞は、反対者の批判、非難に反撃に出て宗教論争に陥ることを戒めたのです。
どこの世でも、新しい派が出来るとそれを批判してくる人が出てくるのが必至とみていたのです。
「自分も他人も生死の苦しみをはなれることは諸仏の本位なのであるから妨げてくれるなと申して憎らしい様子を見せなければ誰が敵対してくることがあろうか?」
ということですね。
人間の心の営みといっていい煩悩は、真宗ではもちろん悪いもの、汚れたものとしているのです。
煩悩具足の凡夫…この意味は、人間は欲やいかりをはじめ、この汚れた煩悩が不足なく揃った存在としていて、根本的に否定的にみていたのです。

しかし、「煩悩のなきやらんとあやしくさふらひまなし」と親鸞にあるように、煩悩がそろっていることは、阿弥陀仏の救いに与る必須の条件だった。
つまり煩悩はあくまでも悪でありながら、それを不足なく持っている人間が、本願他力の救済に与る資格者であるということです。
人間を否定的に見ているゆえに、その人間を否定的に見ていたがゆえに蔑んでいたかと思いきやさにあらず、それが救済にあずかる要素というのですから真新しい哲学ですね。
そういうものゆえに、興味がわき、その研究をしていきたいというう衝動に駆られて、「親鸞の思想を究明したい!」という思いを持った人たちによって親鸞用語の辞典までできてしまったのですから、その威力は半端がないですね。
その親鸞思想は近代主義者とは対をなしますね。
近代主義は、人間性の解放、人間性の全面的肯定を中心になしていたのですから。
しかし、完全に近代思想を批判するものではないのです。
それによって私たちは恩恵を受けているのですから…って私はどうも割り切れずに保守的、中庸的になってしまうのですね(笑)。
しかし、そのスタンスをやめるつもりはないです。
「自助努力は煩悩を耳触りのいい言葉で言い換えただけ。儲かる、栄誉、性欲買う、食べる、昇進…」とは、政治学者であり浄土真宗の僧侶までした野田宣雄氏の言葉ですが、過激すぎるかなという気がします(笑)
その宗教に入って、その教義を学びすぎると、あまりに現世離れして、隔世の感が強くなり、説得力に欠けるようになるから戒めなくてはならないでしょう。
また野田氏は「自助努力=煩悩であり、人間の醜さや苦悩を生み出す過酷な競争社会の現実そのもの。」とまで言いのけているのです。
確かにこういう、なにげなく過ごしている現世について考察していくと、負の面を認識することが出来るのは否めないし、新たな視点を喚起することになるのは言うまでもなく、それは自分1人ではかなうことではないので真摯に受け止めるべきものでしょう。
しかし、自分の属す宗教の教義と、対をなす宗教や俗世の思想に対して過激になりすぎるのは戒めねばならないでしょう。
そういう思想を展開するのは自由ですが、それを多くの人に説得するのであれば、それを読んだ人たちが納得するほどの根拠を深く広く展開することなくしては、単なる自己満足にしかならないし、俗世と対立をしかねないのは言うまでもないです。
それが野田氏の本にはないのです。
最初の話しに戻しますと、この世には自力と他力の両方の思想がある。
王道はどちらかを採択して、片方を切り捨てるのではなく、自分が良き方と思われる方をまず採択して、そのうえで努力を敢然とこなしながら、もう片方の面の良さをも認識し取り入れて敢然と進み続けることではないか、と思うのです。
人間には自力と他力の両方の面があるのは言うまでもないのです。
先に名を遂げた経営者で浄土真宗の信徒であるパターンは多い、ということを指摘しましたが、その経営者でも自力に頼った場面も往々にしてあったでしょうし、日蓮正宗.創価学会の人でも他力に頼った場面も往々にしてあったでしょう。
ただ、バイアスが浄土真宗では他力、日蓮正宗創価学は自力の方に多くかかっていたということだというのは明白です。
どちらが王道でどちらが邪道ではないのです。
どちらの団体でも両方を持ち合わせているということです。
それを確認しておきたいです。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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