古今東西、人間は人智を超えた神仏に縋らざるを得ない弱い存在。親鸞も? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
親鸞は鎌倉時代の僧侶ですが、いまだに話題の俎上に上るほどのカリスマ性を有しているようです。
この人の生涯を描いた映画までもあるようです。
また、親鸞の浄土真宗には、いろんな派があり、そのうちの1つの大谷派の講師で有名な本多弘之氏(下写真)は、親鸞やその教えについて書いた本がたくさんあるようで、その数はかなり膨大なものになります。

そのうちの1つに『親鸞と救済』という本がありますが、これはどんな趣旨なのでしょうか?
親鸞に縋れば、病気が治る、怪我をしたら治る…そういうものではないようです。
物ごとの考えを、親鸞に学んで変えれば精神内容が変わり、救われるということのようです。
興味ある人は読むのがいいでしょう。
その本多氏を交えていろんな作家や著作家が集まって講演した内容が本になりましたが、そのうちの1人に、以下のように講演している人がいました。
「現代社会は、解答なければ試験もない。それに慣れすぎている。今の時代、何のために生きているか?
人生に意味があるのかは、無駄な問いになっている。
根源的な問いは失われ、ソリューションを求めて、突き進んできた果てに、臨界点に達して、茫然自失としている時代になった。
今の教育は、教養全般を身に着けるのではなく、個々の問にどれだけ効率的に解答できるかに腐心している。
人間は、自らの力だけで生きているものではなくいろんな連なりの中で生きているのであって、その力の根源は阿弥陀様に見守られているからである。」

こういうものの考え方を身に着けることが出来たことで、その人は、人生がバラ色に変わったということです。
これは、親鸞の以下の言葉からヒントを得た、ということです。
「自分の力でいつでも善をなしうると思っている人は一心に本願をたのむこころが欠けているのだから、弥陀の本願に沿うものではない。
しかし、そのような善人も自力の心を妄念であると気づいて本願力にすべてを任せることが出来るならば、阿弥陀如来の真実の世界へ生まれることが出来るのである。」
やはり、単に困難にぶつかったということで、そこで打開してくれるのを、神や仏に縋って頼むのではなく、縋りながらも、考えや思考をその宗教の人物が遺した書物から得て、それを精神の糧にする、ということで打開が開ける、ということでしょう。
やはり、そういうスタンスには共鳴するものがあります。
「情報は人を選ぶ」ということを聞いたことがあります。
努力している人間に、神や仏がキーポイントになる情報をもたらしてくれる。
神は自ら助けるものを助ける…これはキリスト教会で聞いた言葉です。
それが、ヒントになり、共鳴できるのであれば、仏教徒だろうが神道家であろうと自身に糧にするのがいいでしょう。
人間たるもの、やはり人智を超えた存在に縋る性質は、古今東西消えない性質のものでしょう。
多少の差はあれ。
日本の中世において、いろんな仏教の派が勃興しましたが、どの開祖も聖徳太子に生きていた、といえるでしょう。
道元(曹洞宗)にしろ、日蓮(日蓮宗、日蓮正宗)も、そして親鸞(浄土真宗)も同じく!
道元にしろ、日蓮にしろ、聖徳太子の書物によって、自身の教義を作る際の参考にしたのです。
そして親鸞は道元や日蓮とは違って、行き詰まると聖徳太子に助けをも求めたのが史実として残っているのです。
聖徳太子の御廟で受けた「磯長の夢告」が有名です。
そこで聖徳太子の観音が親鸞の前に出てきて、「あなたはあと14年しかいきれない」といわれる。
その時、親鸞は19歳でした。
それが元で、親鸞は必死になって教えをまなんでいったのです。
19歳+14年で33歳で死ぬ予告でしたが、実際は90歳まで親鸞は生きることになるのです。
これは聖徳太子(下写真)が逢着させた結果なのでしょうか?

それはだれにもわかりません。
浄土真宗の本尊である、阿弥陀というのは無限なる光、無限なる智慧、無限なる命など、いろいろな意味があるのです。
その無限なるもの=アミタ―がいつでも守ってくださっている働きを阿弥陀というのです。
親鸞や真宗で講義されている因縁という言葉の内情は、以下です。
自分の存在を成り立たせているのは、自然では大地、空気、水、こうしたあらゆる条件が与えられて初めて自分があるということになる。
私も共感するのです。
ゆえに、自分が勝手に一人で生きているというのは妄念であり、間違った考えであるといいます。
「どこかで(大きなものが)自分を見ている」ということを感じられる眼というものがある。それは客観ではなく、いわば仏観というものだろうか?
阿弥陀様が、いつも寄り添って励まして育ててくださっているという考えがあります。
時に厳しく非難してくださっているという世界観も真宗内ではあります。
これはまるでキリスト教?と思われるに充分です。
そうです、親鸞はキリスト教に学んでいたのです。
その聖書は、今では世尊布施論という名で、真宗寺院である西本願寺に保管されているのです。
万般にわたる書物の乱読によって、人には考えつかないものの考え方が生まれるのです。
阿弥陀様が見守って自分を良き方向へ導いてくださっている…こういうものの考え方は古代仏教には希薄だったのです。
無量寿経を読誦していた親鸞が、読経を始めて4日目の明け方、ああそうかとつぶやき、人の執心や自力への過信はなかなか消し去ることに気づき、読経もやめると病状も回復したということです。
それによって自力本願ではなく他力(阿弥陀仏に縋る)本願に生きると決心したようです。
現代人から見れば、根拠薄弱ではないか、そんなことで…という意見がでそうですが、そこをどう考えてこれから行動していくかを決めるのはご自身であり、その行動の後に、自分に逢着した結果は自身の責任、ということを覚えておいてもらいたいものです。
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今回はこれにて失礼いたします。
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