開発のもともとの意味を親鸞の文類偈を読んで考えていきましょう。(親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
日本では、創価学会こそが、日本で一番信者が多いと思っていましたが、実際は浄土真宗なので驚きました。
かつては、真宗王国といわれたのが北陸なのです。
かつて、浄土真宗寺院の数は、1960年代に、富山県が1位(78.9%)、石川県が2位(72.0%)、福井県は5位(52.2%)…そんな時代があったことは事実です。
その人気の理由は何かといわれてもわからないですね。
浄土真宗信徒全員に、「他の宗教にはいらないで、この宗教に入った理由はなぜですか?」と訊いて、その内容を吟味しないないことには無理な気がします。
しかし、その浄土真宗の内容を分析していくことで、真理には近づくのは間違いないでしょう。
「すべてのものは相互に関連しあっている、他者のお陰で今の自分がいる」という意味を持つ他力は自己中心主義を振り捨てる力、阿弥陀如来の本願力として親鸞は使う、ということです。
自然と人間を切り離すことは両者の相互関連を断ち切ること、「他力」によって自己が生かされていることを否定するエゴイズムにほかならず、その帰結は人間の滅亡になる、とはある浄土真宗信徒の言葉です。
そういう結びつきの大切さを認識することが出来るのは良いことでしょう。
私もそのことを実感しているのです。
自分1人では何もできない。
水、空気、食べ物、太陽、月、その他、自然、その他末端消費材etcがあるからこそ自分は生きれる。
ゆえに誰もが、自然や物や人間を大事にしなといけないでしょう。
そういう心暖かいものの考えが根底にあるからこそ、多くの人を魅了したことも、信徒が多い理由なのでしょう。
いろんな職場で働いた経験がありますが、どこでも、自分の気に入った人としか話さない、付き合わないという人は必ずいたものですが、そういう人間は存在自体が信じれなかったですし、その人を半面教師にしてきたものです。
開発…かいほつはインド、中国を経て、菩提心が起こることを意味するようになり、親鸞においては「内的な真実が開かれる」という意味で使っていたようです。
親鸞の書いた文類偈には「信心開発即獲忍」−真実を見抜く眼が、阿弥陀如来より賜り、それが私の中で花開くと、その場で真理に心を落ち着けることができるのだということです。
開発とはもともと、外的力を加えて、自然を変形、破壊するという意味は全くないようです。
ゆえに、親鸞の言葉を引き合いに出して、普通に言われている開発に対して異論を唱えているのです。
ダムを作る、河口堰を作る、橋を作る、道路を作る…これら開発は、人間の文明的な安全な生活を送るうえでは必須でしょう。
しかし、そこにアカウンタビリティ(説明責任)が大事でしょう。
これこれこういう理由があるから、こそ開発が必要というような説明をですね。
それがないならば、これらを作るべきではないでしょう。
中央から資金を持ってこさせるために無理やりこれらを作る。
開発に際して、巨額なリベートがもらえるから不必要な開発をする、というのでは政治家や官僚は失格ですね。
このような不必要な開発をしていく政治家や官僚をコントロールするのは、その人の倫理を矯正するしかないような気がします。
そこで宗教が大きな役目を果たすのではないかと期待されている節もありますが、それは一般的な父母による教育でもあれば、学校教育の役目でもあれば、自身の役目でもある気がします。
宗教だけではなく。
教育が大きな比重を占めていた江戸時代の寺院ならいざ知らず、今では本が安価に買えていくらでも、自身を啓蒙できるのですから。
私の祖母の時代では、宗教によって嘘をつくと、閻魔様に舌抜かれる。
地獄絵図を見て喜捨したり、善行を積まなければ浄土には救われないといわれたようです。
宗教が大きな役割を果たしていたのがわかります。
これはしかし、識字率が低いとこうなるのがわかります。
当時の識字率はどの程度かはわからないですが、今のほぼ100%の識字率を果たしていた時代とは違うはずです。
ゆえに、悪いことをしてはならぬ、という教えが希薄になっていってるのは間違いないですね。
その認識をすることは大いに結構なことでしょう。
それを矯正しなくては、と思った父母さんは自身の子供にそういう教育を施すのを人や学校がやってくれるのを待つまでもなく積極的にしていくべきでしょう。
一般人は自身の啓蒙をすべきでしょう!
しかし、浄土真宗を研究していくと驚きのは、その教えが精神的な平等と社会的平等の結合、自立と連帯という点において、15世紀における共同体としての郷村制(荘園制の中で形成された地縁てきな村組織)のイデオロギー的な支柱になった、ということです。
とくに北陸、東海、近畿で顕著。
加賀の国で門徒領国制が90年以上も続いたようです。
これらの地域では500年にわたって共同体と結合した浄土真宗が主流となり、すでに述べた自然、開発、人間についての諸概念が生活文化として人々の間に根付いている。
「開発」の強行はこのような地域文化の活性化を結果的に生み出すことになるのです。
それはアパルトヘイト支配が感動的な黒人文化を生み出したのと同義である(解放の神学、状況神学)。
グローバルな開発が進行すればするほど、地域の文化は活性化し、反開発の地域文化のグローバル化が進むのは歴史の弁証法の皮肉?ということです。
私は、今の宗教における教育を全部が全部、受け入れられないのが正直なところです。
そこで教えられているものが世界の全部だ、これだけ修めていればいい、という観念を生み出し、それしか学ばない人が増えるからです。
実際、学ぶことは大いにあるけれども、それが人類社会の全部ではないし、一側面でしかないことを考えれば、それだけで充分、という思想には与せないものがあるのは言うまでもないことです。
しかし、全部が全部、自身が積極的に、本を読んだり、セミナーに出席していくだけでいいかというとそれだけでも賛同できないのは事実です。
自分の好きなことだけ学び、自分が苦手とすることに関しては忌避してしまうことが往々にしてあるからです。
その苦手な部分を学ぶことで、学ぶ部分が見つけれることもあるのです。
やはり、その中庸を行くのが王道のような気がします。
●この教えや親鸞全般について知りたくなった人や親鸞の知られざる側面について知りたい人には以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします!(※ペーパーバックとは、注文が入った後に、印刷.製本されて発注者のお家に配達されるシステム本の事です!電子書籍850円、ペーパーバック1738円で提供中です!)
⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

「この書籍は購入して読むことをお勧めします!
親鸞とユダヤ.キリスト ホーム
コメントを書く... Comments