五木寛之や吉川英治や吉本隆明を魅了した親鸞は変わり者だった? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
人は決して自分1人だけで生きれるものではないのです。
勿論、私もです。
ゆえに、生きていくうえでの規範を学ぶ上でも、謙虚に人から学んでいく姿勢が必須でしょう。
しかし、すぐさま多くの事柄を、少ない人数から学んでいった方が効率がいいのは言うまでもないことです。
そういう多面性を持った人とはなかなかいるものではないですが、その時に俎上に上りやすいのが、小説上の人物であったり、歴史上の人物であったりするわけですが、実在した人物ということで、歴史上の人物の方が親近感がわくのは当然でしょう。
ゆえに、いつの世でも歴史小説は、多くの人の心を惹いてやまないのでしょうね。
しかるに親鸞は、カリスマ的な人物として語られることが多いようです。
五木寛之や吉川英治といった小説家や、吉本隆明といった著作家まで「親鸞」という単語を冠した本を刊行しているのです。
親鸞は鎌倉時代の人物ですが、今でも通用する理論の数々を編み出した、あるいは導き出したので、学ぶ価値があるといえるでしょう。
親鸞曰く、「自分の力でいつでも善をなしうると思っている人は一心に本願をたのむこころが欠けているのだから、弥陀の本願に沿うものではない。
しかし、そのような善人も自力の心を妄念であると気づいて本願力にすべてを任せることが出来るならば、阿弥陀如来の真実の世界へ生まれることが出来るのである。」
ということですね。

仏の前では人間の力は全然及ばない。
その力では、善をなしても無力に近い、ということを言いたかったのでしょうか?
あるいは傲慢になることを戒めたのでしょうか?
私はその両方であると思うのです。
1人では人間は生きていけないのであるし、そのことを思えば、虚心坦懐になって、明鏡止水の心の境地になることは必至でしょう。
そういう思いこそが、人生を最も充実感に溢れたものになることは間違いないでしょう。
私もそのことを実感しました。
しかし、人生何事も守破離が大事です。
善行を自らなしうる人は尊敬しますし、真から勧めたい事柄です。
それが自らできるようになる人は、自分を誇っていいでしょう。
しかし、そのことで傲慢にはならないように注意しましょうということは留めおいた方がいいでしょう。
そして続けて親鸞は、
「自らの煩悩(欲望、不安、後悔など)に振り回されている私たちは、どれほど人間的に努力を尽くしてみても、そうした苦しみの生活から根本的に開放されることはない。
このような私たちを深く悲しまれて、本願を起こしてくださったのである。その本願の心はそのような悪人(自分の罪と愚かさを自覚し、自分では助からないとわかった人)をこそ、真に開放してくださるのである。
だから、他力(阿弥陀仏の力)すべてをお任せする悪人の自覚こそ真実の自己になれるのであれば、尚更、悪人はいうまでもないことである。」としたためました。
悪人に(自分の罪と愚かさを自覚し、自分では助からないとわかった人)と付けましたが、更に注釈が必要のようです。
親鸞のいう悪人とは、それだけではなく、古代仏教では人を殺したり、生物を殺してそれを食べるなどということは最大級の御法度だったのです。
しかし、当時は戦乱の世。
相手の兵士を殺さなくてはならなかったし、魚介類や動物を殺して食べなくては食料の足りなくなった時代になっていたのです。
そんな状態になってしまった人たちを悪人と規定したのです。
その「悪いこと」を懺悔して、阿弥陀仏に縋れば成仏できるとしたのです親鸞は。
決して、悪いことを率先してやるべきといっているわけでも、窃盗や悪口や悪戯などの悪いことをしてきた人たちのことを言っているわけではないのです。
親鸞が今も支持されるのは、出家仏教(人里離れたところに、共同体をつくり、時代や社会と離れたところ人間としての独立を回復させようとする)ではなかったからです。
それまでの仏教とは違う形で実存共同体を作るのが、目的だったのです。
その象徴的な言葉が「非僧非俗」。僧にあらず俗にあらず。
妻も子供もいて、肉や魚を食べて、悟りを開くこともなかった。
いわば非僧。
世俗にまみえることなく、1人ひとりにとって救いとなる教えを弘めていこうという明確な意思があったのです。
これが非俗だったのです。
こういう非僧非俗という立場になって、衆生に分け入って、弘教を敢行した親鸞は、一気に念仏に縋る人を信者として引き入れることに成功したようです。
真宗王国といった団体を形成するまでになったのは言うに及ばず、今や現代日本で信者が一番多いのは、親鸞の浄土真宗だそうです。
信者が一番多いのは創価学会だとばかり思っていた私には超意外でした。
今の感覚でいえば、当時の大衆に共通する要求事項は、豊富な食べ物だったり、住みよい住環境だったり、素早くとれる漁網だったりしたのかな、と思いがちですが、そうではなかったようです。
やはり、こういう歴史的事象を見れば、死んでからの安らかな極楽浄土とそこへ往くための確固たる方途だったようです。
それを、親鸞がどういう経緯で得たかは不明ですし、あるいは神仏のお告げがあって、そういう行動に移したのかはわかりかねますが、普通に僧侶をしていれば食べるに困らなかったことは間違いないですが、そういう安易な道を選ばずに、弘教を敢行した僧侶は変わり者だったのです。
しかし、忘れてはならないのは、そういう「変わり者」こそが世の中を、社会を変えるのです。
そのことを踏まえれば、これからの自分の人生は良い意味で変わってくるのは間違いないでしょう。
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