事の決定=政治は宗教団体云々ではなく如何に理論的に掘り下げているかどうかにバイアスを?
人を指示する立場と、指示される立場の相克はどこにでもあります。
どちらの立場も、その立場になってみないことにはわからないのです、実感がないので。
実感なくして、される側の気持ちを分かれと言ってもわかるはずはないのです。
実感としてわかるためには、その立場に立って生活する以外にはないのです。
これは古今東西変わらぬ真実です。
経文を唱えることは、どの宗教でもしていることですが、それをしたからといって、そのされる側の気持ちが実感できるかというとそんなことは絶対にないのです。
ゆえに、どの宗教に入ってようと、下っ端からの仕事をしていくことが重要なのです。
それを省いて、社長が自分の息子をいきなり重役に据えるなどということは絶対にすべきではないのです。
それでは、その息子が下っ端の人間の気持ちを察していくことなど不可能です。

これはどんな素晴らしい宗教に入っていようと一緒なのです。
この宗教の経文を唱えていれば、相手は分かってくれるようになるなどという誤った気持ちで、自分を貶してくる人が、自分の気持ちを分かるようになるよう真剣に祈る…こんなことがかなうはずはないのです(笑)。
にもかかわらず、そういうこと疑問を持たずに上げていくことをしている信者がいる団体があるから不思議なのです。
創価学会に入信していた女性で、旦那が冷たい人なので、心優しい人になるように1日に4時間から8時間の南無妙法蓮華経という経文を唱えたが、旦那は一向に変わってくれない。
これに我慢できずに創価学会から脱会…こんなエピソードが動画に上げられていて、悲しい気分になりましたが、こういったかなうはずもない嘘を吹き込んだ周りの創価学会員もさることながら、そんな嘘を嘘と見抜けなかったその女性も問題なのです。

総論として、される側になって初めて分かることがあるのです。
それが実感としてわかって、ことを決めていく。
それがわかるためには、苦労を進んでさせていくことが重要なのです。
社長の親は、自分の息子には最底辺の仕事からさせていくことが大事なのです。
そして社長自らも、進んで最底辺の仕事をしていくのです。
そういう姿を見せていくことで息子は、人の気持ちがわかるようになるのです。
そういうことをさせないで、相手の気持ちを分かれと言ってもわかろうはずはないのです。
ゆえに、家族会社に無批判でいていいはずはないのです。
たとえその社長が東大出でも一緒です。
しかし、何から何まで構成員の意見をくみ取ることでいいかというとそうでもないのです。

ことは政治的な話しになってしまいますが、ことはどの組織でも一緒なのです。
ことの取り決め=政治なのです。
その組織内でのより良き取り決めをしていくためには、組織全体の事柄を熟知している必要があるのです。
しかし、組織内でそういう人物は限られた人しかいないのです。
そういうことに関心がない人、ちょっとだけ関心がある人、大いに関心がある人、いろいろあるのです。
管理職として上部に上がれば上がるほど、関心が大きくなっていくのはどの組織でも共通することですが、それでも上部なら必ずしも関心が高いかというとそうでもないのです。
ケースバイケースなのです。
ですから、その組織内での事を熟知して、危急存亡について大いに使命感を持っている人を集めていく必要があるのです。
それでいて、一般人の意見も汲み取る…これが最良の道なのかなという気がします。
こういう王道の道を踏み外して、上部だけで事の決定をしてしまったがために、没落の憂き目にあったのが、日蓮正宗でしょう。

前代の法主である阿部日顕が、信徒団体で巨大な組織であった創価学会を切り、本山である大石寺に350億円かけて作った正本堂を破壊し、木を数百本切り倒し、伏せ拝を小僧たちに強要し、供養金を値上げする、といった暴挙に出たがために、日蓮正宗はかつての信者数から2%にまで激減してしまったのです。
やはり、そういう輩が組織のトップになるべきではなかったのです。
日顕はほぼ独断的にことを決めていったのです。
しかし、すべてを人民にゆだねると衆愚制になってしまうのは人類の歴史を見れば明らかでしょう。
「民意なるものはない。民衆はそれぞれ自分の好きなことを言っているだけだ」と書いたのは、大正デモクラシーで有名な吉野作造だが、現代はそうではないだろうと思います。
人々を啓蒙する本はたくさんあるし、情報はいつでもスマホのネットで探索できる時代です。
市民として知りたいことは知れるが、そのも吟味は必要です。
それに直接自分に関係があるかないかで、情報へのアクセスの度合いは違ってくるのです。

自分のすぐ近くに清掃工場ができると聞いたら、すぐさまその内容について吟味し抗議するが、遠く離れた県でのことならばそんなに関心はないか、あるいは無に帰してしまう。
哀しいが人間というものはそういうものなのです、私を含めて。
やはり政治というものはエリートにこそ着手してもらうべき筋合いのものです。
この場合のエリートとは、社会の問題全般に関心があって、日々そういうものに対する情報を得て行動している人のことをさします。
しかしエリート制度でいいか?そんなこともないないのは先に指摘した通りです。
それゆえに、現代は間接民主制として、選挙というものがあるのです。
その理念をプラトン(下写真)という紀元前400年前の人が見抜いていたのです。

すごいですねえ。
私にはそんな時代を超えて透徹した理論を導くことなどできた話しではないです(笑)
こういった古典を学ぶメリットというのは、現代でも学べる事柄があるからです。
現代において学ぶ面がないならば古典とは呼べないのです。
もちろん、その古典がそっくりそのまま現代でも有意義かというとそうでもないのです。
一部だけだったり、半分くらいだったり、ほとんどだったり、ものによってケースバイケースなのです。
その吟味は、学者たちに任せられているのです。
この衆愚制云々について興味の出た人はプラトンを読め!ということです。
やはり、ことはどの宗教に入っているかではなく、どれだけ多面的に物事を掘り下げていくかということです。
この宗教に入って祈っているからとか、というのは邪道なのです。

最近は、選挙が近いこともあって選挙活動が喧しく(笑)、知り合いの創価学会員が公明党議員に入れてくれと自宅までやってきますが、日蓮の教えを学んでいる団体の支持の政党だから、という理由では公明党議員には投票しません。
どれだけ社会にある問題点を掘り下げて、どのような議論をして、どのような法案を作っていくか、ということを公約として掲げているか、ということを見て、自分が感心した議員に投票しようと思います。
そういう議員が公明党にいれば、その人に入れようと思いますが、いないならば他の政党の議員に入れるほかないです。
こういう掘り下げが日々大事なのです。
こういうモラルに賛嘆できる人におすすめな宗教に関する電子書籍は以下です。
●以下よりどうぞ
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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どちらの立場も、その立場になってみないことにはわからないのです、実感がないので。
実感なくして、される側の気持ちを分かれと言ってもわかるはずはないのです。
実感としてわかるためには、その立場に立って生活する以外にはないのです。
これは古今東西変わらぬ真実です。
経文を唱えることは、どの宗教でもしていることですが、それをしたからといって、そのされる側の気持ちが実感できるかというとそんなことは絶対にないのです。
ゆえに、どの宗教に入ってようと、下っ端からの仕事をしていくことが重要なのです。
それを省いて、社長が自分の息子をいきなり重役に据えるなどということは絶対にすべきではないのです。
それでは、その息子が下っ端の人間の気持ちを察していくことなど不可能です。
これはどんな素晴らしい宗教に入っていようと一緒なのです。
この宗教の経文を唱えていれば、相手は分かってくれるようになるなどという誤った気持ちで、自分を貶してくる人が、自分の気持ちを分かるようになるよう真剣に祈る…こんなことがかなうはずはないのです(笑)。
にもかかわらず、そういうこと疑問を持たずに上げていくことをしている信者がいる団体があるから不思議なのです。
創価学会に入信していた女性で、旦那が冷たい人なので、心優しい人になるように1日に4時間から8時間の南無妙法蓮華経という経文を唱えたが、旦那は一向に変わってくれない。
これに我慢できずに創価学会から脱会…こんなエピソードが動画に上げられていて、悲しい気分になりましたが、こういったかなうはずもない嘘を吹き込んだ周りの創価学会員もさることながら、そんな嘘を嘘と見抜けなかったその女性も問題なのです。
総論として、される側になって初めて分かることがあるのです。
それが実感としてわかって、ことを決めていく。
それがわかるためには、苦労を進んでさせていくことが重要なのです。
社長の親は、自分の息子には最底辺の仕事からさせていくことが大事なのです。
そして社長自らも、進んで最底辺の仕事をしていくのです。
そういう姿を見せていくことで息子は、人の気持ちがわかるようになるのです。
そういうことをさせないで、相手の気持ちを分かれと言ってもわかろうはずはないのです。
ゆえに、家族会社に無批判でいていいはずはないのです。
たとえその社長が東大出でも一緒です。
しかし、何から何まで構成員の意見をくみ取ることでいいかというとそうでもないのです。
ことは政治的な話しになってしまいますが、ことはどの組織でも一緒なのです。
ことの取り決め=政治なのです。
その組織内でのより良き取り決めをしていくためには、組織全体の事柄を熟知している必要があるのです。
しかし、組織内でそういう人物は限られた人しかいないのです。
そういうことに関心がない人、ちょっとだけ関心がある人、大いに関心がある人、いろいろあるのです。
管理職として上部に上がれば上がるほど、関心が大きくなっていくのはどの組織でも共通することですが、それでも上部なら必ずしも関心が高いかというとそうでもないのです。
ケースバイケースなのです。
ですから、その組織内での事を熟知して、危急存亡について大いに使命感を持っている人を集めていく必要があるのです。
それでいて、一般人の意見も汲み取る…これが最良の道なのかなという気がします。
こういう王道の道を踏み外して、上部だけで事の決定をしてしまったがために、没落の憂き目にあったのが、日蓮正宗でしょう。

前代の法主である阿部日顕が、信徒団体で巨大な組織であった創価学会を切り、本山である大石寺に350億円かけて作った正本堂を破壊し、木を数百本切り倒し、伏せ拝を小僧たちに強要し、供養金を値上げする、といった暴挙に出たがために、日蓮正宗はかつての信者数から2%にまで激減してしまったのです。
やはり、そういう輩が組織のトップになるべきではなかったのです。
日顕はほぼ独断的にことを決めていったのです。
しかし、すべてを人民にゆだねると衆愚制になってしまうのは人類の歴史を見れば明らかでしょう。
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しかしエリート制度でいいか?そんなこともないないのは先に指摘した通りです。
それゆえに、現代は間接民主制として、選挙というものがあるのです。
その理念をプラトン(下写真)という紀元前400年前の人が見抜いていたのです。
すごいですねえ。
私にはそんな時代を超えて透徹した理論を導くことなどできた話しではないです(笑)
こういった古典を学ぶメリットというのは、現代でも学べる事柄があるからです。
現代において学ぶ面がないならば古典とは呼べないのです。
もちろん、その古典がそっくりそのまま現代でも有意義かというとそうでもないのです。
一部だけだったり、半分くらいだったり、ほとんどだったり、ものによってケースバイケースなのです。
その吟味は、学者たちに任せられているのです。
この衆愚制云々について興味の出た人はプラトンを読め!ということです。
やはり、ことはどの宗教に入っているかではなく、どれだけ多面的に物事を掘り下げていくかということです。
この宗教に入って祈っているからとか、というのは邪道なのです。

最近は、選挙が近いこともあって選挙活動が喧しく(笑)、知り合いの創価学会員が公明党議員に入れてくれと自宅までやってきますが、日蓮の教えを学んでいる団体の支持の政党だから、という理由では公明党議員には投票しません。
どれだけ社会にある問題点を掘り下げて、どのような議論をして、どのような法案を作っていくか、ということを公約として掲げているか、ということを見て、自分が感心した議員に投票しようと思います。
そういう議員が公明党にいれば、その人に入れようと思いますが、いないならば他の政党の議員に入れるほかないです。
こういう掘り下げが日々大事なのです。
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ありがとうございました!

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