幸福の科学は創価のように大宗教団体になりうるか?ウィリアム.ジェイムズの導き出した真理を元に考察する! (幸福の科学)
こんにちは。
人間精神を大きく俯瞰して論じる場合に大事なのは、アメリカの哲学者であったウィリアム.ジェイムズ(下写真)の言葉です。

彼は、「かたい心」と「やわらかい心」という2つの人間類型を挙げています。
この2つが人間社会に大きく分けて分類されるとしていたのです。
「かたい心」とは、リンゴでも、みかんでも、バナナでも、パインでもいい。
その間に序列をつけたり、関係づけたりするのではなく、いろんなものが並列的状態にあるというように、多元的に捉える思想です。
それに対して、「やわらかい心」は、この世は最終的に1つの絶対価値に収斂して、その体系の中に諸々のものがちりばめられているというように世界を一元的に捉える思想です。
前者が八百万の神々が併存する日本と、紙は1つとするキリスト教やイスラム教という違いになる。
「かたい心」の人は、当然ながらものごとを断片的に捉え、その断片1つ1つに意味があるという立場をとる。
それに対して、「やわらかい心」の人は、1つ1つの情報や事柄が大きな体系の中に組み込まれていないと満足しない。
体系の中に組み込めないものは無意味として排除して、理論や体系というものに関連させている。
いわば多元論者は相対的、一元論者は絶対的と言える。
この分析からすると、「かたい心」と「やわらかい心」の2つは形容の仕方が逆のような気もしますが、とにかくウィリアム.ジェイムズはこのように分析しているのです。
立場上の違いから察せるように、「かたい心」の人は文字好き、「やわらかい心」の人は文字嫌いという結果になってくるでしょう。
そして、ウィリアム.ジェイムズによれば、後者の方が多数派であるということです。

これで私は目が覚める思いがしたのです。
日本の大学では、多くの人が講義をさぼり、年末の試験時にしか勉学に勤しまない理由がわかった気がして。
全国の大学生のアンケート調査で、自分が登録した講義に100%出席している人は、1割前後という結果をみて、大学生当時には驚きましたが、いまとなっては納得のいく内容だったのです。
世間の大半が文字嫌いゆえにこういう結果になるのでしょう。
そうなると、今後の宗教の発展を考えるには、このウィリアム.ジェイムズの理論を引き合いに出して考えなくてはならないだろうことは間違いないです。
ウィリアム.ジェイムズのいったことが古今東西、そしてこれからも変わらぬ真理ならば、創価学会のような大宗教団体に幸福の科学はなりえないのではないか?と思われてならないのです。

いや、創価学会に限らず、他のいろんな宗教を見ていくと、たいていの宗教の信者たちは、その宗教の事しか勉強しないのです。
「この宗教以外の宗教や分野について何か本を読んでいますか?」という質問に対して、「1冊も読んでない」とか、読んでも「2冊か3冊」という答えがほとんどです。
それはひとえに文字嫌いだからでしょう。
好きならば、主体的に本を買って読んでいくのが普通です。
しかし、その宗教が発行している新聞や冊子しか読まないのであれば、物事を広く深く認識して等閑視することはできないのは言うまでもないのです。
異なる2つの立場があるとします。
2者の意見をまず聞くのが王道です。
1者の意見しか聞かないのは論外です。
こういうモラルで私はいますから、2者の意見を聞きます。
するとそれぞれ言い分があるのがわかりますから、どちらか一方に偏ることはないのです。
それぞれが互いをくまなく観察すれば、それぞれの言い分を尊重することができます。
ゆえに、それぞれ一長一短なのがわかりますから、毎回どちらか一方に必ず与することはないのです。

そういうように人生を生きてきましたから、ある1つの宗教だけに拘るということが出来なかったのです。
母の友人の勧めで創価学会にはいるように言われました。
その際にその人が言うに「創価学会こそが世界最高峰の宗教だ」ということです。
世界最高峰の宗教がどれだけ素晴らしいのか見てみたくて、入会し、新聞も取り、会合も参加しましたが、最高峰などとんでもなかったです(笑)。
毎回毎回話される内容は一緒だし、学ぶものがないと判断した私は3か月で飽きました(笑)。
しかし不思議だったのは、「創価学会員はなぜ毎回毎回おなじことしか話されていないのに、新聞を永遠に取り続け、会合も欠かさずに出席しているんだろう?」ということです。
しかし、ウィリアム.ジェイムズの言葉を知って目が覚める思いがしました。
「世のなかの大半の人は文字嫌いなんだ。
だから毎回毎回同じようなことしか言っていない新聞を読み、会合を聞いている方が大抵の人は心地がいいのだろう。そういう多数派を取り込めることに成功したから創価は大きくなったんだ!」ということです。

そのことを創価学会の当局は認知しているからこそ、新聞で毎回毎回同じことしか書かない。
しかし、それでは満足しない私ですから、決然と創価からは距離を置くことにしました。
こういう立場の違いは生まれもって決まっているのですから、教育によって矯正できる筋合いのものではないのです。
ゆえにわたしは決然と、自分の立場を守ろうと決意したのです。
創価の大半の人はやわらかい心の持ち主ですから、自分とは異なる立場の人の意見をくまなく聞く努力が見られないのです。
創価に敵対する人がいても、その人の意見をくまなくきこうとはしない。
自分と一緒の立場の意見しか聞かないで終わっているのが大半のパターンなのです。
これでは真理に到達するわけはないのです。
しかし、それで満足してしてしまっている。
創価のバックでできた公明党の議員の意見しか聞かずに選挙に行って、その議員に投票する。
私は、公明党議員だけがいいことを言っているわけではないのですから、立候補者全部の意見を読みます。
それで支持したいと思えた議員に投票する、というのがこれまで貫いてきた姿勢です。
創価の人は、選挙前になるとしきりに、「公明党議員に入れてくれ」と電話をかけてきたり、家の前にきて依頼してきたりしますが、公明党議員にいれるかどうかは、自分の脳みそで判断するとしているのです。
これは、思想信条の自由ということでしょう。
こういうスタンスに共鳴できる人や、興味ある人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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人間精神を大きく俯瞰して論じる場合に大事なのは、アメリカの哲学者であったウィリアム.ジェイムズ(下写真)の言葉です。
彼は、「かたい心」と「やわらかい心」という2つの人間類型を挙げています。
この2つが人間社会に大きく分けて分類されるとしていたのです。
「かたい心」とは、リンゴでも、みかんでも、バナナでも、パインでもいい。
その間に序列をつけたり、関係づけたりするのではなく、いろんなものが並列的状態にあるというように、多元的に捉える思想です。
それに対して、「やわらかい心」は、この世は最終的に1つの絶対価値に収斂して、その体系の中に諸々のものがちりばめられているというように世界を一元的に捉える思想です。
前者が八百万の神々が併存する日本と、紙は1つとするキリスト教やイスラム教という違いになる。
「かたい心」の人は、当然ながらものごとを断片的に捉え、その断片1つ1つに意味があるという立場をとる。
それに対して、「やわらかい心」の人は、1つ1つの情報や事柄が大きな体系の中に組み込まれていないと満足しない。
体系の中に組み込めないものは無意味として排除して、理論や体系というものに関連させている。
いわば多元論者は相対的、一元論者は絶対的と言える。
この分析からすると、「かたい心」と「やわらかい心」の2つは形容の仕方が逆のような気もしますが、とにかくウィリアム.ジェイムズはこのように分析しているのです。
立場上の違いから察せるように、「かたい心」の人は文字好き、「やわらかい心」の人は文字嫌いという結果になってくるでしょう。
そして、ウィリアム.ジェイムズによれば、後者の方が多数派であるということです。
これで私は目が覚める思いがしたのです。
日本の大学では、多くの人が講義をさぼり、年末の試験時にしか勉学に勤しまない理由がわかった気がして。
全国の大学生のアンケート調査で、自分が登録した講義に100%出席している人は、1割前後という結果をみて、大学生当時には驚きましたが、いまとなっては納得のいく内容だったのです。
世間の大半が文字嫌いゆえにこういう結果になるのでしょう。
そうなると、今後の宗教の発展を考えるには、このウィリアム.ジェイムズの理論を引き合いに出して考えなくてはならないだろうことは間違いないです。
ウィリアム.ジェイムズのいったことが古今東西、そしてこれからも変わらぬ真理ならば、創価学会のような大宗教団体に幸福の科学はなりえないのではないか?と思われてならないのです。
いや、創価学会に限らず、他のいろんな宗教を見ていくと、たいていの宗教の信者たちは、その宗教の事しか勉強しないのです。
「この宗教以外の宗教や分野について何か本を読んでいますか?」という質問に対して、「1冊も読んでない」とか、読んでも「2冊か3冊」という答えがほとんどです。
それはひとえに文字嫌いだからでしょう。
好きならば、主体的に本を買って読んでいくのが普通です。
しかし、その宗教が発行している新聞や冊子しか読まないのであれば、物事を広く深く認識して等閑視することはできないのは言うまでもないのです。
異なる2つの立場があるとします。
2者の意見をまず聞くのが王道です。
1者の意見しか聞かないのは論外です。
こういうモラルで私はいますから、2者の意見を聞きます。
するとそれぞれ言い分があるのがわかりますから、どちらか一方に偏ることはないのです。
それぞれが互いをくまなく観察すれば、それぞれの言い分を尊重することができます。
ゆえに、それぞれ一長一短なのがわかりますから、毎回どちらか一方に必ず与することはないのです。

そういうように人生を生きてきましたから、ある1つの宗教だけに拘るということが出来なかったのです。
母の友人の勧めで創価学会にはいるように言われました。
その際にその人が言うに「創価学会こそが世界最高峰の宗教だ」ということです。
世界最高峰の宗教がどれだけ素晴らしいのか見てみたくて、入会し、新聞も取り、会合も参加しましたが、最高峰などとんでもなかったです(笑)。
毎回毎回話される内容は一緒だし、学ぶものがないと判断した私は3か月で飽きました(笑)。
しかし不思議だったのは、「創価学会員はなぜ毎回毎回おなじことしか話されていないのに、新聞を永遠に取り続け、会合も欠かさずに出席しているんだろう?」ということです。
しかし、ウィリアム.ジェイムズの言葉を知って目が覚める思いがしました。
「世のなかの大半の人は文字嫌いなんだ。
だから毎回毎回同じようなことしか言っていない新聞を読み、会合を聞いている方が大抵の人は心地がいいのだろう。そういう多数派を取り込めることに成功したから創価は大きくなったんだ!」ということです。

そのことを創価学会の当局は認知しているからこそ、新聞で毎回毎回同じことしか書かない。
しかし、それでは満足しない私ですから、決然と創価からは距離を置くことにしました。
こういう立場の違いは生まれもって決まっているのですから、教育によって矯正できる筋合いのものではないのです。
ゆえにわたしは決然と、自分の立場を守ろうと決意したのです。
創価の大半の人はやわらかい心の持ち主ですから、自分とは異なる立場の人の意見をくまなく聞く努力が見られないのです。
創価に敵対する人がいても、その人の意見をくまなくきこうとはしない。
自分と一緒の立場の意見しか聞かないで終わっているのが大半のパターンなのです。
これでは真理に到達するわけはないのです。
しかし、それで満足してしてしまっている。
創価のバックでできた公明党の議員の意見しか聞かずに選挙に行って、その議員に投票する。
私は、公明党議員だけがいいことを言っているわけではないのですから、立候補者全部の意見を読みます。
それで支持したいと思えた議員に投票する、というのがこれまで貫いてきた姿勢です。
創価の人は、選挙前になるとしきりに、「公明党議員に入れてくれ」と電話をかけてきたり、家の前にきて依頼してきたりしますが、公明党議員にいれるかどうかは、自分の脳みそで判断するとしているのです。
これは、思想信条の自由ということでしょう。
こういうスタンスに共鳴できる人や、興味ある人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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