大学の勉強は高校までとは違う。それには素質が必須だがそれへの望ましいスタンスは? (加藤秀俊)
こんにちは。
大学の勉強は、高校までのそれとは違います。
まずそのことを認識する必要がありますね。
高校までは知識を脳内に入れることで満足していました。
教科書の片端から試験で出題される場所までを暗記して、その単語を書けばいい、あるいは選択して正答すればよかったですね。
しかし、大学では理論を学び、その理論が現代社会でどのような状態にあるか。
その状態についての是非を自ら論じる必要があるのです。
その論じた内容が知的であればあるほど、高得点を得ることが出来ます。

しかし、大学で学ぶ学問の本質がわかっていなくて、ただ理論を祖述するだけで高得点をくれた教授もいました。
そういう教授は…印象に残ってないですし、学術的に認められることはないから注意が必要です(笑)
その論じる際に、他の理論からヒントを得ることが出来るわけですから、他の教科を必死に学んでいる必要もありますし、自分で他の学問についての本を主体的に読む必要があります。
何気なく読んでいた本から、ヒントを得れるわけですから、そのセレンディピティという偶然ヒントを得れる現象に出くわすことしばしばでした。
それが楽しかったので、いろんな本を中古本屋で買ったり、大学構内の購買会で取り寄せて買ったりして読んでました。
そういう現象が非常に楽しかったです私は。
大学4年時に、カナダのケベックのナショナリズムについてが、自由研究発表でした。
その研究発表の内容は、モグリではいって受講した『政治学』で学んだ内容も織り交ぜたり、他の経済学の本で学んだ内容も織り交ぜて論実していったのです。
私が敬愛していた社会学者であった故.加藤秀俊(下写真)は、自分の本題についての理論づけのためには、目的のない散歩が必要であると申していました。

同じ科学の本から学ぶのも当然ですが、他の関係なさそうに見える科学の本を読んでいるときに、ふと出くわす理論や知識が、本題の理論づけに役立ったりするから非常に興味深かったし面白かったです。
その目的のない散歩でふと出くわすので、常にチェックのためのペンやミニノートが必要でしょう。
それを常にカバンの中にいれているのです。
学業で名を挙げている学者は、そういう知的な生産に余念がないのですね。
いや余念がないというよりも、必然的に興味深くそういう行動に出てしまうのですね、楽しいので。
それは知的生産で有名な外山滋比古氏もそういう生産法について本を出していますね。
私も散歩から学べたのです。
私が大学を卒業する際に、ゼミの後輩たち全員の声を色紙に書いてくれて、それをプレゼントされました。
そこには「研究発表の内容が幅広くてびっくりしました。」とか「知的ですね。」とか、「ゼミにおける発言が奥深いですね」と書かれていて大いに励みになりました。
しかし、自分から言わせれば、頑張って意気込んでたわけじゃなかったです。
ただ知的好奇心の赴くまま、いろんな本を読んで、重要と思われる部分についてはチェックして、小さなノートに書き留めてという作業を積み重ねていただけでした。
それが発言やタイピングに現れていたのだと思います。
そういった好奇心の赴くまま生産を続けることが非常に面白かったです。
だが、その面白いことを大抵の人はしない。
大抵の大学生の人は、受験という後ろ盾がなければ、勉強しない。
ゆえに大学に来ては怠け者になってしまうのです。

そういったことは大抵の人は、そういう知的な作業は億劫で虫唾の走ることだからです。
しかし、加藤秀俊とその仲間たちは違かったです。
その仲間とは、梅棹忠雄、小松左京、多田道太郎、米山俊直といった同僚たちです。
特に瞠目したのは、加藤秀俊のスタンスや姿勢ですね。
パチンコ、宗教、経済、政治、文芸…Etc、彼が論じて出した本の内容は多岐にわたるものでした。
よくもここまで多岐にわたる学問を修めたなあと感心するばかりでした。
加藤氏は大学時代に、1日に1冊という読書を課した時期があったようです。
それゆえに…と感心しました。

加藤秀俊曰く「専門を課題にするのではなく、問題点を課題にしていかなくてはならない」というのがモラルだったのですし、そういう姿勢に感心するばかりでした。
そういう自身で学んだ内容が読書量が半端なかったがゆえに、膨大になっていたのみならず、高校までに習った知識も引き合いに出して加藤氏はいろんな論文や本をたくさん書いていたのです。
その知的好奇心の広さには気宇を感じざる得ないのです。
片っ端から暗記していく高校までの勉強はあまり好きにはなれなかったですが、こういう知的生産がものをいう勉強であれば、私は非常に楽しかった記憶があります。
しかし、それは楽しいからやっていたのみならず、それを鼻をかけて威張るつもりもなければ、自分を持ち上げる気にもならない、というのが正直なところです。
それは自身のスタンスで選べばいいだけで、こちらがその矯正をしてあげるのも、こちらの手に余ることであると思っています。
講義をさぼりまくる人の方が圧倒的に多い日本の大学ですが、そのことに咎め立てする気も当然ならないのです。
大学での勉強がつまらないとして、サボりまくる人が多くても、それは好きにはなれないだけ、好みと違うという話しなだけであって批判する気にはなれないというのが正直なところです。
●では大学で主体的に学べない人はどのようなスタンスでいるべきか、は以下の加藤秀俊氏の偉業について書いた以下の電子書籍やペーパーバックに書いてありますから参考にしてくださいませ。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
大学の勉強は、高校までのそれとは違います。
まずそのことを認識する必要がありますね。
高校までは知識を脳内に入れることで満足していました。
教科書の片端から試験で出題される場所までを暗記して、その単語を書けばいい、あるいは選択して正答すればよかったですね。
しかし、大学では理論を学び、その理論が現代社会でどのような状態にあるか。
その状態についての是非を自ら論じる必要があるのです。
その論じた内容が知的であればあるほど、高得点を得ることが出来ます。
しかし、大学で学ぶ学問の本質がわかっていなくて、ただ理論を祖述するだけで高得点をくれた教授もいました。
そういう教授は…印象に残ってないですし、学術的に認められることはないから注意が必要です(笑)
その論じる際に、他の理論からヒントを得ることが出来るわけですから、他の教科を必死に学んでいる必要もありますし、自分で他の学問についての本を主体的に読む必要があります。
何気なく読んでいた本から、ヒントを得れるわけですから、そのセレンディピティという偶然ヒントを得れる現象に出くわすことしばしばでした。
それが楽しかったので、いろんな本を中古本屋で買ったり、大学構内の購買会で取り寄せて買ったりして読んでました。
そういう現象が非常に楽しかったです私は。
大学4年時に、カナダのケベックのナショナリズムについてが、自由研究発表でした。
その研究発表の内容は、モグリではいって受講した『政治学』で学んだ内容も織り交ぜたり、他の経済学の本で学んだ内容も織り交ぜて論実していったのです。
私が敬愛していた社会学者であった故.加藤秀俊(下写真)は、自分の本題についての理論づけのためには、目的のない散歩が必要であると申していました。
同じ科学の本から学ぶのも当然ですが、他の関係なさそうに見える科学の本を読んでいるときに、ふと出くわす理論や知識が、本題の理論づけに役立ったりするから非常に興味深かったし面白かったです。
その目的のない散歩でふと出くわすので、常にチェックのためのペンやミニノートが必要でしょう。
それを常にカバンの中にいれているのです。
学業で名を挙げている学者は、そういう知的な生産に余念がないのですね。
いや余念がないというよりも、必然的に興味深くそういう行動に出てしまうのですね、楽しいので。
それは知的生産で有名な外山滋比古氏もそういう生産法について本を出していますね。
私も散歩から学べたのです。
私が大学を卒業する際に、ゼミの後輩たち全員の声を色紙に書いてくれて、それをプレゼントされました。
そこには「研究発表の内容が幅広くてびっくりしました。」とか「知的ですね。」とか、「ゼミにおける発言が奥深いですね」と書かれていて大いに励みになりました。
しかし、自分から言わせれば、頑張って意気込んでたわけじゃなかったです。
ただ知的好奇心の赴くまま、いろんな本を読んで、重要と思われる部分についてはチェックして、小さなノートに書き留めてという作業を積み重ねていただけでした。
それが発言やタイピングに現れていたのだと思います。
そういった好奇心の赴くまま生産を続けることが非常に面白かったです。
だが、その面白いことを大抵の人はしない。
大抵の大学生の人は、受験という後ろ盾がなければ、勉強しない。
ゆえに大学に来ては怠け者になってしまうのです。
そういったことは大抵の人は、そういう知的な作業は億劫で虫唾の走ることだからです。
しかし、加藤秀俊とその仲間たちは違かったです。
その仲間とは、梅棹忠雄、小松左京、多田道太郎、米山俊直といった同僚たちです。
特に瞠目したのは、加藤秀俊のスタンスや姿勢ですね。
パチンコ、宗教、経済、政治、文芸…Etc、彼が論じて出した本の内容は多岐にわたるものでした。
よくもここまで多岐にわたる学問を修めたなあと感心するばかりでした。
加藤氏は大学時代に、1日に1冊という読書を課した時期があったようです。
それゆえに…と感心しました。
加藤秀俊曰く「専門を課題にするのではなく、問題点を課題にしていかなくてはならない」というのがモラルだったのですし、そういう姿勢に感心するばかりでした。
そういう自身で学んだ内容が読書量が半端なかったがゆえに、膨大になっていたのみならず、高校までに習った知識も引き合いに出して加藤氏はいろんな論文や本をたくさん書いていたのです。
その知的好奇心の広さには気宇を感じざる得ないのです。
片っ端から暗記していく高校までの勉強はあまり好きにはなれなかったですが、こういう知的生産がものをいう勉強であれば、私は非常に楽しかった記憶があります。
しかし、それは楽しいからやっていたのみならず、それを鼻をかけて威張るつもりもなければ、自分を持ち上げる気にもならない、というのが正直なところです。
それは自身のスタンスで選べばいいだけで、こちらがその矯正をしてあげるのも、こちらの手に余ることであると思っています。
講義をさぼりまくる人の方が圧倒的に多い日本の大学ですが、そのことに咎め立てする気も当然ならないのです。
大学での勉強がつまらないとして、サボりまくる人が多くても、それは好きにはなれないだけ、好みと違うという話しなだけであって批判する気にはなれないというのが正直なところです。
●では大学で主体的に学べない人はどのようなスタンスでいるべきか、は以下の加藤秀俊氏の偉業について書いた以下の電子書籍やペーパーバックに書いてありますから参考にしてくださいませ。
(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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