思想研究家の本は読むに値せず?思想家の本こそ読むべし! (加藤秀俊)
こんにちは。
大学での勉強や、それ以後の卒業後は自身のモラルを形成していかなくてはならないのです。
それには理論を自身の脳内で形成していく必要があるのです。
その手段として、本とくに論文のは多く読んでいく必要があるでしょう。

その時に、楽しいものではなくては読むのが億劫になってくるのは間違いないです。
どのような論文の本が楽しいのでしょうか?
やはり私は、その書いた著者の独自の主張が書いてあるものがいいですね。
難解な表現句法で読み手を煙に巻く本、他の本から引用した理論をそのまま祖述した本、他の本から借用した文章を「」をつけて引用してばかりの本、こういうのはつまらないですし、即座に読み辞めてしまいたくなりますし、自分を鼓舞して何とか最後まで読み終えたとしても、不満足感が脳内を覆い、古本屋に売ってしまいます。
私は読んだ本は、印象に残ったところがあったら、チェックしてパソコンや紙に書き留めておきますが、その際も振り返るのが苦痛になってしまいます、そういった本は。
ある思想研究家の本があって、その人の本を読むと本文中にもかなり引用があって、読みづらい印象を受けて読み進めたいという欲求がなかなか出なかったです。
最後のクライマックスの部分でも、「その場合読んでほしいのが以下の部分である」と前置きして、某有名な著作家の本から借用した文を「」をつけて引用してそれで終わりでした。
この時思ったのは、「他の著者の意見が読みたいのではなく、あなたの意見が聞きたいのですよ…」と思いちょっと落胆してしまうのですね(苦笑)
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、日本の学界についての批判をするときに、論文を書く際に化合物と混交物の2つを例にして論じていたのです『私の知的生産の技術』という編著本の中で。

化合物とは2つ以上の物質がまじりあって溶け合った状態のことです。
混交物とは、2つ以上の物質がまざっているけれども、いつでも元の状態に戻せる状態になっているのです。
例えば水と油のように。
加藤秀俊によれば多くの学生の書くのは混交物のほうだといいます。
「」をつけて有名な学者の言葉を引用して、〜と書いているとか、〜と述べているというようにつぎはぎされた論文を書くのが多い、ということです。
これでは知的生産ではない、ということです。
そして学生のみならず、教授といわれる人の書くのもそういう人が多い、ということです。
その化合物を作るには、あるテーゼが出来たら、それを例証するための実例を挙げなくてはならない。
そのためには、目的のない散歩、逍遥が必要である、ということです。
そのテーゼに関係する本も当然ながら、他の関係のなさそうな本をむさぼるように読んでいることによって、そういう例証できる事項が発見できることがあるということです。
それには大いに賛同し、そういう例を私自身いっぱい経験してきました。
その引用ばかりの思想研究家も、いろいろ散歩や逍遥もしているのでしょう。

ゆえに、そのテーゼに合致するような他の著者の文章を見つけてきたのでしょう。
文脈に合うようにピンポイントで引用が多くしていました。
ゆえに、これも化合物であるとする意見が出てもおかしくはないでしょう。
しかし、事例が出てきても、自身が脳内で練り上げて出した理論ではないし、借用だけで済ませているのでは読むメリットが感じれないのです。
他の著者との意見が同じになってもいい。
自身の脳内で練り上げたものであるならば、というのが私の意見です。
そんなものすごく独創的な理論などそうそうできるわけでもないですし、私にだって無理です。
自分に無理なものを他人に要求するなど、横暴もいいところです(笑)
しかし、そういう引用ばかり文章の著者の本は、一度読むともうこの人のは…と忌避したくなるのです。
そしてまたその著者の本を無理やり読んでみる。
やはり面白みが感じれずに終了。
そういうことを繰り返してきました。
なので著者の本を1冊よんで、よくなかったら次の本もその次の本もよくないことは間違いないです。引用ばかりの人は、他の本でも引用ばかりしているのが通常です。

しかし、そういう著者の本でも愛読者はいるから驚きです。
その著者の愛読者が書いたAmazonなどのレビューには、★を最高の5つまでつけて、賞賛のレビューを書いているのです。
そのレビューからは、本気度が伝わってきます。
やはり引用ばかりの本でもウケる場合もある、ということです。
その思想史研究者は東大卒の日本思想史の研究者である教授だったのです。
それでも、Amazonでの、その教授の本のレビューを見たら、「心が晴れました」といったニュアンスの言葉が書かれているのを見ると、私が評価したくない著作家でも、高評価する人は一定数必ずいるのだということがわかったのです。
ゆえに、自分の価値観を押し付けることなく、人は人、という敢然とした態度でいかなくてはならないなと思ったのです。
引用が多い人の本を「心が晴れました」とした人は、自分が論文を書く時や、本を書く時にも引用ばかり多用するのでしょう。
それでは私は評価したくはないです。
そして向こうも私を評価しない…人生は難しいものです(笑)。
引用ばかりでは意味がない…というか、読む意味が感じれないのです、単なる知識を読んでいるような気分になって。
ピンポイントで引用していた観があったのは正直認めるにやぶさかではないですが、こういう人は、巷にある思想を研究している思想研究家であって、「思想家」ではないのです。

思想家というのは、自身で情報を主体的に得て、それらを元に自身の脳で思想を練り上げて、その思想を読んだ人の多くが感動できる性質を持っている人のことであると私は思うのです。
そういう思想研究家の著者のでも、海外で翻訳されて本になっているということを知って驚きだったです。
自分が邪道と思っていても、人によっては王道として認識してしまっているのは多くあるのです。
そのことを踏まえつつ、自分の価値観を抑えつけないで、各自の自由に任せましょう、という意見に鞍替えしました。
しかし、読み手に感動をおぼえてもらったり、また再び読んでもらおうというならば、今のスタンスは変えないといけないでしょう。
学界では引用ばかりの文章を書いている人は相手にされないからだし、そんな文章の本を出しても、売れないことは間違いないでしょう。
そういう評価されない文書を書く教授とは違い、毅然として20代後半から今まで化合物の本を100冊以上出してきた加藤秀俊の生涯を論じた電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
●おすすめです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
大学での勉強や、それ以後の卒業後は自身のモラルを形成していかなくてはならないのです。
それには理論を自身の脳内で形成していく必要があるのです。
その手段として、本とくに論文のは多く読んでいく必要があるでしょう。
その時に、楽しいものではなくては読むのが億劫になってくるのは間違いないです。
どのような論文の本が楽しいのでしょうか?
やはり私は、その書いた著者の独自の主張が書いてあるものがいいですね。
難解な表現句法で読み手を煙に巻く本、他の本から引用した理論をそのまま祖述した本、他の本から借用した文章を「」をつけて引用してばかりの本、こういうのはつまらないですし、即座に読み辞めてしまいたくなりますし、自分を鼓舞して何とか最後まで読み終えたとしても、不満足感が脳内を覆い、古本屋に売ってしまいます。
私は読んだ本は、印象に残ったところがあったら、チェックしてパソコンや紙に書き留めておきますが、その際も振り返るのが苦痛になってしまいます、そういった本は。
ある思想研究家の本があって、その人の本を読むと本文中にもかなり引用があって、読みづらい印象を受けて読み進めたいという欲求がなかなか出なかったです。
最後のクライマックスの部分でも、「その場合読んでほしいのが以下の部分である」と前置きして、某有名な著作家の本から借用した文を「」をつけて引用してそれで終わりでした。
この時思ったのは、「他の著者の意見が読みたいのではなく、あなたの意見が聞きたいのですよ…」と思いちょっと落胆してしまうのですね(苦笑)
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)は、日本の学界についての批判をするときに、論文を書く際に化合物と混交物の2つを例にして論じていたのです『私の知的生産の技術』という編著本の中で。
化合物とは2つ以上の物質がまじりあって溶け合った状態のことです。
混交物とは、2つ以上の物質がまざっているけれども、いつでも元の状態に戻せる状態になっているのです。
例えば水と油のように。
加藤秀俊によれば多くの学生の書くのは混交物のほうだといいます。
「」をつけて有名な学者の言葉を引用して、〜と書いているとか、〜と述べているというようにつぎはぎされた論文を書くのが多い、ということです。
これでは知的生産ではない、ということです。
そして学生のみならず、教授といわれる人の書くのもそういう人が多い、ということです。
その化合物を作るには、あるテーゼが出来たら、それを例証するための実例を挙げなくてはならない。
そのためには、目的のない散歩、逍遥が必要である、ということです。
そのテーゼに関係する本も当然ながら、他の関係のなさそうな本をむさぼるように読んでいることによって、そういう例証できる事項が発見できることがあるということです。
それには大いに賛同し、そういう例を私自身いっぱい経験してきました。
その引用ばかりの思想研究家も、いろいろ散歩や逍遥もしているのでしょう。
ゆえに、そのテーゼに合致するような他の著者の文章を見つけてきたのでしょう。
文脈に合うようにピンポイントで引用が多くしていました。
ゆえに、これも化合物であるとする意見が出てもおかしくはないでしょう。
しかし、事例が出てきても、自身が脳内で練り上げて出した理論ではないし、借用だけで済ませているのでは読むメリットが感じれないのです。
他の著者との意見が同じになってもいい。
自身の脳内で練り上げたものであるならば、というのが私の意見です。
そんなものすごく独創的な理論などそうそうできるわけでもないですし、私にだって無理です。
自分に無理なものを他人に要求するなど、横暴もいいところです(笑)
しかし、そういう引用ばかり文章の著者の本は、一度読むともうこの人のは…と忌避したくなるのです。
そしてまたその著者の本を無理やり読んでみる。
やはり面白みが感じれずに終了。
そういうことを繰り返してきました。
なので著者の本を1冊よんで、よくなかったら次の本もその次の本もよくないことは間違いないです。引用ばかりの人は、他の本でも引用ばかりしているのが通常です。
しかし、そういう著者の本でも愛読者はいるから驚きです。
その著者の愛読者が書いたAmazonなどのレビューには、★を最高の5つまでつけて、賞賛のレビューを書いているのです。
そのレビューからは、本気度が伝わってきます。
やはり引用ばかりの本でもウケる場合もある、ということです。
その思想史研究者は東大卒の日本思想史の研究者である教授だったのです。
それでも、Amazonでの、その教授の本のレビューを見たら、「心が晴れました」といったニュアンスの言葉が書かれているのを見ると、私が評価したくない著作家でも、高評価する人は一定数必ずいるのだということがわかったのです。
ゆえに、自分の価値観を押し付けることなく、人は人、という敢然とした態度でいかなくてはならないなと思ったのです。
引用が多い人の本を「心が晴れました」とした人は、自分が論文を書く時や、本を書く時にも引用ばかり多用するのでしょう。
それでは私は評価したくはないです。
そして向こうも私を評価しない…人生は難しいものです(笑)。
引用ばかりでは意味がない…というか、読む意味が感じれないのです、単なる知識を読んでいるような気分になって。
ピンポイントで引用していた観があったのは正直認めるにやぶさかではないですが、こういう人は、巷にある思想を研究している思想研究家であって、「思想家」ではないのです。
思想家というのは、自身で情報を主体的に得て、それらを元に自身の脳で思想を練り上げて、その思想を読んだ人の多くが感動できる性質を持っている人のことであると私は思うのです。
そういう思想研究家の著者のでも、海外で翻訳されて本になっているということを知って驚きだったです。
自分が邪道と思っていても、人によっては王道として認識してしまっているのは多くあるのです。
そのことを踏まえつつ、自分の価値観を抑えつけないで、各自の自由に任せましょう、という意見に鞍替えしました。
しかし、読み手に感動をおぼえてもらったり、また再び読んでもらおうというならば、今のスタンスは変えないといけないでしょう。
学界では引用ばかりの文章を書いている人は相手にされないからだし、そんな文章の本を出しても、売れないことは間違いないでしょう。
そういう評価されない文書を書く教授とは違い、毅然として20代後半から今まで化合物の本を100冊以上出してきた加藤秀俊の生涯を論じた電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
●おすすめです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
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