情報爆発の時代において、魅力ある学者の姿勢を体現している人はどんな人? (加藤秀俊)
こんにちは。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、文章を書く際には化合物を作ることこそ王道としていたのです。

あるテーゼを決めたら、それを肉付けする知識なり、理論なりを読書などを通じて詮索していくことが大事ということです。
目的のない散歩が大事ということです。
その行為をすることで、ある時ふとそういうものに出くわすことが往々にしてあるということだし、実際自分もそういう経験を多くしてきました。
それによって説得的な文章が書けるのだと思います。
それが化合物を作ることであるということです。
そのためには、年末試験のために、シーズンオフから、そういう目的のない散歩が必要としているのです。
それにも同感です。

その対比として、混合物を作ることに異を唱えているのです。
混合物というのは、水と油のように交じり合うことなく、それぞれの物質が身を重ねているだけで、交じり合っていない状態のことを指しているのです。
すぐに元の状態に戻ってしまう状態なのです。
加藤氏曰く「多くの学生は化合物を書くのではなく混合物を書く人の方が多い」ということです。
そうですよね。
多くの学生は、一夜漬けで年末試験のための勉強をしているだけですから、知的な作業が望めるはずはありません。
しかも、加藤秀俊曰く「学生のみならず、教授といわれる人たちもそういうことをして生計を立てている人が多い」ということです。
それも同感です。
私が通っていた大学の廊下に学論集なるものがあって、それを学生は無料でもらっていいいということでたくさん取って家に持ち帰り、最近まで保管していました(笑)。
それを紐解いてみると、そういう混合物の論文を書いている例の方が多いですね。

いろんな本の端々を持ってきて「」をつけて引用し、そこに他愛もないコメントを書いて終わりなのです。
これでは読むもつまらない論文で終わってしまっています。
それは読むに値しないですし、そういう論文で構成された本の著者の場合、私はその著者名を「NG著作家」というフォルダーのワードに書いておき、二度とその著者の本は買わないことに決めているのです。
そういう論文の本を書いた人の論文は他の本でもそういう論文である可能性が非常に高いからです。
これはシーズンオフから研究しているかしていないか。
著作家として素質があるかどうか。
この2つの条件が合致している場合は書けるのです。
そうでない場合は書けないですから注意が必要です。
またこういう行為は、いろんな本を自ら主体的に読んでいけば、できる性質なのです。
ただし、私は畑正則(下写真.故人)のように頭よくないから、これは重要と思われた箇所については、ワードに書いて上書きしておく、という知的作業をしてきたから、このようにブログで書けるのです。

畑正則氏も故人ですが、この人はかなり頭がよくて、紙1枚渡されたら、その書かれた内容をすぐさま記憶してしまっていたようです。
そんな地頭がよかったゆえに東京大学に現役で合格したのです。
そして、そのワードに書いておくことで記憶には残りやすいですし、そのワードをもう一度見直すことでおもいだすことも可能なのです。
しかし、知的なものに怠惰になってしまうという弊害はどうして起こるのでしょうか?
メタ認知が出来る環境にないということがあげれるでしょう。
メタ認知とは、目前のことだけでなく、そのバックボーンについての背景理論や知識を探っていくことです。
それは当然の事象であるにもかかわらず、専門分化が著しい昨今においては、他の領域や隣接分野に意識が向かなくなってしまうのがしばしばあるでしょう。
60年代や70年代において、日本では他の領域について知らなことが美徳というような学界の風潮があったのは、当時の本を読めばわかります。

しかし、それは自身の専門を深く広く修める上でNG行為であったことは間違いないです。
こんにちのアメリカの学界でもそういう弊害が起きているのです。
それは『専門知は必要か?』(みすず書房)という本にも書いてあるので興味を持った人は読むのがいいでしょう。
いろんな分野において、情報が増大すればそれだけ多分野において処理をすることが難しくなるので専門分野を狭めるのが当然になり、専門に閉じこもる人が多く出てしまうのは必然です。
しかし、その情勢に指をくわえてみているだけでいいかといえばそんなことはなく、できる限り多分野にわたって勉学していくのが王道であるとしか思えないです私は。
学問は社会を良き方向へ導くためにあるのですから、視野狭窄であってはならないでしょう。
なるだけ多分野にわたる情報の処理をしていかなくてはならないのは言うまでもありません。
知的好奇心のある人であれば、専門に閉じこもるのが王道とされていた時代であっても、多分野において勉学を修める姿勢が維持されるでしょう。
そういう知的な態度が学問においては大事と思われてならないのです。
そういうアティチュードでいる人の文章こそ興味深く読み進めてしまいますし、逆に、専門に閉じこもった人の書いた本は非常につまらないのは言うまでもないことです。
私はそういう経験を往々にしてきました。
興味深く読んできた学者のうちの1人が故.加藤秀俊にほかなりません。
●そんな学者の意義について書いた内容について知りたい人は以下の電子書籍、ぺーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、文章を書く際には化合物を作ることこそ王道としていたのです。
あるテーゼを決めたら、それを肉付けする知識なり、理論なりを読書などを通じて詮索していくことが大事ということです。
目的のない散歩が大事ということです。
その行為をすることで、ある時ふとそういうものに出くわすことが往々にしてあるということだし、実際自分もそういう経験を多くしてきました。
それによって説得的な文章が書けるのだと思います。
それが化合物を作ることであるということです。
そのためには、年末試験のために、シーズンオフから、そういう目的のない散歩が必要としているのです。
それにも同感です。
その対比として、混合物を作ることに異を唱えているのです。
混合物というのは、水と油のように交じり合うことなく、それぞれの物質が身を重ねているだけで、交じり合っていない状態のことを指しているのです。
すぐに元の状態に戻ってしまう状態なのです。
加藤氏曰く「多くの学生は化合物を書くのではなく混合物を書く人の方が多い」ということです。
そうですよね。
多くの学生は、一夜漬けで年末試験のための勉強をしているだけですから、知的な作業が望めるはずはありません。
しかも、加藤秀俊曰く「学生のみならず、教授といわれる人たちもそういうことをして生計を立てている人が多い」ということです。
それも同感です。
私が通っていた大学の廊下に学論集なるものがあって、それを学生は無料でもらっていいいということでたくさん取って家に持ち帰り、最近まで保管していました(笑)。
それを紐解いてみると、そういう混合物の論文を書いている例の方が多いですね。
いろんな本の端々を持ってきて「」をつけて引用し、そこに他愛もないコメントを書いて終わりなのです。
これでは読むもつまらない論文で終わってしまっています。
それは読むに値しないですし、そういう論文で構成された本の著者の場合、私はその著者名を「NG著作家」というフォルダーのワードに書いておき、二度とその著者の本は買わないことに決めているのです。
そういう論文の本を書いた人の論文は他の本でもそういう論文である可能性が非常に高いからです。
これはシーズンオフから研究しているかしていないか。
著作家として素質があるかどうか。
この2つの条件が合致している場合は書けるのです。
そうでない場合は書けないですから注意が必要です。
またこういう行為は、いろんな本を自ら主体的に読んでいけば、できる性質なのです。
ただし、私は畑正則(下写真.故人)のように頭よくないから、これは重要と思われた箇所については、ワードに書いて上書きしておく、という知的作業をしてきたから、このようにブログで書けるのです。
畑正則氏も故人ですが、この人はかなり頭がよくて、紙1枚渡されたら、その書かれた内容をすぐさま記憶してしまっていたようです。
そんな地頭がよかったゆえに東京大学に現役で合格したのです。
そして、そのワードに書いておくことで記憶には残りやすいですし、そのワードをもう一度見直すことでおもいだすことも可能なのです。
しかし、知的なものに怠惰になってしまうという弊害はどうして起こるのでしょうか?
メタ認知が出来る環境にないということがあげれるでしょう。
メタ認知とは、目前のことだけでなく、そのバックボーンについての背景理論や知識を探っていくことです。
それは当然の事象であるにもかかわらず、専門分化が著しい昨今においては、他の領域や隣接分野に意識が向かなくなってしまうのがしばしばあるでしょう。
60年代や70年代において、日本では他の領域について知らなことが美徳というような学界の風潮があったのは、当時の本を読めばわかります。
しかし、それは自身の専門を深く広く修める上でNG行為であったことは間違いないです。
こんにちのアメリカの学界でもそういう弊害が起きているのです。
それは『専門知は必要か?』(みすず書房)という本にも書いてあるので興味を持った人は読むのがいいでしょう。
いろんな分野において、情報が増大すればそれだけ多分野において処理をすることが難しくなるので専門分野を狭めるのが当然になり、専門に閉じこもる人が多く出てしまうのは必然です。
しかし、その情勢に指をくわえてみているだけでいいかといえばそんなことはなく、できる限り多分野にわたって勉学していくのが王道であるとしか思えないです私は。
学問は社会を良き方向へ導くためにあるのですから、視野狭窄であってはならないでしょう。
なるだけ多分野にわたる情報の処理をしていかなくてはならないのは言うまでもありません。
知的好奇心のある人であれば、専門に閉じこもるのが王道とされていた時代であっても、多分野において勉学を修める姿勢が維持されるでしょう。
そういう知的な態度が学問においては大事と思われてならないのです。
そういうアティチュードでいる人の文章こそ興味深く読み進めてしまいますし、逆に、専門に閉じこもった人の書いた本は非常につまらないのは言うまでもないことです。
私はそういう経験を往々にしてきました。
興味深く読んできた学者のうちの1人が故.加藤秀俊にほかなりません。
●そんな学者の意義について書いた内容について知りたい人は以下の電子書籍、ぺーパーバックをお勧めします。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のこと)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
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