実在したかしないかの検証は不可能…でも、その宗教に信仰心篤くなってしまう人の精神状態はどういうものか? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というのは、不可思議な面を持っているもので、その信仰という行為によって、その効果は目に見えるものではないのです。
ゆえに、証明が肉眼で出来ないものであってみれば信用などできない、という人が出てきてもおかしくはないでしょう。
宗教には入らないとする無宗教者もいれば、神や仏の存在まで否定する無神論者もいるわけです。
私は、宗教に入る人、入らない人のどちらにも与するわけではないですが、その立場によってのちのち自分に招来した結果は自分に帰すということを覚えておいてほしいものです。
もちろん宗教を信仰する、という立場の人も、その信仰によって招来した結果は自分の責任です。
私は、どの宗教にも属しないですが(=ゆえに無宗教者)、神や仏の存在は信じています。
ゆえに無神論者ではないです。
しかし、ある宗教に入った人は、入って信仰した結果、何らかの変化が表れたのでしょう。
ゆえに、その宗教にぞっこんになった。

しかし、その結果が信仰によるものなのか、全然関係ないことかはわかりません。
ゆえに、その事象の数々を客観的に観察する必要があるので、それは論文の本を読んで吟味していく必要がある、と私は思うのです。
自分が属す開祖の過去の偉業の話しを聞かされることは、その宗教内ではよくあると思います。
日蓮系宗教では、熱原の法難や小松原の法難といったことはきかされるでしょう。
これらの法難を生き抜いてきたがゆえに日蓮大聖人(下写真)は神や仏の加護を得てきた。
だからこそこの信仰をしていくべきだ、といったようなことを聞かされました私も。
しかし、それが果たして本当の話しなのか、作り話しなのかは私にも、他の誰にもわかりません。
なにしろ800年以上前の話しなのですから。

よしんばそれが本当の話しだとしても、肝心のその開祖の書いた書物に感動できなければ、信仰の意味がないですよね?
そう思い、私は日蓮が著した『報恩抄』という書物を買って読みました。
しかし、何の感動も呼び起こしませんでした。
ゆえに、この宗教は断片的に学ぶところはあれども、自分の人生の根幹になったり人に勧めたりというレベルにまではいかないな、と感じた次第です。
こういった日蓮の書いた本を読んで感動した人はそれはそれでいいと思います。
そのまま信仰に突っ走ればいいと思います。
人の感性は千差万別ですから、私が感動しなかったからといって、私は異端扱いなど絶対にしないものです。
要するに、信仰とは気持ちの問題なのででしょうか?

あまり指摘はしたくないものですが、浄土真宗の信徒たちで知っている人はそれなりにいるでしょうが、親鸞の著とされている『歎異抄』は、実は親鸞の弟子の唯円が書き記したものなのです。
親鸞が生前に言った事柄を、唯円がまとめたものなのです。
これまでこれを知らなかった人たちは「これは親鸞聖人が書かれたものなんだ!」と報恩感謝の思いで読み、そして勉学してきたのでしょう。
威厳のある人とそうでない人では、その本へ対する信者のスタンスがまるで違うのです。
威厳のある人の書かれた本とあって信じていれば、真剣さも違ってくるし、有難さも違ってくるのです。
その威厳、言い換えればカリスマ性とは、誰もが努力で身に着けられるものではなく、確かに努力も必要ですが、生まれもっての面がかなり強いのです。
その唯円が書いた、ということを知らせなかったらよかったのかもしれないですが実際はどうなのでしょうか?
しかし、親鸞が書いた言葉も当然入っているので、まったくの違う代物ということはないのは事実ですから、それなりにというかかなり学ぶ意味はあるのは間違いないです。
また『親鸞伝絵』も親鸞がなくなってから33年たってから書かれたものゆえに、かなり脚色が加わっているし、作り話し的な面が伏在しているのです。
ゆえに、そっくりそのままその内容を信じるのは間違いだと思うのです。
しかし、信徒たちはそういう思索をすることをほとんど怠っているのが現状でしょう。
そして、無批判のまま通り過ぎてしまっている…。
これは何も、浄土真宗だけではなく、他のあらゆる宗教に共通する事だろうと思います。

開祖の生涯について書かれたものについては無非難になってそっくりそのまま信じて、それを英雄視して、そして自分の内面に至高の存在として留めおき、それが人生の根幹になっているがゆえに、人生を生き生きとしていける。
そういう良き面があるがゆえに、私は宗教の存在を否定はしないものです。
生き生きとなるならば、それはそれで結構なことでしょう。
そういう存在ゆえに、宗教はいつの時代でも人々の心を捉えて離さないのでしょう。
しかし、宗教だけに依存するのは間違いでしょう。
違う面をいつも心の片隅に開けておいて、宗教に頼らなくても打開できる道を探す努力をしていかないことには、人生が停滞することは間違いないのです。
それに自分が属す宗教に対して無批判になっていては、誤った方向へその宗教が行っていっても、軌道修正が効かなくなるのは間違いない事です。

やはり、人間として人智を超えた孤高の存在は魂にとっては必要なものです。
でもそれだけに拘るな、ということを私は言いたいのです。
しかし、同じ宗教でも時代がくだるごとに、変動、そして変遷していくもののようです。
これは必然なのです。
キリストはカトリックとプロテスタントに大きく分かたれました。
信仰の違いは以下です。
カトリックは、遠心力によって神さまをはるかかなたにいらっしゃるとみる。
しかし、プロテスタントは神を自分の内面世界の中に発見しようとしている。いわばプロテスタントは求心力によって神を見つめるということです。
これはどうしてこういう違いが起きてしまったのか、ということですが、それは大きい理由として、聖書が簡単に誰でも買えて読めるようになったから、ということでしょう。
自分の部屋、あるいは図書館、あるいは喫茶店で黙読しながら誰でも自分1人で読めるようになれば、信仰のスタイルが変わって当然です。
その結果、求心力によって神をみるようになった、ということでしょう。
その違いに優劣はありません。
しかし信仰スタイルの違いをみると、どうも浄土真宗はカトリックのようなスタイル寄りのような気がします。
そして若干、求心力的な面もあることは間違いないのです。
厳密な定義づけは意味がないでしょうが、どうも、「はるかかなたにいるとする阿弥陀仏を心で想定して、その仏が自分を見つめている。
その仏が、死後私を極楽浄土で迎え入れてくれる」ということで浄土真宗は成り立っているのです。
ゆえに遠心力で対象を見ているといえるでしょう。

しかし、その阿弥陀仏の存在を明らかにしていくことは、好奇心旺盛な人間には抑えがたい衝動的な結果なのでした。
仏典には、阿弥陀仏は648億年前に、地球上の1人の人間であったということです。
そういったことは浄土信仰を通して誰もが知ることがらでしょう。
こんな昔のことを証明する手立ては一般の人間にはないのですが、しかし、信仰とは、それが、実在であったかどうかはどちらでも構わない。その人の信仰の中で、実在であったればいい、ということを信仰に心篤い人は誰もが同じことを言うのです。
逆に、そんな昔のかなたの話しゆえに信仰出来るし、信仰が揺るがないということでもありましょう。
誰もが、歴史小説や歴史物語に夢中になるのは古今東西変わらぬ事実です。
それを基にしたテレビ番組の内容の真偽をいちいち検証しながら観る人はいないでしょう。
その夢中になっている人の中で真実であればいいのです。
それと一緒でしょうか?
しかし、繰り返すようですが、そのことを完全に信じ切っていては、現実に直面した時に打開の方法がみれなくなるなってしまうがゆえに無批判でいることなかれといっているのです私は。
病気になったとして、それを経文を唱えることで治る、などという戯言を信じていては更に病気が悪化するのです。
そうではなく、その病気に効くことを探して、調べて妥当と思われることを施していく、これが王道なのです。
主体的に調べて勉強し、病気にならない事を普段から施すというのならば猶の事良いのです。
浄土真宗中興の祖として知られる蓮如は、従来の本尊に親鸞の像を加えるというアレンジを施したのです。

それによってその組織および人生が晴れやかになったのであれば、そのアレンジは批判すべき筋合いのものではないと私は思うのです。
こういう守破離は大事なのです。
だから、その宗教で言われていることに無非難にならずに、自分でもアレンジせよ、ということを私は提言したいのです。
その際は考えに考えてせよということです。
何でもかんでも変えていけなどという暴論は申しますまい。
そういうことです。
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今回はこれにて失礼いたします。
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