宗教対象に絶対なるものはない。ゆえに、自身で至高と思うものを崇拝対象にすべし? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というものは、やはり人にとってなくてはならないもののような気がします。
神や仏などは、一般人には見えません。
そういうものは見れる人にしか見えないですし、神や仏はこの世での使命を委託された人のもとにしか来ません。
多くの宗教を研究してきて、そのことを痛感しています。
しかし、そんな一部の人にしか見えないのにも関わらず、何故か人は宗教にぞっこんになったりします。
いくら科学が発達して、そういうものに一見、不要と思えるものでも、縋りたくなるもののようです。
そういう依拠するものがあることによって人の精神を強靭な糧にさせるようです。
それが宗教だ、と言えるでしょう。
でも、それは何も神や仏のように人智を超えた存在ではなくてもいい気がします。
超越した能力を持った人を自身にとっての神にしてしまえばいいのです。
生涯で100冊以上もの本を出した著作家がいたりしますが、こういう人も神や仏にこの世での使命を委託されたからこそ、出来る芸当なのです。
まさに神懸かりの状態なのです。
そして、常人には書けないような素晴らしい文章を書いたりすることも往々にしてあるのです。
その人の本を一気に集めてしまうのみならず、その人が書いた雑誌のバックナンバーをすべて集めて、その人の書いた事柄や文章をパソコンに書き連ねて、上書きしてデータベース化してしまう。
誰に強制されるわけでもなく、自主的にこういう困難な作業を無意識のうちにしてしまう。
こういう人が人生にいるかいないかで、その人の人生は明かるくなり強靭に生きていけることは必至です。

私は、これといった神や仏といったようなものを対象に崇めていくつもりはないです。
シヴァ神、アッラー、阿弥陀仏、廬舎那仏…こういった特定の対象を崇めたりすることはないのですが、神懸かりと思われる著作家をそういうものとして尊崇しているのです。
こういう人がいるからこそ、私は力強く生きていける、という気がするのです。
こういう思いでいる人は少ないでしょうが、大幅な精神的な不満を解消してくれる宗教的思想の持主が崇拝の対象になっているのです。
一般的に宗教にぞっこんになってしまう人は、同じように大幅な精神的な不満を解消してくれる思想を擁した宗教団体に依拠するのでしょう。
そういう対象物に出会ったことがない私は、今のままのスタンスを貫きたいと思っているのです。
いろんな著作物を読んだりしていると、センセーションを巻き起こしたりするパターンが往々にしてあるのです。
その著作家の本を興味がてら買って読んでみる。
しかし、何のことはなく味気ない本だったり、意味不明で難解極まる本だったりで、まるで自分の食指を満たさないものだったりすることがよくあるのです。
「こんな思想家が?」と思える人であっても、大学教授たちが凄く崇めてやまないのです。
その人の著作物を何冊読んでも、その感想は変わりません。
でもそういう人を自分にとっての糧にはできないものです。
感動できないものを、感動しているふりをしたところで時間の無駄ですから。
そういう理解できないけれども周りの大勢の人に崇められている著作家の最適な例は丸山真男なのです。
この人は政治学の神様などということを言っていた政治学史の教授が言ってましたが、私にはそういう称号はふさわしくないと思いました。
難解で読みづらく、言っていることは大したことはなかったですし、西洋主義者で西洋のことは正しいと措定して、日本のものは後進だというスタンスがよくわからなかったのが正直なところです。
西洋には学ぶべきところはあれど、すべてを無批判にしていいというのであれば、その論拠を書いてもらわなければこちらは納得できないのです。
その論拠がなかったのです。
また私はロックを聴くのが好きですが、自分が「こんなアーティストが何故こんなに人気あるの?」と訝し気に思うパターンもあります。
メロディはそこそこいいものの、歌詞は意味のない言葉の羅列で、聴いていて学ぶものがないし、時間の無駄と思えるものがよくあるのです。
そんなアーティストの例はONE OK ROCK(下写真)ですね(笑)
意味のない言葉の羅列を聴いていても、感動しないし、聴いていて時間の無駄と思えるに充分なので、有料放送でライヴをハードディスクに録っていたものの、消去しました。
だがそれは私の個人的な意見であって多数派の意見を代弁するものではないのです。
流行っているからといって迎合していたのでは時間の無駄になるという経験があるので聴かないしライヴにも行かないのです。
自分が、人と比べてではなく、それをしているだけで自然と集中して読んでしまう、聴いてしまうというものを選び、それに接していくことで幸せになれるという経験理論があるので、そうしているだけです。
しかし、このバンドは東京ドームで2日間満員にするのですからかなりの人気があるのでしょう。
私には意味不明なのです。
こういうアーティストでも、ファンになる人を蔑んだりはしないのです私は。
同じように宗教ならば、それら崇拝対象を崇拝したい人は崇拝すればいい、というスタンスなのです。
やはり価値観、好みなどは千差万別なので、自分がいいと思っても他人がそうなる保証はないのです。
また自分が悪いと思っても、他人は良いというかもしれないのです。
これも千差万別です。
こういった相対主義こそが、宗教へのスタンスとして適当なのではないかと思われてならないのです。
親鸞は自分の宗教に対して「人に強制することはできない」としていたのです。
崇めたい人は崇めればいいし、崇めたくない人は崇めなくていいということです。
これこそが絶対と決めつけて、無理やり宗教勧誘をすることによって犯罪になる可能性があるので注意しましょう。
●そういうスタンスに興味のある人におすすめなのが以下の電子書籍.ペーパーバックになります!(ペーパーバックとは注文が入り次第、印刷をして注文者の住所に届ける製本システムの事です!)
⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて終了します。
ここまでの精読に感謝いたします!

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