書物の難解性もカリスマ性の一種?それを神や仏がその人に付与した? (親鸞とユダヤカリスト)
こんにちは。
宗教を様々に研究してきて、開祖といわれる人たちの書いた書物はどれも博学性、学術性に富んでいる、ということが挙げれると思います。
浄土真宗の親鸞が書いた『教行信証』は膨大な資料によって知識量がわんさか詰まっているのです。
そこに内包されている知から醸し出される雰囲気が、強く美しい文体を彩る結果になっているのです。
博学であったのは、日蓮正宗、日蓮宗の祖であった日蓮と一緒です。
当時の日本はこんにちのように北海道から沖縄まで公用語としなくてはいけない東京弁のような共通の言語というものはなく、いろんな無数の方言があったのは間違いないです。
それゆえに、当時の書物を訳すのはかなりの困難が待ち構えているのです。
しかも、親鸞は一宗派を作るつもりはなく、師である法然の教えを日本国中に広めようという気概で弘教に励んだのです。
こんにちのように仏教がそれぞれの派を形成するようになったのは明治時代からなのです。
その派内で、興味を持った人にだけ講義をするというスタンスもなくただ、法然の教えを広めたいという気概だけであったので、猶更読者を想定した書き下しを想定はないのです。
そんな状態にもかかわらず、親鸞の教えを解読したい、という気概に襲われた人たちが、親鸞の書いた独自の単語や用語を列挙して訳した辞典も今でもあるのです。
よほどカリスマ的な魅力や威厳が親鸞にあったのがわかります。
他のあまり興味のない著者の本で、いろんな難解な表現や意味不明な単語が羅列してあった本があったら、そのまま読まずに捨てたか、中古本屋に売ったでしょう。
しかし、親鸞の本に関しては「解読して読まなければ!」と思わせるカリスマ性があったのでしょう。
多くの人がそう感じ、親鸞特有の単語や言い回しの解読をして辞典まで上梓されることになったのです。
私が、幼少のころに親鸞の書物にあって、そういう衝動に駆られて、全部読みこなしたかどうかはわかりません。
私としては読みやすい表現こそ王道と思っているので、難解な表現ばかりの著書だったら、30ページくらい読んで、意味が解らなかったら、中古本屋かオークションに出して、他のわかりやすい本を読むことになるでしょう。
時間がもったいないので。
確かに難解な表現の本は、読者に「これどういう意味だろう?」と興味を喚起させる効用もあることは確かです。
しかし誰でもいいかというとそうではなく、それは人によりけりということです。
「難解でも読みこなしたい!」という衝動に駆られる人と、「こんな難解な本読むに値しない!」と忌避する人が同著者の本でもあるということです。
難解でもカリスマ性があり、ビッグセールスを挙げれている人というのは、前者のような思いにさせてしまう筆致なのでしょう。
それゆえに、その人が逝去してもファンが途絶えないのです。
そういう好例として、日本の丸山眞男(下写真)という政治学者が挙げれるかと思います。
この人は、信奉者が多くいて、私の大学時代においても、この人を神と崇める教授が何人もいたくらいです。
そういう状態ゆえに、この人の本を買って読みましたが、どうも難解で読みにくく、最後まで読破しても感想が出なかったくらいです。
その後、3冊くらいこの人の本を買って読みましたが、印象が変わることはなかったです。
なのに、なんでこんなに崇める人が出てくるのかわかりませんでした。
ここで問いたいのは、「難解さ」が、丸山の魅力の1つになるのだろうか?、ということです。
確かに簡潔すぎる単語を使うよりも、若干難解な語を使うことで、読み手に思考の契機を与えてくれるもので、覚醒作用があることは確かです。
しかし、あまりに難解すぎて、読む気が失せるほどのモノであっては、意味がないでしょう。
私にとってはまさに丸山が好例なのです。
加えて現代人にとっては難解な古文の引用が多いのも問題でした。
それゆえに、丸山よりも、自分の言葉でわかりやすく論述している著作家の方が好感が持てたのは間違いないです。
明治期に、日本の学界ではドイツ語やフランス語の文献を翻訳していたが、そこでは日本語に訳しきれない未知の単語を、面白難しく書いていたのです。
日本は、第二次世界大戦の敗戦国ゆえに、後ろめたさを感じ、そういった先進国からの学問から得た難解語を交えて表現するのが科学の本質という誤った知的土台があったのではないか、と思われてならないのです。
社会を大幅に変革する思想(宗教内でのそれを含む)はぞっこんになると、ややもすれば、その対象に無批判になりがちです。
親鸞の正信偈や和讃によって民衆がわかりやすい教えになったのです。
しかし、難解であることによって、読者の関心を喚起する作用があるのは間違いないのです。
かといってあまりに難解すぎても、読み手のモチベーションを下げることになるので、そこは注意しなくてはならないでしょう。
何事も、過ぎたるは及ばざるがごとし、とはよく言ったものです。
しかし、そんなカリスマ性を親鸞に付与したのは神や仏といった人たちの仕業だったのでしょう。
一途な思いで、ただ念仏を衆生に伝えたい…そんな思いで、日々寝る間も惜しんで努力をしている人たちにそういうカリスマ性を神仏が付与するのでしょう。
いろんな事柄を観ていくうちに、そういう非科学的な事象は起こってくるのです。
しかし、そのカリスマ性も、誰にでも相性が良いというわけではなさそうです。
そういうカリスマ性を有した人物を受け入れられない輩は一定数どの組織にもいるのです。
親鸞にもいたでしょうし、こんにちでもいるでしょう。
先の丸山眞男も仮にカリスマ性を有した人物であると仮定しましょう。
しかし、私のような受け入れられない人物も一定数出てきてしまうのです(笑)。
心底、この人は素晴らしいと思っても、他団体の人間の中からも内の団体の中からも素晴らししくないと烙印を押してくる人が表れてしまうのです。
自派の人間からは無批判な態度でいられることの方が圧倒的に多いでしょう。
それに甘んじて、無批判でいられるとついその宗教の長は全能感に覆われて裸の王様状態になり、全能感に覆われて、思考判断力が尋常ではなくなり、その宗教の組織が誤った方向に向かってしまうことがおおいにあるので、そこは充分に注意すべきでしょう。
しかし、親鸞の書物が難解なのは、こんにちのように標準語がなかった時代でもあり、親鸞は念仏を多くの人に伝えたいという思いゆえに、読者などというものを想定していなかったということもあり難解という事情だったのです。
それでも、親鸞の書物を読むための辞典まで後世になって出てきた、ということは、親鸞に注目を集めさせるための神や仏の計らいだったのかなという気がしてくるのです。
その真実は、誰にも分りません。
やはり神や仏のみぞ知る、ということでしょう。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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