中世とは違って観念の増大した現代人の宗教への望ましいスタンスはどんなものか? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というのはいろんな団体を研究していくと興味深いもので、その宗派によってことの対処の仕方が違うのです。
先祖供養はどのように仏教宗派はしているのでしょうか?
やはり毎日の経文あげの際に、先祖供養の経文をあげたり、心の中で供養の念を押したりするのでしょう。
しかし、こと浄土真宗では違います。
そういった供養の文言もあげなければ、心の中で唱えたりすることもないのです。
この団体では、普段から南無阿弥陀仏と唱えていれば、極楽浄土に往生できるとしていたので、信徒が死んでもそういう経文をあげたりすることはないのです。
誰もが阿弥陀仏に帰依すれば成仏できるとしていたがゆえに。

しかし、疑問が湧きます。
阿弥陀仏に帰依しなかった親族が、この世に彷徨い出て、浮遊霊などになっていたらどうするのでしょうか?
あるいは不慮の事故で亡くなってしまった地縛霊になってしまった他の家族の例の場合はどうすればいいのでしょうか?
ということですね。
また、実際は生前においてしきりに南無阿弥陀仏と唱えていても、実際は極楽浄土に行けずに現世に彷徨っているかも知れないのです。
その際は、親族に災いをもたらしたり、霊障をもたらしたりすることは間違いないでしょう。
その際はそういう霊を成仏させてくれる祈祷師に頼んだり、陰陽師に頼んで除霊してもいいのはわかりきったことでしょう。
そこは「親鸞聖人の言いつけだから…」ということで卑屈にならずに、真剣になってこういったことを検索して、依頼に踏み切ることが大事でしょう。
やはり守破離はいつの世でも必須なのです。
また兼教ということをしている仏教団体が現代ではどれだけあるでしょうか?
そして、それが現代でもどれだけ可能でしょうか?
兼教とは三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗の6つを修めるのが奈良時代以降の仏教の常識だったのです。

そんなことは今のような観念の増大している、その宗教の事について書かれたいろんな本や冊子が無数に存在している時代には、6つもの仏教を修めるのは無理なのは言うまでもないのです。
それが可能なのは、仕事の就業を一切やめて、それらを修める気概のある人でなければ無理です。
可能であるとすれば、この6つのうち2つだけを中心にして仏教を修めていくことなら可能でしょう。
それ以上はほんの触り程度であれば修めていけるでしょう。
そして自分の属す宗教を修めればいいのでしょう。
自分の専門の分野+隣接する分野を1つ、というのが大学教授の修め方の王道であるというような文を読んだことがあります。
それでもいろんな議論はあるので、それ以外にもほかの道は充分にあるような気がするのは確かですが…。
また宗教の根源を探っていくと共通点があるのです。
鎌倉時代に興った日蓮の日蓮宗や日蓮正宗、道元(下写真)の曹洞宗。

この2つには共通点があって、日蓮や道元はともに天台宗の園城寺に教学したのです。
ゆえに、その天台宗で経文として読まれていた自我偈というものは、日蓮宗や日蓮正宗や曹洞宗の毎日の日課の経文として読まれているのです。
その他、どの宗教にも存在する本尊の名を呼ぶことによって救われる、という思想は日蓮宗、日蓮正宗とともに浄土真宗でも一緒なのです。
このように違う宗派でも、共通する点はあるのです。
要するに思想はいきなり無から有が生み出されて、それが純粋培養されるわけではないのです。
もちろん宗教思想も同様です。
宗祖がいろんな思想を得て、そこから重要と思われるものを取り入れて、いらないものを取り入れないという取捨選択を経て、それが長きにわたって熟成され、また取捨選択を経て、という繰り返しによってその宗派の思想を形作るのです。
そして他の宗教、非宗教問わず、いろんな団体や人物の発した思想をもとに社会で様々な活動が行われて、一国の経協がなされるのは、これまでの歴史を垣間見れば明らかでしょう。
また、こういった宗祖たちの共通点として、いろんな書物を読みに読んできたということです。
その数は、おそらく今の現代人の方が上でしょう。
安価で、無数に本が入手できる現代においては猶更に。
ならば、自身でいろんなジャンルの本を濫読して、必要か不必要かで取捨選択して、そこから得たものを脳内に入れて熟成させ、考えて自身の哲学を構築することを勧めたいのです私は。
確かに偉大なる宗祖には一般人にはないなみなみならぬものが感じられることがあるのは言うまでもないでしょう。
その際は、そこからヒントを得るためにその宗教書を読んだり、その宗教の会合に行ったりするのもいいでしょう。
しかし何から何まで、その宗教に任せるというのでは必ず片手落ちになることは必至なのです。
そうならぬように、普段から情報収集はしていくのがいいでしょう。
開祖の言動に学ぶ…それは、一般人には付与されなかった神仏から与えられた視野だったり、能力だったり、威厳性だったりするわけですが、こういったものを開祖になった人たちには複数持ち合わせているのです。
それは真摯に受け止めるべきであろうとは思います。
往相とは、自己の功徳を一切衆生に廻向しながらこの世から阿弥陀仏の極楽浄土へと生まれ変わる。

これは親鸞の言葉ですが、こういう人智を超えた世界に関する言葉は、誰にでも招来するわけではないので、やはり脳内に入れておくべきでしょう。
そこから、どれだけ信じるか?
どこまで深入りして学んでいくべきかはその人の価値観によって変わってきますが、その採択して行動した結果に招来したことについては、すべて自身の責任であるということを私は哲学として措定しているのです。
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今回はこれにて失礼いたします。
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