現代人に宗教心は薄れてしまった。だが、宗教心は必須…なぜ? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教を研究していると、どうも古代や中世や近世の人々と、現代の人々では、感性が違うなと感じる次第です。
教育を昔の人たちは、ほぼ仏教に頼っていたがゆえに、かなり権威的な存在に成り上がっていたのがわかります。
比叡山延暦寺(下写真)は、鎌倉時代においては、日本最高峰の大学であり仏教大学の観を呈していたのです。
誰もが、この山に赴いて仏教を学びに行ったのです。
法然、親鸞、道元、日蓮といった鎌倉時代に新仏教を興した開祖たちは例外なくこの山に学びにいったのです。
一般庶民も仏教に全般的に縋る生活が当たり前でした。
現代は、そんな生活からかなりの程度、隔たってしまったがゆえに、当時の人々の精神性を理解するのがかなり困難でしょう。
そういう宗教性のない生活、あるいはスピリチュアルな生活が皆無になってしまった現代人は、唯物論的な生活が当然という気概になってしまっているがゆえに、虫の知らせや、神や仏の声や、第六感といったものに信頼を置けなくなってしまっているのが現状でしょう。
その気持ちはわかりますが、一度保留しておいて、そういうものが書かれた本を読むなり、宗教に関する講義を聞きに行くのがいい気がします。
当時の庶民の精神生活を伝えるエピソードを紹介しましょう。
これは『日本霊異記』からの抜粋になります。
(中,22)
「和泉の国に殺盗を生業に因果を信としない盗人がいて、日ごろから寺にある銅製品を盗んでは、それをたたきのばして売っていた。
ある時、この盗人が尽恵寺の仏像の手足や首を切ろうとしてと、近くを通った人には、その金属音が「痛きかな、痛きかな」という叫び声に聞こえ、この悪事が露見した。
参集した尽恵寺の僧と信徒たちは、泣き愁え仏像を寺に運んで殯をして盗人を処罰することなく追い払った。
先の通行人が、盗人を役所に送り、盗人は獄につながれた。」
仏の声を聞くといったことは、そういう精神性になじんだ生活をしていない事にはかなわない事実です。

『日本霊異記』は景戒の著書ですが、その内容は、景戒の作り話なのか、ノンフィクションなのかはわかりかねます。
しかし、敢然と書かれていることを観れば、当時こういうことが当たり前にあったことがわかります。
「痛きかな、痛きかな」などという声が聞こえるなどというのはおとぎ話だろう、と現代人には片付けがちですが、真摯に仏に帰依している人には往々にして起こることであるといえましょう。
そういう似た話しでは、神が眼前に現れて、お前が宗教を創始しろというお告げがなされたということが現代社会においてもあるのです。
それが本当かウソかは、その創始者の書いた本を読み、その後、その宗教がどのような変遷を遂げているかを観た上で、自身で判断するのがいいでしょう。
神や仏などいないし、それらに帰依する必要もない、という所謂、唯物論の世界観で生きている人は、死後、地獄に堕ちるとまでいう開祖もいるくらいです。
それが幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏です。

ただ私が言いたいのは、宗教的世界観が信じれないという気持ちはわかる。
しかし、そこは謙虚になって、その宗教に関する本を一冊でいいから読んで、そこに書かれていることを脳内に止めながら、自身の生活をくらしながら、変化なりを見つけたり、変化がなくとも生活に必要なことがあるなと感じたら、その世界観を受け入れたらどうか、ということを提案したいのです。
それで興味が出てきたら、さらにその宗教について勉強していき、多大なる影響を受けたというのならば、その宗教の信者になるのがいいでしょう、ということです。
そして更にその宗教での生活を続けていけば、神や仏の声が聞こえるようになるのではないか、と思われてならないのです。
「そんな神や仏の声が聞こえて何になるの?」と反論が聞こえそうですが(笑)、そういう声は大抵、その人の人生に有意義なこと、あるいはその周りの社会をよき方向へ導く意図だったりするのが、常のようです。
いろんな宗教を研究していって、そう感じることが多いです。
経済学、法学、経営学、文学、人類学、民俗学、考古学…といろんな区分けが大学ではできていますが、それは膨大な情報を捌くのに都合がいいからそうしているだけであって、他の学問が自身の属す学部の研究に役立たないなどとは言えないのです。
否、他の学問から学び、非常に役立つことは往々にしてあるのが実情です。
ゆえに、宗教も一緒なのです。
非科学的といって一蹴するのではなく、謙虚に学ぶことが大事でしょう。
すると、自身の生活を向上させる働きを持ったものであることが往々にしてあるのです。
しかし、心しなくてはならないのは、いくら偉大なる教祖が書いた教義でも、現代社会との兼ね合いを考慮せずに、そのままその教祖の言ったことを強行突貫させるなどということは慎まなくてはならない、ということです。
開宗された当時には妥当であっても、現代社会ではどう考えても妥当ではないことは往々にしてあるのです。
それにもかかわらず、開祖の言ったことを突破させようとするのは、単なる原理主義として疎まれることがあるので、最大の注意が必要でしょう。
そういう注意点を心に留めながら、宗教に関する勉強はしていく必要性は現代でもあると感じている次第です。
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今回はこれにて失礼いたします。
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