親鸞の悪人正機説や、日本仏教の観音像もキリスト由来?そんなことありえない?いやありえます! (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教の開祖になる人は決まって読書家ということが共通しているのです。
ものすごくたくさんの書物に接しているからこそ多面的に物事が見れて、その当時の衆生が欲していることをも、貫き通して観ることができて、それに救いとなる教えを展開して、支持を得て、多くの信者を取り込むことが出来たのです。
その開祖たちは、その関連する宗教の他に、異教ともいえる宗教を学んでいることが往々にしてあるのです。
あの浄土真宗の親鸞は、キリストを学んでいたのです。
それが悪人正機説に繫がったのです。
親鸞がキリストを学んだ?と訝し気に思われるでしょうが事実なのです。
京都の西本願寺には親鸞が学んだ漢語訳された景教(東方ネストリウス派)の経典である『世尊布施論』があるのです。

これは、7世紀に景教徒によって日本にもちこまれているのです。
これはいまも西本願寺において大切に保管されているのです。
内容は、イエスの「山上の垂訓」(マタイの福音書5〜7章)等に関するものです。
「あなたに罪を犯している人がいるなら、その罪をあなたが赦すなら聖なる方も、あなたの罪を赦してくださいます。…あなたの宝を地上にたくわえるのはやめなさい。盗人や強盗に略奪されたり、きず物になったりしてしまいます。あなたの宝は天国にたくわえなさい。そこではこわされることも失われることもありません…」
『世尊布施論』はその後、アダムの創造と堕落、イエスの降誕、生涯、教え、さらに基督教的な救いなどについても述べています。
これを親鸞が学んでいたからこそそれが親鸞の思想を形成するうえで重要な部分を占めているので、西本願寺に保管されているのです。

キリスト教の聖書には十戒の記載があります。
それは以下の通りです。
あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
みなさんはこの十戒をみてどう思われますか?
これだけならば、「何だ遵守するのは簡単だ!」と思われるでしょう。
しかし、その章の下には、300以上もの禁忌が明示されているのです。
ゆえに、それをすべて遵守するのは不可能でしょう。
ゆえに、親鸞が「人間誰もが罪を犯している悪人である」という論理に達したのは当然の事でしょう。
その悪人でさえも、南無阿弥陀仏と唱えれば、死後、極楽浄土に往生できるとしたのです。

決して悪いことを率先してやれということではないのです。
悪人でさえも往生出来るというのならば率先して悪行をこなしてやろうという思いに至った人がいてもおかしくはないでしょう。
社会が大変革、あるいは大仰に変わる時代になると、誰もが宗教に救いを求めがちになるようです。
そんな雰囲気を察して、激動の時代に、法然、親鸞、日蓮、道元といった僧たちが一斉に新仏教を創始したのでしょう。
やはり、平和な時代に英雄は出ない、というのはどの時代でも真理のようです。
ただ同じような宗旨の宗教では、あまり目立つことはできなかったでしょう。
いろんな店が建っている時に、自分も同じような店を出しても注目はされないでしょう。
そこで大事なのは差別化ということでしょう。
鎌倉時代に親鸞が差別化に成功したのは、やはり悪人正機説であり、その由来がキリスト教だったということでしょう。
人を殺してはいけない、生物を殺してはいけないという古代仏教では禁忌だったことを破らざるを得なくなった。
戦があれば相手の人間を殺さなくてはならなくなった。
魚や貝を採って殺して、それを食べなくてはならなくなった。
それゆえに当時の人間は誰もが悪人。
様々な規定外の禁忌を犯している当時の人々は悪人。
これはキリスト由来でのことです。
そこで注目したいのは、浄土教を中心とした仏教に潜むキリスト性です。
罪概念にしろ、観音信仰にしろすべてキリスト教由来なのです。
観音も?と思われるでしょうが事実なのです(下写真は群馬県真言宗寺院の慈眼院の白衣大観音)。

古代仏教にもともと慈母観音の信仰はなかったのです。
マリヤのイエス+観音信仰、菩薩信仰が合体したのです。
観音とは正式には「観世音菩薩」といいました。
菩薩はもともと仏教の教理ではみな男なのです。
女の菩薩、女の観音は古代仏教上ありえないのです。
その後、日本に地蔵信仰が生まれました。
早死にしてしまった幼子を死後の世界で助けてくれる菩薩という信仰ができたのです。
その由来は何か?
マリヤのキリストは幼子を抱きしめて幼子を天国に向かいいれてくれる、という信仰から生まれたのです。
仏教も、キリスト教も同じユーラシア大陸において布教されました。
ゆえに、その教えが触れ合えば必然的に、融合してしまうものなのです。
それが必然ゆえに、批判しても仕方のない事でしょう。
そこでどのようにして自分の哲学を形成していくか、がポイントになるのでしょう。
純粋か雑種かということを問うことではなくて。

阿弥陀仏(光)にしろ、浄土教の教え全般にしろ、聖徳太子の思想にしろ、キリスト教の影響を受けていたのは明らかだったのです。
すると、いかにキリスト教が仏教に大いに影響を受けさせたかが明らかになっているでしょう。
ゆえに、キリスト教が神の使途となって大いに世界大の布教を成し遂げられたかが明白でしょう。
ゆえに、キリスト教こそがこの世で誰もが至高の信仰にすべきである、という意見が出てきてもおかしくはないでしょうね。
しかし、それでは短絡的であるとするのが私の意見なのです。
そのわけは何か?
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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