いかに素晴らしい教えでも、その国全体に即座にいきわたらせることはできないという人類の教訓!(幸福の科学)
こんにちは。
古今東西を問わず、人間社会には、人智を超えた存在に対する畏敬の念や、それに願いを込める行為は、存在せざるを得ないような気がします。
人間の力だけでは、社会にある問題点を改善することなどできた話ではないからです。
日本の仏教でいえば、日蓮系の宗派では毎日「南無妙法蓮華経」と唱えて、問題点の打開を図ることを目的にしているようです。

逆に浄土系では「南無阿弥陀仏」と唱えるのですが、それは決して、その行為によって現状を打破するのではなく、よくなったらその結果は阿弥陀仏のおかげという意味で、そう唱えるのです。
日蓮系と浄土系は、ほとんど逆な発想になっているようです。
私はどちらにつくでもなく、それぞれの人が、自分の支持する方を支持すればいいじゃないか、としているのです。
私が、どの人にいって、そのほとんどの人を改宗させることなどできない、としているモラルなので、唱えれば何とかなる、という考えにはならないですね。
だからといって、逆にうまくいったら、それは阿弥陀仏のおかげというようにも考えれないですね。
私はあの世になど行けないですし、その阿弥陀仏のおかげかどうかも判断しようがないのですから。
いわばどっちつかずですね(笑)。
どちらにするべきか?
どの程度中道をいくべきか、というその具合は人よって違うし、自分で見極めなくてはいけないので、その程度はこれから答えを見つけていく所存です。
これまで取り上げてきた幸福の科学のスタンスは、前者、つまり日蓮系に近い気がします。
自身のみの周りは思想と行動によって変えていかなくてはならないとする立場ですね。
その総裁だった故.大川隆法氏(下写真)は、死ぬまでに10万冊もの本を読んできたということもあり、その中に当然、政治に関する本も無数に読んできたことでしょう。

長年にわたる官僚機構が大手をふるってきたので、日本の現状が打破できない。
それを野放しにしたままではいけないが、既得権益を守ろうとするのはどの世界でも一緒で、やはり政権交代を目指さなくてはいけないと感じたのでしょう。
かといって、それを他の政党にゆだねるのを待つもので期待できない。
それに支えられているたの野党を選ぶにも、日々の仕事や娯楽や遊びに忙しく、政治になどかまっている時間のない国民にも期待できない。
当然、その国民に直接民主制を期待することなど無理としたのでしょう。
そこで大川総裁は自分の宗教から政党をつくった。
そして自身が総理になるとしたのでしょう。
しかし、同じように宗教をバックにして結党した公明党にしろ、国会議員として当選するまでに30年も必要だったのです。

それがいきなり、結党から5年もたっていない宗教団体をバックにしてできた政党には不可能だったのでしょう。
これまで、今だに幸福の科学のバックでできた幸福実現党からは国会議員が選出されていないのです。
地方議員は幾人も出ているようですが。
エリートに任せるのが政治…これは、国民主権の世の中では聞こえの悪い言葉ですが、事実です。
何も知らない、政治について勉強していない人に政治など任せられることではないのです。
大川総裁自身は東大法学部を出ているし、日々、政治に関する情報は入手して、政治の大家といえるほどの理論も持っている。
開宗からわずか30年なのに、世界160か国以上に、自分の興した宗教が広がっている。
それならば、自分がこの日本の舵を執るとしたのだろうことは頷けます。
しかし、どんな素晴らしい人でも、いきなり国中の認識を一変させることはできた話ではないのです。
その大川総裁のスタンスと私は共通する場面があったのは事実です。

大学時代に、科学は現状をよくするためにあるのだとわかりました。
現状打破のためには、多くの人が科学を学び行動につなげなくてはならない。
しかし、最高学府に通いながら遊び呆ける大学生たちを見ながら、これでは打破も何もない…として、現状を嘆いていたのです私は。
大学時代に、都市人類の冷たさをドキュメントした本を読むと、その感情がさらに盛り上がり、そして周りの人間への憎しみに変わったのです。
しかし、世の中を見るにつれて、そういう現状打破の気持ちを持つのはいいが、科学を学んでいる人だけで世の中は成り立っているわけではないし、その周りの人間の人の能力によって自分は生かされているということを知って、自分の考えを改めました。
それに社会主義の歴史を見てもわかるように、上から強制させても国全体の文化を変えることはできないのです。

主体性は、その人その人によって千差万別であって、政治に興味ある人もいれば、いない人もいる。
その興味の程度は、全然違うのです。
ゆえに、構成員全員がこう進まなくてはならないと意気込むのはいいですが、望む通りにはならない、ということがわかります。
そこで思い起こす言葉があります。
ロバート.キヨサキ(下写真)の言葉ですが、ロバートはこういいました。

「自分が金持ちになろうと思ったら政治に期待するのではなく、自分が金持ちになる努力をした方が早い。」
これは至言です。
もちろん、宗教に願うのも同じでしょう。
自分が金持ちになりたかったら、宗教に願うのではなく自分が金持ちになるように行動したほうが早いのでしょう。
こういった本などからも得られる思想なども、受け入れながら、自分の哲学を形成することもかなり重要でしょう。
もちろん宗教からも得れるものはありますが、それだけに依拠していてはいけませんね。
そんな立場に共鳴できる人には以下の電子書籍はお勧めです。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯ロバート.キヨサキ
古今東西を問わず、人間社会には、人智を超えた存在に対する畏敬の念や、それに願いを込める行為は、存在せざるを得ないような気がします。
人間の力だけでは、社会にある問題点を改善することなどできた話ではないからです。
日本の仏教でいえば、日蓮系の宗派では毎日「南無妙法蓮華経」と唱えて、問題点の打開を図ることを目的にしているようです。

逆に浄土系では「南無阿弥陀仏」と唱えるのですが、それは決して、その行為によって現状を打破するのではなく、よくなったらその結果は阿弥陀仏のおかげという意味で、そう唱えるのです。
日蓮系と浄土系は、ほとんど逆な発想になっているようです。
私はどちらにつくでもなく、それぞれの人が、自分の支持する方を支持すればいいじゃないか、としているのです。
私が、どの人にいって、そのほとんどの人を改宗させることなどできない、としているモラルなので、唱えれば何とかなる、という考えにはならないですね。
だからといって、逆にうまくいったら、それは阿弥陀仏のおかげというようにも考えれないですね。
私はあの世になど行けないですし、その阿弥陀仏のおかげかどうかも判断しようがないのですから。
いわばどっちつかずですね(笑)。
どちらにするべきか?
どの程度中道をいくべきか、というその具合は人よって違うし、自分で見極めなくてはいけないので、その程度はこれから答えを見つけていく所存です。
これまで取り上げてきた幸福の科学のスタンスは、前者、つまり日蓮系に近い気がします。
自身のみの周りは思想と行動によって変えていかなくてはならないとする立場ですね。
その総裁だった故.大川隆法氏(下写真)は、死ぬまでに10万冊もの本を読んできたということもあり、その中に当然、政治に関する本も無数に読んできたことでしょう。
長年にわたる官僚機構が大手をふるってきたので、日本の現状が打破できない。
それを野放しにしたままではいけないが、既得権益を守ろうとするのはどの世界でも一緒で、やはり政権交代を目指さなくてはいけないと感じたのでしょう。
かといって、それを他の政党にゆだねるのを待つもので期待できない。
それに支えられているたの野党を選ぶにも、日々の仕事や娯楽や遊びに忙しく、政治になどかまっている時間のない国民にも期待できない。
当然、その国民に直接民主制を期待することなど無理としたのでしょう。
そこで大川総裁は自分の宗教から政党をつくった。
そして自身が総理になるとしたのでしょう。
しかし、同じように宗教をバックにして結党した公明党にしろ、国会議員として当選するまでに30年も必要だったのです。

それがいきなり、結党から5年もたっていない宗教団体をバックにしてできた政党には不可能だったのでしょう。
これまで、今だに幸福の科学のバックでできた幸福実現党からは国会議員が選出されていないのです。
地方議員は幾人も出ているようですが。
エリートに任せるのが政治…これは、国民主権の世の中では聞こえの悪い言葉ですが、事実です。
何も知らない、政治について勉強していない人に政治など任せられることではないのです。
大川総裁自身は東大法学部を出ているし、日々、政治に関する情報は入手して、政治の大家といえるほどの理論も持っている。
開宗からわずか30年なのに、世界160か国以上に、自分の興した宗教が広がっている。
それならば、自分がこの日本の舵を執るとしたのだろうことは頷けます。
しかし、どんな素晴らしい人でも、いきなり国中の認識を一変させることはできた話ではないのです。
その大川総裁のスタンスと私は共通する場面があったのは事実です。
大学時代に、科学は現状をよくするためにあるのだとわかりました。
現状打破のためには、多くの人が科学を学び行動につなげなくてはならない。
しかし、最高学府に通いながら遊び呆ける大学生たちを見ながら、これでは打破も何もない…として、現状を嘆いていたのです私は。
大学時代に、都市人類の冷たさをドキュメントした本を読むと、その感情がさらに盛り上がり、そして周りの人間への憎しみに変わったのです。
しかし、世の中を見るにつれて、そういう現状打破の気持ちを持つのはいいが、科学を学んでいる人だけで世の中は成り立っているわけではないし、その周りの人間の人の能力によって自分は生かされているということを知って、自分の考えを改めました。
それに社会主義の歴史を見てもわかるように、上から強制させても国全体の文化を変えることはできないのです。
主体性は、その人その人によって千差万別であって、政治に興味ある人もいれば、いない人もいる。
その興味の程度は、全然違うのです。
ゆえに、構成員全員がこう進まなくてはならないと意気込むのはいいですが、望む通りにはならない、ということがわかります。
そこで思い起こす言葉があります。
ロバート.キヨサキ(下写真)の言葉ですが、ロバートはこういいました。
「自分が金持ちになろうと思ったら政治に期待するのではなく、自分が金持ちになる努力をした方が早い。」
これは至言です。
もちろん、宗教に願うのも同じでしょう。
自分が金持ちになりたかったら、宗教に願うのではなく自分が金持ちになるように行動したほうが早いのでしょう。
こういった本などからも得られる思想なども、受け入れながら、自分の哲学を形成することもかなり重要でしょう。
もちろん宗教からも得れるものはありますが、それだけに依拠していてはいけませんね。
そんな立場に共鳴できる人には以下の電子書籍はお勧めです。
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幸福の科学は創価のように大宗教団体になりうるか?ウィリアム.ジェイムズの導き出した真理を元に考察する! (幸福の科学)
こんにちは。
人間精神を大きく俯瞰して論じる場合に大事なのは、アメリカの哲学者であったウィリアム.ジェイムズ(下写真)の言葉です。

彼は、「かたい心」と「やわらかい心」という2つの人間類型を挙げています。
この2つが人間社会に大きく分けて分類されるとしていたのです。
「かたい心」とは、リンゴでも、みかんでも、バナナでも、パインでもいい。
その間に序列をつけたり、関係づけたりするのではなく、いろんなものが並列的状態にあるというように、多元的に捉える思想です。
それに対して、「やわらかい心」は、この世は最終的に1つの絶対価値に収斂して、その体系の中に諸々のものがちりばめられているというように世界を一元的に捉える思想です。
前者が八百万の神々が併存する日本と、紙は1つとするキリスト教やイスラム教という違いになる。
「かたい心」の人は、当然ながらものごとを断片的に捉え、その断片1つ1つに意味があるという立場をとる。
それに対して、「やわらかい心」の人は、1つ1つの情報や事柄が大きな体系の中に組み込まれていないと満足しない。
体系の中に組み込めないものは無意味として排除して、理論や体系というものに関連させている。
いわば多元論者は相対的、一元論者は絶対的と言える。
この分析からすると、「かたい心」と「やわらかい心」の2つは形容の仕方が逆のような気もしますが、とにかくウィリアム.ジェイムズはこのように分析しているのです。
立場上の違いから察せるように、「かたい心」の人は文字好き、「やわらかい心」の人は文字嫌いという結果になってくるでしょう。
そして、ウィリアム.ジェイムズによれば、後者の方が多数派であるということです。

これで私は目が覚める思いがしたのです。
日本の大学では、多くの人が講義をさぼり、年末の試験時にしか勉学に勤しまない理由がわかった気がして。
全国の大学生のアンケート調査で、自分が登録した講義に100%出席している人は、1割前後という結果をみて、大学生当時には驚きましたが、いまとなっては納得のいく内容だったのです。
世間の大半が文字嫌いゆえにこういう結果になるのでしょう。
そうなると、今後の宗教の発展を考えるには、このウィリアム.ジェイムズの理論を引き合いに出して考えなくてはならないだろうことは間違いないです。
ウィリアム.ジェイムズのいったことが古今東西、そしてこれからも変わらぬ真理ならば、創価学会のような大宗教団体に幸福の科学はなりえないのではないか?と思われてならないのです。

いや、創価学会に限らず、他のいろんな宗教を見ていくと、たいていの宗教の信者たちは、その宗教の事しか勉強しないのです。
「この宗教以外の宗教や分野について何か本を読んでいますか?」という質問に対して、「1冊も読んでない」とか、読んでも「2冊か3冊」という答えがほとんどです。
それはひとえに文字嫌いだからでしょう。
好きならば、主体的に本を買って読んでいくのが普通です。
しかし、その宗教が発行している新聞や冊子しか読まないのであれば、物事を広く深く認識して等閑視することはできないのは言うまでもないのです。
異なる2つの立場があるとします。
2者の意見をまず聞くのが王道です。
1者の意見しか聞かないのは論外です。
こういうモラルで私はいますから、2者の意見を聞きます。
するとそれぞれ言い分があるのがわかりますから、どちらか一方に偏ることはないのです。
それぞれが互いをくまなく観察すれば、それぞれの言い分を尊重することができます。
ゆえに、それぞれ一長一短なのがわかりますから、毎回どちらか一方に必ず与することはないのです。

そういうように人生を生きてきましたから、ある1つの宗教だけに拘るということが出来なかったのです。
母の友人の勧めで創価学会にはいるように言われました。
その際にその人が言うに「創価学会こそが世界最高峰の宗教だ」ということです。
世界最高峰の宗教がどれだけ素晴らしいのか見てみたくて、入会し、新聞も取り、会合も参加しましたが、最高峰などとんでもなかったです(笑)。
毎回毎回話される内容は一緒だし、学ぶものがないと判断した私は3か月で飽きました(笑)。
しかし不思議だったのは、「創価学会員はなぜ毎回毎回おなじことしか話されていないのに、新聞を永遠に取り続け、会合も欠かさずに出席しているんだろう?」ということです。
しかし、ウィリアム.ジェイムズの言葉を知って目が覚める思いがしました。
「世のなかの大半の人は文字嫌いなんだ。
だから毎回毎回同じようなことしか言っていない新聞を読み、会合を聞いている方が大抵の人は心地がいいのだろう。そういう多数派を取り込めることに成功したから創価は大きくなったんだ!」ということです。

そのことを創価学会の当局は認知しているからこそ、新聞で毎回毎回同じことしか書かない。
しかし、それでは満足しない私ですから、決然と創価からは距離を置くことにしました。
こういう立場の違いは生まれもって決まっているのですから、教育によって矯正できる筋合いのものではないのです。
ゆえにわたしは決然と、自分の立場を守ろうと決意したのです。
創価の大半の人はやわらかい心の持ち主ですから、自分とは異なる立場の人の意見をくまなく聞く努力が見られないのです。
創価に敵対する人がいても、その人の意見をくまなくきこうとはしない。
自分と一緒の立場の意見しか聞かないで終わっているのが大半のパターンなのです。
これでは真理に到達するわけはないのです。
しかし、それで満足してしてしまっている。
創価のバックでできた公明党の議員の意見しか聞かずに選挙に行って、その議員に投票する。
私は、公明党議員だけがいいことを言っているわけではないのですから、立候補者全部の意見を読みます。
それで支持したいと思えた議員に投票する、というのがこれまで貫いてきた姿勢です。
創価の人は、選挙前になるとしきりに、「公明党議員に入れてくれ」と電話をかけてきたり、家の前にきて依頼してきたりしますが、公明党議員にいれるかどうかは、自分の脳みそで判断するとしているのです。
これは、思想信条の自由ということでしょう。
こういうスタンスに共鳴できる人や、興味ある人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
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♯創価学会
♯ウィリアムジェイムズ
♯故服の科学
人間精神を大きく俯瞰して論じる場合に大事なのは、アメリカの哲学者であったウィリアム.ジェイムズ(下写真)の言葉です。

彼は、「かたい心」と「やわらかい心」という2つの人間類型を挙げています。
この2つが人間社会に大きく分けて分類されるとしていたのです。
「かたい心」とは、リンゴでも、みかんでも、バナナでも、パインでもいい。
その間に序列をつけたり、関係づけたりするのではなく、いろんなものが並列的状態にあるというように、多元的に捉える思想です。
それに対して、「やわらかい心」は、この世は最終的に1つの絶対価値に収斂して、その体系の中に諸々のものがちりばめられているというように世界を一元的に捉える思想です。
前者が八百万の神々が併存する日本と、紙は1つとするキリスト教やイスラム教という違いになる。
「かたい心」の人は、当然ながらものごとを断片的に捉え、その断片1つ1つに意味があるという立場をとる。
それに対して、「やわらかい心」の人は、1つ1つの情報や事柄が大きな体系の中に組み込まれていないと満足しない。
体系の中に組み込めないものは無意味として排除して、理論や体系というものに関連させている。
いわば多元論者は相対的、一元論者は絶対的と言える。
この分析からすると、「かたい心」と「やわらかい心」の2つは形容の仕方が逆のような気もしますが、とにかくウィリアム.ジェイムズはこのように分析しているのです。
立場上の違いから察せるように、「かたい心」の人は文字好き、「やわらかい心」の人は文字嫌いという結果になってくるでしょう。
そして、ウィリアム.ジェイムズによれば、後者の方が多数派であるということです。
これで私は目が覚める思いがしたのです。
日本の大学では、多くの人が講義をさぼり、年末の試験時にしか勉学に勤しまない理由がわかった気がして。
全国の大学生のアンケート調査で、自分が登録した講義に100%出席している人は、1割前後という結果をみて、大学生当時には驚きましたが、いまとなっては納得のいく内容だったのです。
世間の大半が文字嫌いゆえにこういう結果になるのでしょう。
そうなると、今後の宗教の発展を考えるには、このウィリアム.ジェイムズの理論を引き合いに出して考えなくてはならないだろうことは間違いないです。
ウィリアム.ジェイムズのいったことが古今東西、そしてこれからも変わらぬ真理ならば、創価学会のような大宗教団体に幸福の科学はなりえないのではないか?と思われてならないのです。

いや、創価学会に限らず、他のいろんな宗教を見ていくと、たいていの宗教の信者たちは、その宗教の事しか勉強しないのです。
「この宗教以外の宗教や分野について何か本を読んでいますか?」という質問に対して、「1冊も読んでない」とか、読んでも「2冊か3冊」という答えがほとんどです。
それはひとえに文字嫌いだからでしょう。
好きならば、主体的に本を買って読んでいくのが普通です。
しかし、その宗教が発行している新聞や冊子しか読まないのであれば、物事を広く深く認識して等閑視することはできないのは言うまでもないのです。
異なる2つの立場があるとします。
2者の意見をまず聞くのが王道です。
1者の意見しか聞かないのは論外です。
こういうモラルで私はいますから、2者の意見を聞きます。
するとそれぞれ言い分があるのがわかりますから、どちらか一方に偏ることはないのです。
それぞれが互いをくまなく観察すれば、それぞれの言い分を尊重することができます。
ゆえに、それぞれ一長一短なのがわかりますから、毎回どちらか一方に必ず与することはないのです。

そういうように人生を生きてきましたから、ある1つの宗教だけに拘るということが出来なかったのです。
母の友人の勧めで創価学会にはいるように言われました。
その際にその人が言うに「創価学会こそが世界最高峰の宗教だ」ということです。
世界最高峰の宗教がどれだけ素晴らしいのか見てみたくて、入会し、新聞も取り、会合も参加しましたが、最高峰などとんでもなかったです(笑)。
毎回毎回話される内容は一緒だし、学ぶものがないと判断した私は3か月で飽きました(笑)。
しかし不思議だったのは、「創価学会員はなぜ毎回毎回おなじことしか話されていないのに、新聞を永遠に取り続け、会合も欠かさずに出席しているんだろう?」ということです。
しかし、ウィリアム.ジェイムズの言葉を知って目が覚める思いがしました。
「世のなかの大半の人は文字嫌いなんだ。
だから毎回毎回同じようなことしか言っていない新聞を読み、会合を聞いている方が大抵の人は心地がいいのだろう。そういう多数派を取り込めることに成功したから創価は大きくなったんだ!」ということです。

そのことを創価学会の当局は認知しているからこそ、新聞で毎回毎回同じことしか書かない。
しかし、それでは満足しない私ですから、決然と創価からは距離を置くことにしました。
こういう立場の違いは生まれもって決まっているのですから、教育によって矯正できる筋合いのものではないのです。
ゆえにわたしは決然と、自分の立場を守ろうと決意したのです。
創価の大半の人はやわらかい心の持ち主ですから、自分とは異なる立場の人の意見をくまなく聞く努力が見られないのです。
創価に敵対する人がいても、その人の意見をくまなくきこうとはしない。
自分と一緒の立場の意見しか聞かないで終わっているのが大半のパターンなのです。
これでは真理に到達するわけはないのです。
しかし、それで満足してしてしまっている。
創価のバックでできた公明党の議員の意見しか聞かずに選挙に行って、その議員に投票する。
私は、公明党議員だけがいいことを言っているわけではないのですから、立候補者全部の意見を読みます。
それで支持したいと思えた議員に投票する、というのがこれまで貫いてきた姿勢です。
創価の人は、選挙前になるとしきりに、「公明党議員に入れてくれ」と電話をかけてきたり、家の前にきて依頼してきたりしますが、公明党議員にいれるかどうかは、自分の脳みそで判断するとしているのです。
これは、思想信条の自由ということでしょう。
こういうスタンスに共鳴できる人や、興味ある人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
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いくらカリスマ的な開祖でも過ちは犯した。ゆえに無批判でいいわけはない?(幸福の科学)
こんにちは。
幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏は、宏洋氏(下写真)という不肖の息子と和解できないままこの世を去りました。

その内容については、前に書いた記事にありますが、どうも、現代人は、親に対するスタンスというか、必然的に求めてしまう人間像は、朝起きて、ごはんを食べて、出社する親の姿を見ることによって健全な精神を身に着けることができる、という状態のようです。
出社せずに、家にいたまま、本や雑誌や新聞を読んで過ごしている父親を見て育つと、その子は不健全な精神を身に着けてしまうようです。
大学教授、塾講師、アトリエ講師、芸術家…こういった職業の人達は、朝起きて出社しなくてもよく、最悪の場合寝ていてもいいのですか。
しかし、そういう親を見て育つと、子供は健全な精神を身に着けることはできずにいるパターンを散見することができるのではないでしょうか?
大川総裁もそういう日常を送っていたことは間違いなさそうです。
私の中学時代に、同級生で父親を大学教授にもつ男子がいましたが、どうもその人は、クラス一丸となって共同制作をしなければならないことがあると、非常にばかばかしく感じて、まじめにその共同作業をしている周りの人間を見下していましたし、いつも校則違反のシャツや靴下を着けて、帰宅までの道のりにおいて、校則違反だった買い食いをしていました。
そういう例ってよくありますね?
宏洋氏もまさにそういう精神になってしまっていたのです。
その心理的なメカニズムは、精神分析学者である日本が誇る小此木啓吾氏の本を読めば、一目瞭然でした。
かなりの読書家だった大川隆法氏(下写真)も、この人の本を読んでいた可能性はかなり高いのですが、こと宏洋氏への教育の際には、すっかり忘れてしまっていたのでしょう。

あるいは、子供の教育は生涯においてぶっつけ本番なニュアンスがあり、むやみに批判すべき筋合いのものではないのでしょうが、過ちについては敢然と認識しなければならなかったのは言うまでもないでしょう。
出社せずに、家で何やら本や雑誌や新聞などを読み、書き物もしている。
そういう親を見ると、子供は親が楽して生きているとしか見えないのですね。
そういう規律のなさが精神に伝播して、規律ある生活を送れなくなってしまう。
幸福の科学に反旗を翻す前に、宏洋氏は当会の映画にも出演していました。
しかし、その際も平気で撮影時間に何度も遅刻したりしていたがために、損害金が発生して、その賠償金として宏洋氏は幸福の科学から賠償金3000万円を請求されていたようです。
それのみか、スタッフの若い女性に対して声掛けしたりして、モラハラを訴えられていたもいたようです。
こういう自身のことを言及せずに、宏洋氏は、教団や総裁に対しては批判めいたことばかりを書いていたのです。

これはどう見ても公平ではないですね。
しかも、その批判内容は、事実と違うということで教団から訴えられて、7度の敗訴を招いていたのです。
ここまで、精神が堕落してしまうものなのか、と私は驚愕の思いになりました。
宏洋氏は、総裁に対して当会の本尊であるエルカンターレの使途として認めない、ということも書いていました。
それはそれでいいでしょう。
宗教的な、スピリチュアルな内容については信じるか信じないかは、その人の価値判断によるしかないので、無理やり信じ込ませる筋合いのものではないのです。
信じたければ信じればいいし、信じたくないならば信じなくていい、というのがスタンスですし、私自身、幸福の科学の信者ではないです。
しかし、大川総裁に対しては、ある程度の、いやかなりのカリスマ性を認めないわけはいきますまい。

86年の開宗から2023年の死去まで、大川総裁は3150冊もの本を上梓したのです。
ということは10日に1冊の割合で出版してきたのです。
この偉業について、宏洋氏はなぜ言及しないのか?
この大変さを何故理解できないのか?
これまで宏洋氏は、2冊の本を出してきただけです。
その経緯を経れば、どれだけ大変かがわかったでしょう。
彼の家庭教師を務めた人たちの証言によれば、宏洋氏は勉強は大っ嫌いだったようです。
大っ嫌いならば猶更、そのすごさを認めなければおかしいと思うのですが、彼はそうしなかった。
ただ総裁や教団を批判するだけでに終始していたのです。
私は、父親がサラリーマンで、朝かならず起きて出社していました。

しかし、大学教授やアトリエ講師、芸術家といった朝出勤しなくていい職の人を父親に持ったことがないがゆえに、そういう親を尊敬できずにいた人の気持ちを分かろうとしてもまるでできない話しです。
ゆえに、宏洋氏をことさら非難する資格はないでしょう。
総裁にしろ、大学教授にしろ、アトリエ講師や芸術家といった職の親たちはどうすべきだったか?
簡単です。
朝起きて、喫茶店なりファミレスにいって知的作業をすればいいだけだったのです。
家にいて、机の上で何かしら作業をしているというのは子供の精神上かなり悪いのです。
ましてや、睡眠しているなんていうのは更にたちが悪いのです。(笑)
しかし、ここでの要旨は、子供がそういう不健全な精神を持たないようにするためには、そういった職業の人たちは家にいずに、子供の登校時間よりも先に家から出て、家以外で作業をせよ、ということです。
それをするかしないかで、子供の精神は将来、天と地ほどの違いが出てしまう、ということです。
それは宏洋氏の生態を見ればわかるでしょう?
私がいくら著作家として敬愛している故.大川総裁でも、やはり批判的に見なければならないし看過はできないということです。
そんなスタンスに共鳴出来る人におすすめなのが以下の電子書籍です。
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ありがとうございました!

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♯大川隆法
♯宏洋
幸福の科学の総裁だった故.大川隆法氏は、宏洋氏(下写真)という不肖の息子と和解できないままこの世を去りました。

その内容については、前に書いた記事にありますが、どうも、現代人は、親に対するスタンスというか、必然的に求めてしまう人間像は、朝起きて、ごはんを食べて、出社する親の姿を見ることによって健全な精神を身に着けることができる、という状態のようです。
出社せずに、家にいたまま、本や雑誌や新聞を読んで過ごしている父親を見て育つと、その子は不健全な精神を身に着けてしまうようです。
大学教授、塾講師、アトリエ講師、芸術家…こういった職業の人達は、朝起きて出社しなくてもよく、最悪の場合寝ていてもいいのですか。
しかし、そういう親を見て育つと、子供は健全な精神を身に着けることはできずにいるパターンを散見することができるのではないでしょうか?
大川総裁もそういう日常を送っていたことは間違いなさそうです。
私の中学時代に、同級生で父親を大学教授にもつ男子がいましたが、どうもその人は、クラス一丸となって共同制作をしなければならないことがあると、非常にばかばかしく感じて、まじめにその共同作業をしている周りの人間を見下していましたし、いつも校則違反のシャツや靴下を着けて、帰宅までの道のりにおいて、校則違反だった買い食いをしていました。
そういう例ってよくありますね?
宏洋氏もまさにそういう精神になってしまっていたのです。
その心理的なメカニズムは、精神分析学者である日本が誇る小此木啓吾氏の本を読めば、一目瞭然でした。
かなりの読書家だった大川隆法氏(下写真)も、この人の本を読んでいた可能性はかなり高いのですが、こと宏洋氏への教育の際には、すっかり忘れてしまっていたのでしょう。

あるいは、子供の教育は生涯においてぶっつけ本番なニュアンスがあり、むやみに批判すべき筋合いのものではないのでしょうが、過ちについては敢然と認識しなければならなかったのは言うまでもないでしょう。
出社せずに、家で何やら本や雑誌や新聞などを読み、書き物もしている。
そういう親を見ると、子供は親が楽して生きているとしか見えないのですね。
そういう規律のなさが精神に伝播して、規律ある生活を送れなくなってしまう。
幸福の科学に反旗を翻す前に、宏洋氏は当会の映画にも出演していました。
しかし、その際も平気で撮影時間に何度も遅刻したりしていたがために、損害金が発生して、その賠償金として宏洋氏は幸福の科学から賠償金3000万円を請求されていたようです。
それのみか、スタッフの若い女性に対して声掛けしたりして、モラハラを訴えられていたもいたようです。
こういう自身のことを言及せずに、宏洋氏は、教団や総裁に対しては批判めいたことばかりを書いていたのです。

これはどう見ても公平ではないですね。
しかも、その批判内容は、事実と違うということで教団から訴えられて、7度の敗訴を招いていたのです。
ここまで、精神が堕落してしまうものなのか、と私は驚愕の思いになりました。
宏洋氏は、総裁に対して当会の本尊であるエルカンターレの使途として認めない、ということも書いていました。
それはそれでいいでしょう。
宗教的な、スピリチュアルな内容については信じるか信じないかは、その人の価値判断によるしかないので、無理やり信じ込ませる筋合いのものではないのです。
信じたければ信じればいいし、信じたくないならば信じなくていい、というのがスタンスですし、私自身、幸福の科学の信者ではないです。
しかし、大川総裁に対しては、ある程度の、いやかなりのカリスマ性を認めないわけはいきますまい。

86年の開宗から2023年の死去まで、大川総裁は3150冊もの本を上梓したのです。
ということは10日に1冊の割合で出版してきたのです。
この偉業について、宏洋氏はなぜ言及しないのか?
この大変さを何故理解できないのか?
これまで宏洋氏は、2冊の本を出してきただけです。
その経緯を経れば、どれだけ大変かがわかったでしょう。
彼の家庭教師を務めた人たちの証言によれば、宏洋氏は勉強は大っ嫌いだったようです。
大っ嫌いならば猶更、そのすごさを認めなければおかしいと思うのですが、彼はそうしなかった。
ただ総裁や教団を批判するだけでに終始していたのです。
私は、父親がサラリーマンで、朝かならず起きて出社していました。
しかし、大学教授やアトリエ講師、芸術家といった朝出勤しなくていい職の人を父親に持ったことがないがゆえに、そういう親を尊敬できずにいた人の気持ちを分かろうとしてもまるでできない話しです。
ゆえに、宏洋氏をことさら非難する資格はないでしょう。
総裁にしろ、大学教授にしろ、アトリエ講師や芸術家といった職の親たちはどうすべきだったか?
簡単です。
朝起きて、喫茶店なりファミレスにいって知的作業をすればいいだけだったのです。
家にいて、机の上で何かしら作業をしているというのは子供の精神上かなり悪いのです。
ましてや、睡眠しているなんていうのは更にたちが悪いのです。(笑)
しかし、ここでの要旨は、子供がそういう不健全な精神を持たないようにするためには、そういった職業の人たちは家にいずに、子供の登校時間よりも先に家から出て、家以外で作業をせよ、ということです。
それをするかしないかで、子供の精神は将来、天と地ほどの違いが出てしまう、ということです。
それは宏洋氏の生態を見ればわかるでしょう?
私がいくら著作家として敬愛している故.大川総裁でも、やはり批判的に見なければならないし看過はできないということです。
そんなスタンスに共鳴出来る人におすすめなのが以下の電子書籍です。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!



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♯大川隆法
♯宏洋
幸福の科学に反旗を翻し7度敗訴した宏洋を批判してそれで万時解決…ではありません!(幸福の科学)
こんにちは。
物事は、何においても多面的に考察していくべし、という主題で話していきたいと思います。
幸福の科学の故.大川隆法総裁の不肖の息子である宏洋氏(下写真)は、大川総裁や幸福の科学に対して反旗を翻してきました。

それがユーチューブや本と両方でおこなわれてきたのです。
彼はかつて、幸福の科学の映画にも出演していて、心強い後継者ができた、と私自身も喜んでみていたものです。
しかし、いつしか反旗を翻すようになり、かなり訝しげに思ったものです。
それがいつまでたっても改善されず、その動画や本に書いてある内容が実際とは違う、ということで、幸福の科学の教団が宏洋氏に対して、その内容の表示の撤回をするように裁判をかけて、宏洋氏は7度も敗訴していたのです。
宏洋氏は幼少期から、週に数個もの習い事をさせられて塾にも通わせられていたということです。
これは裁判の内容には入っていないので真実だったのでしょう。
度重なる体罰も母親からさせられて、それによってできた感情がついに爆発して、あることとないことを混ぜ合わせて動画や本に公開することになってしまったようです。
その見分けをつけるのは、裁判内容と、本と動画を見ながら吟味しなくてはならないので非常にめんどくさいですが(笑)、そういう知的な作業は必要でしょう、真実を確かめるためには。
幸福の科学の開宗から、わずか3年で、大川家は1フロア100万円の高級マンションを6フロア借りていたといいます。
そんなに急激にそんな暮らしができていたということは、一気に信者が増えて、お布施も大量の額になったがゆえに、宏洋氏の母親であったきょうこさん(下写真)は、隆法総裁の宗教的な力は本物と悟ったのでしょう。

ゆえに当然、その本物の宗教の跡取りにさせるべく宏洋氏にエリート教育を施したのではないか?
多岐にわたる学問に精通している必要性を感じ、宏洋氏を後継者にする意図があったのではないか?
それが、あのような教育結果になったのではないか、と思わざるを得ないのですね私は。
しかし、自主性なくしては本人は育たず。
自分の内からやりたいという感情から出たモノでなくては挫折してしまうのは明白なのです。
隆法総裁にしろ、きょう子さんにしろ、両方とも東大を出た、ということです。
それゆえに、2人ともかなり勉強が好きだったのでしょう。
ゆえに、子供も勉強好きなのだろうと勘違いしてしまったのでしょう。
しかし、ことはそう簡単ではないのです(笑)
世のなかの大半の人は、文字も嫌いならば勉強などもっと嫌いなのです。

私の出た大学は中より上の大学でしたが、年末の試験前時には、大学周辺のコンビニにはどこも友人にノートを借りて、コピーする人たちの行列でごった返していましたし、東大を出た友人にも聞くと、事情は一緒だったのです。
ゆえに、自分が好きだから子供も好きになるだろうと思うのは間違いなのです。
教団内の宏洋氏の家庭教師役をしていた人たちの体験談によると宏洋氏は勉強が大嫌いだったようです。
しかし、それでも宏洋氏を責めるには及ばないのです。
自身が心底したいと思えることを、生業にすればいいことだったのです。
総裁の後継者になるのが嫌ならば、それはそれで致し方なかったのです。
子供の精神の健全さの養成には、やはり家族関係が一番重要なのです。
朝眠いにも関わらず起きて、朝食を摂り、会社に出かける。
そこで敢然と仕事をこなし、帰宅したら、子供たちをかわいがり、遊んであげたり、勉強を見てあげる。
子供が困難に遭遇したら励まし、成功したら褒める。
そういう姿を見て子供が育てば、子供の精神は健全になるのです。

しかし、大川総裁はサラリーマンではないゆえに、出勤もしなければ働くこともない。
朝、本や雑誌や新聞を読みながら家にいる。
そういう親の姿を見て育つと、子供の精神は不健全になるのは、教育心理学で明らかになっているのです。
しかも、きょう子氏による宏洋氏へのプレッシャーかけや体罰なども不健全な精神を育成するのに貢献してしまった様です。
しかも、親の夫婦仲が良いことも子供の健全な精神には重要なようです。
大川夫妻は離婚してしまいましたが、離婚する直前まで口喧嘩が絶えなかったようです。
しかも、離婚ともなれば、親を尊敬するどころか、蔑視の対象でしかなくなるのです。
故.大川総裁(下写真)は部類の読書家だったがゆえに、こういった心理学については読んでいたはずですが、いざ自分が教育する段になったら、すっかりそれを忘れてしまっていたのでしょう。

教育はぶっつけ本番的な要素があるので、ことさら、総裁を非難するには及ばないと思います。
しかし、あやまちであることが判明したのであれば、それは是正しなくてはならないですし、これから父親や母親になろうとする人は厳に戒めねばならないということです。
宏洋氏が裁判に7度敗れたからといって、宏洋氏を批判して終わりということではない、ということを覚えておかなくてはならないでしょう。
そんなスタンスに興味のある人には、以下の電子書籍はお勧めです。
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物事は、何においても多面的に考察していくべし、という主題で話していきたいと思います。
幸福の科学の故.大川隆法総裁の不肖の息子である宏洋氏(下写真)は、大川総裁や幸福の科学に対して反旗を翻してきました。

それがユーチューブや本と両方でおこなわれてきたのです。
彼はかつて、幸福の科学の映画にも出演していて、心強い後継者ができた、と私自身も喜んでみていたものです。
しかし、いつしか反旗を翻すようになり、かなり訝しげに思ったものです。
それがいつまでたっても改善されず、その動画や本に書いてある内容が実際とは違う、ということで、幸福の科学の教団が宏洋氏に対して、その内容の表示の撤回をするように裁判をかけて、宏洋氏は7度も敗訴していたのです。
宏洋氏は幼少期から、週に数個もの習い事をさせられて塾にも通わせられていたということです。
これは裁判の内容には入っていないので真実だったのでしょう。
度重なる体罰も母親からさせられて、それによってできた感情がついに爆発して、あることとないことを混ぜ合わせて動画や本に公開することになってしまったようです。
その見分けをつけるのは、裁判内容と、本と動画を見ながら吟味しなくてはならないので非常にめんどくさいですが(笑)、そういう知的な作業は必要でしょう、真実を確かめるためには。
幸福の科学の開宗から、わずか3年で、大川家は1フロア100万円の高級マンションを6フロア借りていたといいます。
そんなに急激にそんな暮らしができていたということは、一気に信者が増えて、お布施も大量の額になったがゆえに、宏洋氏の母親であったきょうこさん(下写真)は、隆法総裁の宗教的な力は本物と悟ったのでしょう。

ゆえに当然、その本物の宗教の跡取りにさせるべく宏洋氏にエリート教育を施したのではないか?
多岐にわたる学問に精通している必要性を感じ、宏洋氏を後継者にする意図があったのではないか?
それが、あのような教育結果になったのではないか、と思わざるを得ないのですね私は。
しかし、自主性なくしては本人は育たず。
自分の内からやりたいという感情から出たモノでなくては挫折してしまうのは明白なのです。
隆法総裁にしろ、きょう子さんにしろ、両方とも東大を出た、ということです。
それゆえに、2人ともかなり勉強が好きだったのでしょう。
ゆえに、子供も勉強好きなのだろうと勘違いしてしまったのでしょう。
しかし、ことはそう簡単ではないのです(笑)
世のなかの大半の人は、文字も嫌いならば勉強などもっと嫌いなのです。
私の出た大学は中より上の大学でしたが、年末の試験前時には、大学周辺のコンビニにはどこも友人にノートを借りて、コピーする人たちの行列でごった返していましたし、東大を出た友人にも聞くと、事情は一緒だったのです。
ゆえに、自分が好きだから子供も好きになるだろうと思うのは間違いなのです。
教団内の宏洋氏の家庭教師役をしていた人たちの体験談によると宏洋氏は勉強が大嫌いだったようです。
しかし、それでも宏洋氏を責めるには及ばないのです。
自身が心底したいと思えることを、生業にすればいいことだったのです。
総裁の後継者になるのが嫌ならば、それはそれで致し方なかったのです。
子供の精神の健全さの養成には、やはり家族関係が一番重要なのです。
朝眠いにも関わらず起きて、朝食を摂り、会社に出かける。
そこで敢然と仕事をこなし、帰宅したら、子供たちをかわいがり、遊んであげたり、勉強を見てあげる。
子供が困難に遭遇したら励まし、成功したら褒める。
そういう姿を見て子供が育てば、子供の精神は健全になるのです。
しかし、大川総裁はサラリーマンではないゆえに、出勤もしなければ働くこともない。
朝、本や雑誌や新聞を読みながら家にいる。
そういう親の姿を見て育つと、子供の精神は不健全になるのは、教育心理学で明らかになっているのです。
しかも、きょう子氏による宏洋氏へのプレッシャーかけや体罰なども不健全な精神を育成するのに貢献してしまった様です。
しかも、親の夫婦仲が良いことも子供の健全な精神には重要なようです。
大川夫妻は離婚してしまいましたが、離婚する直前まで口喧嘩が絶えなかったようです。
しかも、離婚ともなれば、親を尊敬するどころか、蔑視の対象でしかなくなるのです。
故.大川総裁(下写真)は部類の読書家だったがゆえに、こういった心理学については読んでいたはずですが、いざ自分が教育する段になったら、すっかりそれを忘れてしまっていたのでしょう。
教育はぶっつけ本番的な要素があるので、ことさら、総裁を非難するには及ばないと思います。
しかし、あやまちであることが判明したのであれば、それは是正しなくてはならないですし、これから父親や母親になろうとする人は厳に戒めねばならないということです。
宏洋氏が裁判に7度敗れたからといって、宏洋氏を批判して終わりということではない、ということを覚えておかなくてはならないでしょう。
そんなスタンスに興味のある人には、以下の電子書籍はお勧めです。
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人の気持ちを理解するには最高の宗教に入っていることが最重要…いやそんなことないです。 (幸福の科学)
今回は、宗教だけに縋っていれば幸せになれるのか、という主題で話しをしていきたいです。
私たち日本人は、24時間の間に朝昼晩があります。
実に当たり前のことです。
しかし、世界では、それがない国があるのです。
それが北欧のノルウェイです。

日が差さない月が年に2か月間続くのだそうです。
それゆえに、日差しがなくなり、それがないゆえに、朝起きてもアドレナリンが出ずに、気が滅入ったままになり、鬱を抱えている人は、その期間に自殺してしまうパターンも往々にしてあるのです。
ゆえにノルウェイは自殺者の割合がかなり高いのです。
これには驚きました。
そんな国があったのか、ということですね。
確かに、滅入るような疲れが前日にあったり、嫌なことがあって次の日を迎えたりしても、次の日に起きて太陽の日差しを浴びていたら自然とそういった感情が霧消してしてしまっていたりすることがままありました私には。
しかし、ノルウェイでは朝起きても日差しが出ないのですから、アドレナリンが出ず、そのまま嫌な感情が継続して、ついには自殺してしまう人が続出…こんなパターンもあるのかと、驚きました。

しかし、こういうノルウェイの人たちのような経験もないのに、自殺してしまう人に対して、だらしがないとか、深く考えすぎだ、といったような批判はすべきではないでしょう。
2か月間も、日が差さない生活をしたことがないのですから、他の国の人たちは。
そういう経験をしながら、疲れたり、嫌な感情を抱えた上で、死にたくなる感情を抑えて生還した、という経験がないのならば、むやみにその感情に囚われている人を批判すべきではないのです。
こういう感情は、宗教に入ることによって霧消できるのでしょうか?
ある程度は可能でしょう。
宗教に入れば、経文を唱えたりすることで意気が上がりますし、宗教内には心優しい人が大勢いますから、その人たちに励ましを受けることもあるでしょう。

しかし、完全に雲散霧消してしまうことはできた話しではないでしょう。
自分の入っている宗教が素晴らしいと喧伝したい気持ちはわかりますが、完璧なものなどないのです。
完全に解決できるなどと大言壮語を吐く人は、物事を深く探求する資質がないのです。
そういう人の言葉は通りすぎるのがいいでしょう。
私も信用しません。
本当に相手を思いやる心を持っている人ならば、同じような体験を自ら進んで受けようという人のことです。
ノルウェイの日が差さない月にも、自ら進んで滞在して、そこに住む人たちの気持ちを量ろうという人こそが真の優しさを持った人なのでしょう。

ノルウェーでは自殺者多い、ということを知って、日光を浴びることによるアドレナリンが放出しているから自分は鬱を改善できた。
憂鬱だったが光を見ることで雲散霧消していく気が芽生えていたということが分かった。
それは失って初めて分かるものなのです。
やはり体験、あるいは体感というものが、人を理解するためには非常に大事なことなのです。
素晴らしい宗教に入ることが最重要…全然ちがいます!(笑)
体験、体感が大事なのです。
そういう経験を多く積んだ人こそが、人の上に立つ人としての資質がある、ということなのでしょう。
そんなことを考えてしまいました。
こういうスタンスに共鳴できる人におすすめなのが以下の電子書籍です。
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『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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私たち日本人は、24時間の間に朝昼晩があります。
実に当たり前のことです。
しかし、世界では、それがない国があるのです。
それが北欧のノルウェイです。
日が差さない月が年に2か月間続くのだそうです。
それゆえに、日差しがなくなり、それがないゆえに、朝起きてもアドレナリンが出ずに、気が滅入ったままになり、鬱を抱えている人は、その期間に自殺してしまうパターンも往々にしてあるのです。
ゆえにノルウェイは自殺者の割合がかなり高いのです。
これには驚きました。
そんな国があったのか、ということですね。
確かに、滅入るような疲れが前日にあったり、嫌なことがあって次の日を迎えたりしても、次の日に起きて太陽の日差しを浴びていたら自然とそういった感情が霧消してしてしまっていたりすることがままありました私には。
しかし、ノルウェイでは朝起きても日差しが出ないのですから、アドレナリンが出ず、そのまま嫌な感情が継続して、ついには自殺してしまう人が続出…こんなパターンもあるのかと、驚きました。

しかし、こういうノルウェイの人たちのような経験もないのに、自殺してしまう人に対して、だらしがないとか、深く考えすぎだ、といったような批判はすべきではないでしょう。
2か月間も、日が差さない生活をしたことがないのですから、他の国の人たちは。
そういう経験をしながら、疲れたり、嫌な感情を抱えた上で、死にたくなる感情を抑えて生還した、という経験がないのならば、むやみにその感情に囚われている人を批判すべきではないのです。
こういう感情は、宗教に入ることによって霧消できるのでしょうか?
ある程度は可能でしょう。
宗教に入れば、経文を唱えたりすることで意気が上がりますし、宗教内には心優しい人が大勢いますから、その人たちに励ましを受けることもあるでしょう。

しかし、完全に雲散霧消してしまうことはできた話しではないでしょう。
自分の入っている宗教が素晴らしいと喧伝したい気持ちはわかりますが、完璧なものなどないのです。
完全に解決できるなどと大言壮語を吐く人は、物事を深く探求する資質がないのです。
そういう人の言葉は通りすぎるのがいいでしょう。
私も信用しません。
本当に相手を思いやる心を持っている人ならば、同じような体験を自ら進んで受けようという人のことです。
ノルウェイの日が差さない月にも、自ら進んで滞在して、そこに住む人たちの気持ちを量ろうという人こそが真の優しさを持った人なのでしょう。

ノルウェーでは自殺者多い、ということを知って、日光を浴びることによるアドレナリンが放出しているから自分は鬱を改善できた。
憂鬱だったが光を見ることで雲散霧消していく気が芽生えていたということが分かった。
それは失って初めて分かるものなのです。
やはり体験、あるいは体感というものが、人を理解するためには非常に大事なことなのです。
素晴らしい宗教に入ることが最重要…全然ちがいます!(笑)
体験、体感が大事なのです。
そういう経験を多く積んだ人こそが、人の上に立つ人としての資質がある、ということなのでしょう。
そんなことを考えてしまいました。
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事の決定=政治は宗教団体云々ではなく如何に理論的に掘り下げているかどうかにバイアスを?
人を指示する立場と、指示される立場の相克はどこにでもあります。
どちらの立場も、その立場になってみないことにはわからないのです、実感がないので。
実感なくして、される側の気持ちを分かれと言ってもわかるはずはないのです。
実感としてわかるためには、その立場に立って生活する以外にはないのです。
これは古今東西変わらぬ真実です。
経文を唱えることは、どの宗教でもしていることですが、それをしたからといって、そのされる側の気持ちが実感できるかというとそんなことは絶対にないのです。
ゆえに、どの宗教に入ってようと、下っ端からの仕事をしていくことが重要なのです。
それを省いて、社長が自分の息子をいきなり重役に据えるなどということは絶対にすべきではないのです。
それでは、その息子が下っ端の人間の気持ちを察していくことなど不可能です。

これはどんな素晴らしい宗教に入っていようと一緒なのです。
この宗教の経文を唱えていれば、相手は分かってくれるようになるなどという誤った気持ちで、自分を貶してくる人が、自分の気持ちを分かるようになるよう真剣に祈る…こんなことがかなうはずはないのです(笑)。
にもかかわらず、そういうこと疑問を持たずに上げていくことをしている信者がいる団体があるから不思議なのです。
創価学会に入信していた女性で、旦那が冷たい人なので、心優しい人になるように1日に4時間から8時間の南無妙法蓮華経という経文を唱えたが、旦那は一向に変わってくれない。
これに我慢できずに創価学会から脱会…こんなエピソードが動画に上げられていて、悲しい気分になりましたが、こういったかなうはずもない嘘を吹き込んだ周りの創価学会員もさることながら、そんな嘘を嘘と見抜けなかったその女性も問題なのです。

総論として、される側になって初めて分かることがあるのです。
それが実感としてわかって、ことを決めていく。
それがわかるためには、苦労を進んでさせていくことが重要なのです。
社長の親は、自分の息子には最底辺の仕事からさせていくことが大事なのです。
そして社長自らも、進んで最底辺の仕事をしていくのです。
そういう姿を見せていくことで息子は、人の気持ちがわかるようになるのです。
そういうことをさせないで、相手の気持ちを分かれと言ってもわかろうはずはないのです。
ゆえに、家族会社に無批判でいていいはずはないのです。
たとえその社長が東大出でも一緒です。
しかし、何から何まで構成員の意見をくみ取ることでいいかというとそうでもないのです。

ことは政治的な話しになってしまいますが、ことはどの組織でも一緒なのです。
ことの取り決め=政治なのです。
その組織内でのより良き取り決めをしていくためには、組織全体の事柄を熟知している必要があるのです。
しかし、組織内でそういう人物は限られた人しかいないのです。
そういうことに関心がない人、ちょっとだけ関心がある人、大いに関心がある人、いろいろあるのです。
管理職として上部に上がれば上がるほど、関心が大きくなっていくのはどの組織でも共通することですが、それでも上部なら必ずしも関心が高いかというとそうでもないのです。
ケースバイケースなのです。
ですから、その組織内での事を熟知して、危急存亡について大いに使命感を持っている人を集めていく必要があるのです。
それでいて、一般人の意見も汲み取る…これが最良の道なのかなという気がします。
こういう王道の道を踏み外して、上部だけで事の決定をしてしまったがために、没落の憂き目にあったのが、日蓮正宗でしょう。

前代の法主である阿部日顕が、信徒団体で巨大な組織であった創価学会を切り、本山である大石寺に350億円かけて作った正本堂を破壊し、木を数百本切り倒し、伏せ拝を小僧たちに強要し、供養金を値上げする、といった暴挙に出たがために、日蓮正宗はかつての信者数から2%にまで激減してしまったのです。
やはり、そういう輩が組織のトップになるべきではなかったのです。
日顕はほぼ独断的にことを決めていったのです。
しかし、すべてを人民にゆだねると衆愚制になってしまうのは人類の歴史を見れば明らかでしょう。
「民意なるものはない。民衆はそれぞれ自分の好きなことを言っているだけだ」と書いたのは、大正デモクラシーで有名な吉野作造だが、現代はそうではないだろうと思います。
人々を啓蒙する本はたくさんあるし、情報はいつでもスマホのネットで探索できる時代です。
市民として知りたいことは知れるが、そのも吟味は必要です。
それに直接自分に関係があるかないかで、情報へのアクセスの度合いは違ってくるのです。

自分のすぐ近くに清掃工場ができると聞いたら、すぐさまその内容について吟味し抗議するが、遠く離れた県でのことならばそんなに関心はないか、あるいは無に帰してしまう。
哀しいが人間というものはそういうものなのです、私を含めて。
やはり政治というものはエリートにこそ着手してもらうべき筋合いのものです。
この場合のエリートとは、社会の問題全般に関心があって、日々そういうものに対する情報を得て行動している人のことをさします。
しかしエリート制度でいいか?そんなこともないないのは先に指摘した通りです。
それゆえに、現代は間接民主制として、選挙というものがあるのです。
その理念をプラトン(下写真)という紀元前400年前の人が見抜いていたのです。

すごいですねえ。
私にはそんな時代を超えて透徹した理論を導くことなどできた話しではないです(笑)
こういった古典を学ぶメリットというのは、現代でも学べる事柄があるからです。
現代において学ぶ面がないならば古典とは呼べないのです。
もちろん、その古典がそっくりそのまま現代でも有意義かというとそうでもないのです。
一部だけだったり、半分くらいだったり、ほとんどだったり、ものによってケースバイケースなのです。
その吟味は、学者たちに任せられているのです。
この衆愚制云々について興味の出た人はプラトンを読め!ということです。
やはり、ことはどの宗教に入っているかではなく、どれだけ多面的に物事を掘り下げていくかということです。
この宗教に入って祈っているからとか、というのは邪道なのです。

最近は、選挙が近いこともあって選挙活動が喧しく(笑)、知り合いの創価学会員が公明党議員に入れてくれと自宅までやってきますが、日蓮の教えを学んでいる団体の支持の政党だから、という理由では公明党議員には投票しません。
どれだけ社会にある問題点を掘り下げて、どのような議論をして、どのような法案を作っていくか、ということを公約として掲げているか、ということを見て、自分が感心した議員に投票しようと思います。
そういう議員が公明党にいれば、その人に入れようと思いますが、いないならば他の政党の議員に入れるほかないです。
こういう掘り下げが日々大事なのです。
こういうモラルに賛嘆できる人におすすめな宗教に関する電子書籍は以下です。
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♯古典
♯プラトン
どちらの立場も、その立場になってみないことにはわからないのです、実感がないので。
実感なくして、される側の気持ちを分かれと言ってもわかるはずはないのです。
実感としてわかるためには、その立場に立って生活する以外にはないのです。
これは古今東西変わらぬ真実です。
経文を唱えることは、どの宗教でもしていることですが、それをしたからといって、そのされる側の気持ちが実感できるかというとそんなことは絶対にないのです。
ゆえに、どの宗教に入ってようと、下っ端からの仕事をしていくことが重要なのです。
それを省いて、社長が自分の息子をいきなり重役に据えるなどということは絶対にすべきではないのです。
それでは、その息子が下っ端の人間の気持ちを察していくことなど不可能です。

これはどんな素晴らしい宗教に入っていようと一緒なのです。
この宗教の経文を唱えていれば、相手は分かってくれるようになるなどという誤った気持ちで、自分を貶してくる人が、自分の気持ちを分かるようになるよう真剣に祈る…こんなことがかなうはずはないのです(笑)。
にもかかわらず、そういうこと疑問を持たずに上げていくことをしている信者がいる団体があるから不思議なのです。
創価学会に入信していた女性で、旦那が冷たい人なので、心優しい人になるように1日に4時間から8時間の南無妙法蓮華経という経文を唱えたが、旦那は一向に変わってくれない。
これに我慢できずに創価学会から脱会…こんなエピソードが動画に上げられていて、悲しい気分になりましたが、こういったかなうはずもない嘘を吹き込んだ周りの創価学会員もさることながら、そんな嘘を嘘と見抜けなかったその女性も問題なのです。

総論として、される側になって初めて分かることがあるのです。
それが実感としてわかって、ことを決めていく。
それがわかるためには、苦労を進んでさせていくことが重要なのです。
社長の親は、自分の息子には最底辺の仕事からさせていくことが大事なのです。
そして社長自らも、進んで最底辺の仕事をしていくのです。
そういう姿を見せていくことで息子は、人の気持ちがわかるようになるのです。
そういうことをさせないで、相手の気持ちを分かれと言ってもわかろうはずはないのです。
ゆえに、家族会社に無批判でいていいはずはないのです。
たとえその社長が東大出でも一緒です。
しかし、何から何まで構成員の意見をくみ取ることでいいかというとそうでもないのです。

ことは政治的な話しになってしまいますが、ことはどの組織でも一緒なのです。
ことの取り決め=政治なのです。
その組織内でのより良き取り決めをしていくためには、組織全体の事柄を熟知している必要があるのです。
しかし、組織内でそういう人物は限られた人しかいないのです。
そういうことに関心がない人、ちょっとだけ関心がある人、大いに関心がある人、いろいろあるのです。
管理職として上部に上がれば上がるほど、関心が大きくなっていくのはどの組織でも共通することですが、それでも上部なら必ずしも関心が高いかというとそうでもないのです。
ケースバイケースなのです。
ですから、その組織内での事を熟知して、危急存亡について大いに使命感を持っている人を集めていく必要があるのです。
それでいて、一般人の意見も汲み取る…これが最良の道なのかなという気がします。
こういう王道の道を踏み外して、上部だけで事の決定をしてしまったがために、没落の憂き目にあったのが、日蓮正宗でしょう。

前代の法主である阿部日顕が、信徒団体で巨大な組織であった創価学会を切り、本山である大石寺に350億円かけて作った正本堂を破壊し、木を数百本切り倒し、伏せ拝を小僧たちに強要し、供養金を値上げする、といった暴挙に出たがために、日蓮正宗はかつての信者数から2%にまで激減してしまったのです。
やはり、そういう輩が組織のトップになるべきではなかったのです。
日顕はほぼ独断的にことを決めていったのです。
しかし、すべてを人民にゆだねると衆愚制になってしまうのは人類の歴史を見れば明らかでしょう。
「民意なるものはない。民衆はそれぞれ自分の好きなことを言っているだけだ」と書いたのは、大正デモクラシーで有名な吉野作造だが、現代はそうではないだろうと思います。
人々を啓蒙する本はたくさんあるし、情報はいつでもスマホのネットで探索できる時代です。
市民として知りたいことは知れるが、そのも吟味は必要です。
それに直接自分に関係があるかないかで、情報へのアクセスの度合いは違ってくるのです。

自分のすぐ近くに清掃工場ができると聞いたら、すぐさまその内容について吟味し抗議するが、遠く離れた県でのことならばそんなに関心はないか、あるいは無に帰してしまう。
哀しいが人間というものはそういうものなのです、私を含めて。
やはり政治というものはエリートにこそ着手してもらうべき筋合いのものです。
この場合のエリートとは、社会の問題全般に関心があって、日々そういうものに対する情報を得て行動している人のことをさします。
しかしエリート制度でいいか?そんなこともないないのは先に指摘した通りです。
それゆえに、現代は間接民主制として、選挙というものがあるのです。
その理念をプラトン(下写真)という紀元前400年前の人が見抜いていたのです。

すごいですねえ。
私にはそんな時代を超えて透徹した理論を導くことなどできた話しではないです(笑)
こういった古典を学ぶメリットというのは、現代でも学べる事柄があるからです。
現代において学ぶ面がないならば古典とは呼べないのです。
もちろん、その古典がそっくりそのまま現代でも有意義かというとそうでもないのです。
一部だけだったり、半分くらいだったり、ほとんどだったり、ものによってケースバイケースなのです。
その吟味は、学者たちに任せられているのです。
この衆愚制云々について興味の出た人はプラトンを読め!ということです。
やはり、ことはどの宗教に入っているかではなく、どれだけ多面的に物事を掘り下げていくかということです。
この宗教に入って祈っているからとか、というのは邪道なのです。

最近は、選挙が近いこともあって選挙活動が喧しく(笑)、知り合いの創価学会員が公明党議員に入れてくれと自宅までやってきますが、日蓮の教えを学んでいる団体の支持の政党だから、という理由では公明党議員には投票しません。
どれだけ社会にある問題点を掘り下げて、どのような議論をして、どのような法案を作っていくか、ということを公約として掲げているか、ということを見て、自分が感心した議員に投票しようと思います。
そういう議員が公明党にいれば、その人に入れようと思いますが、いないならば他の政党の議員に入れるほかないです。
こういう掘り下げが日々大事なのです。
こういうモラルに賛嘆できる人におすすめな宗教に関する電子書籍は以下です。
●以下よりどうぞ
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!



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♯衆愚制
♯古典
♯プラトン
大川隆法総裁の言葉を信じるか?信じないで他の方法を吟味すべきか? (幸福の科学)
こんにちは。
私が、幸福の科学に接するようになって、20年近くがたちます。
変わった宗教団体の名前だなとおもいましたが、当初、しかし、それだけでいかがわしい団体と決めつけずに、虚心坦懐に、その体験談等を読んで、どのような学ぶところがあるかを見極めていこうと思いました。
そして、この団体が発行している冊子を毎月、最初から最後まで読んでみました。
そこに書いてある体験談で多いのは、故.大川総裁の著である『太陽の法』(下写真)を読んで覚醒したというパターンですね。

そこには、「人間は魂を磨くために生まれてくる。人生における苦難困難は何かを学びとる機会である」と書かれているのです。
普通、交通事故で半身不随になったり、切断という最悪の事態になったりしたら、それはそれは落ち込むに違いありません。
しかし、そういう境遇になってしまった人が、幸福の科学の職員や信者に、この本を読むのを勧められて、この個所を読んで、生き生きとした気分がインストールされて精神的に覚醒するパターンが多くあるのです。
この言葉が、故.大川総裁が究極の言葉であると悟ったからなのか、膨大な数の読書を通じて拾うことができたのかは、実際のところ検証のしようがないです。
しかし、そういう経験談を何度も読むと、大川総裁はカリスタ的な人物であったな、と思わざるを得ません。
ある信者の体験談で印象に残こったのは、「脳梗塞によって右半身麻痺、しかし、動揺なかった。人生における苦難困難は何かを学びとる機会である。霊的人生観を学んでいたからです。」ということです。
さらに「主エルカンターレのお導きを信じていたからです。
1人でも多くの方に、幸福の科学の信仰を伝えていきたいと思います。」 ということを付け加えていたのです。
しかし、私には霊的な能力がないために、それが本当に大川総裁(下写真)がエルカンターレの使途であったのであり、その導きを委託されて、あのような言葉を書かせたのかはわかりかねます。

当会の『太陽の法』を読まなくても、他の本を読めばヒントは得れる可能性もあるのです。
多読によって、いろんな困難を切り抜けていきた私としては、やはり多読を勧めたいのです。
1つの宗教によって打開を図るのではなく。
宗教によって打開が図れるかもしれないし、図れないかもしれないのです。
しかし、故.大川総裁は、亡くなるまでに10万冊の本を読んできたがゆえに、多面的なのですね。
いろんな年代の、いろんな悩み事に対しての打開法が、いろんな本によって書かれているがゆえに、自身の打開法が見つかるかもしれない可能性は高いのです。
だから試したい人は、大川総裁の本をジャンル別に探すのがいいでしょう。
それで、この人の信憑性に触れることができて感動したのであれば、信者になればいいし、私のように信者にはならないけれども、本などは読ませていただく、というスタンスを貫くのもいいでしょう。
いずれにせよ、どのような人生を送るかは、自分で決めるべき筋合いのものであるということは間違いないのです。
そんなスタンスに興味のある人におすすめなのが以下の電子書籍です。
●以下よりどうぞ。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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私が、幸福の科学に接するようになって、20年近くがたちます。
変わった宗教団体の名前だなとおもいましたが、当初、しかし、それだけでいかがわしい団体と決めつけずに、虚心坦懐に、その体験談等を読んで、どのような学ぶところがあるかを見極めていこうと思いました。
そして、この団体が発行している冊子を毎月、最初から最後まで読んでみました。
そこに書いてある体験談で多いのは、故.大川総裁の著である『太陽の法』(下写真)を読んで覚醒したというパターンですね。

そこには、「人間は魂を磨くために生まれてくる。人生における苦難困難は何かを学びとる機会である」と書かれているのです。
普通、交通事故で半身不随になったり、切断という最悪の事態になったりしたら、それはそれは落ち込むに違いありません。
しかし、そういう境遇になってしまった人が、幸福の科学の職員や信者に、この本を読むのを勧められて、この個所を読んで、生き生きとした気分がインストールされて精神的に覚醒するパターンが多くあるのです。
この言葉が、故.大川総裁が究極の言葉であると悟ったからなのか、膨大な数の読書を通じて拾うことができたのかは、実際のところ検証のしようがないです。
しかし、そういう経験談を何度も読むと、大川総裁はカリスタ的な人物であったな、と思わざるを得ません。
ある信者の体験談で印象に残こったのは、「脳梗塞によって右半身麻痺、しかし、動揺なかった。人生における苦難困難は何かを学びとる機会である。霊的人生観を学んでいたからです。」ということです。
さらに「主エルカンターレのお導きを信じていたからです。
1人でも多くの方に、幸福の科学の信仰を伝えていきたいと思います。」 ということを付け加えていたのです。
しかし、私には霊的な能力がないために、それが本当に大川総裁(下写真)がエルカンターレの使途であったのであり、その導きを委託されて、あのような言葉を書かせたのかはわかりかねます。

当会の『太陽の法』を読まなくても、他の本を読めばヒントは得れる可能性もあるのです。
多読によって、いろんな困難を切り抜けていきた私としては、やはり多読を勧めたいのです。
1つの宗教によって打開を図るのではなく。
宗教によって打開が図れるかもしれないし、図れないかもしれないのです。
しかし、故.大川総裁は、亡くなるまでに10万冊の本を読んできたがゆえに、多面的なのですね。
いろんな年代の、いろんな悩み事に対しての打開法が、いろんな本によって書かれているがゆえに、自身の打開法が見つかるかもしれない可能性は高いのです。
だから試したい人は、大川総裁の本をジャンル別に探すのがいいでしょう。
それで、この人の信憑性に触れることができて感動したのであれば、信者になればいいし、私のように信者にはならないけれども、本などは読ませていただく、というスタンスを貫くのもいいでしょう。
いずれにせよ、どのような人生を送るかは、自分で決めるべき筋合いのものであるということは間違いないのです。
そんなスタンスに興味のある人におすすめなのが以下の電子書籍です。
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市民として政治でなすべきは、投票することだけではない?(幸福の科学)
こんにちは。
先日、7月5日は南海トラフ大地震がきて、太平洋側の多くの日本の地域が津波に襲われる、という予言が巷に流布していたのですが、それが杞憂で終わってよかったです。
私は東京に住んでいるのですが、東京はもし来たら、危ないとも安全ともいわれてなかったので、どうしようかと思い、日本海側にある富山県に行ってきました(笑)。
もし来なくても、長らくこの県には行ってなかったので、旅行がてらのつもりで行ってこようと思いましたので、損した気はないです。

しかし、何も起こらなかったですが、それでいいわけはなく、日本は地震大国ですから、いつまでも東京のような海抜の低いところに永住しているのがいいとは思わないです。
もしものために、移住を考えて行動しているのがいいでしょう。
さて今回の記事は、反.幸福の科学のニュアンスを感じさせてしまうかもしれないですが、そうではないのです。
この団体については、反論の余地がかなり少ない宗教なので、支持したいものではあります。

しかし、いくら反論の余地がかなり少ない宗教であるといっても、完ぺきではないのですから、批判すべきところは批判すべし、と私はしているのです。
この団体の総裁であった故.大川隆法氏は、「世の中の価値正す」と言い張っていたのです。
やはりいつの世でも問題点はあるもので、それを正すためには、それを指摘し、それが改善されるように行動していかなくてはならないのです。
こと政治においても同様です。
新聞はもちろん、いろんな本を読んでいるとその問題点が発見できるのです。
それを愚痴っていても、改善にはつながらない。
やはり行動につなげなくてはいけないのです。
その考慮の結果、総裁(下写真)は自分で政党を作り、それを国政に生かすために、議員を出そうとして結党もしたのです。

しかし、もはや成熟した世のなかにおいて、やはりパイは非常に小さくなっていたのでしょう。
国会議員を取るのは、やはり陣取り合戦の様相を呈していたようで、国政選挙において、この団体の党であった幸福実現党からは、国会議員を1人も出すことができていなかったのです。
地方選では何人か出すことに成功していたようですが。
今月のこの団体の月刊冊子を読むとその報告が載っていて、胸をなでおろしました。
しかし、これから国政選挙において幸福実現党が議員を出させることができるのかどうか不安ではあるのです。
やはり議員を選出させるためには、多くの人にその議員を認識してもらわないといけないのは言うまでもないのです。
宗教政党である公明党のバックには創価学会があります。

この団体では、毎日新聞が会員に届けられます。
そこでは、毎日、新聞で公明党の良さを語るのです。
ましてや、選挙が近くなると、公明党議員の声明文を載せたり、その議員の素晴らしさを論じたりします。
すると、それを読んでいる創価学会員たちは、その議員に投票しようという気概を持つのが自然なのです。

その結果、この党は自民党に次ぐ第二の政党になっているのです。
かたや、幸福の科学は、月に1回冊子が家々に届けられるだけです。
しかも、幸福の科学の会員よりも、創価学会員のほうが断然数が多い。
となれば、当選者数は圧倒的に公明党に有利になるのは必然です。
これも、幸福実現党が選挙当選において難しかった理由でしょう。
単純接触効果がこの党には少なかったのと会員数で太刀打ちできなかったのです。
それを考慮せずに、故.大川総裁は、この党の当選のために90億円ものお金を拠出してしまったのだそうです。
やはり、いくら高尚な理念を持った政党でも、必ずしも当選できることはない、という痛い教訓になりました。
それを踏まえたうえで、自分が支持したい立候補者に投票し続けたいと思います。

自分が支持する候補者の当選がかなわなかったとしたら、自分が生活上で市民としてなすことはないか考え行動する。
そんなスタンスが必要ではないでしょうか?
市民生活とはなにも選挙で投票するだけではないのです。
自分で良かれと思うことは行動し、その理念を外部に出し続ける。
その理念に棲む電波が波及して、世の中をよくしていくことにつながる。
そう思っているのです。
こういう理念に賛同できる人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
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♯大川隆法
♯幸福実現党
先日、7月5日は南海トラフ大地震がきて、太平洋側の多くの日本の地域が津波に襲われる、という予言が巷に流布していたのですが、それが杞憂で終わってよかったです。
私は東京に住んでいるのですが、東京はもし来たら、危ないとも安全ともいわれてなかったので、どうしようかと思い、日本海側にある富山県に行ってきました(笑)。
もし来なくても、長らくこの県には行ってなかったので、旅行がてらのつもりで行ってこようと思いましたので、損した気はないです。

しかし、何も起こらなかったですが、それでいいわけはなく、日本は地震大国ですから、いつまでも東京のような海抜の低いところに永住しているのがいいとは思わないです。
もしものために、移住を考えて行動しているのがいいでしょう。
さて今回の記事は、反.幸福の科学のニュアンスを感じさせてしまうかもしれないですが、そうではないのです。
この団体については、反論の余地がかなり少ない宗教なので、支持したいものではあります。

しかし、いくら反論の余地がかなり少ない宗教であるといっても、完ぺきではないのですから、批判すべきところは批判すべし、と私はしているのです。
この団体の総裁であった故.大川隆法氏は、「世の中の価値正す」と言い張っていたのです。
やはりいつの世でも問題点はあるもので、それを正すためには、それを指摘し、それが改善されるように行動していかなくてはならないのです。
こと政治においても同様です。
新聞はもちろん、いろんな本を読んでいるとその問題点が発見できるのです。
それを愚痴っていても、改善にはつながらない。
やはり行動につなげなくてはいけないのです。
その考慮の結果、総裁(下写真)は自分で政党を作り、それを国政に生かすために、議員を出そうとして結党もしたのです。

しかし、もはや成熟した世のなかにおいて、やはりパイは非常に小さくなっていたのでしょう。
国会議員を取るのは、やはり陣取り合戦の様相を呈していたようで、国政選挙において、この団体の党であった幸福実現党からは、国会議員を1人も出すことができていなかったのです。
地方選では何人か出すことに成功していたようですが。
今月のこの団体の月刊冊子を読むとその報告が載っていて、胸をなでおろしました。
しかし、これから国政選挙において幸福実現党が議員を出させることができるのかどうか不安ではあるのです。
やはり議員を選出させるためには、多くの人にその議員を認識してもらわないといけないのは言うまでもないのです。
宗教政党である公明党のバックには創価学会があります。

この団体では、毎日新聞が会員に届けられます。
そこでは、毎日、新聞で公明党の良さを語るのです。
ましてや、選挙が近くなると、公明党議員の声明文を載せたり、その議員の素晴らしさを論じたりします。
すると、それを読んでいる創価学会員たちは、その議員に投票しようという気概を持つのが自然なのです。

その結果、この党は自民党に次ぐ第二の政党になっているのです。
かたや、幸福の科学は、月に1回冊子が家々に届けられるだけです。
しかも、幸福の科学の会員よりも、創価学会員のほうが断然数が多い。
となれば、当選者数は圧倒的に公明党に有利になるのは必然です。
これも、幸福実現党が選挙当選において難しかった理由でしょう。
単純接触効果がこの党には少なかったのと会員数で太刀打ちできなかったのです。
それを考慮せずに、故.大川総裁は、この党の当選のために90億円ものお金を拠出してしまったのだそうです。
やはり、いくら高尚な理念を持った政党でも、必ずしも当選できることはない、という痛い教訓になりました。
それを踏まえたうえで、自分が支持したい立候補者に投票し続けたいと思います。

自分が支持する候補者の当選がかなわなかったとしたら、自分が生活上で市民としてなすことはないか考え行動する。
そんなスタンスが必要ではないでしょうか?
市民生活とはなにも選挙で投票するだけではないのです。
自分で良かれと思うことは行動し、その理念を外部に出し続ける。
その理念に棲む電波が波及して、世の中をよくしていくことにつながる。
そう思っているのです。
こういう理念に賛同できる人におすすめなのが以下の電子書籍になります。
●以下よりどうぞ。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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今回はこれにて終了します。
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♯大川隆法
♯幸福実現党
神懸かりの故.大川総裁でも無批判でいいか?…それはNGです!なぜか (幸福の科学)
宗教というものは、古今東西、新興すると反発を食らうというのは人間の歴史を見ればわかります。
いかがわしい、変だ、これまでとは違う…こういったことが理由として挙げられるものです。
しかし、大人になったら、そういう短絡的な考えはせず、一度、その宗教について書かれた本を読んでみるべきでしょう。
1冊を最初から最後まで。

ことは宗教に限らず、いろんな分野で同じことが言えそうです。
それまで流行っていたグラビアアイドルとは違うタイプのグラビアアイドルが登場してきたら、だれもが訝し気に思うものです。
しかし、そのグラビアアイドルが何度も映像に登場すると、それに慣れてきて、逆に、そのグラビアアイドルが恋しくなったり、もっと長く登場すれば、国を代表するグラビアアイドル、といった感じで取り上げられたりするものです。
初めころに、貶していた人はどうしたの?と反論したくなるのです。
こういう歴史を鑑みると、その異物が出てきたら、まず、様子を見守り、その内容を詳しく見てみるのがいいでしょう。
そのうえで、それが気に入らなければ、そのアンチでいればいいだけの話しです。
ことは、幸福の科学でも一緒のようです。
そのアンチは、開宗当初はいたようですが、今に至っては鎮静化しているように見受けられます。
しかし、その団体内部に最大のアンチがいる、いや、いたという珍しいタイプです。
そう、この団体の故.大川総裁の息子である大川宏洋氏(下写真)です。

「反 幸福の科学」とか「幸福の科学 批判」といったワードで検索しても、この人が出した動画か出てこないのですね。
この人の出した反幸福の科学の動画を見ると、「教団の一番近くにいた人の言葉だから、この人を信じたほうがいいのだろうか?」と本気になって思ったものです。
それまで幸福の科学に対しては、称賛の声しか自分には浮かばなかったですが、息子の宏洋氏が言ってるのだから…という思いが強くなりました。
しかし、いま一度、信者の声や、大川総裁の講演や本を読んで、平等な視線でみると、やはり宏洋氏のほうが誤りではないか、と思うようになったのです。
そして、その宏洋氏の動画や本で言われていることは、間違いだらけである、ということで、教団から訴えられ、彼は7回も敗訴しているのです。
彼は一度は教団に帰依し、エルカンターレに奉仕するとスピーチで涙を流しながら話したこともあり、当会の映画に出演したこともあったのです。

それがどうして、反旗を翻すようになってしまったのか…非常に疑問でしょう?
私も疑問でした。
それを探るために、彼の本も読んでみました。
事実と違うとして訴えられたところと違う部分について読み込みました。
その部分で印象的に思ったのは、週6回のペースで習い事をさせられていた、ということです。
そして、彼の母親が何としても偏差値の高い大学への合格させようと躍起になっていたということですね。
総裁がなくなる前にすでに離婚していた前妻のきょうこさん(下写真)がです。

幸福の科学の開宗からわずか3年で、総裁の家族は高級マンションを6階分を借りて生活していたようです。
その1階につき100万円もの高値であったようです。
それが可能になったのだから、きょうこさんは総裁のカリスマ性や宗教性は本物とおもったのが自然でしょう。
ゆえに、宏洋氏を総裁と同じような高学歴の人間に仕立て上げようと躍起になってしまったのは、頷けます。
大川総裁は東大法学部、そしてきょうこさんは東大教育学部を卒業した、ということで非常に勉強が好きで、楽しかったのでしょう。
そういう人は、本を1冊読むだけで、精神的に参ってしまう人の心を理解しにくいのです。
かくいう私もそうでした(笑)。
大学時代は登録した授業は全部出席し、全部ノートを取り、4年間で300冊以上の本を読みました。

大学生ならば、こういうことができて当たり前と思っていたので、さぼりまくっている人の心が理解できなかったのです。
しかし、いろんな本を読んでいくうえで、そういう素質のある人とそうでない人がいる、ということを知り、そういう一律的な考えは捨てました。
きょう子さんは、その事実がわからなかったのでしょう。
宏洋氏を生んだのが20代後半で、あまり世間を広く見ることができなかった。
誰もが勉強が好きになり、本を読むのは習慣づけられる、という思いだったのでしょう。
しかし、それに気づくことができないまま宏洋氏にスパルタ教育を施しすぎてしまった。
宏洋氏の本や、幸福の科学の職員たちの書いた本を読むと、彼は大の勉強嫌いだったようです。
そういう人を好きにならせるのは不可能ゆえに、他の道で進ませるべきだったのはいうまでもないです。
こういう幼少時のスパルタ教育がトラウマになって、教団を非難しまくる生態になってしまったということが容易に想像できます。

きょう子氏の教育については、だれもが子育てはぶっつけ本番ゆえに、逐一咎めだてすべきではないでしょう。
それが誤りなのがわかったら矯正すればいいだけの話しです。
この記事を読んでいる父母さんも気を付けてほしいものです。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式の感情になって、宏洋氏は、自分の父母のみならず教団まで批判する行動になってしまったのです。
そういった自分への父母の教育だけでなく、親とくに父親の生活習慣も、子供へ悪影響を与えていた、と私は分析するのです。
普通の父は、朝起きて、ごはんを食べて出勤する。
そういう態度を見て育った子供は、精神を健全にすることができるのです。
しかし、出勤せずに、家でテレビを見たり、パソコンをいじったり、本を読んでいる親とくに父を見て育つと、子供の精神は不健康になるのです。
「親が楽して生きているのに、なんで自分は苦労して生きていかなくてはならなんだ!」
という反発心を抱いてしまうのですね。
それが後々まで、親子の不信感につながり、険悪な仲にまで発展してしまうこともしばしばなのです。
やはり、大学教授、アトリエの先生、塾講師、陶芸家などの芸術家、こういった職を持つ父親をもった子供は、力強く健全な精神で生きていくことが困難になってしまうのが心理学的に明らかにされているのです。
いろんな科学に精通していた故.大川総裁(下写真)だったがゆえに、こういうことにも通じていたはずですが、過ちを犯してしまったようです。

この知識が、宏洋氏の教育時には抜け落ちてしまっていた。
そうならないためにはどうすればよかったか?
簡単です。
子供たちが起床する時間帯に、自分はいち早く起きて、ファミレスや喫茶店などに行って、書き物や読み物といったことをすべきであった、ということです。
やはり、教育はぶっつけ本番ゆえに、ちょっとした過ちが後々まで響くことを導いてしまった、ということです。
こういうことが大事と思った人は、自分のモラルを形成するときに、脳内に付け加えよ、ということです。
宗教というとどうしても祈願をする行為が基本としてありますが、こういう事象を見ると、ただ祈ってればいいか?
という疑問がおきますよね。
私は、大川総裁だけに縋ればいいのか?という疑問を抱くわけです。
ちがうでしょう、ということを言いたいわけです。
宏洋もまさに、ちょっとした過ちが原因で変化してしまったのですから、そこは厳然とした態度で臨まなくてはいけない、ということです。
私は幸福の科学には、信頼の幅としては大きい宗教ではありますが、全部を受け入れることはできない、ということは宏洋氏を見ればわかると思います。
もちろん、私は完璧からは程遠いので、私を見本とせよなどとは、いうわけはないです(笑)。
完璧なものはない、という前提で宗教に接していくのが大事、という意見に賛同してもらえる人には、以下の電子書籍はお勧めです!
●以下よりどうぞ。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯大川宏洋
♯反.幸福の科学
いかがわしい、変だ、これまでとは違う…こういったことが理由として挙げられるものです。
しかし、大人になったら、そういう短絡的な考えはせず、一度、その宗教について書かれた本を読んでみるべきでしょう。
1冊を最初から最後まで。

ことは宗教に限らず、いろんな分野で同じことが言えそうです。
それまで流行っていたグラビアアイドルとは違うタイプのグラビアアイドルが登場してきたら、だれもが訝し気に思うものです。
しかし、そのグラビアアイドルが何度も映像に登場すると、それに慣れてきて、逆に、そのグラビアアイドルが恋しくなったり、もっと長く登場すれば、国を代表するグラビアアイドル、といった感じで取り上げられたりするものです。
初めころに、貶していた人はどうしたの?と反論したくなるのです。
こういう歴史を鑑みると、その異物が出てきたら、まず、様子を見守り、その内容を詳しく見てみるのがいいでしょう。
そのうえで、それが気に入らなければ、そのアンチでいればいいだけの話しです。
ことは、幸福の科学でも一緒のようです。
そのアンチは、開宗当初はいたようですが、今に至っては鎮静化しているように見受けられます。
しかし、その団体内部に最大のアンチがいる、いや、いたという珍しいタイプです。
そう、この団体の故.大川総裁の息子である大川宏洋氏(下写真)です。

「反 幸福の科学」とか「幸福の科学 批判」といったワードで検索しても、この人が出した動画か出てこないのですね。
この人の出した反幸福の科学の動画を見ると、「教団の一番近くにいた人の言葉だから、この人を信じたほうがいいのだろうか?」と本気になって思ったものです。
それまで幸福の科学に対しては、称賛の声しか自分には浮かばなかったですが、息子の宏洋氏が言ってるのだから…という思いが強くなりました。
しかし、いま一度、信者の声や、大川総裁の講演や本を読んで、平等な視線でみると、やはり宏洋氏のほうが誤りではないか、と思うようになったのです。
そして、その宏洋氏の動画や本で言われていることは、間違いだらけである、ということで、教団から訴えられ、彼は7回も敗訴しているのです。
彼は一度は教団に帰依し、エルカンターレに奉仕するとスピーチで涙を流しながら話したこともあり、当会の映画に出演したこともあったのです。

それがどうして、反旗を翻すようになってしまったのか…非常に疑問でしょう?
私も疑問でした。
それを探るために、彼の本も読んでみました。
事実と違うとして訴えられたところと違う部分について読み込みました。
その部分で印象的に思ったのは、週6回のペースで習い事をさせられていた、ということです。
そして、彼の母親が何としても偏差値の高い大学への合格させようと躍起になっていたということですね。
総裁がなくなる前にすでに離婚していた前妻のきょうこさん(下写真)がです。

幸福の科学の開宗からわずか3年で、総裁の家族は高級マンションを6階分を借りて生活していたようです。
その1階につき100万円もの高値であったようです。
それが可能になったのだから、きょうこさんは総裁のカリスマ性や宗教性は本物とおもったのが自然でしょう。
ゆえに、宏洋氏を総裁と同じような高学歴の人間に仕立て上げようと躍起になってしまったのは、頷けます。
大川総裁は東大法学部、そしてきょうこさんは東大教育学部を卒業した、ということで非常に勉強が好きで、楽しかったのでしょう。
そういう人は、本を1冊読むだけで、精神的に参ってしまう人の心を理解しにくいのです。
かくいう私もそうでした(笑)。
大学時代は登録した授業は全部出席し、全部ノートを取り、4年間で300冊以上の本を読みました。
大学生ならば、こういうことができて当たり前と思っていたので、さぼりまくっている人の心が理解できなかったのです。
しかし、いろんな本を読んでいくうえで、そういう素質のある人とそうでない人がいる、ということを知り、そういう一律的な考えは捨てました。
きょう子さんは、その事実がわからなかったのでしょう。
宏洋氏を生んだのが20代後半で、あまり世間を広く見ることができなかった。
誰もが勉強が好きになり、本を読むのは習慣づけられる、という思いだったのでしょう。
しかし、それに気づくことができないまま宏洋氏にスパルタ教育を施しすぎてしまった。
宏洋氏の本や、幸福の科学の職員たちの書いた本を読むと、彼は大の勉強嫌いだったようです。
そういう人を好きにならせるのは不可能ゆえに、他の道で進ませるべきだったのはいうまでもないです。
こういう幼少時のスパルタ教育がトラウマになって、教団を非難しまくる生態になってしまったということが容易に想像できます。

きょう子氏の教育については、だれもが子育てはぶっつけ本番ゆえに、逐一咎めだてすべきではないでしょう。
それが誤りなのがわかったら矯正すればいいだけの話しです。
この記事を読んでいる父母さんも気を付けてほしいものです。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式の感情になって、宏洋氏は、自分の父母のみならず教団まで批判する行動になってしまったのです。
そういった自分への父母の教育だけでなく、親とくに父親の生活習慣も、子供へ悪影響を与えていた、と私は分析するのです。
普通の父は、朝起きて、ごはんを食べて出勤する。
そういう態度を見て育った子供は、精神を健全にすることができるのです。
しかし、出勤せずに、家でテレビを見たり、パソコンをいじったり、本を読んでいる親とくに父を見て育つと、子供の精神は不健康になるのです。
「親が楽して生きているのに、なんで自分は苦労して生きていかなくてはならなんだ!」
という反発心を抱いてしまうのですね。
それが後々まで、親子の不信感につながり、険悪な仲にまで発展してしまうこともしばしばなのです。
やはり、大学教授、アトリエの先生、塾講師、陶芸家などの芸術家、こういった職を持つ父親をもった子供は、力強く健全な精神で生きていくことが困難になってしまうのが心理学的に明らかにされているのです。
いろんな科学に精通していた故.大川総裁(下写真)だったがゆえに、こういうことにも通じていたはずですが、過ちを犯してしまったようです。

この知識が、宏洋氏の教育時には抜け落ちてしまっていた。
そうならないためにはどうすればよかったか?
簡単です。
子供たちが起床する時間帯に、自分はいち早く起きて、ファミレスや喫茶店などに行って、書き物や読み物といったことをすべきであった、ということです。
やはり、教育はぶっつけ本番ゆえに、ちょっとした過ちが後々まで響くことを導いてしまった、ということです。
こういうことが大事と思った人は、自分のモラルを形成するときに、脳内に付け加えよ、ということです。
宗教というとどうしても祈願をする行為が基本としてありますが、こういう事象を見ると、ただ祈ってればいいか?
という疑問がおきますよね。
私は、大川総裁だけに縋ればいいのか?という疑問を抱くわけです。
ちがうでしょう、ということを言いたいわけです。
宏洋もまさに、ちょっとした過ちが原因で変化してしまったのですから、そこは厳然とした態度で臨まなくてはいけない、ということです。
私は幸福の科学には、信頼の幅としては大きい宗教ではありますが、全部を受け入れることはできない、ということは宏洋氏を見ればわかると思います。
もちろん、私は完璧からは程遠いので、私を見本とせよなどとは、いうわけはないです(笑)。
完璧なものはない、という前提で宗教に接していくのが大事、という意見に賛同してもらえる人には、以下の電子書籍はお勧めです!
●以下よりどうぞ。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯大川宏洋
♯反.幸福の科学
宗教乱立の時代に望ましい宗教へのスタンスとは?
こんにちは。
世の中にはいろんな宗教が乱立しています。
何かの縁で,その宗教に入ることは誰にでもあるでしょう。
しかし、大抵の宗教では、その宗教に関する正当性を論じ、いかにこの宗教が素晴らしいかを説くのに躍起になっているだけの観があるのは否めないです。
他の宗教について交えて論じることはまれなのです。

これで納得してしまうのが、古今東西人類の変わらぬ事態なのでしょうか?
それでは正直、納得できないのが私の立場なのです。
その宗教がこの世で一番素晴らしいというのならば、複数、それも最低でも5つ以上の宗教と比較してから、自分の宗教の正当性を論じるべきでしょう。
そういう作業なくして、その宗教がこの世で一番素晴らしいなどといわれても、私は納得できないのですが、その宗教にぞっこんになってしまった人は、汲々として、その宗教の素晴らしさを人に語ったり、信者になるように勧めたりするからわからないのです(笑)
そのぞっこんになってしまった人に「他の宗教についての本を何冊読みましたか?」と問うても、「1冊も読んでいない」というのがほとんどなのです(笑)
あまりに論理的に私は考えすぎなのでしょうか?
そんなことはないと思います(笑)
宗教的な力…仏力、霊力といったものには敬意を払いつつも、いろんな宗教を垣間見て、それぞれのいいところを身に入れて、感謝しつつ、生活を生きていく…そんなスタンスが最良と思うのですが、世のなかの人はそうでないのが通常の例なのです。

それは言論を提示していくに際しても、おなじであるべきなのです。
意見Aと、意見Bがあるとします。
それぞれの意見を最初から最後まで聞く、あるいは全部読む。
それに関する本を、いっぱい読む、そのうえで自分の意見を練り上げて、中道を行く。
中道とはいっても、キッチリ真ん中ではないです。
どの程度に中道かは、その人の価値観や、得てきた情報によって違ってくるのです。
ゆえに、意見Aと意見Bに関しての意見や論文は、10人10色、100人100色であってしかるべきなのです。
しかし、こと宗教団体になると、ほぼ10人1色、100人1色になってしまうのです。

神仏という尊い存在に対して謙虚になるのはいいことだと思います。
しかし、時代の変遷とともに、その内容が通用しなかったり、まったく的外れになることもままあるのです。
ゆえに、無批判というのはいただけないのです。
それに、その宗教指導者が、信者を欺くために虚偽の言説を流している場合もあるのです。
それに気づかずに無批判というのはどうなのかな、という気がします。
論文の著者の本をいろいろ買い、読んできた私としては、中道で書き本を出し、その内容を読んで感銘を受けた人がその人の著作家のファンになるかどうかが決まる、という気がします。
決して1つの立場に一辺倒という著者にはファンは限られてくるでしょうし、そもそもファンすらつかない気がします。
そんなスタンスの言論に興味のある人に、おすすめの本が以下です。
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯宗教
♯中道
世の中にはいろんな宗教が乱立しています。
何かの縁で,その宗教に入ることは誰にでもあるでしょう。
しかし、大抵の宗教では、その宗教に関する正当性を論じ、いかにこの宗教が素晴らしいかを説くのに躍起になっているだけの観があるのは否めないです。
他の宗教について交えて論じることはまれなのです。

これで納得してしまうのが、古今東西人類の変わらぬ事態なのでしょうか?
それでは正直、納得できないのが私の立場なのです。
その宗教がこの世で一番素晴らしいというのならば、複数、それも最低でも5つ以上の宗教と比較してから、自分の宗教の正当性を論じるべきでしょう。
そういう作業なくして、その宗教がこの世で一番素晴らしいなどといわれても、私は納得できないのですが、その宗教にぞっこんになってしまった人は、汲々として、その宗教の素晴らしさを人に語ったり、信者になるように勧めたりするからわからないのです(笑)
そのぞっこんになってしまった人に「他の宗教についての本を何冊読みましたか?」と問うても、「1冊も読んでいない」というのがほとんどなのです(笑)
あまりに論理的に私は考えすぎなのでしょうか?
そんなことはないと思います(笑)
宗教的な力…仏力、霊力といったものには敬意を払いつつも、いろんな宗教を垣間見て、それぞれのいいところを身に入れて、感謝しつつ、生活を生きていく…そんなスタンスが最良と思うのですが、世のなかの人はそうでないのが通常の例なのです。
それは言論を提示していくに際しても、おなじであるべきなのです。
意見Aと、意見Bがあるとします。
それぞれの意見を最初から最後まで聞く、あるいは全部読む。
それに関する本を、いっぱい読む、そのうえで自分の意見を練り上げて、中道を行く。
中道とはいっても、キッチリ真ん中ではないです。
どの程度に中道かは、その人の価値観や、得てきた情報によって違ってくるのです。
ゆえに、意見Aと意見Bに関しての意見や論文は、10人10色、100人100色であってしかるべきなのです。
しかし、こと宗教団体になると、ほぼ10人1色、100人1色になってしまうのです。

神仏という尊い存在に対して謙虚になるのはいいことだと思います。
しかし、時代の変遷とともに、その内容が通用しなかったり、まったく的外れになることもままあるのです。
ゆえに、無批判というのはいただけないのです。
それに、その宗教指導者が、信者を欺くために虚偽の言説を流している場合もあるのです。
それに気づかずに無批判というのはどうなのかな、という気がします。
論文の著者の本をいろいろ買い、読んできた私としては、中道で書き本を出し、その内容を読んで感銘を受けた人がその人の著作家のファンになるかどうかが決まる、という気がします。
決して1つの立場に一辺倒という著者にはファンは限られてくるでしょうし、そもそもファンすらつかない気がします。
そんなスタンスの言論に興味のある人に、おすすめの本が以下です。
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