1つの宗教に拘るべからず!多面的に学び、自身の哲学を構築せよ?

哲学とは何かといえば、古代のギリシャを含めた西洋の思想家の思想を勉強することと思われがちでしょう。
しかし、それは人の定義づけによって変わってくるので、むやみに否定はしないですが、私はそれだけではないのです。
いな、違うといってもいいのでしょうか?
私にとって哲学とは、雑学、乱読によって得た知識と、それを手段にして形成した自分の思想というふうに考えています。
人は、それぞれいろんな情報に接して生きてきました。
ゆえに、その情報が変わってくれば、当然、考えも変わってくるわけで,それを統一しようとしたら、それはかなり難しいことでしょう。
しかし、事、宗教内に入ってしまえば、神や仏など、人間を凌駕した存在の言葉を介したものゆえに、その宗教内で言われていることには、すぐ鵜呑みにして無批判になってしまうようです。
それは幾多の宗教を見て、発見しました。
しかし、いくら神や仏の言った言葉でも、のちになって誤りであることも判明するわけです。
いや、神や仏ではない、宗教の創始者、開祖といわれる人たちも同じ人間なのですから、もっと過ちを犯すでしょう。
それを批判する気はないのです。

しかし、それが誤りであることが判明したのであれば、そこについては取り入れない、という毅然とした態度が必須と思うのですが、そういう考えをしている人はまれです。
ゆえに、私が1つの宗教にぞっこんになって、その宗教の素晴らしさを人に語り、信者になってくれるように頼む、なんていうふうにはならないのは明白です(笑)
そういうスタンスですから、ある特定の宗教にぞっこんになってしまう人の気持ちが全然わからないのです。
それに、発見したことですが、その宗教に入ってしまう人の特徴は、やはりその他の宗教についての本も同様に、他の科学や学問についての本は全くと言っていいほど読んでいないのが通常です。
その宗教の素晴らしさを語るなら、他の宗教についていくつも比較して、その素晴らしさを語ることによって説得力があるものですが、そう言うことをしてくれる人はまずいないのです。
自分の入っている宗教だけ学んで「この宗教こそ至上のものだ!」なんて言われても納得できません(笑)
しかし、その宗教の会合に行って話しを聞いたり、その宗教についての本を読むとそれなりに学ぶところはあります。
しかし、全部が無批判というわけではないのですから、そこは毅然とした態度で「取り入れない」という態度が必要と思います。
私は心理学の本をたくさん読んできました。
やはり人間関係について悩むたちですから。

そこで学んだのは、「人間には2タイプあって、1つはひとの心に関心のある人、もう1つはひとの心に無関心な人」ということを知りました。
それによって、心が晴れました。
「ひとの心に無関心な人に対しては、わざわざ心を開いてくれるようにアクセスしなくていいんだ!」ということですね。
ゆえに、人の揚げ足しかとらない人や、コチラが優しくしているのに一向にコチラにやさしくしてくれない人にはかかわらずに、人の心に無関心な人にはロボットと接するようにしているのでいいということがわかりました。
そういうことを書くと、それでは相手が傷つくんじゃ、と思われるかもしれないですがそんなことはないのです。
そういうことをしても、やはり、傷ついている様子はないのです。
しかし、そういったことを言うのは宗教内では御法度なのです。
宗教は和を前提とした団体なのですから。
それが宗教の建前なのですから。
しかし、真実は「人の心に無関心な人にはロボットと接するようにせよ」というのが王道なのです。
しかしそれを理解しないで、そういう人にも優しく接しても一向にあちらはそういうことをしてくれないで終わるのですから、ストレスにさいなまれます。

それでは何のために生きているのかわからないですよね。
そこは毅然とした態度が必須なのです。
宗教以外にも学べるものはいくらでもあるのですから、そこから学んで自分の哲学を構築すればいいのですが、文字嫌いな人はそれができないから、宗教内で言われていることだけに依拠してしまい、いつまでたってもそのスパイラルから抜け出せないでいるのです。
宗教で言われていることだけが真実ではない、という厳然たる事実を悟らなくてはなりません。
開祖がなくなって、そのあとを継いだその団体の長は大抵、いろんな著作家の本、他の宗教者の本、伝記の本、哲学者の本を宗教の長は読んでいるのが通常です。
ゆえに一般信者よりは多面的なのです。
しかし、多くの場合、内容がその宗教内に留まるゆえに、幅は狭いのです。
ゆえに、その宗教団体内で話されていることだけに依拠するのも危険なのです。
しかし、一般信者はほとんど本を読まず。
ゆえに一面的で逢着してしまっているのです。
ゆえに、宗教にぞっこんになるのはお勧めできないのです。
それなりに学ぶものがあるのは事実ですが。
その宗教内で話されている内容が、自分が興味あることであれば話しは別ですが、私は興味ないです、ほとんど…(笑)
そのことを書くと、この宗教をしっかり学ばなければ、いい人生を送れないよといった意見が宗教者からは出そうですが、そこは構わないです、不問です。
何も宗教を蔑ろにしているわけではないのです。

学び、実践していくべきと思われることについては真摯に接しています。
それでも足りない、ということであれば、それは不問にしなければないです。
その宗教で大事とされていることをすべて行動していくには時間がないからです。
それでも邪道というのであれば、仕方ないです、本当に!
そんなスタンスの興味ある人には以下の電子書籍はお勧めです。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!



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♯宗教
♯無批判
幸福の科学は多面性を有する。しかし、すべての場面で打開できない?ではどうすれば? (幸福の科学)
こんにちは。
私は、幸福の科学の宗教的なスタンスに共鳴する立場で、これまで何度もこの団体から本や機関誌をいただき、そのお礼として、お菓子やドリンクを格安サイトで買ってきては、お渡ししているのです。
この団体の機関誌である『幸福の科学』という小冊子を読んでいると、いろんな体験談が語られています。

人生における困難が降りかかってきて、その突破口をこの宗教で見つけ、見事、突破口を見つけて乗り越えた、という経験談を読んでいると胸が晴れやかになります。
ある以下のような、体験談がありました。
ある主婦の人ですが、主人が4000万円の借金をギャンブルで作ってしまい、それまで経営していた焼肉屋2件、美容室2件が取り上げられた、ということです。
こういう経験から引き合いに出されるのは、この団体の基本的なバイブルとされている『太陽の法』ですね。
その内容については、その本を自身で読んでいただきましょう(笑)。
しかし、その主婦の人は良くもこの旦那と一緒にやっていこうと思い、そして見事それを克服し、今は健全な経営を維持しているな、ということで感心せざるを得なかったですね。
また、自分の属す会社で、嫌味をよく言う上司との人間関係に悩み、そのことに対する故.大川総裁(下写真)の回答は、「自分が変わらないことには相手は変わらない」ということを言っていたのです。

これは、しかし正直、私は支持できない考えです。
それでは一時的な気休めにしかならないのは明白です。
同じようなことを創価学会でも言われているのです。
故.大川総裁は、信者のいろんな悩みを回答する内容を本にしたためておりました。
そのバラエティさや、深みには敬服せざるを得なかったのです。
こんなに多くの回答が出せるのは、総裁の人間離れした多読にあることは明白でした。
それに加えて、エルカンターレが総裁に下生した、というノンフィクションがこの宗教の土台になっているのですが、それも起因しているのでしょうか?
そのどちらなのかは私にはわかりかねます。
総裁がいま生きていたとしても、どちらなのかは断定せざるを得ないのです。
いま日本でベスト5に入る大きな宗教団体になった創価学会は、当初「創価教育学会」と名乗っていて、初めは宗教団体ではなかったのです。
この初代の会長だった牧口常三郎氏が日蓮正宗の熱心な信徒だった故に、その意気が認められて、日蓮正宗の信徒団体になったのです。
それとほぼ一緒だったようです幸福の科学も。
当初は、世界の宗教を学ぶ団体だったのが、軌道修正して宗教団体になったようです。
その当初も今も、当会の基礎的なバイブルになったのが、かの有名な『太陽の法』(下写真)のようです。

大川総裁は、悪い意味での教育パパ、ママに育てられなかったがゆえに、教育の進学は本人に任せて自由にさせてもらっていたようです。
私と違ってわがままな期待を父母からされていなかったのがわかるのです。
ゆえにそういう家庭で育てられた人の心がわからないだろうことは間違いないです。
そういう家庭で育てられた子供の心は理解しようにも理解できなかったのは明白です。
親の誤った教育が原因で劣等感にさいなまれる子供の心の矯正は、そういう経験をした人の体験談が一番説得力があるのは明白です。
その経験がない人に矯正法などはわからないです。
しかし、宗教団体内では表立って「親の誤った教育が原因だ」というようなことは言えないのは自明です。
この場合も親が原因という事は明白ですが、親を根本原因という事が言えないのです。
これも宗教自体が、家族と信者は親和していかなくてはならない前提となっているがゆえのことです。
ことは幸福の科学でも同様です。
しかし、誤った教育を指摘しなければ根本解決にはならないのです。
そこを踏まえてうえで打開策を練るのが大事だと私は思っています。
こういう面でも、また幸福の科学によらずとも、いろんな本を読むことで、打開策を得れ、そして勇気を持つことが出来る、という理由で、私は幸福の科学の信者にはならないとしているのです。

しかし、幸福の科学は、教えに多面性を有しているし、本物としての威厳を感じるがゆえに、大幅にこの宗教団体には信頼を置いていることは確かなのです。
それゆえに、この団体での集会や食事会には参加させてもらい、私も飲食物のプレゼントもさせてもらっているのです。
それでいいと毅然としているのです私は。
そんなスタンスに興味ある人は、以下の電子書籍はおすすめです。
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♯打開策
私は、幸福の科学の宗教的なスタンスに共鳴する立場で、これまで何度もこの団体から本や機関誌をいただき、そのお礼として、お菓子やドリンクを格安サイトで買ってきては、お渡ししているのです。
この団体の機関誌である『幸福の科学』という小冊子を読んでいると、いろんな体験談が語られています。

人生における困難が降りかかってきて、その突破口をこの宗教で見つけ、見事、突破口を見つけて乗り越えた、という経験談を読んでいると胸が晴れやかになります。
ある以下のような、体験談がありました。
ある主婦の人ですが、主人が4000万円の借金をギャンブルで作ってしまい、それまで経営していた焼肉屋2件、美容室2件が取り上げられた、ということです。
こういう経験から引き合いに出されるのは、この団体の基本的なバイブルとされている『太陽の法』ですね。
その内容については、その本を自身で読んでいただきましょう(笑)。
しかし、その主婦の人は良くもこの旦那と一緒にやっていこうと思い、そして見事それを克服し、今は健全な経営を維持しているな、ということで感心せざるを得なかったですね。
また、自分の属す会社で、嫌味をよく言う上司との人間関係に悩み、そのことに対する故.大川総裁(下写真)の回答は、「自分が変わらないことには相手は変わらない」ということを言っていたのです。

これは、しかし正直、私は支持できない考えです。
それでは一時的な気休めにしかならないのは明白です。
同じようなことを創価学会でも言われているのです。
故.大川総裁は、信者のいろんな悩みを回答する内容を本にしたためておりました。
そのバラエティさや、深みには敬服せざるを得なかったのです。
こんなに多くの回答が出せるのは、総裁の人間離れした多読にあることは明白でした。
それに加えて、エルカンターレが総裁に下生した、というノンフィクションがこの宗教の土台になっているのですが、それも起因しているのでしょうか?
そのどちらなのかは私にはわかりかねます。
総裁がいま生きていたとしても、どちらなのかは断定せざるを得ないのです。
いま日本でベスト5に入る大きな宗教団体になった創価学会は、当初「創価教育学会」と名乗っていて、初めは宗教団体ではなかったのです。
この初代の会長だった牧口常三郎氏が日蓮正宗の熱心な信徒だった故に、その意気が認められて、日蓮正宗の信徒団体になったのです。
それとほぼ一緒だったようです幸福の科学も。
当初は、世界の宗教を学ぶ団体だったのが、軌道修正して宗教団体になったようです。
その当初も今も、当会の基礎的なバイブルになったのが、かの有名な『太陽の法』(下写真)のようです。

大川総裁は、悪い意味での教育パパ、ママに育てられなかったがゆえに、教育の進学は本人に任せて自由にさせてもらっていたようです。
私と違ってわがままな期待を父母からされていなかったのがわかるのです。
ゆえにそういう家庭で育てられた人の心がわからないだろうことは間違いないです。
そういう家庭で育てられた子供の心は理解しようにも理解できなかったのは明白です。
親の誤った教育が原因で劣等感にさいなまれる子供の心の矯正は、そういう経験をした人の体験談が一番説得力があるのは明白です。
その経験がない人に矯正法などはわからないです。
しかし、宗教団体内では表立って「親の誤った教育が原因だ」というようなことは言えないのは自明です。
この場合も親が原因という事は明白ですが、親を根本原因という事が言えないのです。
これも宗教自体が、家族と信者は親和していかなくてはならない前提となっているがゆえのことです。
ことは幸福の科学でも同様です。
しかし、誤った教育を指摘しなければ根本解決にはならないのです。
そこを踏まえてうえで打開策を練るのが大事だと私は思っています。
こういう面でも、また幸福の科学によらずとも、いろんな本を読むことで、打開策を得れ、そして勇気を持つことが出来る、という理由で、私は幸福の科学の信者にはならないとしているのです。

しかし、幸福の科学は、教えに多面性を有しているし、本物としての威厳を感じるがゆえに、大幅にこの宗教団体には信頼を置いていることは確かなのです。
それゆえに、この団体での集会や食事会には参加させてもらい、私も飲食物のプレゼントもさせてもらっているのです。
それでいいと毅然としているのです私は。
そんなスタンスに興味ある人は、以下の電子書籍はおすすめです。
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♯打開策
何のために古典はあるか?その意義は理解しつつも、無批判であるべからず?(幸福の科学)
こんにちは。
誰もが、小学生時代に歴史を学習しましたよね?
その時、疑問に思った人もいるでしょう。
なんで昔のことをいまさら学ぶ必要があるのだろうと?
また、中学に上がると、国語で古典を学びましたよね。
その時も、同じように疑問に思った人もいるでしょう。
なんで昔のことをいまさら学ぶ必要があるのだろうと?

それは、昔のことから現代の人によっても学ぶべき点がいろいろあるからです。
昔の話しでも、その人物のモラルや行動、あるいは指針などについて、学ぶべき点があるからこそ教育に取りれられたのです。
その点を自ら、探そうという努力が受け手にも求められることは間違いないのです。
むかしのことだから〜といって、通り過ごしてはもったいないです。
そういうことを理解せずに、歴史を取り扱う大学での学問での「歴史学」において、その教科を担当する教授でも、人類の過去の話しをしているだけのパターンがあるのですが、それでは何のためにこの教授は大学の教員になったの?と疑問に思うこともありました。
歴史の意義がまるで理解できていなかったのです。

ただし、昔のことが何もかも学べることだらけというわけでもないのです。
古典は、いくら時代が降っても後世の人たちが学ぶ要素を含んだものをいうのであって、昔の文物がすべて古典とは言わないのです。
その意義が、その作品にあるかどうかは人によって変わってくるのは言うまでもないです。
ゆえに、それが古典、いやそれは古典ではないという論争が出てくるのは必然でしょう。
人類の過去から学ぶ。
こういうことを考えると、やはり思い浮かぶのは宗教についてでしょう。

私が思うのは、昔、ことに鎌倉時代の仏教を信仰する人の中で、当時の開祖の言ったことをそのまま信じ込んで、現代にも当てはめようとする人たちがいるということですね。
その宗教にぞっこんになってしまい、そうしたい気持ちはわからなくはないですが、きちんと現代社会との齟齬、嚙み合わせをしていくことが大事と思われてならないのです。
「この経文を唱えれば必ず快方に向かう」という開祖の言葉を信じて、その経文を必死に唱える。
それで満足してしまうのです。
実際に理想の形になったかどうか?
これにバイアスをかけるべきであって、開祖の言ったことを守ったかどうかではないのです。
昔の科学の発達していなかった時代においては、多くの人が「この経文を唱えれば必ず快方に向かう」と思うほかなかったこともあったでしょう。
ゆえに、そのことを非難するには及ばないのです。
しかし、現代では、それでは快方には向かわないということがわかったら、違う方法を試すべきであると思われてならないのです。
簡単なことなのですが、長年、そういう経文を唱えることで解決をしようとしてくると、そこから脱することが難しくなるのですね。

やはり人間だれしも、私含めて保守的なのです。
しかし、そこは勇気を出して、違う方法に切り替える必要があるのです。
人間関係でも一緒です。
例えば、人を貶したりすることで、マウントをとろうする人は古今東西いるものです。
なぜ、その人はそういう思考法になってしまうのか?
自尊心不足と経験値の不足なのです。
自尊心とは、自然体で自分を誇らしげに思える心というふうに定義するのがいいでしょう。
ゆえに自尊心がない人は、人を貶したり、上げ足取りをすることで自尊心をみたそうとするのです。
しかし、そんなものは偽物ゆえに、時間がたつとすぐに気落ちするのです。
そしてまた人を貶したりなじったりするのです。

こういう人が、そういう思考法から脱するにはどうすればいいか?
よく宗教に入っている人にはある疑問でしょう。
するとその宗教の人は、この経文を唱えれば必ずその人は変わる、といったニュアンスのことを言うのです。
しかし、その経文を唱えたところで、その人が変わることはないのです。
ではどうすればいいか?
その人が、格闘技をこなして強くなり、自信を身に着けることです。

その自信によって、人を貶したりすることが馬鹿ばかしくなって、やめるのです。
かくいう私もそうでした。
格闘技をすることで強くなり、自信がついて人をばかばかしくなってやめたのです。
貶そうと思ってもできなくなるのです。
しかし、鎌倉時代においては格闘技などなかったがゆえに、誰もがその偉大なる開祖の言われるままに経文を唱えたのでしょう。
しかし、それは叶わぬ夢だった。
そのことを頭に入れて生きていく必要があるでしょう。
その他、経文を唱えてもかなわないことはいくらでもありますから、それに縋るのではなく、合理的、論理的、科学的に考えて、同sればいいかを模索して、行動に移すことをお勧めしたいのです。
幸福の科学の故.大川隆法総裁(下写真)は、いにしえのいろんな宗教にの拠りつつも、現代的な科学的な方法をも取り入れて総合化をはかろうとしたのだろうと思います。

それは、私の支持したいスタンスゆえに、これまでいろんな総裁の本を読み、その意義を書いたブログをあげてきたのです。
幸福の科学というと、どうしても宗教性を排除した感じに思われるかもしれないですがそんなことはないのです。
宗教やスピリチュアルな面を基礎としながらも、科学的なものも取り入れて総合化を図り、現代情報にも素早くキャッチアップする。
そのスタンスには共鳴に値するスタンスと思いました。
単に仏や神に縋るという、その有用性について勉強するのならば、しておいた方がいいだろうことは間違いないでしょう。
宗教に入って、その宗教が刊行する雑誌や冊子だけを読んで行くのは、私としては支持できないですね。
自身でどんどん進んで情報をキャッチアップして取り入れて、それを日々の行動に結びつける、それが望ましいスタンスですわたしにとって。
現代においては、住宅は区画が敷いてあって、その区画内に家を建てています。
その住宅は、戸建てであろうと、集合住宅であろうと道に面する形になっています。
区画の真ん中に家を建てるということはほんの稀にしか行われないのです。
区画の中に家建てないのは風水的な根拠があって建てないのです。

何故か?
そういう家は不運を招くということがこれまでの人類の経験からわかっているからです。
ここに、そういうスピリチュアルな面が生きているのです。
宗教的なということもできるでしょう。
いくら科学が発達しても、スピリチュアルや宗教を抜きにして人生を歩んで行くことはできないのです。
それがわかった人には以下の電子書籍はおすすめです!
●以下よりどうぞ!
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♯鎌倉仏教
誰もが、小学生時代に歴史を学習しましたよね?
その時、疑問に思った人もいるでしょう。
なんで昔のことをいまさら学ぶ必要があるのだろうと?
また、中学に上がると、国語で古典を学びましたよね。
その時も、同じように疑問に思った人もいるでしょう。
なんで昔のことをいまさら学ぶ必要があるのだろうと?

それは、昔のことから現代の人によっても学ぶべき点がいろいろあるからです。
昔の話しでも、その人物のモラルや行動、あるいは指針などについて、学ぶべき点があるからこそ教育に取りれられたのです。
その点を自ら、探そうという努力が受け手にも求められることは間違いないのです。
むかしのことだから〜といって、通り過ごしてはもったいないです。
そういうことを理解せずに、歴史を取り扱う大学での学問での「歴史学」において、その教科を担当する教授でも、人類の過去の話しをしているだけのパターンがあるのですが、それでは何のためにこの教授は大学の教員になったの?と疑問に思うこともありました。
歴史の意義がまるで理解できていなかったのです。
ただし、昔のことが何もかも学べることだらけというわけでもないのです。
古典は、いくら時代が降っても後世の人たちが学ぶ要素を含んだものをいうのであって、昔の文物がすべて古典とは言わないのです。
その意義が、その作品にあるかどうかは人によって変わってくるのは言うまでもないです。
ゆえに、それが古典、いやそれは古典ではないという論争が出てくるのは必然でしょう。
人類の過去から学ぶ。
こういうことを考えると、やはり思い浮かぶのは宗教についてでしょう。
私が思うのは、昔、ことに鎌倉時代の仏教を信仰する人の中で、当時の開祖の言ったことをそのまま信じ込んで、現代にも当てはめようとする人たちがいるということですね。
その宗教にぞっこんになってしまい、そうしたい気持ちはわからなくはないですが、きちんと現代社会との齟齬、嚙み合わせをしていくことが大事と思われてならないのです。
「この経文を唱えれば必ず快方に向かう」という開祖の言葉を信じて、その経文を必死に唱える。
それで満足してしまうのです。
実際に理想の形になったかどうか?
これにバイアスをかけるべきであって、開祖の言ったことを守ったかどうかではないのです。
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ゆえに、そのことを非難するには及ばないのです。
しかし、現代では、それでは快方には向かわないということがわかったら、違う方法を試すべきであると思われてならないのです。
簡単なことなのですが、長年、そういう経文を唱えることで解決をしようとしてくると、そこから脱することが難しくなるのですね。

やはり人間だれしも、私含めて保守的なのです。
しかし、そこは勇気を出して、違う方法に切り替える必要があるのです。
人間関係でも一緒です。
例えば、人を貶したりすることで、マウントをとろうする人は古今東西いるものです。
なぜ、その人はそういう思考法になってしまうのか?
自尊心不足と経験値の不足なのです。
自尊心とは、自然体で自分を誇らしげに思える心というふうに定義するのがいいでしょう。
ゆえに自尊心がない人は、人を貶したり、上げ足取りをすることで自尊心をみたそうとするのです。
しかし、そんなものは偽物ゆえに、時間がたつとすぐに気落ちするのです。
そしてまた人を貶したりなじったりするのです。

こういう人が、そういう思考法から脱するにはどうすればいいか?
よく宗教に入っている人にはある疑問でしょう。
するとその宗教の人は、この経文を唱えれば必ずその人は変わる、といったニュアンスのことを言うのです。
しかし、その経文を唱えたところで、その人が変わることはないのです。
ではどうすればいいか?
その人が、格闘技をこなして強くなり、自信を身に着けることです。

その自信によって、人を貶したりすることが馬鹿ばかしくなって、やめるのです。
かくいう私もそうでした。
格闘技をすることで強くなり、自信がついて人をばかばかしくなってやめたのです。
貶そうと思ってもできなくなるのです。
しかし、鎌倉時代においては格闘技などなかったがゆえに、誰もがその偉大なる開祖の言われるままに経文を唱えたのでしょう。
しかし、それは叶わぬ夢だった。
そのことを頭に入れて生きていく必要があるでしょう。
その他、経文を唱えてもかなわないことはいくらでもありますから、それに縋るのではなく、合理的、論理的、科学的に考えて、同sればいいかを模索して、行動に移すことをお勧めしたいのです。
幸福の科学の故.大川隆法総裁(下写真)は、いにしえのいろんな宗教にの拠りつつも、現代的な科学的な方法をも取り入れて総合化をはかろうとしたのだろうと思います。

それは、私の支持したいスタンスゆえに、これまでいろんな総裁の本を読み、その意義を書いたブログをあげてきたのです。
幸福の科学というと、どうしても宗教性を排除した感じに思われるかもしれないですがそんなことはないのです。
宗教やスピリチュアルな面を基礎としながらも、科学的なものも取り入れて総合化を図り、現代情報にも素早くキャッチアップする。
そのスタンスには共鳴に値するスタンスと思いました。
単に仏や神に縋るという、その有用性について勉強するのならば、しておいた方がいいだろうことは間違いないでしょう。
宗教に入って、その宗教が刊行する雑誌や冊子だけを読んで行くのは、私としては支持できないですね。
自身でどんどん進んで情報をキャッチアップして取り入れて、それを日々の行動に結びつける、それが望ましいスタンスですわたしにとって。
現代においては、住宅は区画が敷いてあって、その区画内に家を建てています。
その住宅は、戸建てであろうと、集合住宅であろうと道に面する形になっています。
区画の真ん中に家を建てるということはほんの稀にしか行われないのです。
区画の中に家建てないのは風水的な根拠があって建てないのです。

何故か?
そういう家は不運を招くということがこれまでの人類の経験からわかっているからです。
ここに、そういうスピリチュアルな面が生きているのです。
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いくら科学が発達しても、スピリチュアルや宗教を抜きにして人生を歩んで行くことはできないのです。
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♯幸福の科学
♯鎌倉仏教
宗教の開祖の資質とはどのようなものか?立ち止まって考えるべし! (幸福の科学)
こんにちは。
今回は指導者とか、宗教の開祖の資質といったものについて考察していきたいです。
物事を進めるためには、いろいろある選択肢の中から選択して、断定していかなくてはならないのは言うまでもないです。
しかし、逐一いろんな選択肢から、いろいろ時間をかけて考えていては時間の無駄になってしまいます。
そこでは、経験者に人に聞いて、どうしたらいいかを相談するのがいいでしょう。
そして自身でも、いろんな経験を経て、即座に決断していく努力をしていかなくてはいけないでしょう。
そういう経験をつむことで、人に頼られる人格になっていくのです。

自分1人のことであれば、どのような感じでもいいでしょう。
時間かけようが時間かけなかろうがいいわけです、自分の責任になるのですから。
しかし、こと大勢の人の上に立つ人が何も考えずに、即断するようなことではいけません。
その決断が、人の人生を左右するような大きな難関であってみれば、失敗は許されるわけではないですし、よしんば失敗しても、ダメージが小さくなるような決断をしなくてはいけないでしょう。
大きな会社や団体の長や、宗教団体の長であってみればなおさらです。

そこでは、いろんな情報を収集して、そこで決断をするのが妥当な道でしょう。
そこでの情報は理論だったり数字だったりするわけですが、多ければ多いほど多面的になりますから、脳内に入れておいた方がいいでしょう。
しかし、いろんな人と接したり、いろんな本を読んだりするとわかるのですが、きちんとした数字を引き合いに出さずに、自分の直観や経験値だけで断定した論議の講演をしたり、本を出してきた哲学者といわれる人たちがいるのです。
それが、そのように根拠薄弱であるにもかかわらず、その論が書かれた本をよんだり聞いたりすると、かなり信憑性があり、引き込まれでしまう魅力を持っていたりするのです。
その結果大勢の支持を得るパターンがあります。
その代表が古代の哲人といわれる人たちの中に多い気がします。

それは、その人を神や仏といった存在が、そういう知識を直に与えたからではないか、というようなことを考えてしまうのです。
指導においてもおなじことが言えます。
根拠もないような気がするのに、その人に言われるとなんだか正しい気がして、従ってしまう。
逆に、指導されても、なんか気が向かずに反抗的な気分になってしまう。
やはり前者の人はリーダーに向いていて、後者の人はリーダーに向いていないのです。
前者の資質を身に着けている人は宗教の開祖になれる気がします。
ただし、講演で誰もが自分の話を終始聞いているか?
一般人とは違う読み書きの能力(早く何冊も出して、その内容も大勢の人をひきつけられるというような)があれば、やはり神仏による能力の付与が行われたのではないかと思われてならないのです。
幸福の科学の故.大川隆法氏(下写真)は、そういう能力が神仏から付与されたのではと思われてならないですね。

講演では終始集中して聞いてしまいますし、10日に1冊の割合で本を出版してきて、その内容も多面的だったし、内容に引き込む力があったからこそ、開宗から30年前後で168か国にまで支部ができたのですから。
ただ、きちんとした数字を引き合いに出さずに、自分の直観や経験値だけで断定する人がすなわちリーダーとしての能力に即繋するというわけではないのはお断りします。
世の中にはサイコパスといわれる人が古今東西必ずいるわけで、この人たちは、自分が仕切らないと気が済まないという心の病を抱えているのです。
こういう人はいくら教育を施しても治るわけではないのです。
こういう人が、大団体の長になったらその組織は終焉を迎えるわけです。
いろんな重鎮が離脱していくか、その長に辞めさせられてしまいますから。
そういう重大な知識を脳内に入れて人生は行動していきましょう。
今回確認したいのは以上です。
こんな内容に興味ある人にお勧めなのが以下の電子書籍になります。
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♯リーダとしての資質
♯宗教団体の長
今回は指導者とか、宗教の開祖の資質といったものについて考察していきたいです。
物事を進めるためには、いろいろある選択肢の中から選択して、断定していかなくてはならないのは言うまでもないです。
しかし、逐一いろんな選択肢から、いろいろ時間をかけて考えていては時間の無駄になってしまいます。
そこでは、経験者に人に聞いて、どうしたらいいかを相談するのがいいでしょう。
そして自身でも、いろんな経験を経て、即座に決断していく努力をしていかなくてはいけないでしょう。
そういう経験をつむことで、人に頼られる人格になっていくのです。

自分1人のことであれば、どのような感じでもいいでしょう。
時間かけようが時間かけなかろうがいいわけです、自分の責任になるのですから。
しかし、こと大勢の人の上に立つ人が何も考えずに、即断するようなことではいけません。
その決断が、人の人生を左右するような大きな難関であってみれば、失敗は許されるわけではないですし、よしんば失敗しても、ダメージが小さくなるような決断をしなくてはいけないでしょう。
大きな会社や団体の長や、宗教団体の長であってみればなおさらです。

そこでは、いろんな情報を収集して、そこで決断をするのが妥当な道でしょう。
そこでの情報は理論だったり数字だったりするわけですが、多ければ多いほど多面的になりますから、脳内に入れておいた方がいいでしょう。
しかし、いろんな人と接したり、いろんな本を読んだりするとわかるのですが、きちんとした数字を引き合いに出さずに、自分の直観や経験値だけで断定した論議の講演をしたり、本を出してきた哲学者といわれる人たちがいるのです。
それが、そのように根拠薄弱であるにもかかわらず、その論が書かれた本をよんだり聞いたりすると、かなり信憑性があり、引き込まれでしまう魅力を持っていたりするのです。
その結果大勢の支持を得るパターンがあります。
その代表が古代の哲人といわれる人たちの中に多い気がします。

それは、その人を神や仏といった存在が、そういう知識を直に与えたからではないか、というようなことを考えてしまうのです。
指導においてもおなじことが言えます。
根拠もないような気がするのに、その人に言われるとなんだか正しい気がして、従ってしまう。
逆に、指導されても、なんか気が向かずに反抗的な気分になってしまう。
やはり前者の人はリーダーに向いていて、後者の人はリーダーに向いていないのです。
前者の資質を身に着けている人は宗教の開祖になれる気がします。
ただし、講演で誰もが自分の話を終始聞いているか?
一般人とは違う読み書きの能力(早く何冊も出して、その内容も大勢の人をひきつけられるというような)があれば、やはり神仏による能力の付与が行われたのではないかと思われてならないのです。
幸福の科学の故.大川隆法氏(下写真)は、そういう能力が神仏から付与されたのではと思われてならないですね。

講演では終始集中して聞いてしまいますし、10日に1冊の割合で本を出版してきて、その内容も多面的だったし、内容に引き込む力があったからこそ、開宗から30年前後で168か国にまで支部ができたのですから。
ただ、きちんとした数字を引き合いに出さずに、自分の直観や経験値だけで断定する人がすなわちリーダーとしての能力に即繋するというわけではないのはお断りします。
世の中にはサイコパスといわれる人が古今東西必ずいるわけで、この人たちは、自分が仕切らないと気が済まないという心の病を抱えているのです。
こういう人はいくら教育を施しても治るわけではないのです。
こういう人が、大団体の長になったらその組織は終焉を迎えるわけです。
いろんな重鎮が離脱していくか、その長に辞めさせられてしまいますから。
そういう重大な知識を脳内に入れて人生は行動していきましょう。
今回確認したいのは以上です。
こんな内容に興味ある人にお勧めなのが以下の電子書籍になります。
●興味ある方はどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!



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♯リーダとしての資質
♯宗教団体の長
幸福の科学では三途の川や閻魔大王が登場してくるので、幸福の科学は仏教か?…違います。これらに代替する存在は他のいろんな宗教でも登場してきます!(幸福の科学)
こんにちは。
宗教に入る人の精神とは、やはり人間が人智を超えた対象に対してすがり、自分の生活を良くしていく、ということにつながることを目指しているのではないでしょうか?
それゆえに、宗教から教えを乞うことが基本になるでしょう。
単なる巷で得れるような情報では、宗教の講義を聞きに行く意味がないでしょう。
やはり宗教では、あの世や霊といったものに関する情報が講義されなくては意味がないと思います。

昨今の宗教では話を簡略化したいがためか、宗教指導者の価値観のせいか、教義を変えたいせいか、その他、宗教によって事情は異なるでしょうが、あの世や霊といったものを含めて講義されることは少ないのです。
しかし、幸福の科学では、そういう面を欠かさず講義しているので、支持せざるを得なかったのです私は。
この団体の故.大川隆法総裁(下写真)は、厳然とそういうものを含めて講義していたのです。

天国と地獄があり、人は死んだら、三途の川を渡り、その先に待ち構えている閻魔大王に生前の生まれてから死ぬまでのVTRを見てもらい、正邪の判定をしてもらい、正と判定された人は天国に、邪と判定された人は地獄に落ちるとしていたのです。
その教義は総裁がなくなった今も変更はありません。
故.大川総裁曰く、現代では死んだうちの半数以上の人が地獄行きになっているというのです。
現代人は、唯物論に染まっているがゆえに。
唯物論とは、人の人生は、この世だけのものであり、死んだらあの世などには行かないで、そのまま終わりという世界観のことを言うようです。
そういう世界観の人は、「バレなければいい」と思って、法律をすり抜けたり、人を蹴落としたり、害してきた人は死後全て証拠を出されて、必ず裁かれることになっています。
驚くべきことに、私たちの生前の思いや行い、更には心の声までもが、全て記録されておりあの世で、言い逃れすることは出来ないのです。
死んだ人の生前において、人の心を改心させる力があったか、浄化力あったか、この地上世界がよくなったか悪くなったか?が地獄に行くか天国に行くかの分かれ道になるということです。

こういう知識を携えて人生生きていくか、そうでないかで、人生の内容がかなり違ったものになることは間違いないでしょう。
天国に行くか地獄に行くかは、この世での行いによって変わってくる、というのが厳然とした事実であるならば、これからの行動が良き方向へ舵取りできるのは言うまでもないでしょう。
ただし、その講義を聞いた人が信じるのが大前提ではありますが…。
こういうことを信じたい人は信じればいいし、信じたくない人は信じて行動していくべきでしょう。
これはどちらを得らぶかは本人次第ですので、私が無理やり信じさせるカリスマ的な能力がないのが痛いところではあります。
しかし、三途の川…これは仏教の教えじゃないか。
幸福の科学って仏教の団体なの?
閻魔大王…まるで日本昔話じゃないか!
外国人には通用しないのではないか?
と思われるでしょうが、そうではないのです。

仏教でなくても、他の宗教、たとえばキリスト教やイスラム教においても天国と地獄はあると規定したうえで教義を展開していますし、こういった宗教ではなくても、世界中の哲人といわれる人物たちも、天国や地獄や三途の川や閻魔に代わる存在を規定しているのです。
ではなぜ三途の川や閻魔大王なのか?
それに代替し、同じような河川や人物が世界中の宗教では規定されているのです。
日本では三途の川や閻魔大王といっているだけで、同じ役割をしてるものや人物はいるのです。
そして、三途の川や閻魔大王になったのは、日本の文化になじむようにアレンジされてしまっているだけの話しなのです。
それが、古代の昔から洋の東西を超えて同じ役を果たすモノや人物がいるということは、やはり真実なのでしょう。
そういったものを多面的に興味わいて知りたい人は以下の電子書籍を読むのがいいでしょう。
お勧めです。
●以下よりどうぞ!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
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♯幸福の科学♯三途の川
♯閻魔大王
宗教に入る人の精神とは、やはり人間が人智を超えた対象に対してすがり、自分の生活を良くしていく、ということにつながることを目指しているのではないでしょうか?
それゆえに、宗教から教えを乞うことが基本になるでしょう。
単なる巷で得れるような情報では、宗教の講義を聞きに行く意味がないでしょう。
やはり宗教では、あの世や霊といったものに関する情報が講義されなくては意味がないと思います。

昨今の宗教では話を簡略化したいがためか、宗教指導者の価値観のせいか、教義を変えたいせいか、その他、宗教によって事情は異なるでしょうが、あの世や霊といったものを含めて講義されることは少ないのです。
しかし、幸福の科学では、そういう面を欠かさず講義しているので、支持せざるを得なかったのです私は。
この団体の故.大川隆法総裁(下写真)は、厳然とそういうものを含めて講義していたのです。

天国と地獄があり、人は死んだら、三途の川を渡り、その先に待ち構えている閻魔大王に生前の生まれてから死ぬまでのVTRを見てもらい、正邪の判定をしてもらい、正と判定された人は天国に、邪と判定された人は地獄に落ちるとしていたのです。
その教義は総裁がなくなった今も変更はありません。
故.大川総裁曰く、現代では死んだうちの半数以上の人が地獄行きになっているというのです。
現代人は、唯物論に染まっているがゆえに。
唯物論とは、人の人生は、この世だけのものであり、死んだらあの世などには行かないで、そのまま終わりという世界観のことを言うようです。
そういう世界観の人は、「バレなければいい」と思って、法律をすり抜けたり、人を蹴落としたり、害してきた人は死後全て証拠を出されて、必ず裁かれることになっています。
驚くべきことに、私たちの生前の思いや行い、更には心の声までもが、全て記録されておりあの世で、言い逃れすることは出来ないのです。
死んだ人の生前において、人の心を改心させる力があったか、浄化力あったか、この地上世界がよくなったか悪くなったか?が地獄に行くか天国に行くかの分かれ道になるということです。

こういう知識を携えて人生生きていくか、そうでないかで、人生の内容がかなり違ったものになることは間違いないでしょう。
天国に行くか地獄に行くかは、この世での行いによって変わってくる、というのが厳然とした事実であるならば、これからの行動が良き方向へ舵取りできるのは言うまでもないでしょう。
ただし、その講義を聞いた人が信じるのが大前提ではありますが…。
こういうことを信じたい人は信じればいいし、信じたくない人は信じて行動していくべきでしょう。
これはどちらを得らぶかは本人次第ですので、私が無理やり信じさせるカリスマ的な能力がないのが痛いところではあります。
しかし、三途の川…これは仏教の教えじゃないか。
幸福の科学って仏教の団体なの?
閻魔大王…まるで日本昔話じゃないか!
外国人には通用しないのではないか?
と思われるでしょうが、そうではないのです。

仏教でなくても、他の宗教、たとえばキリスト教やイスラム教においても天国と地獄はあると規定したうえで教義を展開していますし、こういった宗教ではなくても、世界中の哲人といわれる人物たちも、天国や地獄や三途の川や閻魔に代わる存在を規定しているのです。
ではなぜ三途の川や閻魔大王なのか?
それに代替し、同じような河川や人物が世界中の宗教では規定されているのです。
日本では三途の川や閻魔大王といっているだけで、同じ役割をしてるものや人物はいるのです。
そして、三途の川や閻魔大王になったのは、日本の文化になじむようにアレンジされてしまっているだけの話しなのです。
それが、古代の昔から洋の東西を超えて同じ役を果たすモノや人物がいるということは、やはり真実なのでしょう。
そういったものを多面的に興味わいて知りたい人は以下の電子書籍を読むのがいいでしょう。
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♯幸福の科学♯三途の川
♯閻魔大王
読者の心を鷲掴みにする著作家と大川隆法総裁の共通点とは何か? (幸福の科学)
こんにちは。
かねてから私は幸福の科学については慧眼もので見ていました。
特に故.大川隆法総裁(下写真)の幅広い知識、それゆえの広大な気宇を有した本のスケールにです。

こういう魅力を有した本を書く人の本は幾冊も読んでいきたくなるものなのです。
その人の新刊の告知がなされているを見るとすぐさま予約をしてしまうのです。
これまで1000冊くらい本を読んできた私にとってこういう行動にさせてくれる著者は5指に満たないです。
逆に、2度と読まないと決めている著者の本は押しなべて引用ばかりのものであることが多いです。
書いている文章の用途上、どうしても引用しなくてはならない場合もありますから、絶対に引用をするなとはいいませんが、引用ばかりですと、文章が滅裂な印象を与えてしまいますし、集中力が途絶えてしまうのです。
それに著作本というのは、その書いた人の考えや意見を読みたいのであって、そういう引用ばかりの本にはそういうモノが欠けているか、無い場合がほとんどですし、よしんばあっても、他愛もない意見や考えしか書かれていないので、読むのもつまらない代物であることが必定なのです。
著作物は知識をひけらかすのが目的でもないですし、単なる知識を得るのであれば、そういう本など読まずに、概説書の類を読めばいいのですから、そういうモノを読む必要性など感じないので、そういう本を書いている著者の本は今後読まないです。
こういう本を書いている人は、その他の本でもそういうスタンスで書いているのが普通なのです。

ではどういう精神的な営みをしている著者が読みたいと思わせる本を書いているか?
やはり普段から、いろんな本を読み、浮かんでくるテーゼに関していろんな肉付けになる理論や知識を、いろんな本や冊子などから得て、いろいろな思索を重ねて、持論を展開しているのですね。
こういう行為をしないで、いきなり本や文章を書けと言われても、できないのが通常なのです。
普段から努力をしていない人は無理な話しなのです。
普段から、そういうことをしている人こそが人をうならせる本や文章を書けるのです。
逆に、普段からそういうことをしていない人は、先にあげたような引用ばかりの本を書くのです。
その結果、読み手につまらない印象をあたえてしまうのです。
それのみか、そういう努力を普段からしている人は、1つの専門に閉じこもることなく、いろんな分野から知識を普段から取り入れてますから、説得力があるのです。
また買って読みたいと思わせる著作家はやはり、普段から幅広い知識を得ているのです。
政治は言うに及ばず、経済、経営、商業、環境、生物、化学といろんな情報に接して、ほとんどを脳内にすぐに入れてしまうのです。
まさに、リソースフル人間なのです。
こと大川隆法総裁はそういう人間だったのです。
宗教的な知識は言うに及ばず、幅広い分野に長けてたのです。
これまで、聖徳太子(下写真)、空海、日蓮といった多くの宗教家の書物に接してきた私ですが、当時のほとんど紙などなかった時代において、よくもこんな膨大な知識を得れたなあと感心するばかりでした。

私の受験生時代には、マーカーやカードなどを使ったり、何度も紙に書いて覚えています。
しかし、上代や中世のようにほとんど紙などなかった時代に、よくもこんな膨大なことを覚えれたなあと感心するばかりでした。
その膨大な知識をもとに思索と発酵を通じて、これまた膨大な数の書物をこれらの宗教家たちは遺してきたのです。
尋常ではない能力…そう表現していいだろうと思います。
こういう尋常でない能力は、やはり普段から努力を重ねていた結果、神や仏といった人智を超越した存在が、その人に並外れた能力を付与し、開祖という結果に落ちつかせたのだろうか、そんなことをつい考えてしまうのです。
そういう努力の結果、大川総裁は、エルカンターレ(下写真)から開祖としての知らせを受けた、あるいは能力を委託されたのでしょうか?

あるいは自身でそういう使命を持ったということに思い至ったのでしょうか?
そんなことをふと考えてしまうのです。
やはり、開祖から30年前後で、160か国以上にもその教えが広がり、講演の数3500回以上、出した本の数3100冊以上とあっては、その能力には感服するでしょう誰もが。
努力だけで達するものではないのは明白です。
大川総裁が生前に曰く「私は、一宗一派を作るために、出てきているのではないのです。」ということであった。
真の世界平和のために、古代以降の宗教がいつしか忘れてしまった精神をこの言葉以外からも汲み取ることができるのです。
他の総裁の本を読めば。
そんな総裁の内容について論じた格好の電子書籍が以下です。
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かねてから私は幸福の科学については慧眼もので見ていました。
特に故.大川隆法総裁(下写真)の幅広い知識、それゆえの広大な気宇を有した本のスケールにです。

こういう魅力を有した本を書く人の本は幾冊も読んでいきたくなるものなのです。
その人の新刊の告知がなされているを見るとすぐさま予約をしてしまうのです。
これまで1000冊くらい本を読んできた私にとってこういう行動にさせてくれる著者は5指に満たないです。
逆に、2度と読まないと決めている著者の本は押しなべて引用ばかりのものであることが多いです。
書いている文章の用途上、どうしても引用しなくてはならない場合もありますから、絶対に引用をするなとはいいませんが、引用ばかりですと、文章が滅裂な印象を与えてしまいますし、集中力が途絶えてしまうのです。
それに著作本というのは、その書いた人の考えや意見を読みたいのであって、そういう引用ばかりの本にはそういうモノが欠けているか、無い場合がほとんどですし、よしんばあっても、他愛もない意見や考えしか書かれていないので、読むのもつまらない代物であることが必定なのです。
著作物は知識をひけらかすのが目的でもないですし、単なる知識を得るのであれば、そういう本など読まずに、概説書の類を読めばいいのですから、そういうモノを読む必要性など感じないので、そういう本を書いている著者の本は今後読まないです。
こういう本を書いている人は、その他の本でもそういうスタンスで書いているのが普通なのです。

ではどういう精神的な営みをしている著者が読みたいと思わせる本を書いているか?
やはり普段から、いろんな本を読み、浮かんでくるテーゼに関していろんな肉付けになる理論や知識を、いろんな本や冊子などから得て、いろいろな思索を重ねて、持論を展開しているのですね。
こういう行為をしないで、いきなり本や文章を書けと言われても、できないのが通常なのです。
普段から努力をしていない人は無理な話しなのです。
普段から、そういうことをしている人こそが人をうならせる本や文章を書けるのです。
逆に、普段からそういうことをしていない人は、先にあげたような引用ばかりの本を書くのです。
その結果、読み手につまらない印象をあたえてしまうのです。
それのみか、そういう努力を普段からしている人は、1つの専門に閉じこもることなく、いろんな分野から知識を普段から取り入れてますから、説得力があるのです。
また買って読みたいと思わせる著作家はやはり、普段から幅広い知識を得ているのです。
政治は言うに及ばず、経済、経営、商業、環境、生物、化学といろんな情報に接して、ほとんどを脳内にすぐに入れてしまうのです。
まさに、リソースフル人間なのです。
こと大川隆法総裁はそういう人間だったのです。
宗教的な知識は言うに及ばず、幅広い分野に長けてたのです。
これまで、聖徳太子(下写真)、空海、日蓮といった多くの宗教家の書物に接してきた私ですが、当時のほとんど紙などなかった時代において、よくもこんな膨大な知識を得れたなあと感心するばかりでした。

私の受験生時代には、マーカーやカードなどを使ったり、何度も紙に書いて覚えています。
しかし、上代や中世のようにほとんど紙などなかった時代に、よくもこんな膨大なことを覚えれたなあと感心するばかりでした。
その膨大な知識をもとに思索と発酵を通じて、これまた膨大な数の書物をこれらの宗教家たちは遺してきたのです。
尋常ではない能力…そう表現していいだろうと思います。
こういう尋常でない能力は、やはり普段から努力を重ねていた結果、神や仏といった人智を超越した存在が、その人に並外れた能力を付与し、開祖という結果に落ちつかせたのだろうか、そんなことをつい考えてしまうのです。
そういう努力の結果、大川総裁は、エルカンターレ(下写真)から開祖としての知らせを受けた、あるいは能力を委託されたのでしょうか?

あるいは自身でそういう使命を持ったということに思い至ったのでしょうか?
そんなことをふと考えてしまうのです。
やはり、開祖から30年前後で、160か国以上にもその教えが広がり、講演の数3500回以上、出した本の数3100冊以上とあっては、その能力には感服するでしょう誰もが。
努力だけで達するものではないのは明白です。
大川総裁が生前に曰く「私は、一宗一派を作るために、出てきているのではないのです。」ということであった。
真の世界平和のために、古代以降の宗教がいつしか忘れてしまった精神をこの言葉以外からも汲み取ることができるのです。
他の総裁の本を読めば。
そんな総裁の内容について論じた格好の電子書籍が以下です。
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♯大川隆法
♯信憑性
幸福の科学の魅力はどこにあるか?…練り上げられた総合性を有した理論にあります! (幸福の科学)
こんにちは。
幸福の科学に出会ったのは20年近くも前になります。
当時、私は創価学会に入っていましたが、あまりにこの世での倫理しか説かない講義に辟易していました。
しかも、その講義の内容は毎回毎回同じ言葉の繰り返しだったので、聞きに行く意味が見いだせなかったのです。

ちなみに、私の母親も創価学会員でしたが、数十年も入信していたにもかかわらず、人の成功を喜べない人だったのです。
それでは、この宗教に入る意味がないじゃないか、と思われてならなかったのです。
それゆえに、いくモチベーションがわかなかったので縁遠い存在になっていたのです。
そこで、私の住む世田谷区の某街で、幸福の科学の信者によって冊子が配られていたので、それを読んで、感想を書いて送付したら、会いに来てといわれて、それから数日後に支部にいきました。
それから何度か講義も受けて、冊子も読ませてもらいました。
そこで引き入れられたのは、この宗教の総合性ですね。
この世の倫理はもちろん、あの世や霊、といったことまでわかりやすい筆致でかかれているので、今のこの世での行動も律することができると感じたのです。
この世で自殺して解決しようとしても、あの世に行っても地獄に落ちることになる。

こういうことを知ってれば必然的に、今の行動を良き方向へ舵取りできることにはなるはずです。
もちろん、その言葉を信じるか信じないかは、その人次第ですが。
子供の教育も当然、冊子で語られていますが、単なる教育ではなく、その子供の精神的に伸ばす教育を施さないことには意味がないのです。
どういうモチベーションでしたらいいのかは、この当会から出ている本なりを読むのがいいでしょう。
こういうことに多くでくわすと、その多面性というか総合性には瞠目すべきものがあります。
普通の仏教であれば、お祈りは自分の先祖だけにするわけですが、この宗教では友人、知人、またはその土地の地縛霊といったものまでもお祓いしてくれる、ということです。
しかし総合的だなあ、と感心していましたが、ちょっと足りない部分を感じたのです。
そう、水子の霊を鎮めるということですね。
水子は、母親のおなかの中にいた胎児が、事故やその母親の病などで流産してしまった場合、それをしっかりとした方法で供養してあげなければ、その親族に災いをもたらす、ということです。

それはこの宗教ではないのかなと思っていたら、当会の経文本にはその供養の文がしっかり書いてありました。
まさに抜け穴のない総合性だなあと感心しました。
やはり、こういう宗教における総合性は必須でしょう。
現代における分業が進んだ時代においては特に。
生活上で困ったことが起きた。
その際に、宗教に頼ってくる人は大勢います。
その時にいろんなものを知っていて、適宜なアドバイスができるかどうか、がやはり重要になってくるのです。
片手落ちの議論では、解決には至らないでしょう。
いかにも、その宗教で言われていることは信憑性があるように思えても、それにすがっても一向に良き方向へ行かない…というのであれば、信頼を勝ち取ることはできないのです。
もちろん、困っている人も主体的に、その解決法を見出す努力もしなければならないのは言うまでもないですが、その宗教が多面性を有しているのであれば尚更いいのは反論の余地のないことではないでしょうか?
どうすれば、そういう多面性や総合性を身に着けることができるのでしょうか?
やはり、その宗教の長による濫読、多読にあるとしか言いようがないです。

いろんな理論が、いろんな人にはあるのです。
当然、自分と反対の意見もあるのです。
その際にすべきなのは、討論でしょう。
しかし、「討」という字が使ってあるがゆえに、相手を負かすことを前提にするものと思われがちですがそうではないのです。
決してどちらかを裁断して打ち負かす、というのではなく、自分の意見はこうなんですということを話して、相手の意見を聞く。
相手が間違っていると思われたら、優しく諭す。
そして相手の意見を汲んでいって提案を促すのです。
そういう過程を通じて、自分の意見を矯正していくのが王道なのです。
例えば、数学などの勉強を長時間するなど頭を使うと、血の巡りがよくなって糖が足りなくなって、腹がへるのです。
ある人が私に、「私は頭を使っているから腹がへっている。君はどうか?」と言ってきたのです。
そんな頭をフル回転する仕事ではないので、腹はそんなにすいていなかったのですが、その人に引っかかるものを感じました。
それは、「その人は頭を使っているから腹がへるのではなく、メタボだから腹がへっているのではないか?」ということですね。
そうです。
メタボの人間も腹がへりやすいのです。

体内の脂肪と胃袋がくっついて膨張するからです。
そこで相手を打ち負かすのではなく、そっと諭すのがいいのです。
打ち負かして優越感にひたったって意味がないですし、人間関係も悪くなりますから。
自分とは異なった意見をまず聞くのです。
2者が争っていたら、その2者の両方を聞くのです。
1者の意見しか聞かないのは論外なのです。
マザコンの息子は、自分の嫁が家に嫁いできて、自分の母親と言い争いが絶えなくなった。
その場合、母親の意見しか聞かないで、母親の味方しかしないのです。
これでは嫁さんが可哀そうです。
それが日々重なれば、当然、離婚を請求されるのは言うまでもないです。
そういうバランスの取れた理論こそが重要でしょう、宗教においてはとくに。
バランスの取れた理論の展開…それができるためには、つね日ごろから情報摂取を怠らないことが重要です。
それを、この開祖である故.大川隆法氏(下写真)は維持していったのです。

それまでに読んだ本の数10万冊だそうです。
それゆえに、文句のつけようのない文が書けるんだ、ということが分かった次第なのです。
そういうモノに興味ある人にはお勧めの宗教ではあります。
もっと書きたいですが、今回はこれくらいにしておきましょう。
その内情について知りたい人にうってつけの本が以下になります。
●ではどうぞ!『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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♯大川隆法
♯信憑性
幸福の科学に出会ったのは20年近くも前になります。
当時、私は創価学会に入っていましたが、あまりにこの世での倫理しか説かない講義に辟易していました。
しかも、その講義の内容は毎回毎回同じ言葉の繰り返しだったので、聞きに行く意味が見いだせなかったのです。

ちなみに、私の母親も創価学会員でしたが、数十年も入信していたにもかかわらず、人の成功を喜べない人だったのです。
それでは、この宗教に入る意味がないじゃないか、と思われてならなかったのです。
それゆえに、いくモチベーションがわかなかったので縁遠い存在になっていたのです。
そこで、私の住む世田谷区の某街で、幸福の科学の信者によって冊子が配られていたので、それを読んで、感想を書いて送付したら、会いに来てといわれて、それから数日後に支部にいきました。
それから何度か講義も受けて、冊子も読ませてもらいました。
そこで引き入れられたのは、この宗教の総合性ですね。
この世の倫理はもちろん、あの世や霊、といったことまでわかりやすい筆致でかかれているので、今のこの世での行動も律することができると感じたのです。
この世で自殺して解決しようとしても、あの世に行っても地獄に落ちることになる。

こういうことを知ってれば必然的に、今の行動を良き方向へ舵取りできることにはなるはずです。
もちろん、その言葉を信じるか信じないかは、その人次第ですが。
子供の教育も当然、冊子で語られていますが、単なる教育ではなく、その子供の精神的に伸ばす教育を施さないことには意味がないのです。
どういうモチベーションでしたらいいのかは、この当会から出ている本なりを読むのがいいでしょう。
こういうことに多くでくわすと、その多面性というか総合性には瞠目すべきものがあります。
普通の仏教であれば、お祈りは自分の先祖だけにするわけですが、この宗教では友人、知人、またはその土地の地縛霊といったものまでもお祓いしてくれる、ということです。
しかし総合的だなあ、と感心していましたが、ちょっと足りない部分を感じたのです。
そう、水子の霊を鎮めるということですね。
水子は、母親のおなかの中にいた胎児が、事故やその母親の病などで流産してしまった場合、それをしっかりとした方法で供養してあげなければ、その親族に災いをもたらす、ということです。

それはこの宗教ではないのかなと思っていたら、当会の経文本にはその供養の文がしっかり書いてありました。
まさに抜け穴のない総合性だなあと感心しました。
やはり、こういう宗教における総合性は必須でしょう。
現代における分業が進んだ時代においては特に。
生活上で困ったことが起きた。
その際に、宗教に頼ってくる人は大勢います。
その時にいろんなものを知っていて、適宜なアドバイスができるかどうか、がやはり重要になってくるのです。
片手落ちの議論では、解決には至らないでしょう。
いかにも、その宗教で言われていることは信憑性があるように思えても、それにすがっても一向に良き方向へ行かない…というのであれば、信頼を勝ち取ることはできないのです。
もちろん、困っている人も主体的に、その解決法を見出す努力もしなければならないのは言うまでもないですが、その宗教が多面性を有しているのであれば尚更いいのは反論の余地のないことではないでしょうか?
どうすれば、そういう多面性や総合性を身に着けることができるのでしょうか?
やはり、その宗教の長による濫読、多読にあるとしか言いようがないです。

いろんな理論が、いろんな人にはあるのです。
当然、自分と反対の意見もあるのです。
その際にすべきなのは、討論でしょう。
しかし、「討」という字が使ってあるがゆえに、相手を負かすことを前提にするものと思われがちですがそうではないのです。
決してどちらかを裁断して打ち負かす、というのではなく、自分の意見はこうなんですということを話して、相手の意見を聞く。
相手が間違っていると思われたら、優しく諭す。
そして相手の意見を汲んでいって提案を促すのです。
そういう過程を通じて、自分の意見を矯正していくのが王道なのです。
例えば、数学などの勉強を長時間するなど頭を使うと、血の巡りがよくなって糖が足りなくなって、腹がへるのです。
ある人が私に、「私は頭を使っているから腹がへっている。君はどうか?」と言ってきたのです。
そんな頭をフル回転する仕事ではないので、腹はそんなにすいていなかったのですが、その人に引っかかるものを感じました。
それは、「その人は頭を使っているから腹がへるのではなく、メタボだから腹がへっているのではないか?」ということですね。
そうです。
メタボの人間も腹がへりやすいのです。

体内の脂肪と胃袋がくっついて膨張するからです。
そこで相手を打ち負かすのではなく、そっと諭すのがいいのです。
打ち負かして優越感にひたったって意味がないですし、人間関係も悪くなりますから。
自分とは異なった意見をまず聞くのです。
2者が争っていたら、その2者の両方を聞くのです。
1者の意見しか聞かないのは論外なのです。
マザコンの息子は、自分の嫁が家に嫁いできて、自分の母親と言い争いが絶えなくなった。
その場合、母親の意見しか聞かないで、母親の味方しかしないのです。
これでは嫁さんが可哀そうです。
それが日々重なれば、当然、離婚を請求されるのは言うまでもないです。
そういうバランスの取れた理論こそが重要でしょう、宗教においてはとくに。
バランスの取れた理論の展開…それができるためには、つね日ごろから情報摂取を怠らないことが重要です。
それを、この開祖である故.大川隆法氏(下写真)は維持していったのです。

それまでに読んだ本の数10万冊だそうです。
それゆえに、文句のつけようのない文が書けるんだ、ということが分かった次第なのです。
そういうモノに興味ある人にはお勧めの宗教ではあります。
もっと書きたいですが、今回はこれくらいにしておきましょう。
その内情について知りたい人にうってつけの本が以下になります。
●ではどうぞ!『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!



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♯大川隆法
♯信憑性
大川隆法総裁の信憑性を確認したいならば、まずその映画を観よ!? (幸福の科学)
私はかねてから幸福の科学の故.大川隆法総裁の天才性や信憑性について瞠目していたものです。
逆に、鎌倉時代の仏教の開祖たちの言葉を引用して、そっくりそのまま批判もせずに、現代でも従わせようとする宗教には辟易したものです。

その開祖たちはカリスマ性があるゆえに、その言葉は現代でも通用する場面があるのは当然ですが、全部は通用しないものです。
科学においても当然なのです。
例えば、マルクスが社会主義を唱え、どの国もこれを採択すれば幸福になれるとしたのは言うまでもないことですが、今更、自分の国を社会主義国にしようなどと唱える人がいたら訝し気に思われるのは必然です。
90年の社会主義国の崩壊を歴史によって証明されたからですね。
この時点から、地球上に、資本主義国と同じくらいの数、存在していた社会主義国は、社会主義を捨てたのです。
そして今でも社会主義を採択し続けている国は地球上で4つだけです。
その国も市場経済を基本にしているのです。
いくらカリスマ的な学者の言ったことでも、現実に合わないのであれば、素通りしていかなくてはならないのです。
こういう、事実を抜きにして、宗教においても、中世の仏教の開祖たちの言葉を全部無批判に受け入れることはできないのは必然でしょう。
やはり現代社会との兼ね合いを無視していくことはできないのです。

受け入れるところは受け入れて、そうでない部分は受け入れない、こういうスタンスが必要と思われるのですが、あまりにその開祖にぞっこんになってしまっているがゆえに、無批判になって、その開祖の言ったことをそっくりそのまま従わそうとする指導者がどの時代のどの社会でも出てくるのが必然のようです。
こういう人を原理主義者というのです。
鎌倉時代の仏教の開祖である日蓮の思想にぞっこんになってしまったがゆえに、日蓮の言ったことに無批判になって、現代社会との兼ね合いを無視していた人がいました。
それが、顕正会の故.浅井昭衛氏(下写真)でした。

この人はさながら日蓮原理主義者としか言いようのない人でした。
あまりに日蓮の言ったことをそっくりそのまま従わせようとしたがゆえに戒壇の建立の可決が遅々として進まず、呆れをきたした日蓮正宗から、これが主原因として顕正会は解散処分を受けてしまったのです。
顕正会は、日蓮正宗の信徒団体でしたが、解散処分を受けたのです。
やはり個人的にぞっこんになるのは自由ですが、団体としての行方を占うときには、現代社会との兼ね合いを考えなくてはいけないのは言うまでもないのです。
兼ね合いを考えるとは、現代社会において有効と思われたものに関しては、積極的に取り入れる、という精神も多分に含んでいる、ということです。
幸福の科学やその総裁だった大川隆法氏(下写真)には、その精神があったがゆえに、やはり注目せざるを得なかったのです。

それのみならず、大川総裁の創り出す映画の映像に関しては、神懸かりのビジョン的な能力が備わっていたと思わざるを得なかったです。
もちろん、ストーリーの奥深さについても。
総裁が総指揮をとって製作した映画については、壮大かつ荘厳なイメージを有し、尋常でない能力によって制作されていたのは言うまでもないです。
その神懸かりな面を見せつけられていては、その宗教にぞっこんになり、毎月惜しげもなく植福してしまう人が大勢いるのも頷けます。
その信者による植福や、総裁の本の購買、映画の券の購入によって宗教団体は存続していけるのは言うまでもないのです。
その映画の製作能力については、スティーブン・ウィルシャー(下写真)との共通性を感じたのです。

スティーブン・ウィルシャーは、イギリスの建築画家で、一度見ただけで風景を目に焼きつける映像記憶ができることで知られ、炎に包まれるセント・ポール大聖堂のような空想的な作品も手がけているが、世界中で人気を集めている画家の一人なのです。
これと同じ能力を映画で発揮していた大川隆法総裁には、必然的に神懸かり性を感じざるを得ないのです。
確かに、そういうモノ事は、多くの人とともに制作したり、脳内に浮かんできた映像や見て印象的で、これを映画に取り入れたいと思った場面を再現するには、スマホなどに撮っておいて制作の際に引き合いにだせばいいのですが、それを逐一していては、時間がかかるのは必然です。
大川総裁は、10日に1冊の割合で本を出版していたに加えて、毎年2本は映画も制作していたのです。
のみならず、これまで説法の回数も3500回をこなし、5大陸でも講演をしてきたのです。
これは尋常でない記憶力がなくては可能ではない芸当なのです。
こういうことを真摯に受け止めて、坦懐に大川総裁の神懸かりな面については認める人が非信者の中から、もっと多く出てきてもいいのではないかと思われてならないのです。
幸福の科学の組織はわずか30年ちょっとで168か国に広がり、本は41言語に翻訳されているのです。
これはかなりの偉業でしょう。
総裁がなくなった直後の映画『二十歳に還りたい』についても感動して見させてもらったのですが、映画館は全国165か所で放映されたのです。

その映画を見た時思ったのは、こういう映画を、非信者がもっと見てくれたらなあということですね。
総裁のカリスマ性に触れる機会でもあったし、どの人にも共通して人生の糧とすべき教訓が含んでいたからですね。
決して、幸福の科学の素晴らしさをアピールするための方途で作られたものではなかったのは、私が保証したいです。
こういう総裁についての偉大性について論じた本としてお勧めしたいのが以下の本です。
●お勧めです!
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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逆に、鎌倉時代の仏教の開祖たちの言葉を引用して、そっくりそのまま批判もせずに、現代でも従わせようとする宗教には辟易したものです。

その開祖たちはカリスマ性があるゆえに、その言葉は現代でも通用する場面があるのは当然ですが、全部は通用しないものです。
科学においても当然なのです。
例えば、マルクスが社会主義を唱え、どの国もこれを採択すれば幸福になれるとしたのは言うまでもないことですが、今更、自分の国を社会主義国にしようなどと唱える人がいたら訝し気に思われるのは必然です。
90年の社会主義国の崩壊を歴史によって証明されたからですね。
この時点から、地球上に、資本主義国と同じくらいの数、存在していた社会主義国は、社会主義を捨てたのです。
そして今でも社会主義を採択し続けている国は地球上で4つだけです。
その国も市場経済を基本にしているのです。
いくらカリスマ的な学者の言ったことでも、現実に合わないのであれば、素通りしていかなくてはならないのです。
こういう、事実を抜きにして、宗教においても、中世の仏教の開祖たちの言葉を全部無批判に受け入れることはできないのは必然でしょう。
やはり現代社会との兼ね合いを無視していくことはできないのです。

受け入れるところは受け入れて、そうでない部分は受け入れない、こういうスタンスが必要と思われるのですが、あまりにその開祖にぞっこんになってしまっているがゆえに、無批判になって、その開祖の言ったことをそっくりそのまま従わそうとする指導者がどの時代のどの社会でも出てくるのが必然のようです。
こういう人を原理主義者というのです。
鎌倉時代の仏教の開祖である日蓮の思想にぞっこんになってしまったがゆえに、日蓮の言ったことに無批判になって、現代社会との兼ね合いを無視していた人がいました。
それが、顕正会の故.浅井昭衛氏(下写真)でした。

この人はさながら日蓮原理主義者としか言いようのない人でした。
あまりに日蓮の言ったことをそっくりそのまま従わせようとしたがゆえに戒壇の建立の可決が遅々として進まず、呆れをきたした日蓮正宗から、これが主原因として顕正会は解散処分を受けてしまったのです。
顕正会は、日蓮正宗の信徒団体でしたが、解散処分を受けたのです。
やはり個人的にぞっこんになるのは自由ですが、団体としての行方を占うときには、現代社会との兼ね合いを考えなくてはいけないのは言うまでもないのです。
兼ね合いを考えるとは、現代社会において有効と思われたものに関しては、積極的に取り入れる、という精神も多分に含んでいる、ということです。
幸福の科学やその総裁だった大川隆法氏(下写真)には、その精神があったがゆえに、やはり注目せざるを得なかったのです。

それのみならず、大川総裁の創り出す映画の映像に関しては、神懸かりのビジョン的な能力が備わっていたと思わざるを得なかったです。
もちろん、ストーリーの奥深さについても。
総裁が総指揮をとって製作した映画については、壮大かつ荘厳なイメージを有し、尋常でない能力によって制作されていたのは言うまでもないです。
その神懸かりな面を見せつけられていては、その宗教にぞっこんになり、毎月惜しげもなく植福してしまう人が大勢いるのも頷けます。
その信者による植福や、総裁の本の購買、映画の券の購入によって宗教団体は存続していけるのは言うまでもないのです。
その映画の製作能力については、スティーブン・ウィルシャー(下写真)との共通性を感じたのです。

スティーブン・ウィルシャーは、イギリスの建築画家で、一度見ただけで風景を目に焼きつける映像記憶ができることで知られ、炎に包まれるセント・ポール大聖堂のような空想的な作品も手がけているが、世界中で人気を集めている画家の一人なのです。
これと同じ能力を映画で発揮していた大川隆法総裁には、必然的に神懸かり性を感じざるを得ないのです。
確かに、そういうモノ事は、多くの人とともに制作したり、脳内に浮かんできた映像や見て印象的で、これを映画に取り入れたいと思った場面を再現するには、スマホなどに撮っておいて制作の際に引き合いにだせばいいのですが、それを逐一していては、時間がかかるのは必然です。
大川総裁は、10日に1冊の割合で本を出版していたに加えて、毎年2本は映画も制作していたのです。
のみならず、これまで説法の回数も3500回をこなし、5大陸でも講演をしてきたのです。
これは尋常でない記憶力がなくては可能ではない芸当なのです。
こういうことを真摯に受け止めて、坦懐に大川総裁の神懸かりな面については認める人が非信者の中から、もっと多く出てきてもいいのではないかと思われてならないのです。
幸福の科学の組織はわずか30年ちょっとで168か国に広がり、本は41言語に翻訳されているのです。
これはかなりの偉業でしょう。
総裁がなくなった直後の映画『二十歳に還りたい』についても感動して見させてもらったのですが、映画館は全国165か所で放映されたのです。

その映画を見た時思ったのは、こういう映画を、非信者がもっと見てくれたらなあということですね。
総裁のカリスマ性に触れる機会でもあったし、どの人にも共通して人生の糧とすべき教訓が含んでいたからですね。
決して、幸福の科学の素晴らしさをアピールするための方途で作られたものではなかったのは、私が保証したいです。
こういう総裁についての偉大性について論じた本としてお勧めしたいのが以下の本です。
●お勧めです!
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最高の宗教に縋ることで永遠に万全、ということはあり得るか?…あり得ないです(笑)
こんにちは。
私が最近通った場所の近くに、本門仏立宗なる仏教系の寺院がありました。
その宗教に興味を持って、調べてみるとそこは日蓮関連の宗教だそうです。
その本門仏立宗は、江戸時代に堕落した日蓮系の団体を立て直すという気概で再興を図って始められた宗教なのだそうです。
そういうことを幅広く鑑みると、そういう再興劇はどの宗教にでもあることがわかります。
そういう組織の堕落→それを立て直してその宗教を一新する、という動きの歴史は世界のどの宗教でも起こっているのです。
いやことは会社でも、自営業の世界でも、学校や政府など、その他どの組織にでもあるのです。
ゆえに、「この宗教こそが完璧であり、この宗教に入ってれば何も心配することはない」という決めつけは厳に戒めなくてはならないでしょう。

そういうことを前提にしたうえで、自分の組織が堕落の道へ進んでいないかチェックし続け、堕落の道へ進んでしまった場合、再興を図るべく行動を採らなくてははならない、ということです。
日蓮大聖人の遺した宗教だから万全、という事も絶対にないということを戒めなくてはならないでしょう。
その組織の堕落の最たる例は日蓮正宗の前代の法主だった日顕(下写真)でしょう。

この人は、信者からの供養金で奢侈贅沢の極みを尽くし、芸者、花魁、キャバクラ、麻雀、そして超高級マンションの購入などをしてきたのです。
その他、この本山である大石寺のなかにある絢爛たる大客殿や正本堂といった建物を壊し、100本以上の木を伐り倒してきたのです。
自分の名誉のために。
これをみて、日蓮大聖人が遺した宗教だから信心していれば万全、という屁理屈は成り立たないことがわかるでしょう?
日蓮正宗系の信者たちは、何百万という数の人が題目を挙げて祈ったことでしょう。
しかし、日顕がまっとうな人間になることはなかったのです、彼が死ぬまで。
何故、このような人間が出てきてしまうのでしょうか?
それは、彼の育った家庭環境に主な原因があるのです。
彼は、日開上人の子供ということになっていますが、実際は日顕の母(下写真)と某、日蓮正宗寺院の住職との不倫化関係でできた子だったのです。

しかし、日開上人は無精子症だったがゆえに子供ができない体だった。
それで断腸の思いで日顕を自分の子として認知したというのです。
そんな自分の子供でない人間に愛情を捧げれるわけはなく、日開からの無償の愛など捧げられることなどなかった…これも精神異常な子供ができる原因になってしまうのです。
その他、その母親からの「必ず法主になれ」というわがままな要求と、それに関する褒めなかった教育などいろいろあるわけです。
日蓮正宗の信徒団体だった顕正会は、のちに日蓮正宗から解散処分に処せられてしまい、別途、違う団体になったのでした。
当初は「日蓮正宗 顕正会」としていたのを、シンプルに「顕正会」と命名したようです。
その初代会長だった浅井昭衛氏(下写真)は、日顕がこうなったのは「第六天魔王が日顕の身に入ったがゆえに…」と語ってましたが、実際はそうではないのです。

日顕の育った環境ゆえなのです。
そういう多面的なアプローチによって問題点のあぶり出しが可能になるのです。
決して、最高といわれている宗教に入ればいい、というわけではなく、問題点が浮上したら、その問題点が起きた物事を構造的に明らかにしていった上で、その妥当と思われた解決策を実行していくのが王道なのです。
決して、その宗教団体で唱えられている経文を唱えてそれでOKではなく(笑)
そんな行動だけで解決するのであれば、私だってその方法に縋りたいです(笑)
しかし、それでは解決できないと断定しているがゆえに、多角的に物事を探る、というスタンスを決めているし、勧めているのです。
そんなスタンスに興味のある人にお勧めなのが以下の電子書籍です。
●以下よりどうぞ!
→楽天Kobo
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。

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私が最近通った場所の近くに、本門仏立宗なる仏教系の寺院がありました。
その宗教に興味を持って、調べてみるとそこは日蓮関連の宗教だそうです。
その本門仏立宗は、江戸時代に堕落した日蓮系の団体を立て直すという気概で再興を図って始められた宗教なのだそうです。
そういうことを幅広く鑑みると、そういう再興劇はどの宗教にでもあることがわかります。
そういう組織の堕落→それを立て直してその宗教を一新する、という動きの歴史は世界のどの宗教でも起こっているのです。
いやことは会社でも、自営業の世界でも、学校や政府など、その他どの組織にでもあるのです。
ゆえに、「この宗教こそが完璧であり、この宗教に入ってれば何も心配することはない」という決めつけは厳に戒めなくてはならないでしょう。

そういうことを前提にしたうえで、自分の組織が堕落の道へ進んでいないかチェックし続け、堕落の道へ進んでしまった場合、再興を図るべく行動を採らなくてははならない、ということです。
日蓮大聖人の遺した宗教だから万全、という事も絶対にないということを戒めなくてはならないでしょう。
その組織の堕落の最たる例は日蓮正宗の前代の法主だった日顕(下写真)でしょう。

この人は、信者からの供養金で奢侈贅沢の極みを尽くし、芸者、花魁、キャバクラ、麻雀、そして超高級マンションの購入などをしてきたのです。
その他、この本山である大石寺のなかにある絢爛たる大客殿や正本堂といった建物を壊し、100本以上の木を伐り倒してきたのです。
自分の名誉のために。
これをみて、日蓮大聖人が遺した宗教だから信心していれば万全、という屁理屈は成り立たないことがわかるでしょう?
日蓮正宗系の信者たちは、何百万という数の人が題目を挙げて祈ったことでしょう。
しかし、日顕がまっとうな人間になることはなかったのです、彼が死ぬまで。
何故、このような人間が出てきてしまうのでしょうか?
それは、彼の育った家庭環境に主な原因があるのです。
彼は、日開上人の子供ということになっていますが、実際は日顕の母(下写真)と某、日蓮正宗寺院の住職との不倫化関係でできた子だったのです。

しかし、日開上人は無精子症だったがゆえに子供ができない体だった。
それで断腸の思いで日顕を自分の子として認知したというのです。
そんな自分の子供でない人間に愛情を捧げれるわけはなく、日開からの無償の愛など捧げられることなどなかった…これも精神異常な子供ができる原因になってしまうのです。
その他、その母親からの「必ず法主になれ」というわがままな要求と、それに関する褒めなかった教育などいろいろあるわけです。
日蓮正宗の信徒団体だった顕正会は、のちに日蓮正宗から解散処分に処せられてしまい、別途、違う団体になったのでした。
当初は「日蓮正宗 顕正会」としていたのを、シンプルに「顕正会」と命名したようです。
その初代会長だった浅井昭衛氏(下写真)は、日顕がこうなったのは「第六天魔王が日顕の身に入ったがゆえに…」と語ってましたが、実際はそうではないのです。

日顕の育った環境ゆえなのです。
そういう多面的なアプローチによって問題点のあぶり出しが可能になるのです。
決して、最高といわれている宗教に入ればいい、というわけではなく、問題点が浮上したら、その問題点が起きた物事を構造的に明らかにしていった上で、その妥当と思われた解決策を実行していくのが王道なのです。
決して、その宗教団体で唱えられている経文を唱えてそれでOKではなく(笑)
そんな行動だけで解決するのであれば、私だってその方法に縋りたいです(笑)
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開祖の時代と現代では世相が違う。その違いを理解した上で、自分のスタンスを決めるべし!
こんにちは。
仏教というと、日本人ならば寺院にいる袈裟を着た僧侶を思い浮かべて、そこにある本尊に対して祈りご加護を得る、あるいは先祖を供養するというイメージが強いでしょう。

その雰囲気は、どことなく東洋系の色彩が強いです。
ゆえに、東洋由来のものであると思う人が多いと思います。
しかし、その由来を日本に仏教が渡ってきたころにまでさかのぼると、西洋由来の文化も取り入れた代物であることがわかるのです。
今は、東洋由来のものに感じてしまうが、それはその地域に根差した文化と調和をさせてしまおうという気概が、土着の人間に生じてしまう性ゆえなのです。
何?日本にある仏教は純粋な仏教ではなかったのか?と思って純粋なる仏教を想像して、しまいますが実際は違うのです。
聖徳太子の時代に仏教が入ってきたことは日本の歴史を紐解けば明らかです。
新羅から来た弥勒像(下写真)は3つの指で三角形を作っています。

これはキリスト教の三位一体から由来しているのです。
その弥勒の像は何となく、キリスト教やユダヤ教の趣きを感じないでしょうか?
無理もないです。
キリストの使途トマスがインドに伝道した際に、仏教に取り込まれたのですから。
やはり文化とは、雑種化の宿命を負っているのです。
それを嫌って純粋な仏教を求めてしまう気持ちはわからなくはないです。
その仏教を信仰しようとして、その創始者である釈迦をさかのぼると意外なことがわかります。
釈迦の生きていた時代の仏教は、山で鳥獣を捕って生計を立てていた猟師、海や川で魚を捕る漁師は穢れた職業となっていて、信者になることはもちろん出家も許されなかったのです。

もちろん、これらを食べることも許されなかったのです。
今、そんな生活をしたいと思うでしょうか?
物心ついたときから、動物の肉や魚の肉を食べていた人たちが、釈迦を信仰の対象にしたいがために、そんな生活に戻ることは可能だろうか、という疑問がわきます。
できる人はできるでしょう。
しかし、できない人の方が多数派でしょう。
そのことを非難しようとは思わないです。
大事なことは、今あるところで最も近いものを選び、そこで言われていることを実践しながら、その宗教の中で不満があったら、自ら改良を加えていくしかないのではないでしょうか?

やはり、そういう取捨選択をしていったら、自分のモラルと何から何まで一緒という宗教などないでしょう。
しかし、それがどうしても受けいられなくて、この宗教団体を辞めてしまいたい、と思えるまでになってしまう人はかなり少数派でしょう。
それでも、辞めてしまいたい気持ちの方が、現状を維持する気持ちよりも大きいのであれば辞めるのがいいでしょう。
辞めてしまいたい気持ちの方が、現状を維持する気持ちよりも小さいのであれば、そこにとどまればいいのです。
宗教で言われていることの大半は、中世やその前後の時代の開祖によって語られた内容なのです。
それがそっくりそのまま現代でも通用するとは私としては、思われないのです。
ゆえに、これまでに自分が取り入れてきた情報も加えてモラルとするほかないでしょう。
先に書いたように、文化というものは雑種になる宿命を負っているのです。
ことは人間の思考も必然的に雑種になっていくのです。
宗教で言われている内容には学ぶところはあれど、全部は受け入れられない。
だから、宗教で言われている内容にくわえて、その他、本や雑誌、そして人との会話で知った内容、ネットでの情報などを主体的に摂取して、混ぜて、自分の解釈を加えて熟成させてモラルを形成していくのが王道であると思っているのです私は。
そのように形成したモラルは、雑学と呼ばれそうでが、そうではないのです。
哲学というのです。
そういう哲学を形成するに際し、中世から近世までは宗教が主たる主体だったのです。
日本ではその多くが仏教だったのです。

無理もないです。
こんにちのように紙などほとんどなかったのですし、ましてやネット情報などなかったのですから。
その紙によって作られた本が入手できたのは、僧侶たちの特権階級だけだったのです。
しかし、現代は紙はふんだんにあり、それによって本や冊子などは無限にあるのです。
ゆえに国民の誰もがたやすく入手できるものになったのです。
ですから、それらで学べるものはどんどん学べば盤石になる。
ゆえに、宗教だけに頼るのはナンセンスと思わないでしょうか?
「そんなことはない!宗教で教えられる内容は非常に有意義でこれに勝る有効な情報はない。」という人にお目にかかることはよくありますが、そういう人はその宗教で発行されている新聞や冊子、あるいはそこで催される会合に参加することくらいしかしていないのです。
他の宗教について自分で主体的に学んでいるか、と問われればほとんどか全然学んでいないのです。
なぜ、こういう日常から抜け出せないか?
文字嫌いだからです。
文字嫌いゆえに、他のことについて学ぼうという気になれないのです。
これでは非常に狭窄な理論しか築けないでしょう。
それでも思想信条の自由ですから、咎めだてはしないです。
しかし、私はそういうモラルにはなれない、というだけのことです。
そういう違いについて学びたいという人には、以下の電子書籍は非常にお勧めです。
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♯釈迦
♯現代
仏教というと、日本人ならば寺院にいる袈裟を着た僧侶を思い浮かべて、そこにある本尊に対して祈りご加護を得る、あるいは先祖を供養するというイメージが強いでしょう。

その雰囲気は、どことなく東洋系の色彩が強いです。
ゆえに、東洋由来のものであると思う人が多いと思います。
しかし、その由来を日本に仏教が渡ってきたころにまでさかのぼると、西洋由来の文化も取り入れた代物であることがわかるのです。
今は、東洋由来のものに感じてしまうが、それはその地域に根差した文化と調和をさせてしまおうという気概が、土着の人間に生じてしまう性ゆえなのです。
何?日本にある仏教は純粋な仏教ではなかったのか?と思って純粋なる仏教を想像して、しまいますが実際は違うのです。
聖徳太子の時代に仏教が入ってきたことは日本の歴史を紐解けば明らかです。
新羅から来た弥勒像(下写真)は3つの指で三角形を作っています。

これはキリスト教の三位一体から由来しているのです。
その弥勒の像は何となく、キリスト教やユダヤ教の趣きを感じないでしょうか?
無理もないです。
キリストの使途トマスがインドに伝道した際に、仏教に取り込まれたのですから。
やはり文化とは、雑種化の宿命を負っているのです。
それを嫌って純粋な仏教を求めてしまう気持ちはわからなくはないです。
その仏教を信仰しようとして、その創始者である釈迦をさかのぼると意外なことがわかります。
釈迦の生きていた時代の仏教は、山で鳥獣を捕って生計を立てていた猟師、海や川で魚を捕る漁師は穢れた職業となっていて、信者になることはもちろん出家も許されなかったのです。

もちろん、これらを食べることも許されなかったのです。
今、そんな生活をしたいと思うでしょうか?
物心ついたときから、動物の肉や魚の肉を食べていた人たちが、釈迦を信仰の対象にしたいがために、そんな生活に戻ることは可能だろうか、という疑問がわきます。
できる人はできるでしょう。
しかし、できない人の方が多数派でしょう。
そのことを非難しようとは思わないです。
大事なことは、今あるところで最も近いものを選び、そこで言われていることを実践しながら、その宗教の中で不満があったら、自ら改良を加えていくしかないのではないでしょうか?

やはり、そういう取捨選択をしていったら、自分のモラルと何から何まで一緒という宗教などないでしょう。
しかし、それがどうしても受けいられなくて、この宗教団体を辞めてしまいたい、と思えるまでになってしまう人はかなり少数派でしょう。
それでも、辞めてしまいたい気持ちの方が、現状を維持する気持ちよりも大きいのであれば辞めるのがいいでしょう。
辞めてしまいたい気持ちの方が、現状を維持する気持ちよりも小さいのであれば、そこにとどまればいいのです。
宗教で言われていることの大半は、中世やその前後の時代の開祖によって語られた内容なのです。
それがそっくりそのまま現代でも通用するとは私としては、思われないのです。
ゆえに、これまでに自分が取り入れてきた情報も加えてモラルとするほかないでしょう。
先に書いたように、文化というものは雑種になる宿命を負っているのです。
ことは人間の思考も必然的に雑種になっていくのです。
宗教で言われている内容には学ぶところはあれど、全部は受け入れられない。
だから、宗教で言われている内容にくわえて、その他、本や雑誌、そして人との会話で知った内容、ネットでの情報などを主体的に摂取して、混ぜて、自分の解釈を加えて熟成させてモラルを形成していくのが王道であると思っているのです私は。
そのように形成したモラルは、雑学と呼ばれそうでが、そうではないのです。
哲学というのです。
そういう哲学を形成するに際し、中世から近世までは宗教が主たる主体だったのです。
日本ではその多くが仏教だったのです。

無理もないです。
こんにちのように紙などほとんどなかったのですし、ましてやネット情報などなかったのですから。
その紙によって作られた本が入手できたのは、僧侶たちの特権階級だけだったのです。
しかし、現代は紙はふんだんにあり、それによって本や冊子などは無限にあるのです。
ゆえに国民の誰もがたやすく入手できるものになったのです。
ですから、それらで学べるものはどんどん学べば盤石になる。
ゆえに、宗教だけに頼るのはナンセンスと思わないでしょうか?
「そんなことはない!宗教で教えられる内容は非常に有意義でこれに勝る有効な情報はない。」という人にお目にかかることはよくありますが、そういう人はその宗教で発行されている新聞や冊子、あるいはそこで催される会合に参加することくらいしかしていないのです。
他の宗教について自分で主体的に学んでいるか、と問われればほとんどか全然学んでいないのです。
なぜ、こういう日常から抜け出せないか?
文字嫌いだからです。
文字嫌いゆえに、他のことについて学ぼうという気になれないのです。
これでは非常に狭窄な理論しか築けないでしょう。
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しかし、私はそういうモラルにはなれない、というだけのことです。
そういう違いについて学びたいという人には、以下の電子書籍は非常にお勧めです。
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