宗教的な効用は…思想が広く一気に広宣する。良質な思想なら猶の事よろしい? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
哲学者ニーチェは、神は存在しないとしたその論拠を非常に細かく構造的に明らかにしたのです。
その内容たるや非常に明確で、説得力に富むもので、神は死んだとされたのです。
興味出た人は、ニーチェ(下写真)の本を読むのがいいでしょう。
そんな神なき時代において、宗教なしで現代社会において生きていけるのは超人だけであるとしたのです。
その言葉を読んだ時に私は驚きました。
特定の宗教に入っていない私は超人なのか…と(笑)
その是非はともかくとして、それだけ人間というものは、神仏といった支えがない事には精神性が満たされない存在であるということでしょう。
特定の神様仏様には依存しないものの、そういった存在は信じますし、それゆえにそれに対する感情を持つことで明鏡止水の心を持つことができるのですし、自然や人を大事にしようとする気概が生まれるのでしょう。
これまでの人類の歴史を俯瞰すると、以下のことがわかります。
科学から倫理や価値を導きだすのではなく、価値、倫理があって科学につながるのであるということです。
その価値や倫理を導き出すのはあくまでも人間ですが、その科学精神を生み出すための道しるべを見いだす導きをしてくれているのが神や仏なのではないかと。
それはあくまでも私の考えたことであって、どれだけの人がその論に依拠してくれるかはわかりません。
これはいいと思ってくれたらそれはそれでいいですし、そんなのだめだというのならば、それはそれで致し方ないでしょう(笑)
いくら科学が発達しても、人間は誰だって1人ではいきれないのですし、他人に依存しなくては生きていけないのです。
それに肯定感がなくても人間は生きていけないのです。
自己肯定は、他者とのつながりの中で生まれるのは明白でしょう。
それがない人は、やはり社会に出て途中で挫折してしまうしょうがない存在に成り下がってしまうのです。
それを考えると、宗教は人間にとって必須でしょうか。
宗教に入ると気付きますが、それはそれは宗教者は肯定的な人が多いのですから、自分に自信が持てるようになることは間違いないのです。
しかし、それだけではいけません。
必ずしも宗教に入ったからといって万般の肯定感を受けることは保証のしようがないのです。
人の精神状態は千差万別、その精神状態で万全かどうかは自身で検証していかなくてはいけません。
その結果足りないものがあるのであれば、どのようにしたら万般になれるのかを勉強していって、そこで得たことを生活で実践していかなくてはなりません。
どこから勉強すべきか?
やはり科学的な本です。
こうなると、科学を万般のものと措定せず、宗教をも万般のものに措定せず、どっちなのだ?と憤る人が出るかもしれませんが(笑)、その場その場で手段は変えなくてはいけないのです。
それがこれまでの研究結果の結論なのです。
科学だけでも人生解決できないし、宗教だけでも解決できないのです。
その場その場でその手段を変えなくてはいけないようです。
いろんなものへの感謝…これは浄土真宗に通じる精神なのです。
買い手良し、売り手良し、世間良しの精神が尊ばれて、これを基本モラルにした浄土真宗信者の商人が隆盛を極めたことが記されています以下の電子書籍.ペーパーバックです。
これは非常に興味深かったです。
自利利他…これは、人を利することで自分を利することができる、ということです。
こと商売になると自分や自分の会社だけがもうかることを考えがちですが、その精神では商売は上手くいかないのです。
やはり自利利他の精神のある人でなければ。
その精神を学んだ親鸞が、その内容を自分の門下に説いたのです。
ではどこから学んだか?
それは中国浄土教からです。
ここで宗教的な効用がわかります。
単に書物であれば、その書物に興味が出た人しか読まず、そんなにその効用を多くの人に広めることは叶いませんが、宗教であれば、その宗教内で発刊されている新聞なり冊子なりに、その効用を説かれているのを信者が読めば誰もがそれに従うのです。
その爆発力は半端ないのです。
そこはやはり認識しなくてはならないでしょう。
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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小乗ではなく大乗の立場に立った親鸞の思想は、どのように偉大か? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教を大きな視点で俯瞰していくと、やはりどの宗教もうつりゆく社会との兼ね合いを考慮して存続していったのがわかります。
開祖の言ったことだからといって、そっくり兼ね合いを論じないまま、現代社会で通そうとすること自体不可能ですし、そんな行動をしていては、その宗教は取り残されてしまうということが危惧されます。
例えば、日蓮正宗系の宗教では、いま朝5座、夜3座の勤行をしています。
しかし、元をたどれば朝は12座していたのです。

そんな多くの座をできていたのは、誰もが自営業で、働き場がすぐ家の近くにあった時代だからです。
ゆえに可能だったのです。
しかし、戦後誰もがサラリーマン化して、職場が家から30分や1時間以上もかかるところに行かなくてはならない時代になってしまっては、とても12座などできないことになったのです。
ゆえに、朝5座ということになったのでした。
私の祖母は、「日蓮正宗 創価学会」という名目だった時代に、創価学会員になり、その時代の経本を見せてもらいました。
そこには本当に12座分が書いてあったので驚きました。
そういう時代背景を考慮に入れずに、「日蓮大聖人様が言ったことゆえに…」ということで、信者に12座も課していては誰もが信者を辞めたことでしょう。
やはりどの宗教も変動を余儀なくされるのです。
こう書くと、規律のない朝礼没改を勧めるような意見者のように映るかもしれないですがそうではなく、変動を余儀なくされながらも、その変動の際はきちんとした考慮を経て、信者のだれもが納得のいくような説明責任を負わなくてはならないのが宗教だ、というのが私の立場です。
しかし、それでも完璧な決定などないがゆえに、その変更を行ってもやはり、不満者が出て、その団体からの脱退者が出てしまうのが世の常である、ということも重々承知しているのです。
こと、親鸞の浄土真宗も一緒でした。
「宿業は自分の生きている根のようなものだから、切ったら死んでしまう。ならば宿業から離れず宿業因縁のままに助かるか、自分の中に具体化できるか」という問題意識が親鸞の中にあったのです。
人間はどんなに愚かであっても、阿弥陀仏の前では許される。

ありのままの姿が、そのままの大非の働きであるとしたのです。
それは、大乗の立場に立った意見なのです。
悟りを開いた少数者だけが救われるという小乗の立場とは逆に、誰もが救われるとしたのが大乗の立場なのです。
そういう立場であれば、世間の大半を占める大衆寄りになり、その大衆をつぶさに観察して、その立ち場になって理解をしていくのが自然な成り行きでしょう。
そうなれば、僧侶であろうが、一般大衆であろうが、生活の内容は一緒、という考えになってもおかしくはないでしょう。
親鸞は、人間は愚かで弱く、煩悩から逃れるのは到底無理だから、もう煩悩の中に立ってしまえと全く発想を転換させたのです。
ゆえに妻帯したのでは?という疑問が出てもおかしくはないでしょう。
当時の仏教界においては、妻帯することなどもってのほかだったのです。
すべての煩悩を捨てて、民衆の範にならなくてはならないがゆえに、そういった根源的な情をも捨てなくてはいけない…だから僧侶は妻帯してはならなかったのです。
しかし、民衆と僧に分け隔てはない、という思想からか、煩悩を完全に断つことなど不可能だし、その生活が決していい方向にはいかないと数多の実情を見てゆえになのかはわかりかねるが、親鸞(下写真)は妻帯を自らしていったのです。

それには賛否両論が渦巻いたのは必然でしょう。
また、魚を採って食べる、あるいは魚を採ってそれを売る漁民をも放免したのでしょう。
古代仏教では、生物を殺すことを強く戒めていたのです。
しかし、その食べることによる至福の感情や、食べた後の体の体調の良さなどを綿密に知れば、やはりその禁忌を破らざるを得ない成り行きをそっと見守らなくてはならなかったのでしょう。
しかし、罪は罪である。
その罪を犯さざるを得ない悪人と民衆を規定したのです親鸞は。
しかし、その悪人さえも阿弥陀仏に帰依すれば死後、極楽浄土に往生することができるとしたのです。
それが悪人正機説なのです。
悪人さえも往生できる、ならば率先して悪事をおこなってやろう、と親鸞の言ったことを曲解する人が出てくるのも必然でした。
しかし、実際は悪事をしてもいいということではないのです。
こういう誤解をする輩が出てくるから、一般民衆には悪人正機説を説くなと親鸞は戒めていたのです。
真剣になってこの私が言ったことを理解しようとする人にだけ説け、と親鸞はいったようです。
そこは抜かりないですね。
ことは、選民思想に凝り固まって一部の人間しか救済されないとする立場と、そうではなく一般民衆でさえも救済されるとされる立場の2つがありますが、そのどちらを選択して、持論を展開するのかは自身任せにしてくれとしか言いようがないのです。
やはり現代社会であれば民主主義思想がいきわたって、選民のみが救われるなどという立場に与する人など皆無だろうと思われますが、そうでない人は必ずどの世でもいるのです。
そういった考えを完全に矯正することなど不可能なのです。
ゆえにその矯正は、ご自身が「直さねば!」と自発的に思いに至るまで待つほかないのです。
そして、その選民思想を展開した結果、自分に逢着した結果についてはすべて自身の責任である、ということをお断りしておきたいのです。
しかし、親鸞は自身が生きれるのも、すべて民衆がいるからこそ、という立場だったからこそ、大乗の立場になり民衆にわけ行って、浄土思想を説いて回ったのです。
その偉大なる思想には私は万般の賛同を寄せるものです。
その「すべて民衆がいるからこそ」という点が非常に大事で、それが多くの人の共感を得て、多くの信者を輩出し、それのみか偉大なる実業家を多く生み出したのが浄土真宗なのです。
その思想の根源は誰か、といったことまで明らかにしているので、以下の電子書籍.ペーパーバックはおすすめです!
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社会を変えるのはいつの世も変わり者?親鸞も例外ではなかった? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というものは研究していくとわかりますが、やはり社会変動に伴って、それにそぐう感じで自身の宗教も変動させなくては支持を得れない、ということがわかります。
古今東西、既存のものを保存しておこうという勢力は必ず存在していて、その既存のものを一切変えないようにする勢力と、それを時代にそぐうようにしようという勢力との対立は必ず起こるようです。
そのどちらにつこうと私がとやかくいうものではないようです。
自身の脳で考えて行動して、自身くだして行動した結果はすべて自身で負ってくださいというのが私の立場です。
浄土真宗の親鸞が今も支持されるのは、出家仏教(人里離れたところに、共同体をつくり、時代や社会と離れたところ人間としての独立を回復させようとする)ではなかったからだということです。
親鸞もまた既存の仏教とは違う立場を貫き、行動していったことで反感を買ったのはよくわかります。
しかし、そういう声をよそに毅然と行動していったのはさすがですね。
社会を変えるのは、いつもこういった変わり者なのですね。
これまでの既存のやり方や思想で、社会を変えた例は私の知る限り1つもないです。
親鸞(下写真)は、それまでの仏教とは違う形で実存共同体を作るのが、目的だったのです。

その象徴的な言葉が「非僧非俗」でした。
まさに僧にあらず俗にあらず。
従来の僧侶というものは妻子などなく肉や魚は食べず、悟りを開くのが目的だったのです。
しかし、親鸞は妻も子供もいて、肉や魚を食べて、悟りを開くこともなかったのです。
これがいわば非僧です。
世俗にまみえることなく、1人ひとりにとって救いとなる教えていこうという明確な意思があった。
こういった行動こそ、まさに伝道というものでした。
まさにイエス.キリストと行動は一緒でした。

まさに親鸞は聖書を学び、それによってヒントを得て、行動に結び付いたのです。
変わり者が社会を変える、ということを先に指摘しましたが、そのための行動のヒントはどうすれば得れるかは、やはり既存の書物からは得れず、新奇な書物によって得ることができるのです。
親鸞が学んでいた聖書は、景教といわれるネストリウス派といわれるキリスト教の一派の人間がもたらした『世尊布施論』というもので、それを親鸞が読んでいたとして、西本願寺に保存されているのです。
その内容については以下の電子書籍.ペーパーバックに書いてあります。
それが親鸞の元に届いたということは、やはり神や仏という人智を超えた存在が、親鸞に諭し、非僧非俗の行動をとらせようとしたからだろうという気がします。
その書物を親鸞が読んで、行動に移させることを目的だったのではないか?
そんな気がするのですね。
当時の僧侶たちは、経文を唱えて、弔えばそれだけで生活していけたのです。
しかし、親鸞はそれだけでは物足りなく、僧侶のあるべき姿ではないと悟ったのでしょう。

この教えを衆生にわけいって教えなくければ、という使命感が親鸞の全身にインストールされたのだとしか思えないです。
今は紙がふんだんにあり、当然本もたくさんありますからそんな気にはならないでしょう。
それらから主体的に学んで自分の哲学を構築せよ!人から教えてもらうのを待っているな!と声高に私は言いたいです(笑)
ゆえに親鸞にように衆生にわけ行って教えを説くなどということは私は面倒くさいのです(笑)
こういった社会背景を考慮に入れれば、1つの宗教に入って、それだけにぞっこんになるのはおかしい、と思うのですが、ある宗教にぞっこんになってしまった人にそのことを諭すと、「そんなことない!」と突っぱねられるのがおちです(笑)
こう書くと私が無神論者と思われるでしょうがそんなことはないです。
神や仏といった存在には畏敬の念を持ち、世の中を良くしていこうという気概は並み以上にあると自分では思っています。
そんな立場ですが、そういう立場にや親鸞の知られざる歴史に興味のある人には以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めしたいです!
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従来の仏教は自力本願だったのに、なぜ、浄土真宗は他力本願になったか? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というものは、やはり社会の変動によって様替わりしていくのが運命のようです。
それは幾多の宗教を観てわかることです。
釈迦が創始した仏教も例外なく変動してきました。
人の精神を癒す、あるいは覚醒させるのが宗教の役割ですが、その仕方は時代によって変わってきたのがわかります。
釈迦は、自分の宗教に帰依した人の精神を自身の力で覚醒させることを目的にしていました。
それは自力本願というものです。
しかし、それが歳月を経るほどに変化していったのです。
それについて文句を言うつもりはないのですし、その変化してしまった内容の吟味は必須です。
ドイツの総合社会科学者だったマックス.ウェーバー(下写真)の遺した言葉に、「不幸とは、未来の価値が逆転することである」としたのです。
そういう経験を浄土真宗の親鸞はしてきたのです。
親鸞が幼少のころは、親鸞の肉親が戦災で死に、多くの子供が病気で死ぬ時代、多くの人が飢餓で死ぬ時代だったのです。
どうしたらそれらを救うことが出来るか?を親鸞は考えていたのです。
同じような内容を西田幾多郎や釈迦も考えていたのです。
それが軌を一にするから興味深いですね。
軌を一にするのは、生きた時代背景がかなり一緒だったからです。
源平合戦の最終戦だった壇ノ浦の合戦によってこれまで多大なる隆盛を誇っていた平氏の完全なる没落を目にしたのが親鸞が13歳のときでした。
それまでゆるぎなく存在していたものが、全く無価値と思われるようなものにとってかわられたのでした。
戦さや飢饉、大地震で多くの人が死んでいく末法の世だったのです。

動乱の時代には、やむを得ず出家するしかない状況の追い込まれる人が多かったのです。
伯父が学者だった親鸞はやむなく延暦寺に僧として出家することになったのです。
しかし、そこで親鸞が目にした情景が失望に変わったといいます。
当時の延暦寺は、簡単に言うと貴族のための出世の道を確保してあげるポストに成り下がっていったということです。
延暦寺の天台宗では、衆生を救うことができないと悟った親鸞は、幾多の仏教に分岐していた1つであった念仏に興味を持ちそれを修めることで、それに覚醒したのでしょう。
これこそが衆生を救う手段であると思ったのです。
そして、そこにいた法然を師事して、この人の教えを広く弘めようと決意したということです。
しかし、そのモラルは、これまでの仏教の基本だった自力本願とは違う、他力本願というのが親鸞(下写真)のモラルとするところでした。
それは、謙虚になって、ただ阿弥陀仏に縋ることで成仏し、極楽浄土に死後に往生することができる、というものです。
それに加えて、親鸞はユニークな立場である悪人正機説を唱えたことが特筆すべき点でしょう。
悪人でも成仏することができる、ということです。
これは正義感の強い人ならばカッとなるでしょう。
「悪いことをした人間でも成仏できるなんてなんて異端な考えか!」ということです。
しかし、そうではなく、「これまで悪事をしてこなかった人間はいない」という意味での悪人なのです。
悪口をいう、嘘をつく、小さな物でも盗む…こういったことは誰もが幼少のころまでさかのぼればしてこなかった人はいないでしょう。
やはり、人間誰もが悪いことをしてきた悪人であるという認識にたった理論なのです。
世の中に義人はいない…なんかキリスト教みたいですね。
そう、親鸞はキリストから学んでいたのです。

そこから認識を得ることができて自身の宗教観に盛り込んだのです。
「親鸞の生きた鎌倉時代にもう基督教が伝わっていた?そんなの嘘でしょう。日本史の教科書には、1459年のフランシスコ.ザビエルが来た時が最初と書いてあるでしょう?」
という疑問がわくのはもっともなことでしょうが、それは真実ではないのです。
実際は、それよりも600年も前に日本に伝わっていたのです。
ザビエルはカトリックですが、その600年前にきたときはユダヤ教の色彩を残していた基督教でした。
そういう違いがあれど、その時代に既に基督教が伝わっていたというのは興味深い事実ですね。
その詳しい内容については、以下の電子書籍.ペーパーバックに書いてあります。
また、親鸞が弘めた念仏の基本的な性質は他力本願ですが、これまでの仏教の基本だった自力本願と他力本願の違いについても、以下の電子書籍.ペーパーバックにも従来の念仏系の本にはない切り口で詳説しているので、興味のある人は是非とも読みましょう。
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自分に逢着してしまった結果は、宗教的な視点を入れて打開を目指すべし? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
宗教というものは面白いもので、いつの世でも人の精神を惹き付けてやまないものですね。
こんにちのような科学が発達して、一見縋らなくてもいいような時代においても、人の精神を惹き付けてやまないのですから。
同じことをしていても、上手くいく人とそうでない人がいる。
ちょっと遅れていれば大惨事に巻き込まれるところを寸での差で巻き込まれずに済んだ人もいれば、それに巻きまれてしまった人もいる。
こういう例ってありますよね?
「こういう不運に何でいつも自分は巻き込まれてしまうのか?」といったことを考えてしまうのです。
やはり、科学的に証明のつかないことが自分には起きてしまって不幸が何度も起こる。
そういう人は、やはり宗教に縋ったり、それによってそういった不幸から打開しようとする。
やはりその気持ちはよくわかりますし、それが自然でしょう。
浄土真宗の親鸞(下写真)が曰く、「兎や羊の毛の先にある塵のような小さい罪を犯すのも、すべて思いを超えた無限の因縁が背景にあると感知すべきである。」と自身の書に書いているのです。
見えるか見えないかの小さな罪ですら、宿世からの因縁であり、現世での報いとしてこうむる、ということでしょう。
たとえ、自分に重い背景があったとしても、それは自分を成り立たせている大事な背景なのだと理解できれば、重い過去が大事な過去になり、喜んで引き受けて立ち上がっていけるというふうに変わって行くのでは?という意見が成り立ちますね。
このような現世の理だけでは説明のつかないことを引き合いに出して相談してきた人を説得する。
それは、やはりカリスマ的な人物でなければ説得することはできないでしょう。
しかるに親鸞は、カリスマ性を内包していたので、こういった論議で多くの人を覚醒してきたのでしょう。
親鸞は、いろんな宗教書についても造詣があったようで、いつも書を読み漁っていたようです。
質問されたら、すぐさま返答ができるような人、言ってみればゴムまりのような柔軟性がある人はやはり追随し付いてくる人も多かったでしょう。
そのカリスマ性は半端ないもので、現代日本において信者がもっと多いのは浄土真宗だそうで私は驚いてしまいました。
てっきり創価学会が一番信者が多い団体と思っていました。
しかし、疑問が起きます。
親鸞ははたしてあの世へ行き来できた人だったのでしょうか、という。
親鸞に以下の言葉があります。
「この私においては、ただ念仏によって実在を回復できるという如来の本願の道を法然上人からいただいて、それを信じるのみである。
念仏は、本当に浄土という世界へ往くための原因なのか、また地獄という世界へ落ちる行為なのか、私は一切知らない。
法然上人にだまされた念仏して、地獄に堕ちたとしても決して後悔しない。」
ここを読むと、親鸞は天国や地獄といったものにいけなかったのではないか、と思われてならなったのです。
そんなな能力は必要ないのではないか?
よしんばそういう能力がなかったとしても良かったではないか?
そんな疑問がわくのが必然でしょう。
しかし、こと宗教を論じるならば、そういった視点も内包しながら、信者の行方の指針になるのは言うまでもないでしょう。
ならば実際にあの世に行き来出来て、その詳細について描写できた人の意見を聞いた方がいいに決まってます。
あの世といったものまで視点に入れながら、ことを論じなければ宗教的な意味がないと私は思っていました。
そういうものまで視点に入れて、ことを論じてくれるのかなと思い、以前に創価学会に私は入りましたが、ここではこの世での倫理ばかりを説くだけで、あまり魅力を感じなかったというのが正直なところでした。
しかし、あの世に行って帰ってくる能力が親鸞にあったかどうかは、こういった親鸞の遺した書物を読んでもわからないです。
もしかしたら行けたかもしれないですし、行けなかったかもしれないです。
それに、死んで召されても、地獄にいくか天国に行くかどうかは親鸞が判断することではないです。
その判断は、あの世で閻魔大魔王がすることになっているからです。

ゆえに自分が地獄に行くかどうかはわからない、とした可能性があります。
そこはどう考えるか?
現代では、いろんな宗教の書物を買って読むことができるのです。
それで、あの世にいって帰ってこれる能力があるという人の書物を読むのがいいでしょう。
誰しも1つの宗教に入っていくのが普通です。
それから、その宗教では疑問が解けないと思ったら、そういう内容を含んだ宗教の事柄について本を買って読んで、自分の生活、人生に取り込めばいいのではないでしょうか?
ことは、1つの宗教だけで人生は解決できるものではない、というのが私のモラルなのです。
このページの最初に取り上げた運のよい人、悪い人の原因については、大きな視点が必須です。
この世でのモラルや、生活全般や人との接し方はもとより、風水や清潔感、住む場所の方位、その土地柄、過去世の因縁、等々、こういったものをまで視点に入れて打開していかなくてはいけないのですが、もっとも大事なのは、正確な知識と日々の行動なのです。
こういった様々なことを1つの宗教だけで学べることはできないのです。
ゆえに、どの宗教にも与しないし、人にも入ることを勧めないのです。
ただ、どの宗教にも学べる点は多くあるので、どの宗教の書物は一通り読んで、学べる点は取り入れて生活に生かしている、というのが正直なところなのです。
もちろん浄土真宗についても学べる視点が多くあったのは間違いないです。
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浄土真宗信徒は他力本願…しかし、自力本願の要素がまるでない完全なる他力本願でしょうか? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
人間というものは私も含めて精神的に弱く、自分のこれまでの努力や得てきた知識や経験値だけでは、やはり行きづまりを見せて疲弊してしまうものです。
そして、生きる気力を失い、最悪の場合、自ら命を絶ってしまうこともあるのです。
そうなる前に、多くの例で知れるのは宗教に救いを求める場合があります。
そこで講義される思想を勉強して、その気力を失った場所から逃れるすべを見いだそうとするわけです。
日本で一番信者が多いとされる浄土真宗では、他力本願が説かれているわけです。
自分の力に拠るのではなく、阿弥陀仏に縋ることで、精神性の回復を目指すのです。

今の世は、自力で人生の打開を目指す自力本願が常識になっているのは否めない事実です。
浄土真宗に救済を求めた人の経験談で以下のものがあります。
「生きる意味を追い求めて、生きて何かをするというよりも、生きる意味がある、ということが感じられると何かができるようになる。」
こういった他力本願によって精神的な回復を達することができた人にはエールを送りたいと正直思います。
こういう精神的な過程を観察すると、そういう思想は、やはり自力本願の宗教思想にはない効用があるのは明白です。
人智を超えた何か壮大なもの、気宇の増大を図ることのできる対象…そういったものがあるという心の支えを知ることで、これ以上ない精神的な気持ちよさがあるのは間違いないです。
日蓮正宗やその信徒団体だった創価学会では、ひたすら自力本願ですし、その団体に入っていた時代が私にはありましたが、ついぞこういう精神的な感じを受けることはなかったのが正直なところです。
なら、浄土真宗への帰依を勧めるのかというと、ことはそう簡単ではないです(笑)
あまりにも他力本願に偏りすぎると、努力を蔑ろにする傾向を招来してしまう結果になるのは否めないでしょう。
私は科学の発達している現代において、誰もがそういう世界観が信じられるか、そうでないかはわからないことになってしまっているのです。

また、浄土真宗に帰依した人であろうとなかろうと、自力本願の宗教や思想を学ぶことができる世のなかです。
本などはいくらでもお金を出せば買って読める時代なのですから。
科学的な知識や自分とは異なる他の宗教の知識と、やはり融合してしまうのです。
しかし、浄土真宗の親鸞が生きた鎌倉時代の当時は、本などが入手できなかったのです。
ゆえに宿縁にしたがい、親鸞にすがるしかなかったがゆえに、他の宗教の思想をまんべんなく知ることができなかったのです。
しかし、今はそのような時代ではないのです。
他力本願の宗教にはいっている人でも、自力本願の宗教を学ぶことができるし、他の科学的なことも知ることができる。
そういった他の事柄について、自身の哲学形成において、どれだけ取り入れるかは、本人の自由なのです。
どのような配合にしていくのかは、まったく本人の裁量によって決まるので、こちらがどうするかが問題ではないのです。
私としては、自力本願と他力本願、どちらが正しく、どちらが邪教などということを言おうとしているわけではないのです。
どの宗教に縋っていくか判断を下し、他の要素をどれだけ取り入れるかは全く本人の自由で、その取り入れて行動していった結果、逢着した結果はすべて自身の責任というモラルでいるのです。
「勝っていくということだけに価値を置くのではなく、勝ち負けを超えて存在するということの尊さに目覚めることが大事だ。」
これは、松田正典(広島大名誉教授)の言葉です。
その思想内容については、大いに賛同して、同感する部分も多いのです。
この場合、現代の受験戦争や出世競争がそのやり玉にあがっているのは明白です。
しかし、受験戦争や出世競争が、もっぱら好きなことであれば、それがやり玉になることはないでしょうし、そういう人は宗教的な救済には及ばないでしょう。

受験戦争や出世競争は別にストレスの感じるものでない人でも、宗教的な救済に縋れといった議論は不毛でしょう。
結果を得れなくても、自尊心があるゆえに自分に自信がある人もまた宗教的な救済には当たらないでしょう。
しかも、学校の勉強や会社での仕事は、現代工業社会では必須のものです。
そういうものはしなければならないし、それを破棄していいものではないのです。
ゆえに他力本願の宗教が素晴らしいからといって、それ「だけ」で人生がかたがつく性質のものではないのです。
やはり現代社会との兼ね合いを考慮していかなくてはならないのはわかるでしょうか?
しかし、「大きな働きに生かされている。それに乗っているんだという感覚が生きることの肯定観が生まれる。」という他力本願の思想はかなりの心の癒しになることは間違いがないのは言うまでもないですが、それだけではいけないのです。
●そんな内容に興味ある人には、以下の電子書籍.ペーパーバックはおすすめです!(※ペーパバックとは、注文が入った後に、印刷.製本されて発注者のお家に配達されるシステム本の事です!)
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偉大なる開祖の教義は従来の教義に抗って打ち建てられた?そして、その開祖の教義も抗わられる運命に? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
社会とは不変であることはないのです。
ゆえに、変動が起きた場合に、どのような処置をすべきかが問われるのは言うまでもないのです。
その宗教に入った時に、あまりにその開祖が偉大だった場合に、次代の長のくだした処置に反対が出てしまうのも、古今東西変わらぬ事実のようです。
その場合、その長のくだした内容に賛同ならば、その団体に残ればいいし、反対であれば抜けて別団体を作ればいいでしょう、としか言いようがないのです。
このようにして、古今東西いろんな宗教団体は分裂をくりかえしてきました。
しかし、翻って、こと開祖のしてきたことも、従来のものに抗ってきたものであることを忘れてはならないでしょう。
親鸞(下写真)の生きた時代においては、妻帯は僧侶にとって厳禁なものでした。

おのれの一切の欲を断ち切って、俗世から離れるという見本を民衆に見せなくてはならないのだから、異性を娶るなどもってのほか、という認識だったのです。
それをどう考えるかは人それぞれでしょう。
そして、親鸞の生きた時代はまさに大変動の時代であり、古代仏教では生物を殺すのは禁忌だったのですが、こと鎌倉時代は、魚を採って生計をたてて生きる漁民が出現していたのです。
そして当時は、戦乱の世であり、戦さで相手を殺さないことには自分が殺されてしまう時代だったのです。
これもまた禁忌に触れる行為だったのです。

そこで親鸞の認識はこうでした。
古代仏教で戒められていたことをおこなわなくてはいけない悪人でも、阿弥陀仏に帰依すれば、死後、極楽に往生することができる、ということでした。
これがまさに悪人正機説だったのです。
当時は、「悪人でも成仏できるなどというのはなんたる不埒な思想か!」と誰もが憤ったでしょう。
しかし、つぶさに内容をみると、悪い犯罪をおかした人でも成仏できるということではなく、古代仏教で禁忌とされたことを日々していかなくてはならないわれわれ悪人でも成仏できる、ということです。
こういう誤解が生まれてしまうがゆえに、親鸞は、衆生にはたやすく悪人正機説を説くなといっていたようです。
念仏に帰依する覚悟のある人にだけ説けとしたようです。
まさに当時の民衆の側にたった救済的な理論だったのです。
そして、妻帯においても日ごろから考えていたのでしょう。
「恋愛をして、そして結婚するからこそ人は強くなれるし、幸せになれる、なのに僧侶は…」
このようなことを。
鎌倉時代の新興仏教の祖であった日蓮にしろ、道元にしろ、親鸞にしろ聖徳太子(下写真)に生きていたのです。

聖徳太子が建てたとされる四天王寺に赴いて、その憲法のうちの2条に「仏法僧を敬え」としたためられていましたが、それを日蓮にしろ、道元にしろ、自身の教義にそのことを盛り込んだのです。
そしてニュアンスは違えど、親鸞も例外ではなかったのです。
そしてよく親鸞は行き詰まると聖徳太子に助けをも求めたと言い伝えられます。
聖徳太子の御廟で受けた「磯長の夢告」が有名です。
「あなたはあと14年しか生きれない」…聖徳太子が祀られている四天王寺の六角堂で、聖徳太子の姿をした救世観音からこういうお告げを親鸞は受けたのです。
またのちの機会には、「もし修行者が過去の行いによって不淫戒を破り、女性と関係しなければならないのなら、私が玉女となって現れて関係を持ちましょう。そして生涯修行者の人生を飾り、一生添い遂げ、臨終の際には極楽に導きましょう」
と聖徳太子の観音はいったということです。
これを機会に、親鸞は妻帯を赦し、自身も妻帯したのです。
衆生の味方になって阿弥陀仏の功徳を説きに衆生の中に入っていったことが有名ながら、妻帯をも庶民の側に立って報赦したのです。
これは仏教弘教の最大の功労者として崇め奉られていた聖徳太子が、仏教界において影響力のあろうと思われる人に、よき方向へ行くと思われる指向を託す計らいをしたのではないか?そんな気がするのですね。
肉食は致し方ない、妻帯も致し方ない、でも古代仏教においては禁忌とされている。ではどうすれば…そんなことを親鸞は悩みに悩んでいたのだろうかと思います。
やはり社会はいつも動いている。
不変であろうはずがない。
そこでどのような策を弄すべきかが、やはり問われているのではないか?そんな気がするのですね。
その変化において、それを支持するかしないかはその人の自由です。
しかし、その支持した結果、自分に逢着した事柄についてはすべて自分の責任であるということを脳内に入れておかないといけないでしょう。
そんな仏教弘教の最大の功労者として崇め奉られていた対象が、自分の元にやってきて、アドバイスを降したのだから、肉食も妻帯も今では許されてしかるべき、という強い自身になったことは間違いないでしょう。
こういう、従来の事柄から抗うことで新宗教は出来上がったというのが通底する現象なのです。
ゆえに、その新宗教ができてからも、そういう変化の波は現れるのが当然です。

その新宗教の教祖が建てた教義に対して、それを曲げたり、削除したりするのは最大の御法度という気持ちになってしまうのはよくわかりますが、時代はいつも動いている、ということを忘れてはならないでしょう。
偉大なる開祖の教義をも変化させなくてはならないことは往々にして出てくるのは必然です。
そんなことを、宗教を研究していく上でいつも考えてしまうのです。
●そんな立場に興味のある人に読んでほしい電子書籍.ペーパーバックは以下です!(※ペーパバックとは、注文が入った後に、印刷.製本されて発注者のお家に配達されるシステム本の事です!)
⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性
今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

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意外なる名だたる商売人が浄土真宗の信者だった?その思想の根源はどこから? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
これまでいろんな宗教を垣間見てきましたが、どの開祖にも共通していることは、いろんな書物を読みふけってきて、それでかつ開祖になっても、いろんな書物を読み続け前進し続けていたということですね。
そういう人間でこそ、従事していくに値するというものです。
昔読んで勉強していたからとて、それで辞めてしまうような人には従事していく価値はないでしょう。
こと浄土真宗を研究していくと、その開祖といわれる親鸞は、ただ師.法然の教えを衆生に説くことを使命感に、布教していったのですが、それだけでも足りず、いろんな書物を読みつづけて自分の哲学の足しにしていったのが分かります。
それゆえに、法然の亜流ではなかったのです。
亜流であるならば、こと私ならばそんな研究に値するとは思われないので、単なる付けたし程度で終わってしまったでしょう。
浄土真宗を研究して興味深いのは、この宗教団体こそが日本で一番信者が多い、ということです。
それのみか、日本史上に名を残す商売人が、この団体の信者だったということです。
伊藤忠兵衛(下写真)、松下幸之助、高須克弥といった名だたる商売人がこの団体の信者だったのです。

これには驚きでしょう?
この団体の商売の基礎は自利利他です。
要するに、売りて良し、買い手良し、世間良しが基本となっているのです。
商売というとどうしても、自分の利益だけを最大限にしているような印象を与えますが、ことそれが王道ではないですし、その三方良しが基本になくてはならないのです。
しかし、その三方良しは、親鸞がいきなり思いついたことではないのです。
中国浄土教の曇鸞という僧が書いた書物を研究していくうちにヒントを得て、それを自身の教義に盛り込んだのです。
そこで「借りものじゃないか!」といって批判する気にはならないのです。
思想形成とはそういうものだからです、こと私も。
親鸞の言辞を見て興味深くなるのは、やはりその中国浄土教以外からも影響を受けているのがわかるのです。
親鸞曰く「私は罪深い愚かな人間で無限の時間の中をさまよい続けてきた。助かる縁はなく、これからもずっと迷いから離れることが出来ない身であることを知りなさい」ということです。
基督教に造詣のある人が読んだら、思わず「キリストの原罪?」と思われるに十分な内容です。
その通りなのです。
既に日本には7世紀には基督の教えは入っていて、それが日本の政府のブレーンたちにも影響を与えていたのです。

もちろん西洋を彷彿とさせるものではなく、土着色の色彩を放った基督教です。
詳しくは、ネストリウス派に改宗したユダヤ人による日本への流入なのです。
その詳しい内容については以下に掲げてある電子書籍.ペーパーバックを読むことをお勧めします。
その聖書は当時『世尊布施論』という名称ですが、それを親鸞が読んでいたとして浄土真宗の西本願寺に今も保管されているのです。
それもまた親鸞の思想形成に一躍役立ったことは間違いないのです。
人間はみな悪人、義人はこの世に一人もいない…こういった文言はいまのキリスト教の聖書にも書いてあることです。
それが親鸞で有名な悪人正機説に繋がっているのですから興味深いでしょう。
また親鸞曰く「他人のことではなく、あくまで自分が悪人なのだ、その自覚こそが仏性の顕現。」ということですが、当時の仏教界では間違いなく前衛だったのです。
親鸞は新しい言葉は使わず師である法然からもらった言葉に新しい意味を吹き込んで、阿弥陀仏の教えを革新的に展開させていった、と親鸞研究の書物には書かれていますが、実際はいろんな造語があるので、これは間違いでしょう(笑)。
しかし、いろんな書物を読んで革新性を目指すものであったのは、日蓮宗あるいは日蓮正宗の開祖である日蓮(下写真)と一緒なのがわかるでしょう。

親鸞や日蓮の在世の時代は、紙も全然なく、一般庶民に「自分で学べ」といって突き放すことはできなかったのです。
ゆえに仏教思想を吹き込むには、自ら赴いていかなくては、という使命感のもと布教していかなくてはならなかったのです。
だから日蓮は「私の言ったことだけを遵守していけばいい」といったのでしょう。
しかし、今は紙などは吐き捨てるほどあり、本も同様に吐き捨てるほどある。
そんな時代において、「この宗教だけ勉強していけばいい」というのでは誰も説得できないでしょう。
これだけ大きくなった宗教団体ゆえに、それなりに学ぶところは大いにあるけれども、それだけでは足りないでしょう。
そうこうしているうちにも人類の観念はどんどんと堆積していくのですから。
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人の思想形成は無から有を生み出せるものではない?開祖.親鸞も? (親鸞とユダヤ.キリスト)
こんにちは。
親鸞や日蓮といった開祖を研究していくと興味深くなってくるのは、共通点を見いだすことができることが最大の面白さです私の場合は。
親鸞の著した『教行信証』には、膨大な資料と知識量がちりばめられてあって、力強く美しい文体なのです。
これも日蓮と一緒なのです。
いろんな仏教に遊学したのみならず、儒教や道教なども真摯に学んでいって、自分の仏教の世界観を創り出したのです。
親鸞は、越後で7年間を過ごした後に、関東へ拠点を移し、布教活動に代わったのです。
その後、武装化した武士が農民を支配する格差社会を目にすることになるのです。
その武士たちにも、阿弥陀仏の本願が平等であると説いたので、それに感動して帰依する門徒が続出したのです。
親鸞(下写真)も非常な勉強家で、いろんなものを媒体にモラル.哲学を形成したのです。
やはり大量の砂の中から砂金を探すというような途方もない作業でも厭わない人でなければ、教祖、開祖といった人たちは務まらないのが明白です。
さて、親鸞の接した媒体ですが、ある媒体によって悪人正機説を創り、そして説いたようですが、それはやはり基督教由来なのは明白です。
「人間は生まれもって罪深い存在だ」「この世に義人は1人もいない」
これは聖書に書かれている内容として有名ですが、それゆえにその悪人正機説に結び付けたのは明白です。
その当時の聖書といわれる『世尊布施論』という本を親鸞が読んでいたとして、西本願寺に今も保管されているのです。
そして、人類みな平等という思想もキリスト由来であり、その思想は士農工商という身分関係を固守しなくてはいけない江戸幕府にとって、邪見になるかろいう理由で基督信仰は禁止した、ということは日本の歴史を思い出せれるでしょう。
その平等思想は、すでに鎌倉時代の親鸞が説いていたのです。
もちろん、無から有に親鸞がはっと思いついたわけではないです。
当然、キリスト教由来なのです。
このように人間の思想の形成というものは、無から有を生み出すのではなく、他の媒体からヒントを得て、自己流にアレンジするか,そっくりそのまま取り入れるかどうかなのです。
そうして出来上がった思想は、カリスマ的な人物であれば取り入れたいと思う人が多く輩出するでしょうが、カリスマ性のない人は踏襲しようとする人はいないで終わってしまうでしょう。
そのカリスマ性は、やはり天与のものなのでしょうか…そんな気がします。
その天与のものを親鸞が受けていたがゆえに、門下になりたいという人が大勢出て、真宗王国などといわれるほどの隆起を見せ、今や日本で一番信者の多い宗教は浄土真宗という現在の状態になったのでしょう。
●そのカリスマ性について奥深くみていきたい人には、以下の電子書籍.ペーパーバックをお勧めします。(※ペーパバックとは、注文が入った後に、印刷.製本されて発注者のお家に配達されるシステム本の事です!)
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大塚久雄 『社会科学の方法』
大塚久雄という人は、文系大学にいった人にとっては必ず聞く名前ではないでしょうか?
この人のマルクス研究やウェーバー研究には奥深いものがあり、それでいて非常にわかりやすく述べられていて、簡潔に社会科学の理念を確認できると同時に、社会科学をもっと深く学んでみたい、という気にさせるに十分なオーラを感じざるをなかったですし、今もこの人の著作を時間が許す限り読んでみたいと思い、この人の買いたい著作のリストが、どのショップにも往々にしてたくさんあります。
正直、マルクス(下写真)やウェーバーの著作は翻訳でも、結構難しい言葉で書いてあるので、理解ができない箇所がたくさんあります。
しかし、大塚久雄氏がそれらの本を読んで理解して、それを提示した本のほうがかなり読みやすく、興味を深く掻き立てられる気がするのは私だけでしょうか?
事実、大学時代に大塚久雄氏の『社会科学の方法』を読んで、「社会科学ってこんなに楽しいものなの!」と思い、この人の著作はもちろん、その他いろんな社会科学に関する本を多数読んでいったのを覚えています。
経済学や経営学といった文字を読むと何やら無機質な、金だけが全面に出てくる感じがしました、大学に入った当初は。
しかし、この大塚久雄氏の『社会科学の方法』という本を読んでそうではないことがわかりましたし、社会科学の主体は人間の心であり、その行動様式を探求することであることがわかって安堵の気持ちになったのでした。
どういうことをすればお客は喜ばれるか?
どういう場所に店を構えればお客さんがきてくれるか?
お客さんが飽きてしまったらどうしたらいいか? お客さんが来なくなったらどうすればいいか?
こういったことを把握するのが経営学ですが、それはやはり人間の心を把握しないことにはできた話しではないのです。
経営学…こういった堅苦しい文字を読んで忌避するのではなく、まずは経営の現場に出て、その様相を観察することがいいでしょう。 もしくはテレビ番組を見るのでもいいでしょう。
昔、『マネーの虎』という、5人の社長の前で起業希望の人がプレゼンをして投資をしてもらうという番組で、そこに出ていた社長の投資したい人のモラルとして、「正義感と社会貢献という2つのキーワードを持っている人」というパターンもあれば、「信念とフロンティアスピリッツを持っている人」というパターンがありましたし、投資希望者の心を問うときに、まず最初に儲かることを前面に出している人はくぎを刺されていたし、癒しの雰囲気を持っている人に投資したいという気持ちが往々と漂っていた感じがしました。
また、「貧乏脱出大作戦」という貧乏になってしまった飲食の自営業者が、売れている飲食店の店長の下で修業して、立て直すという趣旨の番組で、某日本料理屋のオーナー社長が修行希望者に向かって「僕は儲けようと思って経営していないから。」と言っていたのを思い出します。 もちろん、利益を上げないことには店も経営できないし、自分も生活できない。
しかし、最初に儲けようと思って始めるとうまくいかない。
お客さんに喜んでもらおうという気概が先にありきでないことには失敗する、ということでしょう。
これは起業に関するモチベーションの議論を醸し出しますし、これから起業することを考えている人にはそのヒントや、脳内に入れておいたほうがいい面を含んでいるように思います。
しかし、そういった精神を今のアメリカ人のほとんどが忘れられているような感じがするのでしょうか。 そんな議論が、持ち上がる機運を感じざるを得ないですね。
仕事に必死になって打ち込むというプロテスタンティズムの禁欲主義が資本主義のエートスであると、マックス.ウェーバーは喝破したのです。
そのことを書いた本が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』になります。
その議論が注目を浴び、世界中でこの本は読まれているのですし、私の文系大学での4年間において、毎年必ずいずれかの教授がウェーバー(下写真)を引き合いに出していたのです。
しかし、その精神がアメリカでは失われてしまい、その精神の行きつく先が、モノづくりだったはずですが、その製品は粗悪で、どの国のものにもアメリカは負けているのです。
それのみか、アメリカは、持てる者と持たざる者の収入の差が、世界で一番小さいレベルだった第二次世界大戦後、その差は拡大していく一方で、金融工学を駆使して売り抜けて巨万の富を築いた人が勝ち、という社会に変貌してしまったのです。
日本も同じように格差は拡大し、一億総中流国家といわれた面影はもうないです。
それをいいことか悪い事かは、各人で考えて結論を出してもらいましょう。
しかし、アメリカと違って日本はモノづくりにおいては、いまだに世界を牽引しているのです。 ゆえに、輸出立国である事実は依然としているのです。
そういう様相を呈して変貌した現代社会において、どのような社会を目指すべきなのか?
そんな中で自分はどうすればいいのか?
こういった抽象的ですが、根源的な問題について深く考察するには、凄く大量の本を読み、資料を読み研究を重ねていかなくてはならないでしょう。
しかし、最も基本的な理論を学んで先に進まなければ土台の薄れた支離滅裂な議論に逢着してしまいます。
そうならないためには、瞠目すべき古典的な名著の理論を学んでから先に進む必要があるでしょう。
その際にお勧めできるのは、この大塚久雄の『社会科学の方法』になります。
●非常にお勧めです!
| 社会科学の方法 ヴェーバーとマルクス (岩波新書) [ 大塚 久雄 ] | ||||
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今回はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました!

