汗牛充棟.ブログ

人類が創造した本という素晴らしきもののうち、私が接したのは、その内の限りなく少ないものですが、その片鱗でも素晴らしさを伝えたいと思っております。どうぞお付き合い下さいませ。
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人類が創造した本という素晴らしきもののうち、私が接したのは、その内の限りなく少ないものですが、その片鱗でも素晴らしさを伝えたいと思っております。

どうぞお付き合い下さいませ。

偉大なる大川隆法でも無批判でいいか?そんなことありません!(幸福の科学)

前回は、幸福の科学の映画『ドラゴンハート』を観にいって、その現代的な意義について書きました。

そこで言われていたことは、現代人にとって大事なことであり、そこで言われていたことを知って、これからの人生を生きるかどうかで、違ってきますから、その内容は脳内に留保しておいたほうがいいでしょう。



⇒ドラゴンハートのリポート



さて、私は非信者ながら、幸福の科学には信用を置いているのです。

故.大川総裁(下写真)の言わんとしたことは多面的であり、反論の余地がほとんどなかったですから。


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逆に、鎌倉時代の新仏教の勃興期に出現して、今でも生き延びているそれらの宗派に万般の信用を置くのは間違いと思っているのです。

なぜなら、鎌倉時代に妥当と思われていたことでも、今はまるで通用しないものが多くあるからです。

その場合、その開祖の言ったことは、わきに置いておいて、自分の脳内で考えてアレンジしていかなくてはならないのです。

いくら偉大な開祖のいったことでも間違っていることは間違っているのです。

その部分をきっちり批判している幸福の科学は、自分のスタンスと一緒なのです。

それに、今のネットの時代、いくらでも動画において、宗教批判はできる時代です。

一番多いのは、「この宗教に入って祈れば必ず幸せになるといわれたが、一向に幸福にはなれない」ということでしょうか?

その趣旨の動画がたくさんアップされているのです。

しかし、こと幸福の科学については、ないのです。

「反 幸福の科学」とか「幸福の科学批判」といったキーワードで検索するも出てくるのは、故.大川隆法総裁の不詳の長男の宏洋氏(下写真)が上げた動画だけなのです(笑)。






やはり、総裁の言われたことを遵守していったからこそ、信者になった人は幸福になれたのだし、悩みも解決していったのでしょう。

そういう面を見るとやはり、この宗教は本物なのかなあという気がします。

なら何故、宏洋氏大川総裁に反旗を翻したのか、という素朴な疑問がわくでしょう。

彼の出した本である『私の父は大川隆法だった』という本によれば、総裁の講演時の袈裟は、特注で何百万円、何千万円もするもので、1回着たらそれで終わり、もう2度と着ないということが書かれているのです。

おなじことは、彼の動画でも語られているのです。

総裁の腕時計も一緒で特注でかなり高価のもだそうです。

そして、幸福の科学職員になった人は、の売り込みや布施で多大なノルマを課される。

それでいて、総裁があのような衒示的消費をしている。

そして総裁信者を見下し、金づるとしか思っていないという。

ゆえに、幸福になるのは総裁だけで、一般の信者は幸福になれない、ということでした。

私は、この部分を読んで、「側近にいた人が書いたことだから本当のことなのか?本当ならばこれから先、一切幸福の科学にかかわるのは辞めようか?」などと思ったのです。






しかし、一歩距離を置いて、もう一度総裁の書いたを読み直しました。

すると、信者を見下している人が信者が奮起して、目のまえが明るくなるようなことを書けるか?それも何冊も?宏洋氏のほうが嘘ちゃうんか?」と思うになりました。

そういった譲歩をしてよかったと思います。

宏洋氏が書いたの内容及び、動画の内容は現実と全く違うとして、幸福の科学からその文言の取り消しを訴求されて、宏洋氏7度敗訴しているのです。

そこで思うのは、なぜ宏洋氏は、幸福の科学および総裁に反旗を翻したのか?ということです。

これは家族心理学とか教育心理学といった部門によらないといけないようです。

解決の糸口は見えてこないのです。

親とくに父親が、朝眠い目をこすって起きて朝飯を食べて会社に出社する。

そういう姿を見て子供は育っていけば、普通に健全な精神を得ることができるのです。

しかし、そうではない、父親が働きに出ずに家で寝ている、あるいは書き物をしたり、パソコンをいじって何かをタイプしている。


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そういう職業、たとえば塾講師、アトリエ講師、大学教授、芸術家といったを持つ子供は精神が不健全になりやすいのです。

父親が楽して生きているのに、なんで自分は苦労して生きていかなくてはならないんだ?」といったような反発心を抱くようになるのです。

その結果、子供集団行動においてもはぐれた行動を平気でするようになり、勉学も、運動もなあなあでするようになるのです。

その思い込みを外すことはなかなか困難なことのようです。

事実、反旗を翻す前に、幸福の科学の映画に宏洋氏が参加していた時に、何度も遅刻をして、そのせいで大幅に撮影が遅れて、幸福の科学から3000万円の損害賠償を求められる事態になったようです。

それは『宏洋問題の深層』という本で明らかになっています。

こういった自分の非については一切述べないにもかかわらず、幸福の科学および総裁についての悪口だけ述べているのは、かなり中立から遠く、考え物です。

しかし、こういったモンスターを生み出してしまった故.大川総裁ですが、働きに出ずに、家で読書をし、本の執筆をし、瞑想をおこなうという普通の父親たちの行動とは逸脱した生活をしていたがために、そのを見て育った宏洋氏があのような逸脱行動を起こすようになってしまったのでしょう。






それゆえに、いくら私が信頼をおく総裁であっても批判はまぬかれないでしょう。

大学教授の息子、塾講師の息子といった人たちと中学校クラスメートになったことがありますが、いずれも親子関係はよくなかったし、その息子たちは打たれ弱かったのは間違いなかったです。

しかし、子供の教育はぶっつけ本番なところがあり、1人目で失敗してしまったことについて、とやかく言うことはないでしょう。

総裁は、家で書き物の執筆などをせずに、子供たちがおきる前に起きて、ファミレス喫茶店で、そういった仕事をしていればよかったのです。

自分の属す宗教に万般の信頼を置きすぎると、この場合、宏洋氏への批判だけで終始してしまう危険性はまぬかれないでしょう。

しかしそうではなく、総裁には信頼おきながらも、足りないところは、自分の学習で補うというスタンスが大事だと私は思うのですがどうでしょうか?

鎌倉時代の新仏教で今も多くの信者のいる宗派でも、「この偉大なる開祖様が言っていることだから…」ということで、その開祖が残した書物に書いてあることは無批判になって、現代社会現実社会との兼ね合いや正当性の吟味は一切しない…これではいけないとしているのです私は。

そんなスタンスに共感出来る方には、以下の電子書籍はお勧めです。




『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』

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今回はこれにて終了します。

ありがとうございました!




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♯大川隆法
♯宏洋

幸福の科学主催の映画『ドラゴンハート』から現代社会への警鐘を考える!(幸福の科学)





幸福の科学
主催のアニメ映画『ドラゴン.ハート』を映画にて鑑賞してきました。

壮大な気宇に包まれて、観ている人の心を浄化してくれるような威力を秘めていたということができると思いました。

この映画の舞台になっているのは、幸福の科学故.大川総裁(下写真)の故郷である徳島県になっています。


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その田舎の広大な舞台も、都会の敷き詰めた空間に暮らし続けている人には癒いの空間になることは間違いないでしょう。

この映画の主人公の竜介知美が山の川に行き、河童に出くわし、その姿を確かめたくて河童のあとをつける。

そして河童は川には逃げ、追いかけようと川に入った主人公の2人は深みにはまってしまう。

そして奥深くに流されてしまったと思ったら、巨大な2人を背中に乗せて、山の高みのに到着させておろす。






すると、1人の仙人が登場し、2人はもうこの世の人間ではないことを告げられる。

それにかなうように、2人の足は透けてしまっているのが悟られる。

すると、その仙人は、2人に人生でなすべきことを見つけたら元の世界に還してくれると告げ、2人はその言葉に従い、あの世に探訪することになる。

あの世は1つではなく、空赤黒く、重い空気に包まれ、人間はいるが、そのほとんどが魑魅魍魎に心を支配された社会であったり、患者を殺したり手足を切断することしか治療するすべを持たない病院だったり、広大な暗い岩ばかりの蛇の神が支配する世界であったり、人身を束縛するホラーな西洋館だったりといろいろなところに出向いたりしながら、そこで危機に陥っている人をすくことに躍起になる主人公の2人が印象的だったのです。



そして最後は、故.大川総裁もまねかれていたと自身が書いていたシャンバラの世界が最後に到達する。

シャンバラは、政界中の宗教や芸などの各界の選ばれし選民たちの集まる場所で、透明感のある心の持ち主たちが集まるということです。

これは故.大川総裁もまねかれていたということを総裁の書『メシアの法』で知っていました。

こういう場所は招かれていた人たちの心もさることながら、その場の雰囲気も当場していた選民たちの心もかなり透明感のあるものであることが、鑑賞していてわかりました。

その無数の人たちの前で、エルカンターレビシュヌ神から戴冠されるシーンは、この映画の中で最大の広大な気宇を有していたのが感じれました。

その後、気が付いたら主人公の2人は、家の中で気を失っていて看病されているシーンに移動します。

よかった…この2人は生還することができたのです。

注目すべきは、この映画の中で感じれる臨場感ですね。

あの世シャンバラ(写真下)といったこの世とは違う場所の広大な気宇は、想像力では表現できない性質のものであったことは確かです。


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記憶力によってはじめて可能はないかと、思わざるを得なかったのです。

いろんな人たちの記録をたくさん集めて、制作することも可能ではありますが、そんなに時間をかけてできたものではないだけに、やはり総裁の記憶を頼りに制作したものではないかと思わざるを得なかったのです。

ゆえに大川総裁は、自身はあの世への行き来ができる数少ない人間の1人であるとか、霊能力があるとか、エルカンターレの使途であると生前に語っていたのは、やはり本当のことではないのか…そう思わざるを得ない力を感じたのです、今回の映画においても。

今回の映画のナレーションにおいて、「総指揮.大川隆法」としていたこともそうですが、やはり実際に映画の中で感じた壮大な気宇の再現には瞠目せざるを得なかったのです。

やはり宗教たるもの、あの世といったものも視野に入れて講じないことには説得力に乏しいと感じるのは私だけでしょうか?

こんにちの仏教界では、浄土真宗、日蓮正宗が、大幅に支持を集めているのです。

いずれも鎌倉期の、仏教の勃興期にできたものです。

その他、曹洞宗、臨済宗、時宗といった宗派も、この時期にできたものですが、それらの開祖たちのこんにち遺されている書物を読むと、いずれもあの世といったものは視野に入れてはいるものの、具体的な描写がないのです。

それは、こういった宗派の開祖たちが、あの世に行ける能力がなかったからでしょう。

しかし、大本の仏教の開祖であった釈尊にはそういう能力があったのだそうです。

それがこんにちの仏教界の悲劇の始まりだったのでしょうか?

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あの世に行ける能力がなかった開祖の言っていたことだけに依拠して教義を伝えてしまっていたがゆえに、あの世を視野に入れなくてもいいという風潮が跋扈してしまった。

証明できないがゆえに、教義に入れることができなかった。

だから、死去した後の閻魔による裁きで天国にいくか地獄にいくということになる、ということに現代人のほとんどが認識できずに終わってしまっている。

この世での行いが死後、裁判にかけられ、地獄に行くか天国に行くかが決まる、ということですね。

死後のことは考えなくていい、という思いゆえに、現世において法の穴を潜り抜けて悪事を重ねることを平然とこなしている人が多い、ということですね。

故.大川総裁曰く現代人半分以上が死後、地獄にいく」ということです。






そういうことは某キリスト教会でも語られていたようです。

それを本気で信じていたクリスチャンは、煙管乗車ができない、ということです。

なぜなら、神様が自分を見ている、あるいは現世での行動の結果、天国いきか地獄いきかが決まると知っていたからですね。

しかし、仏教でもキリスト教でも、地獄や天国が想定されているのを見ると、宗教は元は1つだった、という見方も成り立ちますね。

しかし、その教会が変わることで、そのの価値観によって、現世での行いによって死後の…云々の講義をしなくなれば、せっかくのキリスト教会でも道を踏み外す信者が出てくることは必然になります。

証明なくんば、語る必要なし。

これはかなり難しい問題になるということです。

しかし、そのことを信じるのであれば、故.大川隆法総裁の教えを語る必要はあるでしょう。

私が一番尊崇している大山倍達(極真会館総裁、下写真)も、同じようなことを生前に発していたのでした。


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証明なくんば信用されず、と。

その言葉によってあの世といったものは、一般人には証明できないがゆえに、証明できないもの=ないものというレッテルが貼られて、世俗はもちろん、宗教においても講義されることがなくなってしまったのでしょう。

しかし、一般的な世俗とは違い、大山総裁は、神仏に対する畏敬の念は保持していたのです。

道場には、神棚を置いていたし、自分の家では、身を徹底的に奇麗にしたうえで、祖先を祀った仏壇の前に座り、線香をたき、子供たちと一緒に家訓を読み聞かせていたのです。

しかもこれは毎日です。







大山総裁はきれい好きで、少しでも汚いところがあったら、自ら進んで掃き、雑巾がけをしていたのです、の中でも道場内でも。

神仏はきれいなところを好む、とは風水でもあまたの宗教でも説かれることですが、それを地で行っていたのです総裁は。

その結果、総裁一代で世界125か国極真会館の支部を広げることに成功したのです。

道場訓の1つに、「1つ我々は、神仏を尊び、謙譲の美徳を忘れざること」大山総裁はしていたのです。

特定のは信仰しないけれども、あると措定したうえで、人智を超えたものに対する畏敬の念、そしていつまでも永遠に自分は修行者だ、という心がけを忘れない事の重要さを説いていたのです。

宗教に入らない人にとっても、こういうスタンスは勧めれるでしょう。

というか、このブログで何回も幸福の科学の特長については説いてきましたが、私は幸福の科学信者ではないのです(笑)

そのスタンスはいつまでも変わることはないでしょう。





しかし、特定のは信仰せず、そういうものがあると措定した上で、畏敬の念を持ち、心身ともの成長は忘れない、というスタンスになるのだと思います。

謙虚に、についても学び続けて、ひと様に誇れる人格になるのを目指していたいということです。

今回もこの映画を虚心坦懐に鑑賞し、他のいろんな宗教についての本も多数よみ、この世の真理は何かということと探究し続けています。

そういうスタンスもありかなという思いでいます。

今回はこれにて終了します。

ありがとうございました。





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今回はこれにて終了します。

ありがとうございました!



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1つの宗教に拘るべからず!多面的に学び、自身の哲学を構築せよ?





哲学とは何かといえば、古代のギリシャを含めた西洋思想家の思想を勉強することと思われがちでしょう。

しかし、それは人の定義づけによって変わってくるので、むやみに否定はしないですが、私はそれだけではないのです。

いな、違うといってもいいのでしょうか?

私にとって哲学とは、雑学、乱読によって得た知識と、それを手段にして形成した自分の思想というふうに考えています。

人は、それぞれいろんな情報に接して生きてきました。

ゆえに、その情報が変わってくれば、当然、考えも変わってくるわけで,それを統一しようとしたら、それはかなり難しいことでしょう。

しかし、事、宗教内に入ってしまえば、など、人間を凌駕した存在の言葉を介したものゆえに、その宗教内で言われていることには、すぐ鵜呑みにして無批判になってしまうようです。

それは幾多の宗教を見て、発見しました。

しかし、いくらの言った言葉でも、のちになって誤りであることも判明するわけです。

いや、神や仏ではない、宗教の創始者、開祖といわれる人たちも同じ人間なのですから、もっと過ちを犯すでしょう。

それを批判する気はないのです。





しかし、それが誤りであることが判明したのであれば、そこについては取り入れない、という毅然とした態度が必須と思うのですが、そういう考えをしている人はまれです。

ゆえに、私が1つ宗教にぞっこんになって、その宗教の素晴らしさを人に語り、信者になってくれるように頼む、なんていうふうにはならないのは明白です(笑)

そういうスタンスですから、ある特定の宗教にぞっこんになってしまう人の気持ちが全然わからないのです。

それに、発見したことですが、その宗教に入ってしまう人の特徴は、やはりその他の宗教についての本も同様に、他の科学学問についてのは全くと言っていいほど読んでいないのが通常です。

その宗教の素晴らしさを語るなら、他の宗教についていくつも比較して、その素晴らしさを語ることによって説得力があるものですが、そう言うことをしてくれる人はまずいないのです。

自分の入っている宗教だけ学んで「この宗教こそ至上のものだ!」なんて言われても納得できません(笑)

しかし、その宗教の会合に行って話しを聞いたり、その宗教についての本を読むとそれなりに学ぶところはあります。

しかし、全部が無批判というわけではないのですから、そこは毅然とした態度で「取り入れない」という態度が必要と思います。

私は心理学をたくさん読んできました。

やはり人間関係について悩むたちですから。






そこで学んだのは、「人間には2タイプあって、1つはひとの心に関心のある人、もう1つはひとの心に無関心な人」ということを知りました。

それによって、心が晴れました。

「ひとの心に無関心な人に対しては、わざわざ心を開いてくれるようにアクセスしなくていいんだ!」ということですね。

ゆえに、人の揚げ足しかとらない人や、コチラが優しくしているのに一向にコチラにやさしくしてくれない人にはかかわらずに、人の心に無関心な人にはロボットと接するようにしているのでいいということがわかりました。

そういうことを書くと、それでは相手が傷つくんじゃ、と思われるかもしれないですがそんなことはないのです。

そういうことをしても、やはり、傷ついている様子はないのです。

しかし、そういったことを言うのは宗教内では御法度なのです。

宗教は和を前提とした団体なのですから。

それが宗教の建前なのですから。

しかし、真実は「人の心に無関心な人にはロボットと接するようにせよ」というのが王道なのです。

しかしそれを理解しないで、そういう人にも優しく接しても一向にあちらはそういうことをしてくれないで終わるのですから、ストレスにさいなまれます。






それでは何のために生きているのかわからないですよね。

そこは毅然とした態度が必須なのです。

宗教以外にも学べるものはいくらでもあるのですから、そこから学んで自分の哲学を構築すればいいのですが、文字嫌いな人はそれができないから、宗教内で言われていることだけに依拠してしまい、いつまでたってもそのスパイラルから抜け出せないでいるのです。

宗教で言われていることだけが真実ではない、という厳然たる事実を悟らなくてはなりません。

開祖がなくなって、そのあとを継いだその団体のは大抵、いろんな著作家、他の宗教者、伝記の哲学者宗教は読んでいるのが通常です。 

ゆえに一般信者よりは多面的なのです。

しかし、多くの場合、内容がその宗教内に留まるゆえに、幅は狭いのです。

ゆえに、その宗教団体内で話されていることだけに依拠するのも危険なのです。

しかし、一般信者はほとんどを読まず。

ゆえに一面的で逢着してしまっているのです。

ゆえに、宗教にぞっこんになるのはお勧めできないのです。

それなりに学ぶものがあるのは事実ですが。

その宗教内で話されている内容が、自分が興味あることであれば話しは別ですが、私は興味ないです、ほとんど…(笑)

そのことを書くと、この宗教をしっかり学ばなければ、いい人生を送れないよといった意見が宗教者からは出そうですが、そこは構わないです、不問です。

何も宗教を蔑ろにしているわけではないのです。






学び、実践していくべきと思われることについては真摯に接しています。

それでも足りない、ということであれば、それは不問にしなければないです。

その宗教で大事とされていることをすべて行動していくには時間がないからです。

それでも邪道というのであれば、仕方ないです、本当に!

そんなスタンスの興味ある人には以下の電子書籍はお勧めです。


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ありがとうございました!


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♯宗教
♯無批判

幸福の科学は多面性を有する。しかし、すべての場面で打開できない?ではどうすれば? (幸福の科学)

こんにちは。

私は、幸福の科学の宗教的なスタンスに共鳴する立場で、これまで何度もこの団体から機関誌をいただき、そのお礼として、お菓子ドリンクを格安サイトで買ってきては、お渡ししているのです。

この団体の機関誌である『幸福の科学』という小冊子を読んでいると、いろんな体験談が語られています。


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人生における困難が降りかかってきて、その突破口をこの宗教で見つけ、見事、突破口を見つけて乗り越えた、という経験談を読んでいると胸が晴れやかになります。

ある以下のような、体験談がありました。

ある主婦の人ですが、主人が4000万円の借金をギャンブルで作ってしまい、それまで経営していた焼肉屋2件美容室2件が取り上げられた、ということです。

こういう経験から引き合いに出されるのは、この団体の基本的なバイブルとされている『太陽の法』ですね。

その内容については、その本を自身で読んでいただきましょう(笑)。

しかし、その主婦の人は良くもこの旦那と一緒にやっていこうと思い、そして見事それを克服し、今は健全な経営を維持しているな、ということで感心せざるを得なかったですね。

また、自分の属す会社で、嫌味をよく言う上司との人間関係に悩み、そのことに対する故.大川総裁(下写真)の回答は、「自分が変わらないことには相手は変わらない」ということを言っていたのです。





これは、しかし正直、私は支持できない考えです。

それでは一時的な気休めにしかならないのは明白です。


同じようなことを創価学会でも言われているのです。

故.大川総裁は、信者のいろんな悩みを回答する内容を本にしたためておりました。

そのバラエティさや、深みには敬服せざるを得なかったのです。

こんなに多くの回答が出せるのは、総裁の人間離れした多読にあることは明白でした。


それに加えて、エルカンターレが総裁に下生した、というノンフィクションがこの宗教の土台になっているのですが、それも起因しているのでしょうか?

そのどちらなのかは私にはわかりかねます。

総裁がいま生きていたとしても、どちらなのかは断定せざるを得ないのです。

いま日本でベスト5に入る大きな宗教団体になった創価学会は、当初「創価教育学会」と名乗っていて、初めは宗教団体ではなかったのです。

この初代の会長だった牧口常三郎氏日蓮正宗の熱心な信徒だった故に、その意気が認められて、日蓮正宗の信徒団体になったのです。

それとほぼ一緒だったようです幸福の科学も。

当初は、世界の宗教を学ぶ団体だったのが、軌道修正して宗教団体になったようです。

その当初も今も、当会の基礎的なバイブルになったのが、かの有名な『太陽の法』(下写真)のようです。





大川総裁
は、悪い意味での教育パパ、ママに育てられなかったがゆえに、教育の進学は本人に任せて自由にさせてもらっていたようです。

私と違ってわがままな期待を父母からされていなかったのがわかるのです。

ゆえにそういう家庭で育てられた人の心がわからないだろうことは間違いないです。

そういう家庭で育てられた子供の心は理解しようにも理解できなかったのは明白です。

の誤った教育が原因で劣等感にさいなまれる子供の心の矯正は、そういう経験をした人の体験談が一番説得力があるのは明白です。

その経験がない人に矯正法などはわからないです。

しかし、宗教団体内では表立って「親の誤った教育が原因だ」というようなことは言えないのは自明です。

この場合も親が原因という事は明白ですが、親を根本原因という事が言えないのです。

これも宗教自体が、家族と信者は親和していかなくてはならない前提となっているがゆえのことです。

ことは幸福の科学でも同様です。

しかし、誤った教育を指摘しなければ根本解決にはならないのです。

そこを踏まえてうえで打開策を練るのが大事だと私は思っています。

こういう面でも、また幸福の科学によらずとも、いろんなを読むことで、打開策を得れ、そして勇気を持つことが出来る、という理由で、私は幸福の科学信者にはならないとしているのです。


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しかし、幸福の科学は、教えに多面性を有しているし、本物としての威厳を感じるがゆえに、大幅にこの宗教団体には信頼を置いていることは確かなのです。

それゆえに、この団体での集会食事会には参加させてもらい、私も飲食物のプレゼントもさせてもらっているのです。

それでいいと毅然としているのです私は。

そんなスタンスに興味ある人は、以下の電子書籍はおすすめです。


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今回はこれにて終了します。

ありがとうございました!


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♯幸福の科学
♯打開策

何のために古典はあるか?その意義は理解しつつも、無批判であるべからず?(幸福の科学)

こんにちは。

誰もが、小学生時代に歴史を学習しましたよね?

その時、疑問に思った人もいるでしょう。

なんで昔のことをいまさら学ぶ必要があるのだろうと?

また、中学に上がると、国語で古典を学びましたよね。

その時も、同じように疑問に思った人もいるでしょう。

なんで昔のことをいまさら学ぶ必要があるのだろうと?


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それは、昔のことから現代の人によっても学ぶべき点がいろいろあるからです。

昔の話しでも、その人物のモラルや行動、あるいは指針などについて、学ぶべき点があるからこそ教育に取りれられたのです。

その点を自ら、探そうという努力が受け手にも求められることは間違いないのです。

むかしのことだから〜といって、通り過ごしてはもったいないです。

そういうことを理解せずに、歴史を取り扱う大学での学問での「歴史学」において、その教科を担当する教授でも、人類の過去の話しをしているだけのパターンがあるのですが、それでは何のためにこの教授は大学教員になったの?と疑問に思うこともありました。

歴史の意義がまるで理解できていなかったのです。


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ただし、昔のことが何もかも学べることだらけというわけでもないのです。

古典は、いくら時代が降っても後世の人たちが学ぶ要素を含んだものをいうのであって、昔の文物がすべて古典とは言わないのです。

その意義が、その作品にあるかどうかは人によって変わってくるのは言うまでもないです。

ゆえに、それが古典、いやそれは古典ではないという論争が出てくるのは必然でしょう。

人類の過去から学ぶ。

こういうことを考えると、やはり思い浮かぶのは宗教についてでしょう。


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私が思うのは、昔、ことに鎌倉時代仏教を信仰する人の中で、当時の開祖の言ったことをそのまま信じ込んで、現代にも当てはめようとする人たちがいるということですね。

その宗教にぞっこんになってしまい、そうしたい気持ちはわからなくはないですが、きちんと現代社会との齟齬、嚙み合わせをしていくことが大事と思われてならないのです。

「この経文を唱えれば必ず快方に向かう」という開祖の言葉を信じて、その経文を必死に唱える。

それで満足してしまうのです。

実際に理想の形になったかどうか?

これにバイアスをかけるべきであって、開祖の言ったことを守ったかどうかではないのです。

昔の科学の発達していなかった時代においては、多くの人が「この経文を唱えれば必ず快方に向かう」と思うほかなかったこともあったでしょう。

ゆえに、そのことを非難するには及ばないのです。

しかし、現代では、それでは快方には向かわないということがわかったら、違う方法を試すべきであると思われてならないのです。

簡単なことなのですが、長年、そういう経文を唱えることで解決をしようとしてくると、そこから脱することが難しくなるのですね。




やはり人間だれしも、私含めて保守的なのです。

しかし、そこは勇気を出して、違う方法に切り替える必要があるのです。

人間関係でも一緒です。

例えば、人を貶したりすることで、マウントをとろうする人は古今東西いるものです。

なぜ、その人はそういう思考法になってしまうのか?

自尊心不足と経験値の不足なのです。

自尊心とは、自然体で自分を誇らしげに思える心というふうに定義するのがいいでしょう。

ゆえに自尊心がない人は、人を貶したり、上げ足取りをすることで自尊心をみたそうとするのです。

しかし、そんなものは偽物ゆえに、時間がたつとすぐに気落ちするのです。

そしてまた人を貶したりなじったりするのです。






こういう人が、そういう思考法から脱するにはどうすればいいか?

よく宗教に入っている人にはある疑問でしょう。

するとその宗教の人は、この経文を唱えれば必ずその人は変わる、といったニュアンスのことを言うのです。

しかし、その経文を唱えたところで、その人が変わることはないのです。

ではどうすればいいか?

その人が、格闘技をこなして強くなり、自信を身に着けることです。


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その自信によって、人を貶したりすることが馬鹿ばかしくなって、やめるのです。

かくいう私もそうでした。

格闘技をすることで強くなり、自信がついて人をばかばかしくなってやめたのです。

貶そうと思ってもできなくなるのです。

しかし、鎌倉時代においては格闘技などなかったがゆえに、誰もがその偉大なる開祖の言われるままに経文を唱えたのでしょう。

しかし、それは叶わぬ夢だった。

そのことを頭に入れて生きていく必要があるでしょう。

その他、経文を唱えてもかなわないことはいくらでもありますから、それに縋るのではなく、合理的、論理的、科学的に考えて、同sればいいかを模索して、行動に移すことをお勧めしたいのです。

幸福の科学故.大川隆法総裁(下写真)は、いにしえのいろんな宗教にの拠りつつも、現代的な科学的な方法をも取り入れて総合化をはかろうとしたのだろうと思います。


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それは、私の支持したいスタンスゆえに、これまでいろんな総裁を読み、その意義を書いたブログをあげてきたのです。

幸福の科学というと、どうしても宗教性を排除した感じに思われるかもしれないですがそんなことはないのです。

宗教スピリチュアルな面を基礎としながらも、科学的なものも取り入れて総合化を図り、現代情報にも素早くキャッチアップする。

そのスタンスには共鳴に値するスタンスと思いました。

単にに縋るという、その有用性について勉強するのならば、しておいた方がいいだろうことは間違いないでしょう。

宗教に入って、その宗教が刊行する雑誌や冊子だけを読んで行くのは、私としては支持できないですね。

自身でどんどん進んで情報をキャッチアップして取り入れて、それを日々の行動に結びつける、それが望ましいスタンスですわたしにとって。

現代においては、住宅は区画が敷いてあって、その区画内に家を建てています。

その住宅は、戸建てであろうと、集合住宅であろうと道に面する形になっています。

区画の真ん中に家を建てるということはほんの稀にしか行われないのです。

区画の中に家建てないのは風水的な根拠があって建てないのです。



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何故か?

そういう家は不運を招くということがこれまでの人類の経験からわかっているからです。

ここに、そういうスピリチュアルな面が生きているのです。

宗教的なということもできるでしょう。

いくら科学が発達しても、スピリチュアル宗教を抜きにして人生を歩んで行くことはできないのです。

それがわかった人には以下の電子書籍はおすすめです!


●以下よりどうぞ!


『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』



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ありがとうございました!


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♯幸福の科学
♯鎌倉仏教

宗教の開祖の資質とはどのようなものか?立ち止まって考えるべし! (幸福の科学)

こんにちは。

今回は指導者とか、宗教の開祖の資質といったものについて考察していきたいです。

物事を進めるためには、いろいろある選択肢の中から選択して、断定していかなくてはならないのは言うまでもないです。

しかし、逐一いろんな選択肢から、いろいろ時間をかけて考えていては時間の無駄になってしまいます。

そこでは、経験者に人に聞いて、どうしたらいいかを相談するのがいいでしょう。

そして自身でも、いろんな経験を経て、即座に決断していく努力をしていかなくてはいけないでしょう。
そういう経験をつむことで、人に頼られる人格になっていくのです。


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自分1人のことであれば、どのような感じでもいいでしょう。

時間かけようが時間かけなかろうがいいわけです、自分の責任になるのですから。

しかし、こと大勢の人の上に立つ人が何も考えずに、即断するようなことではいけません。

その決断が、人の人生を左右するような大きな難関であってみれば、失敗は許されるわけではないですし、よしんば失敗しても、ダメージが小さくなるような決断をしなくてはいけないでしょう。

大きな会社団体の長や、宗教団体の長であってみればなおさらです。

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そこでは、いろんな情報を収集して、そこで決断をするのが妥当な道でしょう。

そこでの情報は理論だったり数字だったりするわけですが、多ければ多いほど多面的になりますから、脳内に入れておいた方がいいでしょう。

しかし、いろんな人と接したり、いろんな本を読んだりするとわかるのですが、きちんとした数字を引き合いに出さずに、自分の直観や経験値だけで断定した論議の講演をしたり、を出してきた哲学者といわれる人たちがいるのです。

それが、そのように根拠薄弱であるにもかかわらず、その論が書かれたをよんだり聞いたりすると、かなり信憑性があり、引き込まれでしまう魅力を持っていたりするのです。

その結果大勢の支持を得るパターンがあります。


その代表が古代哲人といわれる人たちの中に多い気がします。


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それは、その人をといった存在が、そういう知識を直に与えたからではないか、というようなことを考えてしまうのです。

指導においてもおなじことが言えます。

根拠もないような気がするのに、その人に言われるとなんだか正しい気がして、従ってしまう。

逆に、指導されても、なんか気が向かずに反抗的な気分になってしまう。

やはり前者の人はリーダーに向いていて、後者の人はリーダーに向いていないのです。

前者の資質を身に着けている人は宗教開祖になれる気がします。

ただし、講演で誰もが自分の話を終始聞いているか?

一般人とは違う読み書きの能力(早く何冊も出して、その内容も大勢の人をひきつけられるというような)があれば、やはり神仏による能力の付与が行われたのではないかと思われてならないのです。

幸福の科学故.大川隆法氏(下写真)は、そういう能力が神仏から付与されたのではと思われてならないですね。


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講演では終始集中して聞いてしまいますし、10日1冊の割合で本を出版してきて、その内容も多面的だったし、内容に引き込む力があったからこそ、開宗から30年前後168か国にまで支部ができたのですから。

ただ、きちんとした数字を引き合いに出さずに、自分の直観や経験値だけで断定する人がすなわちリーダーとしての能力に即繋するというわけではないのはお断りします。

世の中にはサイコパスといわれる人が古今東西必ずいるわけで、この人たちは、自分が仕切らないと気が済まないという心の病を抱えているのです。

こういう人はいくら教育を施しても治るわけではないのです。


こういう人が、大団体になったらその組織は終焉を迎えるわけです。

いろんな重鎮が離脱していくか、その長に辞めさせられてしまいますから。

そういう重大な知識を脳内に入れて人生は行動していきましょう。

今回確認したいのは以上です。

こんな内容に興味ある人にお勧めなのが以下の電子書籍になります。



●興味ある方はどうぞ!


『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』

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♯リーダとしての資質
♯宗教団体の長

幸福の科学では三途の川や閻魔大王が登場してくるので、幸福の科学は仏教か?…違います。これらに代替する存在は他のいろんな宗教でも登場してきます!(幸福の科学)

こんにちは。

宗教に入る人の精神とは、やはり人間が人智を超えた対象に対してすがり、自分の生活を良くしていく、ということにつながることを目指しているのではないでしょうか?

それゆえに、宗教から教えを乞うことが基本になるでしょう。

単なる巷で得れるような情報では、宗教の講義を聞きに行く意味がないでしょう。

やはり宗教では、あの世といったものに関する情報が講義されなくては意味がないと思います。





昨今の宗教では話を簡略化したいがためか、宗教指導者の価値観のせいか、教義を変えたいせいか、その他、宗教によって事情は異なるでしょうが、あの世といったものを含めて講義されることは少ないのです。

しかし、幸福の科学では、そういう面を欠かさず講義しているので、支持せざるを得なかったのです私は。

この団体の故.大川隆法総裁(下写真)は、厳然とそういうものを含めて講義していたのです。





天国地獄があり、人は死んだら、三途の川を渡り、その先に待ち構えている閻魔大王に生前の生まれてから死ぬまでのVTRを見てもらい、正邪の判定をしてもらい、と判定された人は天国に、と判定された人は地獄に落ちるとしていたのです。

その教義は総裁がなくなった今も変更はありません。

故.大川総裁曰く、現代では死んだうちの半数以上の人が地獄行きになっているというのです。

現代人は、唯物論に染まっているがゆえに。

唯物論とは、人の人生は、この世だけのものであり、死んだらあの世などには行かないで、そのまま終わりという世界観のことを言うようです。

そういう世界観の人は、「バレなければいい」と思って、法律をすり抜けたり、人を蹴落としたり、害してきた人は死後全て証拠を出されて、必ず裁かれることになっています。

驚くべきことに、私たちの生前の思いや行い、更には心の声までもが、全て記録されておりあの世で、言い逃れすることは出来ないのです。

死んだ人の生前において、人の心を改心させる力があったか、浄化力あったか、この地上世界がよくなったか悪くなったか?が地獄に行くか天国に行くかの分かれ道になるということです。






こういう知識を携えて人生生きていくか、そうでないかで、人生の内容がかなり違ったものになることは間違いないでしょう。

天国に行くか地獄に行くかは、この世での行いによって変わってくる、というのが厳然とした事実であるならば、これからの行動が良き方向へ舵取りできるのは言うまでもないでしょう。

ただし、その講義を聞いた人が信じるのが大前提ではありますが…。

こういうことを信じたい人は信じればいいし、信じたくない人は信じて行動していくべきでしょう。

これはどちらを得らぶかは本人次第ですので、私が無理やり信じさせるカリスマ的な能力がないのが痛いところではあります。

しかし、三途の川…これは仏教の教えじゃないか。

幸福の科学って仏教の団体なの?

閻魔大王…まるで日本昔話じゃないか!

外国人には通用しないのではないか?

と思われるでしょうが、そうではないのです。






仏教でなくても、他の宗教、たとえばキリスト教イスラム教においても天国地獄はあると規定したうえで教義を展開していますし、こういった宗教ではなくても、世界中の哲人といわれる人物たちも、天国地獄三途の川閻魔に代わる存在を規定しているのです。

ではなぜ三途の川閻魔大王なのか?

それに代替し、同じような河川人物が世界中の宗教では規定されているのです。

日本では三途の川閻魔大王といっているだけで、同じ役割をしてるものや人物はいるのです。

そして、三途の川閻魔大王になったのは、日本の文化になじむようにアレンジされてしまっているだけの話しなのです。

それが、古代の昔からの東西を超えて同じ役を果たすモノ人物がいるということは、やはり真実なのでしょう。

そういったものを多面的に興味わいて知りたい人は以下の電子書籍を読むのがいいでしょう。

お勧めです。


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『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』


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ありがとうございました!



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♯幸福の科学♯三途の川
♯閻魔大王

読者の心を鷲掴みにする著作家と大川隆法総裁の共通点とは何か? (幸福の科学)

こんにちは。

かねてから私は幸福の科学については慧眼もので見ていました。

特に故.大川隆法総裁(下写真)の幅広い知識、それゆえの広大な気宇を有したのスケールにです。


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こういう魅力を有したを書く人のは幾冊も読んでいきたくなるものなのです。

その人の新刊の告知がなされているを見るとすぐさま予約をしてしまうのです。

これまで1000冊くらい本を読んできた私にとってこういう行動にさせてくれる著者は5指に満たないです。

逆に、2度と読まないと決めている著者は押しなべて引用ばかりのものであることが多いです。

書いている文章の用途上、どうしても引用しなくてはならない場合もありますから、絶対に引用をするなとはいいませんが、引用ばかりですと、文章が滅裂な印象を与えてしまいますし、集中力が途絶えてしまうのです。

それに著作本というのは、その書いた人の考えや意見を読みたいのであって、そういう引用ばかりのにはそういうモノが欠けているか、無い場合がほとんどですし、よしんばあっても、他愛もない意見や考えしか書かれていないので、読むのもつまらない代物であることが必定なのです。

著作物は知識をひけらかすのが目的でもないですし、単なる知識を得るのであれば、そういうなど読まずに、概説書の類を読めばいいのですから、そういうモノを読む必要性など感じないので、そういう本を書いている著者は今後読まないです。

こういうを書いているは、その他のでもそういうスタンスで書いているのが普通なのです。






ではどういう精神的な営みをしている著者が読みたいと思わせるを書いているか?

やはり普段から、いろんなを読み、浮かんでくるテーゼに関していろんな肉付けになる理論知識を、いろんな冊子などから得て、いろいろな思索を重ねて、持論を展開しているのですね。

こういう行為をしないで、いきなり本や文章を書けと言われても、できないのが通常なのです。

普段から努力をしていない人は無理な話しなのです。

普段から、そういうことをしている人こそが人をうならせる文章を書けるのです。

逆に、普段からそういうことをしていない人は、先にあげたような引用ばかりのを書くのです。

その結果、読み手につまらない印象をあたえてしまうのです。

それのみか、そういう努力を普段からしている人は、1つの専門に閉じこもることなく、いろんな分野から知識を普段から取り入れてますから、説得力があるのです。

また買って読みたいと思わせる著作家はやはり、普段から幅広い知識を得ているのです。


政治は言うに及ばず、経済、経営、商業、環境、生物、化学といろんな情報に接して、ほとんどを脳内にすぐに入れてしまうのです。

まさに、リソースフル人間なのです。

こと大川隆法総裁はそういう人間だったのです。

宗教的な知識は言うに及ばず、幅広い分野に長けてたのです。

これまで、聖徳太子(下写真)、空海、日蓮といった多くの宗教家の書物に接してきた私ですが、当時のほとんど紙などなかった時代において、よくもこんな膨大な知識を得れたなあと感心するばかりでした。






私の受験生時代には、マーカーやカードなどを使ったり、何度も紙に書いて覚えています。

しかし、上代中世のようにほとんど紙などなかった時代に、よくもこんな膨大なことを覚えれたなあと感心するばかりでした。

その膨大な知識をもとに思索と発酵を通じて、これまた膨大な数の書物をこれらの宗教家たちは遺してきたのです。

尋常ではない能力…そう表現していいだろうと思います。

こういう尋常でない能力は、やはり普段から努力を重ねていた結果、といった人智を超越した存在が、その人に並外れた能力を付与し、開祖という結果に落ちつかせたのだろうか、そんなことをつい考えてしまうのです。

そういう努力の結果、大川総裁は、エルカンターレ(下写真)から開祖としての知らせを受けた、あるいは能力を委託されたのでしょうか?


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あるいは自身でそういう使命を持ったということに思い至ったのでしょうか?

そんなことをふと考えてしまうのです。

やはり、開祖から30年前後で、160か国以上にもその教えが広がり、講演の数3500回以上、出したの数3100冊以上とあっては、その能力には感服するでしょう誰もが。

努力だけで達するものではないのは明白です。

大川総裁が生前に曰く「私は、一宗一派を作るために、出てきているのではないのです。」ということであった。

真の世界平和のために、古代以降の宗教がいつしか忘れてしまった精神をこの言葉以外からも汲み取ることができるのです。

他の総裁を読めば。

そんな総裁の内容について論じた格好の電子書籍が以下です。


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♯大川隆法
♯信憑性

幸福の科学の魅力はどこにあるか?…練り上げられた総合性を有した理論にあります! (幸福の科学)

こんにちは。

幸福の科学に出会ったのは20年近くも前になります。

当時、私は創価学会に入っていましたが、あまりにこの世での倫理しか説かない講義に辟易していました。

しかも、その講義の内容は毎回毎回同じ言葉の繰り返しだったので、聞きに行く意味が見いだせなかったのです。





ちなみに、私の母親も創価学会員でしたが、数十年も入信していたにもかかわらず、人の成功を喜べない人だったのです。

それでは、この宗教に入る意味がないじゃないか、と思われてならなかったのです。

それゆえに、いくモチベーションがわかなかったので縁遠い存在になっていたのです。

そこで、私の住む世田谷区の某街で、幸福の科学信者によって冊子が配られていたので、それを読んで、感想を書いて送付したら、会いに来てといわれて、それから数日後に支部にいきました。

それから何度か講義も受けて、冊子も読ませてもらいました。

そこで引き入れられたのは、この宗教総合性ですね。

この世の倫理はもちろん、あの世、といったことまでわかりやすい筆致でかかれているので、今のこの世での行動も律することができると感じたのです。

この世で自殺して解決しようとしても、あの世に行っても地獄に落ちることになる。






こういうことを知ってれば必然的に、今の行動を良き方向へ舵取りできることにはなるはずです。

もちろん、その言葉を信じるか信じないかは、その人次第ですが。

子供の教育も当然、冊子で語られていますが、単なる教育ではなく、その子供の精神的に伸ばす教育を施さないことには意味がないのです。

どういうモチベーションでしたらいいのかは、この当会から出ている本なりを読むのがいいでしょう。

こういうことに多くでくわすと、その多面性というか総合性には瞠目すべきものがあります。

普通の仏教であれば、お祈りは自分の先祖だけにするわけですが、この宗教では友人、知人、またはその土地の地縛霊といったものまでもお祓いしてくれる、ということです。

しかし総合的だなあ、と感心していましたが、ちょっと足りない部分を感じたのです。

そう、水子の霊を鎮めるということですね。

水子は、母親のおなかの中にいた胎児が、事故やその母親の病などで流産してしまった場合、それをしっかりとした方法で供養してあげなければ、その親族に災いをもたらす、ということです。






それはこの宗教ではないのかなと思っていたら、当会の経文本にはその供養の文がしっかり書いてありました。

まさに抜け穴のない総合性だなあと感心しました。

やはり、こういう宗教における総合性は必須でしょう。

現代における分業が進んだ時代においては特に。

生活上で困ったことが起きた。

その際に、宗教に頼ってくる人は大勢います。

その時にいろんなものを知っていて、適宜なアドバイスができるかどうか、がやはり重要になってくるのです。

片手落ちの議論では、解決には至らないでしょう。

いかにも、その宗教で言われていることは信憑性があるように思えても、それにすがっても一向に良き方向へ行かない…というのであれば、信頼を勝ち取ることはできないのです。

もちろん、困っている人も主体的に、その解決法を見出す努力もしなければならないのは言うまでもないですが、その宗教多面性を有しているのであれば尚更いいのは反論の余地のないことではないでしょうか?

どうすれば、そういう多面性総合性を身に着けることができるのでしょうか?

やはり、その宗教のによる濫読、多読にあるとしか言いようがないです。


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いろんな理論が、いろんな人にはあるのです。

当然、自分と反対の意見もあるのです。

その際にすべきなのは、討論でしょう。

しかし、「討」という字が使ってあるがゆえに、相手を負かすことを前提にするものと思われがちですがそうではないのです。

決してどちらかを裁断して打ち負かす、というのではなく、自分の意見はこうなんですということを話して、相手の意見を聞く。

相手が間違っていると思われたら、優しく諭す。

そして相手の意見を汲んでいって提案を促すのです。

そういう過程を通じて、自分の意見を矯正していくのが王道なのです。


例えば、数学などの勉強を長時間するなど頭を使うと、血の巡りがよくなって糖が足りなくなって、腹がへるのです。

ある人が私に、「私は頭を使っているから腹がへっている。君はどうか?」と言ってきたのです。

そんな頭をフル回転する仕事ではないので、腹はそんなにすいていなかったのですが、その人に引っかかるものを感じました。

それは、「その人は頭を使っているから腹がへるのではなく、メタボだから腹がへっているのではないか?」ということですね。

そうです。

メタボの人間も腹がへりやすいのです。


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体内の脂肪と胃袋がくっついて膨張するからです。

そこで相手を打ち負かすのではなく、そっと諭すのがいいのです。

打ち負かして優越感にひたったって意味がないですし、人間関係も悪くなりますから。

自分とは異なった意見をまず聞くのです。

2者が争っていたら、その2者の両方を聞くのです。

1者の意見しか聞かないのは論外なのです。

マザコンの息子は、自分の嫁が家に嫁いできて、自分の母親と言い争いが絶えなくなった。

その場合、母親の意見しか聞かないで、母親の味方しかしないのです。

これでは嫁さんが可哀そうです。

それが日々重なれば、当然、離婚を請求されるのは言うまでもないです。

そういうバランスの取れた理論こそが重要でしょう、宗教においてはとくに。

バランスの取れた理論の展開…それができるためには、つね日ごろから情報摂取を怠らないことが重要です。

それを、この開祖である故.大川隆法氏(下写真)は維持していったのです。






それまでに読んだの数10万冊だそうです。

それゆえに、文句のつけようのない文が書けるんだ、ということが分かった次第なのです。

そういうモノに興味ある人にはお勧めの宗教ではあります。

もっと書きたいですが、今回はこれくらいにしておきましょう。

その内情について知りたい人にうってつけのが以下になります。


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ありがとうございました!


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♯大川隆法
♯信憑性

大川隆法総裁の信憑性を確認したいならば、まずその映画を観よ!? (幸福の科学)

私はかねてから幸福の科学故.大川隆法総裁天才性信憑性について瞠目していたものです。

逆に、鎌倉時代の仏教の開祖たちの言葉を引用して、そっくりそのまま批判もせずに、現代でも従わせようとする宗教には辟易したものです。





その開祖たちはカリスマ性があるゆえに、その言葉は現代でも通用する場面があるのは当然ですが、全部は通用しないものです。

科学においても当然なのです。

例えば、マルクス社会主義を唱え、どの国もこれを採択すれば幸福になれるとしたのは言うまでもないことですが、今更、自分の国を社会主義国にしようなどと唱える人がいたら訝し気に思われるのは必然です。

90年の社会主義国の崩壊を歴史によって証明されたからですね。

この時点から、地球上に、資本主義国と同じくらいの数、存在していた社会主義国は、社会主義を捨てたのです。

そして今でも社会主義を採択し続けている国は地球上で4つだけです。

その国も市場経済を基本にしているのです。

いくらカリスマ的な学者の言ったことでも、現実に合わないのであれば、素通りしていかなくてはならないのです。

こういう、事実を抜きにして、宗教においても、中世の仏教の開祖たちの言葉を全部無批判に受け入れることはできないのは必然でしょう。

やはり現代社会との兼ね合いを無視していくことはできないのです。


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受け入れるところは受け入れて、そうでない部分は受け入れない、こういうスタンスが必要と思われるのですが、あまりにその開祖にぞっこんになってしまっているがゆえに、無批判になって、その開祖の言ったことをそっくりそのまま従わそうとする指導者がどの時代のどの社会でも出てくるのが必然のようです。

こういう人を原理主義者というのです。

鎌倉時代の仏教の開祖である日蓮の思想にぞっこんになってしまったがゆえに、日蓮の言ったことに無批判になって、現代社会との兼ね合いを無視していた人がいました。

それが、顕正会故.浅井昭衛氏(下写真)でした。






この人はさながら日蓮原理主義者としか言いようのない人でした。

あまりに日蓮の言ったことをそっくりそのまま従わせようとしたがゆえに戒壇の建立の可決が遅々として進まず、呆れをきたした日蓮正宗から、これが主原因として顕正会解散処分を受けてしまったのです。

顕正会は、日蓮正宗の信徒団体でしたが、解散処分を受けたのです。

やはり個人的にぞっこんになるのは自由ですが、団体としての行方を占うときには、現代社会との兼ね合いを考えなくてはいけないのは言うまでもないのです。

兼ね合いを考えるとは、現代社会において有効と思われたものに関しては、積極的に取り入れる、という精神も多分に含んでいる、ということです。

幸福の科学やその総裁だった大川隆法氏(下写真)には、その精神があったがゆえに、やはり注目せざるを得なかったのです。


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それのみならず、大川総裁の創り出す映画の映像に関しては、神懸かりのビジョン的な能力が備わっていたと思わざるを得なかったです。

もちろん、ストーリーの奥深さについても。


総裁総指揮をとって製作した映画については、壮大かつ荘厳なイメージを有し、尋常でない能力によって制作されていたのは言うまでもないです。

その神懸かりな面を見せつけられていては、その宗教にぞっこんになり、毎月惜しげもなく植福してしまう人が大勢いるのも頷けます。

その信者による植福や、総裁の購買、映画の券の購入によって宗教団体は存続していけるのは言うまでもないのです。

その映画の製作能力については、スティーブン・ウィルシャー(下写真)との共通性を感じたのです。






スティーブン・ウィルシャーは、イギリスの建築画家で、一度見ただけで風景を目に焼きつける映像記憶ができることで知られ、炎に包まれるセント・ポール大聖堂のような空想的な作品も手がけているが、世界中で人気を集めている画家の一人なのです。

これと同じ能力を映画で発揮していた大川隆法総裁には、必然的に神懸かり性を感じざるを得ないのです。

確かに、そういうモノ事は、多くの人とともに制作したり、脳内に浮かんできた映像や見て印象的で、これを映画に取り入れたいと思った場面を再現するには、スマホなどに撮っておいて制作の際に引き合いにだせばいいのですが、それを逐一していては、時間がかかるのは必然です。

大川総裁は、10日1冊の割合で本を出版していたに加えて、毎年2本映画も制作していたのです。

のみならず、これまで説法の回数も3500回をこなし、5大陸でも講演をしてきたのです。

これは尋常でない記憶力がなくては可能ではない芸当なのです。

こういうことを真摯に受け止めて、坦懐に大川総裁神懸かりな面については認める人が非信者の中から、もっと多く出てきてもいいのではないかと思われてならないのです。

幸福の科学の組織はわずか30年ちょっと168か国に広がり、本は41言語に翻訳されているのです。

これはかなりの偉業でしょう。

総裁がなくなった直後の映画『二十歳に還りたい』についても感動して見させてもらったのですが、映画館は全国165か所で放映されたのです。


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その映画を見た時思ったのは、こういう映画を、非信者がもっと見てくれたらなあということですね。

総裁のカリスマ性に触れる機会でもあったし、どの人にも共通して人生の糧とすべき教訓が含んでいたからですね。

決して、幸福の科学の素晴らしさをアピールするための方途で作られたものではなかったのは、私が保証したいです。
こういう総裁についての偉大性について論じた本としてお勧めしたいのが以下の本です。


●お勧めです!




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ありがとうございました!


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