大学での学問は、高校までの勉強法とは違う!ではどのように? (加藤秀俊)
こんにちは。
私は大学は文系を選び進学しましたが、そこでは高校までに学ばなかったことを学ぶところでもありましたが、高校までの智識の詰め込みをすべきではないことはわかりました。
高校までは、設問があって()に単語をチョイスして選ぶか、単語を記述して合っていたら〇がもらえて得点に繋がる、という回答方式
でした。
しかし、大学では理論を学び、その理論を自分の言葉で書いて、それを論文にするのが一般的です。
それは、考えてみれば、高校までの学習法よりも難しいかもしれません。
高校まではペイントマークをして、それで下敷きで隠して答えを思い出す式のアイテムがありましたが、そういうアイテムは大学では皆無なのですから。

ゆえに、その大学で学んだり理論を覚えておくためには、シーズンオフからの用意が必要でしょう。
要するに春からするのがいいということです。
これは何も、受験勉強のように取り組めということではないのです。
しかし、受験勉強のように必死にしたいかたは是非ともしてほしいですが(笑)
大学では、年末試験においては、その理論を暗記して書くだけでは高得点を得ることはできないのです。
教授によっては、合格点ギリギリが、合格点すらくれないパターンもあるでしょう。
それは何故か?
大学で学ぶ学問は、その扱う事柄に存在する問題点について、それを構造的に明らかにして、それを良き方向へもっていくにはどうすればいいかという政策論を求められるものだからです。
ですから、理論の丸写しだけでは高得点はもらえないし、場合によっては合格点すらくれない、ということになりかねないのです。
その自身の理論を構築するには、いろんな本を読んでいなくてはヒントをえれないですし、考えを導き出すこともかなわないでしょう。
ゆえに、自身が履修した科目の多くも真剣に学ばなくてはいけないですし、他の本をも読まなくてはいけないでしょう。
しかし、そういったことを私が尊敬していた社会学者だった加藤秀俊(下写真)は、何と言っていたか?

創造力と呼んでいたのです。
その創造力は、何も大学の勉強だけに必要なのではなく、普段の生活でも必要ですし、卒業後の人生でも必要なのです。
それを人生に生かし、社会をよくするために覚えるべきなのです。
それを続行していくことで人生は実りあるものになるのは間違いないのです!
では暗記するアイテムが高校までのようにない大学生活においてはどうすればいいか?
学んでいく上で考えたことをデータベース化していったり、行いに結びつけることです。
例えば、人間関係についての本があったとします。
そこに「人と話さないで接していると誤解を招きいぶかしげに思われて人間関係がぎくしゃくする。ゆえに人と良好な関係を築くためには声に出して毎日話すべき」ということが書いてあったとしましょう。
その理論を脳内に入れることは大事でしょう。
しかし、それだけで満足するのではなく、実際の生活で実行に移すのです。

それによって理論を脳内に残すことが出来るのです、忘れないのです。
創造力の養成とは、このように難しいことではないのです。
もちろん、学問でも一緒です。
普段の生活をよくするために学ぶことなのです。
ことは政治学であろうと、経済学であろうと、経営学だろうと、心理学だろうと、法学だろうと、その他の科学でも一緒なのです。
こういった科学の中に内在する問題点を探し、それを構造的に明らかにした上で、良き方向へもっていくためには何をするべきなのか?
それは為政者だけではなく、一般市民としてもあるのは間違いないのです。
その問題点のあぶり出しはどうすれば見つけれるか?
それは新書の類を読むのが一番いいでしょう。
それも、自身の属する学部の学問だけでなく、他のあらゆる学問についての本をたくさん読むことです。

法学部生だから法律に関する本だけを読んでいればいいのではないのです。
他のいろんな学問の本を読み、そこで展開されている理論をたくさん学んでいくことが重要なのです。
それは他の学部でも一緒です。
ゆえにシーズンオフからの取り組みが大事ということです。
参考にしてくださいませ。
そんな学問の内容に興味ある人にはうってつけの電子書籍が以下になります。
●おすすめです!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
私は大学は文系を選び進学しましたが、そこでは高校までに学ばなかったことを学ぶところでもありましたが、高校までの智識の詰め込みをすべきではないことはわかりました。
高校までは、設問があって()に単語をチョイスして選ぶか、単語を記述して合っていたら〇がもらえて得点に繋がる、という回答方式
でした。
しかし、大学では理論を学び、その理論を自分の言葉で書いて、それを論文にするのが一般的です。
それは、考えてみれば、高校までの学習法よりも難しいかもしれません。
高校まではペイントマークをして、それで下敷きで隠して答えを思い出す式のアイテムがありましたが、そういうアイテムは大学では皆無なのですから。
ゆえに、その大学で学んだり理論を覚えておくためには、シーズンオフからの用意が必要でしょう。
要するに春からするのがいいということです。
これは何も、受験勉強のように取り組めということではないのです。
しかし、受験勉強のように必死にしたいかたは是非ともしてほしいですが(笑)
大学では、年末試験においては、その理論を暗記して書くだけでは高得点を得ることはできないのです。
教授によっては、合格点ギリギリが、合格点すらくれないパターンもあるでしょう。
それは何故か?
大学で学ぶ学問は、その扱う事柄に存在する問題点について、それを構造的に明らかにして、それを良き方向へもっていくにはどうすればいいかという政策論を求められるものだからです。
ですから、理論の丸写しだけでは高得点はもらえないし、場合によっては合格点すらくれない、ということになりかねないのです。
その自身の理論を構築するには、いろんな本を読んでいなくてはヒントをえれないですし、考えを導き出すこともかなわないでしょう。
ゆえに、自身が履修した科目の多くも真剣に学ばなくてはいけないですし、他の本をも読まなくてはいけないでしょう。
しかし、そういったことを私が尊敬していた社会学者だった加藤秀俊(下写真)は、何と言っていたか?
創造力と呼んでいたのです。
その創造力は、何も大学の勉強だけに必要なのではなく、普段の生活でも必要ですし、卒業後の人生でも必要なのです。
それを人生に生かし、社会をよくするために覚えるべきなのです。
それを続行していくことで人生は実りあるものになるのは間違いないのです!
では暗記するアイテムが高校までのようにない大学生活においてはどうすればいいか?
学んでいく上で考えたことをデータベース化していったり、行いに結びつけることです。
例えば、人間関係についての本があったとします。
そこに「人と話さないで接していると誤解を招きいぶかしげに思われて人間関係がぎくしゃくする。ゆえに人と良好な関係を築くためには声に出して毎日話すべき」ということが書いてあったとしましょう。
その理論を脳内に入れることは大事でしょう。
しかし、それだけで満足するのではなく、実際の生活で実行に移すのです。

それによって理論を脳内に残すことが出来るのです、忘れないのです。
創造力の養成とは、このように難しいことではないのです。
もちろん、学問でも一緒です。
普段の生活をよくするために学ぶことなのです。
ことは政治学であろうと、経済学であろうと、経営学だろうと、心理学だろうと、法学だろうと、その他の科学でも一緒なのです。
こういった科学の中に内在する問題点を探し、それを構造的に明らかにした上で、良き方向へもっていくためには何をするべきなのか?
それは為政者だけではなく、一般市民としてもあるのは間違いないのです。
その問題点のあぶり出しはどうすれば見つけれるか?
それは新書の類を読むのが一番いいでしょう。
それも、自身の属する学部の学問だけでなく、他のあらゆる学問についての本をたくさん読むことです。
法学部生だから法律に関する本だけを読んでいればいいのではないのです。
他のいろんな学問の本を読み、そこで展開されている理論をたくさん学んでいくことが重要なのです。
それは他の学部でも一緒です。
ゆえにシーズンオフからの取り組みが大事ということです。
参考にしてくださいませ。
そんな学問の内容に興味ある人にはうってつけの電子書籍が以下になります。
●おすすめです!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

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ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
創造力は、大学の学問でも、卒業後の生活でも必須!? (加藤秀俊)
こんにちは。
私が大学時代に知って、大いに感銘を受けた学者だった加藤秀俊氏(下写真)の本を読んでいると、大学教育の重要さを認識し、それを表にださずにはいられない気持ちになります。

やはり加藤氏と私はその認識内容が一緒だったようです。
加藤氏は、やはり社会にでてからは、世の中にある問題点をよきものに変えていくことが大事という認識だったし、私も一緒です。
大学での勉強と、高校までの勉強は基本的に勉強のアプローチ方法が違うのです。
高校までの勉強は、単語を覚えて、答案では( )が示されて、その( )内に入れる単語を選択肢からチョイスするか、記述するのが一般的でした。
それが正解であれば得点が取れるということでした。
しかし、大学からは、理論を学んで、その理論を書きながら、プラスアルファをつけて論述をしていくのです。
ゆえに、高校までの勉強よりは暗記する作業からして大変でしょう。
単語だけ覚えていればいいわけではないですし、それまでのペイントマーカーや単語帳などの、暗記するためのツールなどもないのですから。
しかし、論文を書く時には、大学の講義で指定された教科書を片っ端から覚えていく必要はないのです。
骨子を覚えたら、それを自分の言葉で書いた上で、論述をすすめていけばいいのです。

その際に、重要なのは、その理論上の事象について問題点をピックアップして、それをよき方向へもっていくためにはどのようなことが必要か、ということを書いていくことが大事ということです。
大学での学問(科学や哲学)は、事象を構造的に明らかにして、問題点をよき方向へもっていくために、どうすればいいかを考えることを目的に存在しているのです。
それがなぜ問題か?
よき方向へもって行くためにはどのようにすればいいか?
その論拠を多面的に論じていかなくてはいけないのです。
その際に、必要なのは、いろんな意見を汲み取ることでしょう。
ただ理論だけを書いてある本を読んで、う〜んと唸っていても考えは浮かばないのです。
やはり問題点を指摘した新書本を読むこと一番いい気がします。

ゆえに、大学での年末の試験時に、短時日や一夜漬けで覚える作業だけではかなり難しいといわざるを得ないのです。
そこにおいて、その筆者の考えを学ぶことで自身の考えが浮かぶことが大いにあるでしょう。
その考えが全面的に正しいと思えば、その考えを自分の言葉で書けばいいでしょうし、ある面では賛同できてもある面では賛同できないのであれば、その賛同できない場面の理由を書くのです。
それでもいまいち納得がいかないならば、さらに本を読み、人の意見を聞いたり、テレビやラジオやネットといった媒体から情報を得て更に吟味を重ねていくことが大事なのです。
そのような作業の積み重ねで、自身の「哲学」が生まれるのです。
その作業の積み重ねが多い人ほど貫禄のある本が書けて、威厳が感じれる人物になっていくのです。
逆に、そういう作業のあまりない人には、そういったものが感じれないのです。
ゆえに、前者を目指す、あるいは本物の学者などを目指すのであれば、シーズンオフからの積み重ねや永続が大事になるのは言うまでもないです。
確かに、そういう作業の積み重ねは、人によって向き不向きがあるのは言うまでもないことです。

大学に入って私が感じたことは、大抵の人間はシーズンオフからそういう作業をしていないので、かなり苦労しているのがわかりました。
私が敬愛していた故.加藤秀俊という社会学者曰く「大学で真剣に学んでいる人は私の印象では2割くらい」ということを自身の本の中で何度か書いていました。
大学教員生活を30年以上もしていた加藤氏が言っていたのですから間違いないでしょう。
高校までの勉強の印象では、指定された教科書に書いてある理論を片っ端から暗記していくことが大事と思われそうですが、大学での勉強はそうではありません。
確かに、大学の学問はそういうものであるという認識の教授もいるわけで、そういう丸暗記の答案こそ高得点をあげている例もありますが、そういう教員は学問というものの存立理由がまるで理解できていないのです。
そうではなく、自身で印象に残った理論をとことんまで追求してそれを研究し探求していくことによって新しい業績が出来上がるのです。
片っ端から覚えていかなくては通用しないというようなことは社会生活ではありえないです。
しかし、会社に入って、業務の内容ではそういう事態は到来するでしょうし、実際自分の覚えたいことだけ覚えればいい、では通用しないのは言うまでもないです。
しかし、会社の業務内においても問題点は存在し、それを良きものに変えていく、という作業をするためには、やはり情報を得ながら考えに考えて、吟味に吟味を重ねることによって明らかになるのは言うまでもないのです。
その作業によって事態が改善されたなら、それは非常に生きがいを感じることは間違いないでしょう。
そういう、「問題点をよきものに変えていく作業」を加藤氏は創造力と呼んでいましたが、その力は学問においても、大学後の社会生活でも必須なのです。
大学は、そのための訓練の場でもあるということを覚えておいてくれたらいいなと私は正直思います。
そんなスタンスに共鳴できる人には、以下の電子書籍はお勧めできる代物であると思います。
●お勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
私が大学時代に知って、大いに感銘を受けた学者だった加藤秀俊氏(下写真)の本を読んでいると、大学教育の重要さを認識し、それを表にださずにはいられない気持ちになります。
やはり加藤氏と私はその認識内容が一緒だったようです。
加藤氏は、やはり社会にでてからは、世の中にある問題点をよきものに変えていくことが大事という認識だったし、私も一緒です。
大学での勉強と、高校までの勉強は基本的に勉強のアプローチ方法が違うのです。
高校までの勉強は、単語を覚えて、答案では( )が示されて、その( )内に入れる単語を選択肢からチョイスするか、記述するのが一般的でした。
それが正解であれば得点が取れるということでした。
しかし、大学からは、理論を学んで、その理論を書きながら、プラスアルファをつけて論述をしていくのです。
ゆえに、高校までの勉強よりは暗記する作業からして大変でしょう。
単語だけ覚えていればいいわけではないですし、それまでのペイントマーカーや単語帳などの、暗記するためのツールなどもないのですから。
しかし、論文を書く時には、大学の講義で指定された教科書を片っ端から覚えていく必要はないのです。
骨子を覚えたら、それを自分の言葉で書いた上で、論述をすすめていけばいいのです。
その際に、重要なのは、その理論上の事象について問題点をピックアップして、それをよき方向へもっていくためにはどのようなことが必要か、ということを書いていくことが大事ということです。
大学での学問(科学や哲学)は、事象を構造的に明らかにして、問題点をよき方向へもっていくために、どうすればいいかを考えることを目的に存在しているのです。
それがなぜ問題か?
よき方向へもって行くためにはどのようにすればいいか?
その論拠を多面的に論じていかなくてはいけないのです。
その際に、必要なのは、いろんな意見を汲み取ることでしょう。
ただ理論だけを書いてある本を読んで、う〜んと唸っていても考えは浮かばないのです。
やはり問題点を指摘した新書本を読むこと一番いい気がします。
ゆえに、大学での年末の試験時に、短時日や一夜漬けで覚える作業だけではかなり難しいといわざるを得ないのです。
そこにおいて、その筆者の考えを学ぶことで自身の考えが浮かぶことが大いにあるでしょう。
その考えが全面的に正しいと思えば、その考えを自分の言葉で書けばいいでしょうし、ある面では賛同できてもある面では賛同できないのであれば、その賛同できない場面の理由を書くのです。
それでもいまいち納得がいかないならば、さらに本を読み、人の意見を聞いたり、テレビやラジオやネットといった媒体から情報を得て更に吟味を重ねていくことが大事なのです。
そのような作業の積み重ねで、自身の「哲学」が生まれるのです。
その作業の積み重ねが多い人ほど貫禄のある本が書けて、威厳が感じれる人物になっていくのです。
逆に、そういう作業のあまりない人には、そういったものが感じれないのです。
ゆえに、前者を目指す、あるいは本物の学者などを目指すのであれば、シーズンオフからの積み重ねや永続が大事になるのは言うまでもないです。
確かに、そういう作業の積み重ねは、人によって向き不向きがあるのは言うまでもないことです。
大学に入って私が感じたことは、大抵の人間はシーズンオフからそういう作業をしていないので、かなり苦労しているのがわかりました。
私が敬愛していた故.加藤秀俊という社会学者曰く「大学で真剣に学んでいる人は私の印象では2割くらい」ということを自身の本の中で何度か書いていました。
大学教員生活を30年以上もしていた加藤氏が言っていたのですから間違いないでしょう。
高校までの勉強の印象では、指定された教科書に書いてある理論を片っ端から暗記していくことが大事と思われそうですが、大学での勉強はそうではありません。
確かに、大学の学問はそういうものであるという認識の教授もいるわけで、そういう丸暗記の答案こそ高得点をあげている例もありますが、そういう教員は学問というものの存立理由がまるで理解できていないのです。
そうではなく、自身で印象に残った理論をとことんまで追求してそれを研究し探求していくことによって新しい業績が出来上がるのです。
片っ端から覚えていかなくては通用しないというようなことは社会生活ではありえないです。
しかし、会社に入って、業務の内容ではそういう事態は到来するでしょうし、実際自分の覚えたいことだけ覚えればいい、では通用しないのは言うまでもないです。
しかし、会社の業務内においても問題点は存在し、それを良きものに変えていく、という作業をするためには、やはり情報を得ながら考えに考えて、吟味に吟味を重ねることによって明らかになるのは言うまでもないのです。
その作業によって事態が改善されたなら、それは非常に生きがいを感じることは間違いないでしょう。
そういう、「問題点をよきものに変えていく作業」を加藤氏は創造力と呼んでいましたが、その力は学問においても、大学後の社会生活でも必須なのです。
大学は、そのための訓練の場でもあるということを覚えておいてくれたらいいなと私は正直思います。
そんなスタンスに共鳴できる人には、以下の電子書籍はお勧めできる代物であると思います。
●お勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

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ありがとうございました。
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・加藤秀俊ホーム
自分のスタンスを決める際には、多面的に深く論じた著作家の本を読むべし? (加藤秀俊)
こんにちには。
自分の立場を確立するには、人の意見が大いに役立つことがあります。
こういう経験はないでしょうか?
某宗教に入っている人に、その宗教への入信を勧められたりするけれども、そういう場合、私は何とも回答に苦しむのです。
その人やその周りの人たちからは「この宗教こそ最高の宗教。入れば必ず人生は好転する」というようなことを情熱を込めて語られるので、こっちも窮してしまうのです。
しかし、読書をしていると、立場を同じくする人の意見を聞くとそれが自分のスタンスを決めるのに大いに役立ったりするものです。
こと宗教に関しても一緒です。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)とも私は宗教に対するスタンスが一緒でした。

「宗教の良さは認めるけれども、1つの宗教にだけぞっこんにはならない」
ということです。
これは、私と一緒でした。
私はかつて日蓮正宗の信徒団体だった創価学会に入会を勧められて入るも、講義や新聞では毎回毎回同じ言葉を繰り返すだけだったのでつまらなくなり、新聞の購読も解除し、集会にも行かなくなりました。
宗教というのは人間の精神にとって大事なものなのでしょう。
それがあることで日々の精神的な支柱になり、それが不可欠になってくるもののようです。
その精神的な充実の結果、多くの人の賞賛を集め、その結果、誇大な喧伝がなされて、この人こそが崇め奉る対象だ、などといった大仰な言葉で流布されたりする。
そして、その宗教を開宗した宗祖の大きな、そして巨大な像が建てられたりする。
その代表例は、大仏のモデルになった釈迦でしょう。

奈良の大仏は、ものすごく巨大ですが、あれは当時流行していた疫病を鎮めるために建てられたものです。
それは、医学の発達していなかった当時においては、ウィルスが人から人に伝播するというメカニズムゆえに疫病が流行るということが解明されていなかったがゆえに、ああいう巨大な像を立てて祈れば疫病が収めるための最高の手段として信じられていたがためゆえの結果だったのです。
ゆえに、疫病流行のメカニズムが解明された現代においては、ああいう巨大な像のモデルになりうる人物が現れるかどうか、非常にあやしいです。
よしんば、そういう人物が現れたとしても、私がその人物のすばらしさを喧伝したとしても、受け入れてくれる人がどれだけいるのだろうかと、これまたあやしくなるのです。
喧伝の際にも、喧伝する人のカリスマ性が必要なのは、人類の歴史を見ればわかるからです。
確かに、釈迦の遺した言葉から学び、日々の糧にしなくてはならないものがあるのはやぶさかではないです私は。
しかし、いくら釈迦の遺した言葉でも、全部を受けいられないというのが私の立場なのです。
もちろん日蓮(下写真)についても同様に!

鎌倉時代のお坊さんです日蓮は。
この人が生きていた時代に解明できなかったものが後世になって解明できた。
ゆえに、こういう場合はこうしろと日蓮が生前に言ったことについて後世になって間違いであるとわかったならば、それは矯正しなくてはならないでしょう。
ゆえに、いくら日蓮がカリスマ的な人物だったとしても、全部を受け入れるわけにはいかないのです。
しかし、日蓮正宗や、その信徒団体であった創価学会や顕正会の人たちは、せっせと日蓮の言ったことを学びに学び、それの是非を問うことは一切していないのです。
不思議でたまらないのです私は(笑)
しかし、部分的には学べるものがあると感じているので、そこだけは受けいれますが、全部はちょっと…(笑)
こういうスタンスを決めるには読書が大いに役立ちます。
それに際し、私は大いに加藤秀俊氏には助けられた、と思います。
ただ意見が同じうした、というだけではなく、加藤秀俊氏は多面的に広く、そして深く考察をしてから自身の意見を書いていたからこそ参考にできたのです。
短絡的な意見では知識人として失格です(笑)

しかし、宗教にぞっこんになる人はやはり畏敬の念をその宗教やその崇める対象に持っているがゆえに無批判になってしまうのです。
やはり神や仏は畏れる対象であり、敬する対象です。
ゆえに、その宗教内で言われることは無批判になってしまう気持ちはわかります。
この宗教で言われていることに関しては守らないと自分の身が危うくなってしまう、というような妄想に入ってしまうのでしょう。
しかし、私は惑わされません。
このように1つの宗教だけに拘らないで、その宗教で言われていることに関して賛同できるものに関しては賛同して、賛同できないものに関しては賛同しない…こういうスタンスを選んで生きていくと決めた以上、その責任は自分にありますから、そのことは心していくつもりです。
そのスタンスに決めた結果、被った結果については全部受けいれます。
誰の責任でもありません。
そんな人生を決めてしまうに際して、大いに助かった加藤秀俊氏の偉業について多面的に掘り下げて論じた電子書籍は以下です。
●大いに参考になります!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
自分の立場を確立するには、人の意見が大いに役立つことがあります。
こういう経験はないでしょうか?
某宗教に入っている人に、その宗教への入信を勧められたりするけれども、そういう場合、私は何とも回答に苦しむのです。
その人やその周りの人たちからは「この宗教こそ最高の宗教。入れば必ず人生は好転する」というようなことを情熱を込めて語られるので、こっちも窮してしまうのです。
しかし、読書をしていると、立場を同じくする人の意見を聞くとそれが自分のスタンスを決めるのに大いに役立ったりするものです。
こと宗教に関しても一緒です。
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏(下写真)とも私は宗教に対するスタンスが一緒でした。
「宗教の良さは認めるけれども、1つの宗教にだけぞっこんにはならない」
ということです。
これは、私と一緒でした。
私はかつて日蓮正宗の信徒団体だった創価学会に入会を勧められて入るも、講義や新聞では毎回毎回同じ言葉を繰り返すだけだったのでつまらなくなり、新聞の購読も解除し、集会にも行かなくなりました。
宗教というのは人間の精神にとって大事なものなのでしょう。
それがあることで日々の精神的な支柱になり、それが不可欠になってくるもののようです。
その精神的な充実の結果、多くの人の賞賛を集め、その結果、誇大な喧伝がなされて、この人こそが崇め奉る対象だ、などといった大仰な言葉で流布されたりする。
そして、その宗教を開宗した宗祖の大きな、そして巨大な像が建てられたりする。
その代表例は、大仏のモデルになった釈迦でしょう。
奈良の大仏は、ものすごく巨大ですが、あれは当時流行していた疫病を鎮めるために建てられたものです。
それは、医学の発達していなかった当時においては、ウィルスが人から人に伝播するというメカニズムゆえに疫病が流行るということが解明されていなかったがゆえに、ああいう巨大な像を立てて祈れば疫病が収めるための最高の手段として信じられていたがためゆえの結果だったのです。
ゆえに、疫病流行のメカニズムが解明された現代においては、ああいう巨大な像のモデルになりうる人物が現れるかどうか、非常にあやしいです。
よしんば、そういう人物が現れたとしても、私がその人物のすばらしさを喧伝したとしても、受け入れてくれる人がどれだけいるのだろうかと、これまたあやしくなるのです。
喧伝の際にも、喧伝する人のカリスマ性が必要なのは、人類の歴史を見ればわかるからです。
確かに、釈迦の遺した言葉から学び、日々の糧にしなくてはならないものがあるのはやぶさかではないです私は。
しかし、いくら釈迦の遺した言葉でも、全部を受けいられないというのが私の立場なのです。
もちろん日蓮(下写真)についても同様に!

鎌倉時代のお坊さんです日蓮は。
この人が生きていた時代に解明できなかったものが後世になって解明できた。
ゆえに、こういう場合はこうしろと日蓮が生前に言ったことについて後世になって間違いであるとわかったならば、それは矯正しなくてはならないでしょう。
ゆえに、いくら日蓮がカリスマ的な人物だったとしても、全部を受け入れるわけにはいかないのです。
しかし、日蓮正宗や、その信徒団体であった創価学会や顕正会の人たちは、せっせと日蓮の言ったことを学びに学び、それの是非を問うことは一切していないのです。
不思議でたまらないのです私は(笑)
しかし、部分的には学べるものがあると感じているので、そこだけは受けいれますが、全部はちょっと…(笑)
こういうスタンスを決めるには読書が大いに役立ちます。
それに際し、私は大いに加藤秀俊氏には助けられた、と思います。
ただ意見が同じうした、というだけではなく、加藤秀俊氏は多面的に広く、そして深く考察をしてから自身の意見を書いていたからこそ参考にできたのです。
短絡的な意見では知識人として失格です(笑)
しかし、宗教にぞっこんになる人はやはり畏敬の念をその宗教やその崇める対象に持っているがゆえに無批判になってしまうのです。
やはり神や仏は畏れる対象であり、敬する対象です。
ゆえに、その宗教内で言われることは無批判になってしまう気持ちはわかります。
この宗教で言われていることに関しては守らないと自分の身が危うくなってしまう、というような妄想に入ってしまうのでしょう。
しかし、私は惑わされません。
このように1つの宗教だけに拘らないで、その宗教で言われていることに関して賛同できるものに関しては賛同して、賛同できないものに関しては賛同しない…こういうスタンスを選んで生きていくと決めた以上、その責任は自分にありますから、そのことは心していくつもりです。
そのスタンスに決めた結果、被った結果については全部受けいれます。
誰の責任でもありません。
そんな人生を決めてしまうに際して、大いに助かった加藤秀俊氏の偉業について多面的に掘り下げて論じた電子書籍は以下です。
●大いに参考になります!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
その著作家の本を1冊読んで良くなかったら、その人の別の本も必ず良くない? (加藤秀俊)
本は、自分が大事なコンテンツが詰まっているのです。
ゆえに、その本を読み終えた後に、その箇所を再び覗いて読むことで、また人生に必要な糧が得られるのです。
そういう本をたくさん書いた宗教の開祖の場合、その読者はその宗教者の信者になるのでしょう。

しかし、学べるものがあまりに少ない本であるならば、手元に残しておきたいとは思わないでしょう。
そういうものは中古本屋に売りにいくか、オークションに出してしまいます。
音楽にたとえてみればわかりやすいでしょう。
CDに収録されている曲が10曲中、いい曲と思える、いわゆる佳曲が2曲とか3曲しかないならば、そのCDは人にあげたくなったり、中古盤屋に売りたくなったり、ネットオークションに出品したくなるでしょう。
同じアーティストのCDで、そういう例が3回も続けば、そのアーティストのモノは買いたくなくなるでしょう。
気難しい人ならば、佳曲がアルバム中2とか3とかしか入ってないと分かれば、そのアーティストのは次は買わないと決めるでしょう。
こういう音楽アーティストとは違って著者の本の場合、学べる部分があまりに少ないのがわかったら、その場でダメ出しして、もう2度と買わないと私は決めているのです。
そういう著者は、つまらない本を書いていると、やはり次の本を読んでもつまらない場合がほとんどすべてだからです。
引用ばかりの本を書いている著者は、やはり他の本でも引用ばかりの本を書いている場合がほとんどすべてなのです。
しかし、音楽アーティストの場合は勝手が違うようです。
作曲や作詞を自身でする音楽ジャンルを私は聴いていますが、そういう音楽ジャンルでは、2人以上で作詞作曲することがままある。

それまで1人でそれらをやっていた人が他のパートナーを見つけて作詞作曲をする。
あるいは、それまで一緒に作詞作曲してきた人を解雇して、他のミュージシャンと作詞作曲する。
あるいは、それまで依頼してきたプロデューサーとの制作はやめて、違うプロデューサーに依頼する。
すると、それまでとは想像もできなかったほどの素晴らしい曲ができて、世界的な大ヒットにつながったりするのです。
こういう作詞作曲とは違って、論文や小説を書く、論文や小説の本を書く場合、1人でするゆえに、こういうまるで違う作品ができたりすることはないのです。
しかし、霊に憑りつかれたりすれば、それまでとは違う作風になったりする例があるのです。
そういう例で有名なのは三島由紀夫(下写真)です。

彼は、小説を書く能力のある霊に憑りつかれて、それまでとは違う作風になったのです。
彼は、自分の意志とは別に、ペンが彼の手を借りて小説を書くようになったと霊能者に相談に行ったのだそうです。
しかし、こういう例は三島以外、極めて稀ゆえに、他の人には起こりにくい。
しかし、私が敬愛してきた加藤秀俊氏(下写真)の本は最初から最後まで学べる箇所や、知っておきたい、ずっと脳内に入れておきたい知識や知恵がたくさん詰まっているし、知識人としてもモラルが行間にたくさん詰まっているがゆえに、彼のいろんな本を本棚に私はしまってあるのです。

その数30以上です。
こういう場合、その人の書いた本が良ければ、他の本も必ずと言っていいほどいい本なのが通常のようです。
こういうファンになってしまった場合、「集めよう!」などと意気込まずとも、いつしか何十冊も集まっている…そんな感じなのです。
そういう著作家が、人生の中で1人でもいればそれはそれは幸福な人生を歩めること間違いなしです。
そんな行動に私を移させてしまった加藤秀俊氏は、どんな知識人だったか?
興味ある人は、以下からお求めくださいませ!
●非常にお勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
ゆえに、その本を読み終えた後に、その箇所を再び覗いて読むことで、また人生に必要な糧が得られるのです。
そういう本をたくさん書いた宗教の開祖の場合、その読者はその宗教者の信者になるのでしょう。
しかし、学べるものがあまりに少ない本であるならば、手元に残しておきたいとは思わないでしょう。
そういうものは中古本屋に売りにいくか、オークションに出してしまいます。
音楽にたとえてみればわかりやすいでしょう。
CDに収録されている曲が10曲中、いい曲と思える、いわゆる佳曲が2曲とか3曲しかないならば、そのCDは人にあげたくなったり、中古盤屋に売りたくなったり、ネットオークションに出品したくなるでしょう。
同じアーティストのCDで、そういう例が3回も続けば、そのアーティストのモノは買いたくなくなるでしょう。
気難しい人ならば、佳曲がアルバム中2とか3とかしか入ってないと分かれば、そのアーティストのは次は買わないと決めるでしょう。
こういう音楽アーティストとは違って著者の本の場合、学べる部分があまりに少ないのがわかったら、その場でダメ出しして、もう2度と買わないと私は決めているのです。
そういう著者は、つまらない本を書いていると、やはり次の本を読んでもつまらない場合がほとんどすべてだからです。
引用ばかりの本を書いている著者は、やはり他の本でも引用ばかりの本を書いている場合がほとんどすべてなのです。
しかし、音楽アーティストの場合は勝手が違うようです。
作曲や作詞を自身でする音楽ジャンルを私は聴いていますが、そういう音楽ジャンルでは、2人以上で作詞作曲することがままある。

それまで1人でそれらをやっていた人が他のパートナーを見つけて作詞作曲をする。
あるいは、それまで一緒に作詞作曲してきた人を解雇して、他のミュージシャンと作詞作曲する。
あるいは、それまで依頼してきたプロデューサーとの制作はやめて、違うプロデューサーに依頼する。
すると、それまでとは想像もできなかったほどの素晴らしい曲ができて、世界的な大ヒットにつながったりするのです。
こういう作詞作曲とは違って、論文や小説を書く、論文や小説の本を書く場合、1人でするゆえに、こういうまるで違う作品ができたりすることはないのです。
しかし、霊に憑りつかれたりすれば、それまでとは違う作風になったりする例があるのです。
そういう例で有名なのは三島由紀夫(下写真)です。

彼は、小説を書く能力のある霊に憑りつかれて、それまでとは違う作風になったのです。
彼は、自分の意志とは別に、ペンが彼の手を借りて小説を書くようになったと霊能者に相談に行ったのだそうです。
しかし、こういう例は三島以外、極めて稀ゆえに、他の人には起こりにくい。
しかし、私が敬愛してきた加藤秀俊氏(下写真)の本は最初から最後まで学べる箇所や、知っておきたい、ずっと脳内に入れておきたい知識や知恵がたくさん詰まっているし、知識人としてもモラルが行間にたくさん詰まっているがゆえに、彼のいろんな本を本棚に私はしまってあるのです。
その数30以上です。
こういう場合、その人の書いた本が良ければ、他の本も必ずと言っていいほどいい本なのが通常のようです。
こういうファンになってしまった場合、「集めよう!」などと意気込まずとも、いつしか何十冊も集まっている…そんな感じなのです。
そういう著作家が、人生の中で1人でもいればそれはそれは幸福な人生を歩めること間違いなしです。
そんな行動に私を移させてしまった加藤秀俊氏は、どんな知識人だったか?
興味ある人は、以下からお求めくださいませ!
●非常にお勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。
・加藤秀俊ホーム
大学の講義に料金に見合っているかどうか吟味すべし? (加藤秀俊)
こんにちは。
今、私の大学時代を振り返ると、1コマの講義の代金を計算すると、1コマ2500円前後でした。
それを今、回顧すると、そのお金は価値に見合ってない、ということがわかりました。
しかし、当時とは違っていまは格差社会です。
にもかかわらず、大学の学費の料金は上がっているのです。
それで計算すると1コマ3000円以上するのです。
もっと見合ってないのは明白です。

例えば、大学での講義に出席して、ノートを取り、その内容と、本を中古本屋にいって1冊100円のを買って読んで、その内容を吟味して比較してみることが重要です。
そんなに違いはないはずです…そんなことないです(笑)
1冊100円で売っている中古本の方が有意義と思えるパターンの方が多いはずです。
格差社会において、そんな意味のない講義にお金を使わずに、自身で勉強したほうがいいのではないか?
そのことに早く多くの人が気付くべきではないか、と思われてならないですね私は。
確かに、どんな本でも学ぶものが必ず何か所かあるものです。
それと同じように、大学の講義でも参加していれば、なにがしか学ぶ箇所があるのです。
それに騙されて、大学を辞めずに4年間を費やす人が多いのではないでしょうか?

どうして4年間を辞めずに費やすのか?
それは入学した人の大半の人が大学卒業という肩書が欲しいからでしょう?
日本は世界でも珍しい国で、高校卒業生の大半が大学に行く国民がいるのです。
それは学業に対する畏敬の念が大半の国民が無意識のうちに内面化されているからです。
それゆえに、大学に大半の人があこがれの念を抱いているのです。
それで大学進学をする。
それはかつての70年代から90年代のように、一億総中流国家といわれていた時代ならば、「ちょっと財布に痛いけれども子供には大学へ行けせてやろう」という気概をもって、子供を大学に行かせることも不問に付していてもよかったでしょうか。
しかし、今や格差社会になってしまった現今においては、そういう選択は危ないです。
今は、大学生の55%が奨学金を借りる時代になってしまったのです。
それで、曲りなりにも卒業できたとしても、奨学金の返済生活が10年近く続くのです。
それがいい生活を送れることに足かせになるのは目に見えています。
1コマ3000円以上する…講義にそんな価値はないのは明白です。
なぜそんなことが言えるか?
その内容は本を読めば明白なのです。
講義内容は1冊100円で売っている中古本に負けるのです。
もちろん講義が全部が全部そうであるとは言えませんし、教授によって千差万別でしょうけれども。
私が大学の講義で頭にきたのは、4月から1月の最後までほとんど同じようなことを言っているだけの講義、あるいは何十年も同じ講義用のノートを読んでいるだけの講義、教科書に書いてあることを説明しているだけの講義です。
そんな内容に、3000円の価値などないです。

よしんば研究に研究を重ねている教授の講義を受けたとしても、卒業後の進路に差が出るかとは思えないし、脳内や精神にそんな大きな差が生まれるとは思えないです。
そういう講義を受けるのではなくて、自身で本を買って読んで学べばいいのは言うまでもないです。
大学受験で培った現代文の能力があればそれは叶う話しでしょう。
司法試験にしろ、会計士試験にしろ、各種公務員試験にしろ、大学卒業の肩書もなくても受験して合格できる時代になったのです。
ゆえに、大学に無理やり通い続ける時代ではないでしょう。
それでも行くというのならば、通信制に行くのがいいでしょう。
宗教と同じように、大学では昔の習わしをそのまま無批判に流し続けて、それを軌道修正しない傾向が見て取れる気がします。
昔は、大学にしか本などなかったのです。
本は非常に高価なものでした。
ゆえに、その内容を写経するために行っていた国民からは憧れの貴重な存在だったのです。
しかし、今や本などは子供のお小遣い程度の少額で買える時代になったのです。
ゆえに、そこから学んだほうが料金的にも全然いいでしょう。
そのことに気がつくべきです。
大学など行かなくても、自身で本を買って読みまくり、勉強しまくり、かなりの教養を持っている友人が何人もいるということを私の敬愛していた加藤秀俊氏(下写真)は、その著『独学のすすめ』という本で書いています。

私などよりも教養の深い人の言葉を読むことで、精神に迫ってくるものを感じるはずです。
その加藤氏の偉業について書いた電子書籍を以下紹介したいです!
●お勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
・加藤秀俊ホーム
今、私の大学時代を振り返ると、1コマの講義の代金を計算すると、1コマ2500円前後でした。
それを今、回顧すると、そのお金は価値に見合ってない、ということがわかりました。
しかし、当時とは違っていまは格差社会です。
にもかかわらず、大学の学費の料金は上がっているのです。
それで計算すると1コマ3000円以上するのです。
もっと見合ってないのは明白です。
例えば、大学での講義に出席して、ノートを取り、その内容と、本を中古本屋にいって1冊100円のを買って読んで、その内容を吟味して比較してみることが重要です。
そんなに違いはないはずです…そんなことないです(笑)
1冊100円で売っている中古本の方が有意義と思えるパターンの方が多いはずです。
格差社会において、そんな意味のない講義にお金を使わずに、自身で勉強したほうがいいのではないか?
そのことに早く多くの人が気付くべきではないか、と思われてならないですね私は。
確かに、どんな本でも学ぶものが必ず何か所かあるものです。
それと同じように、大学の講義でも参加していれば、なにがしか学ぶ箇所があるのです。
それに騙されて、大学を辞めずに4年間を費やす人が多いのではないでしょうか?
どうして4年間を辞めずに費やすのか?
それは入学した人の大半の人が大学卒業という肩書が欲しいからでしょう?
日本は世界でも珍しい国で、高校卒業生の大半が大学に行く国民がいるのです。
それは学業に対する畏敬の念が大半の国民が無意識のうちに内面化されているからです。
それゆえに、大学に大半の人があこがれの念を抱いているのです。
それで大学進学をする。
それはかつての70年代から90年代のように、一億総中流国家といわれていた時代ならば、「ちょっと財布に痛いけれども子供には大学へ行けせてやろう」という気概をもって、子供を大学に行かせることも不問に付していてもよかったでしょうか。
しかし、今や格差社会になってしまった現今においては、そういう選択は危ないです。
今は、大学生の55%が奨学金を借りる時代になってしまったのです。
それで、曲りなりにも卒業できたとしても、奨学金の返済生活が10年近く続くのです。
それがいい生活を送れることに足かせになるのは目に見えています。
1コマ3000円以上する…講義にそんな価値はないのは明白です。
なぜそんなことが言えるか?
その内容は本を読めば明白なのです。
講義内容は1冊100円で売っている中古本に負けるのです。
もちろん講義が全部が全部そうであるとは言えませんし、教授によって千差万別でしょうけれども。
私が大学の講義で頭にきたのは、4月から1月の最後までほとんど同じようなことを言っているだけの講義、あるいは何十年も同じ講義用のノートを読んでいるだけの講義、教科書に書いてあることを説明しているだけの講義です。
そんな内容に、3000円の価値などないです。
よしんば研究に研究を重ねている教授の講義を受けたとしても、卒業後の進路に差が出るかとは思えないし、脳内や精神にそんな大きな差が生まれるとは思えないです。
そういう講義を受けるのではなくて、自身で本を買って読んで学べばいいのは言うまでもないです。
大学受験で培った現代文の能力があればそれは叶う話しでしょう。
司法試験にしろ、会計士試験にしろ、各種公務員試験にしろ、大学卒業の肩書もなくても受験して合格できる時代になったのです。
ゆえに、大学に無理やり通い続ける時代ではないでしょう。
それでも行くというのならば、通信制に行くのがいいでしょう。
宗教と同じように、大学では昔の習わしをそのまま無批判に流し続けて、それを軌道修正しない傾向が見て取れる気がします。
昔は、大学にしか本などなかったのです。
本は非常に高価なものでした。
ゆえに、その内容を写経するために行っていた国民からは憧れの貴重な存在だったのです。
しかし、今や本などは子供のお小遣い程度の少額で買える時代になったのです。
ゆえに、そこから学んだほうが料金的にも全然いいでしょう。
そのことに気がつくべきです。
大学など行かなくても、自身で本を買って読みまくり、勉強しまくり、かなりの教養を持っている友人が何人もいるということを私の敬愛していた加藤秀俊氏(下写真)は、その著『独学のすすめ』という本で書いています。
私などよりも教養の深い人の言葉を読むことで、精神に迫ってくるものを感じるはずです。
その加藤氏の偉業について書いた電子書籍を以下紹介したいです!
●お勧めです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
・加藤秀俊ホーム
格差社会において、大学進学の是非を講義内容から考察する(加藤秀俊)
こんにちは。
前回は、大学で学ぶ学問は、わざわざ大学で学ばなくても、本で学べるということを書きました。
試しに、新本ではなくてもいいです、古本屋で売っている学問の本を買って読んでみることをお勧めします。

そこで学んだ内容と、大学の講義で書いたノートを照らし合わせてみればいいと思います。
大差はないでしょう…いや、本で学べる内容の方が充実していることもしばしばあります。
そうでしょう、大学の教授はそんなに研究らしい研究をせずとも大金が入ってくるから、研究らしい研究をしないのです。
大学受験の予備校で、いい加減な授業をしていたら、誰もが文句を言って、そのことについて噂が広まり、その先生の授業は誰も履修してくれなくなること必至です。
しかし、大学ではいい加減な講義をしていてもほとんどの学生が抗議しないのです。
それはなぜか?
大学で学びたいからという人よりも、大学卒業という肩書が欲しいだけだからです。
開始時間からかなり遅く来て、予定時間よりも早く終わったりする教授は多いでしょう?
しかも、その講義の内容は、あらかじめ書いてきたノートを読んでいるだけとか、教科書に書いてあることを解説しているだけの講義というのがほとんどでしょう。

私が大学生時代に、民法の講義が終わった時に、その教授の元に行って質問しようとしましたが、そこにあったあまりにボロボロでまっ茶っ茶なノートにびっくりしてしまいました。
30年間、ずっと同じノートを読んでいるだけで、ほとんど研究らしい研究などしてこなかったのが、それで明らかになりました。
その教授は、その大学の教員を退官するまで、本を1冊しか出していなかったのです。
それも編著本で、その本の1章だけを書いただけなのです。
こんな教授でも、当時2000万円は年収でもらっていたでしょう。
なぜか?
そんないい加減な講義でも、抗議せず、退学せずに卒業までの4年間に高い学費を払い続けて通い続ける学生が大勢いるからです。
こんないい加減な教授ばかりだから、大学を辞めてやるといってやめる人は少数ながらいますが、それは全体的にはかなり少数であることは間違いないのです。

そういう人が大勢いれば、さすがにいい加減な教授はいなくなるのが必然です。
しかし、実際は日本では学問に対する畏敬の念が強く、自分が学んでいこうという気概がなくても、畏敬の念を持ち続けるパターンが全体の7割以上を占めているからこそ、こういう事態を招いてしまうのです。
私が大学に通っていた時は、1時間半の大学の講義は1コマにつき2500円くらいでした。
そんな高い学費でも、当時は1億総中流国家といわれた時代で、35年間働き続ければ誰もが必ず年収1000万円といわれていた時代だったのです。
それだけ潤沢であれば、高い学費を払い、毎月仕送り金を出してでも、大学くらいは自分の子に行かせてあげよう、という気になって、曲りなりにも行けたのだろうと思います。
しかし、今や格差社会に日本はなってしまったのです。
それでいて、今は1コマ3000円以上はするのです。
日本人の平均給与額が、当時よりも下がっているのに、大学の学費は上がっている。

こんな不条理な話しはないです。
そして、今や奨学金を借りる人は学生全体の55%にまで及ぶようです。
曲りなりにも、それで大学を卒業しても、それから後はその大きな金額の奨学金を返す生活が始まってしまう。
そこで考えてほしいのですが、1コマ3000円の価値などないことは明白でしょう。
今更ながら、そのことに気づいてしまいました。
先ほど指摘した、本で読んだ内容との参照をしてみることです。
本当に学びたいなら、そんな内容と価値が見合ってないことに莫大なお金を出すことはないでしょう。
大学の学費は、日本人の幻想によって価格競争から免れているのです。
普通不味い料理を出したらお客さんはその店に行かないのですが、大学ではいい加減な講義をしていても学生は辞めないのです。
良い内容であろうが悪い内容であろうが無批判のまま据え置かれるということです。

「大学の教授たるもの本を出して自分の研究内容を世間に問わなくてはならない」と書いたのは、私の尊敬する学者である桜井邦朋氏ですが、私はその通りと思いました。
しかし、大半の教授は本など出さないです。
なぜか?
本など出さなくても、莫大な年収が入ってくるからです。
研究などしなくても、毎年同じ講義ノートを読んでいるだけで大金が入ってくるからです(笑)。
こんな不条理な話しはないのです。
大学においてしか秘伝的な情報が学べるということはないのです。
しかし、大学での講義される内容は本を買って主体的に学ぶことで習得できるのです。
大学受験で培った現代文の能力で充分なのです。
私が敬愛してきた加藤秀俊氏(下写真)は、その友人で、大学は出ていないけれども、本を読んで学びに学んで教授と同等かそれ以上の知見を持った例を幾人もあるということを氏の『独学のすすめ』の中で書いています。

司法試験にしろ、会計士試験にしろ、高校卒でも受験できるのです。
その他、公務員試験も。
ゆえに不条理な教授をのさばらせることなく、見合ったものにお金を投資することで健やかな人生をあゆむことができるのではないでしょうか?
大学への無批判な信仰を辞めるべき時がきているような気がします。
●そんな思想内容に興味のある人は、以下の電子書籍をお勧めします。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
前回は、大学で学ぶ学問は、わざわざ大学で学ばなくても、本で学べるということを書きました。
試しに、新本ではなくてもいいです、古本屋で売っている学問の本を買って読んでみることをお勧めします。
そこで学んだ内容と、大学の講義で書いたノートを照らし合わせてみればいいと思います。
大差はないでしょう…いや、本で学べる内容の方が充実していることもしばしばあります。
そうでしょう、大学の教授はそんなに研究らしい研究をせずとも大金が入ってくるから、研究らしい研究をしないのです。
大学受験の予備校で、いい加減な授業をしていたら、誰もが文句を言って、そのことについて噂が広まり、その先生の授業は誰も履修してくれなくなること必至です。
しかし、大学ではいい加減な講義をしていてもほとんどの学生が抗議しないのです。
それはなぜか?
大学で学びたいからという人よりも、大学卒業という肩書が欲しいだけだからです。
開始時間からかなり遅く来て、予定時間よりも早く終わったりする教授は多いでしょう?
しかも、その講義の内容は、あらかじめ書いてきたノートを読んでいるだけとか、教科書に書いてあることを解説しているだけの講義というのがほとんどでしょう。
私が大学生時代に、民法の講義が終わった時に、その教授の元に行って質問しようとしましたが、そこにあったあまりにボロボロでまっ茶っ茶なノートにびっくりしてしまいました。
30年間、ずっと同じノートを読んでいるだけで、ほとんど研究らしい研究などしてこなかったのが、それで明らかになりました。
その教授は、その大学の教員を退官するまで、本を1冊しか出していなかったのです。
それも編著本で、その本の1章だけを書いただけなのです。
こんな教授でも、当時2000万円は年収でもらっていたでしょう。
なぜか?
そんないい加減な講義でも、抗議せず、退学せずに卒業までの4年間に高い学費を払い続けて通い続ける学生が大勢いるからです。
こんないい加減な教授ばかりだから、大学を辞めてやるといってやめる人は少数ながらいますが、それは全体的にはかなり少数であることは間違いないのです。
そういう人が大勢いれば、さすがにいい加減な教授はいなくなるのが必然です。
しかし、実際は日本では学問に対する畏敬の念が強く、自分が学んでいこうという気概がなくても、畏敬の念を持ち続けるパターンが全体の7割以上を占めているからこそ、こういう事態を招いてしまうのです。
私が大学に通っていた時は、1時間半の大学の講義は1コマにつき2500円くらいでした。
そんな高い学費でも、当時は1億総中流国家といわれた時代で、35年間働き続ければ誰もが必ず年収1000万円といわれていた時代だったのです。
それだけ潤沢であれば、高い学費を払い、毎月仕送り金を出してでも、大学くらいは自分の子に行かせてあげよう、という気になって、曲りなりにも行けたのだろうと思います。
しかし、今や格差社会に日本はなってしまったのです。
それでいて、今は1コマ3000円以上はするのです。
日本人の平均給与額が、当時よりも下がっているのに、大学の学費は上がっている。
こんな不条理な話しはないです。
そして、今や奨学金を借りる人は学生全体の55%にまで及ぶようです。
曲りなりにも、それで大学を卒業しても、それから後はその大きな金額の奨学金を返す生活が始まってしまう。
そこで考えてほしいのですが、1コマ3000円の価値などないことは明白でしょう。
今更ながら、そのことに気づいてしまいました。
先ほど指摘した、本で読んだ内容との参照をしてみることです。
本当に学びたいなら、そんな内容と価値が見合ってないことに莫大なお金を出すことはないでしょう。
大学の学費は、日本人の幻想によって価格競争から免れているのです。
普通不味い料理を出したらお客さんはその店に行かないのですが、大学ではいい加減な講義をしていても学生は辞めないのです。
良い内容であろうが悪い内容であろうが無批判のまま据え置かれるということです。
「大学の教授たるもの本を出して自分の研究内容を世間に問わなくてはならない」と書いたのは、私の尊敬する学者である桜井邦朋氏ですが、私はその通りと思いました。
しかし、大半の教授は本など出さないです。
なぜか?
本など出さなくても、莫大な年収が入ってくるからです。
研究などしなくても、毎年同じ講義ノートを読んでいるだけで大金が入ってくるからです(笑)。
こんな不条理な話しはないのです。
大学においてしか秘伝的な情報が学べるということはないのです。
しかし、大学での講義される内容は本を買って主体的に学ぶことで習得できるのです。
大学受験で培った現代文の能力で充分なのです。
私が敬愛してきた加藤秀俊氏(下写真)は、その友人で、大学は出ていないけれども、本を読んで学びに学んで教授と同等かそれ以上の知見を持った例を幾人もあるということを氏の『独学のすすめ』の中で書いています。
司法試験にしろ、会計士試験にしろ、高校卒でも受験できるのです。
その他、公務員試験も。
ゆえに不条理な教授をのさばらせることなく、見合ったものにお金を投資することで健やかな人生をあゆむことができるのではないでしょうか?
大学への無批判な信仰を辞めるべき時がきているような気がします。
●そんな思想内容に興味のある人は、以下の電子書籍をお勧めします。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
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失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
学問は何のために存在するか?そして、それは大学に通わずとも学べる?! (加藤秀俊)
こんにちは。
前回のページにおいて、学問は社会にある問題点を浮かび上がらせて、その内容を構造的に明らかにして、その問題点をよき方向へ舵取りしていく性質のものであると書きました。
そのためには、それについて書いた本を多くの人が読んで、それについて自覚して、日々社会生活において行動していくべきである、ということを書きました。
ゆえに、学問を学び行動する人が多ければ多いほどいいのは言うまでもないのです。
ゆえに、その学問を学ぶ場である大学においてこそ、人生上で一番心や時間にバイアスをかけて学んでほしいのですが、実際は逆なのです(笑)。
多くの人は遊び惚けていて、年末の試験にだけ時間と労力をかけて、試験後には、そこで学んだ内容については脳から雲散霧消してしまうのです。
私の通った大学は中より上のレベルでしたが、事情は一緒でした。

それについて、私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、複数の本の中で「大学生で真剣に学んでいる人は、全体の2割くらい…」ということを書いていたのです。
それをどう捉えるべきでしょうか?
私はいろいろ思索してきました。
いろんな本を読んで。
それはウィリアム.ジェイムズというアメリカの哲学者の言葉です。
それについては、このページで紹介している電子書籍を参照してほしいです。
しかし、学問は、人々をよき方向へ行動に結び付けるのを目的にしているということですが、そうでない部分もあるのです。
行動に結びつかないことであっても、読んだ人の思想を変えて、その人の人生を心温かいものに変えたり、その人の心を明るい未来に変えさせる要素を含んでいるものであることが必要です。

そういう性質をもったものでなければ、読書など必要ないでしょう。
たとえば、自分を卑下して、「自分は人から愛される資格などない」という人生観でいる人は社会内で一定数いるものです。
その人はどうしてそういう世界観を抱いてしまうのでしょうか?
それは、親から我儘な期待を受けて育ったがゆえにそうなってしまうのです。
「学校の成績は5段階評価で3以下は1つも取ったらだめだ!」とか、リトルリーグを子供がしていたら、「次の試合、必ずレギュラーを取ってこい!」とかいうような我儘な要求です。
それで子供が学校で3や2や1を取ったらこっぴどく叱るとか、子供がレギュラーを取れなかったらこっぴどく叱るなどというような我儘な要求です。
親がこういうことを何年もかけて行ってきたら、子供は自己卑下の精神をもってしまうのです。
それが社会生活や人生にいい結果をもたらすわけがないのです。
子供がそんな卑下した状態では、小さな声で話すようになり周りの人間に気味悪がられてしまうでしょうし、仕事や勉強においての生産性をあげることなどできた話しではなくなります。
何よりも卑下した状態では、生活が重く暗いものになることはないのです。

その他、いろんな弊害が出てくるのです。
それでは、このように自分を卑下した人は、どうすればいいのでしょうか?
概略で話しますが、まず「自分は人に愛される資格のある人間なんだ」というように自分の心を鼓舞するのです。
そして、少しでも自分が物事で向上したら、その際に、自分を褒めるのです。
そういう精神的な営みを長くしていくことで、いつしか自分に誇りが持てるようになるのです。
そういう精神的な営みなくして、日々の漫然たる生活だけで精神的に立ち直れることはないから注意が必要です。
やはり科学的な本が必須になります。
こういう状態から脱するのに、宗教的な行為、とくにその宗教で唱えられる経文を毎日あげていれば脱することができるなどと本気で思っている信者がいるから困ったものです(笑)
そういった手段には頼らずに、私はこういった科学的な方法こそが王道であると思っているのです。

確かに、宗教的な行為の効用は認めるのにやぶさかではないですが、すべて解決できるなどというものではないことは認識してほしいモノです。
このように、学問は、社会生活において行動に結びつけるものではなくとも、よき方向へ舵取りすることができる性質のものであることは間違いないでしょう。
谷沢永一という人が『悩みの9割は読書が解決してくれる』という本を書きましたが、まさにその通りなのです。
加藤秀俊氏も、まさにそのモラルでいるのです。
ゆえに、大学に通わなくても、本は巷に溢れているのですからそれらに頼ればいいのですし、ジャンルにこだわらずに、いろんな本を濫読していって、それを実際に生活上で行動し、精神的な覚醒を得たら、よき人生になることは間違いないのです。
●そんなスタンスに興味のある人に読んでほしい電子書籍は以下です。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
前回のページにおいて、学問は社会にある問題点を浮かび上がらせて、その内容を構造的に明らかにして、その問題点をよき方向へ舵取りしていく性質のものであると書きました。
そのためには、それについて書いた本を多くの人が読んで、それについて自覚して、日々社会生活において行動していくべきである、ということを書きました。
ゆえに、学問を学び行動する人が多ければ多いほどいいのは言うまでもないのです。
ゆえに、その学問を学ぶ場である大学においてこそ、人生上で一番心や時間にバイアスをかけて学んでほしいのですが、実際は逆なのです(笑)。
多くの人は遊び惚けていて、年末の試験にだけ時間と労力をかけて、試験後には、そこで学んだ内容については脳から雲散霧消してしまうのです。
私の通った大学は中より上のレベルでしたが、事情は一緒でした。
それについて、私が敬愛していた故.加藤秀俊氏は、複数の本の中で「大学生で真剣に学んでいる人は、全体の2割くらい…」ということを書いていたのです。
それをどう捉えるべきでしょうか?
私はいろいろ思索してきました。
いろんな本を読んで。
それはウィリアム.ジェイムズというアメリカの哲学者の言葉です。
それについては、このページで紹介している電子書籍を参照してほしいです。
しかし、学問は、人々をよき方向へ行動に結び付けるのを目的にしているということですが、そうでない部分もあるのです。
行動に結びつかないことであっても、読んだ人の思想を変えて、その人の人生を心温かいものに変えたり、その人の心を明るい未来に変えさせる要素を含んでいるものであることが必要です。
そういう性質をもったものでなければ、読書など必要ないでしょう。
たとえば、自分を卑下して、「自分は人から愛される資格などない」という人生観でいる人は社会内で一定数いるものです。
その人はどうしてそういう世界観を抱いてしまうのでしょうか?
それは、親から我儘な期待を受けて育ったがゆえにそうなってしまうのです。
「学校の成績は5段階評価で3以下は1つも取ったらだめだ!」とか、リトルリーグを子供がしていたら、「次の試合、必ずレギュラーを取ってこい!」とかいうような我儘な要求です。
それで子供が学校で3や2や1を取ったらこっぴどく叱るとか、子供がレギュラーを取れなかったらこっぴどく叱るなどというような我儘な要求です。
親がこういうことを何年もかけて行ってきたら、子供は自己卑下の精神をもってしまうのです。
それが社会生活や人生にいい結果をもたらすわけがないのです。
子供がそんな卑下した状態では、小さな声で話すようになり周りの人間に気味悪がられてしまうでしょうし、仕事や勉強においての生産性をあげることなどできた話しではなくなります。
何よりも卑下した状態では、生活が重く暗いものになることはないのです。
その他、いろんな弊害が出てくるのです。
それでは、このように自分を卑下した人は、どうすればいいのでしょうか?
概略で話しますが、まず「自分は人に愛される資格のある人間なんだ」というように自分の心を鼓舞するのです。
そして、少しでも自分が物事で向上したら、その際に、自分を褒めるのです。
そういう精神的な営みを長くしていくことで、いつしか自分に誇りが持てるようになるのです。
そういう精神的な営みなくして、日々の漫然たる生活だけで精神的に立ち直れることはないから注意が必要です。
やはり科学的な本が必須になります。
こういう状態から脱するのに、宗教的な行為、とくにその宗教で唱えられる経文を毎日あげていれば脱することができるなどと本気で思っている信者がいるから困ったものです(笑)
そういった手段には頼らずに、私はこういった科学的な方法こそが王道であると思っているのです。
確かに、宗教的な行為の効用は認めるのにやぶさかではないですが、すべて解決できるなどというものではないことは認識してほしいモノです。
このように、学問は、社会生活において行動に結びつけるものではなくとも、よき方向へ舵取りすることができる性質のものであることは間違いないでしょう。
谷沢永一という人が『悩みの9割は読書が解決してくれる』という本を書きましたが、まさにその通りなのです。
加藤秀俊氏も、まさにそのモラルでいるのです。
ゆえに、大学に通わなくても、本は巷に溢れているのですからそれらに頼ればいいのですし、ジャンルにこだわらずに、いろんな本を濫読していって、それを実際に生活上で行動し、精神的な覚醒を得たら、よき人生になることは間違いないのです。
●そんなスタンスに興味のある人に読んでほしい電子書籍は以下です。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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学問の存立意義とは何か?(加藤秀俊)
こんにちは。
私は、大学時代に本をたくさん読みました。
大学や科学や学問ってどういう存在意義があるのだろうという好奇心の元、いろんな本を読んでそれを確かめたかったのです。

それまでは、小説を多く読んでいましたが、科学について書いてある論文の新書を読んで、そこで書かれている明快にことを論じる筆致に興味を覚えたのです。
その結果、科学の存立意義は、社会にある問題点を構造的に明らかにして、それをよき方向へ向かわせるためにある、ということがわかりました。
例えば、自動車やバイク等を使って移動することで、排気ガスが出てしまう。
それが大気汚染や温室効果ガスを発生してしまう原因になる。
ゆえに、そういう行動をする人が少なければ少ないほどいい。
ゆえに必要最低限しか、使わないことが大事、ということを気が付いて、自分の足や自転車で移動する人が多ければ多いほどいい。
だから、自動車やバイクを使わずに自分の足か、自転車で移動することが重要ということで生活習慣を変えていく。
こういう日々漫然たる生活では、こういうことが気が付けない。
ゆえに問題点を指摘して構造的に明らかにした本を読む必要があるのです。
そういう人が多ければ多いほどいいのです。

確かに、自動車やバイクを使わなければ行けない場面も出てくるでしょう。
人類が社会生活を営む上で、自動車や飛行機などの運用手段をどうしても使わなければならない場面は多く存在します。
ゆえに全否定はしないのです。
しかし、自分の足や自転車で済ませられる場合であれば、そういう手段で済ますべきなのは言うまでもないのです。

それによって地球のために繋がるのですから。
問題点は環境以外にもいろんな場面で存在するのです。
そして人間が社会生活を営んでいくことで永続して問題点は出続けるのです。
ゆえに、多面的に学び、そしてそれを永続していかなくてはいけない性質のモノなのです。
しかし、そういう本を読み、行動することで何ら栄誉がつくわけでもなければ、お金がもらえるわけでもないのです。
ゆえに、行動にかり立てさせるのは難しい事であるのは難しい事ですが、私はやめていくつもりはないですし、多くの人がこういった科学的な本を読み、考えを覚醒させて行動に結びつけていくことを願っているのです。
大学受験までの勉強は、科学を理解するための基礎的な知識を得るための前段階であって、大学にはいったら、そこからが社会生活を営む上で最も大事なことを学ぶ場所なのですが、その大学受験で終わってしまっている人が大半なのが現実のようです。
私が大学時代に本を読んで大いに奮起した社会学者.加藤秀俊さん(下写真)は、いろんな著書で、「大学で真剣に学んでいる人は全体の2割くらいなもの…」 と書いていました。

30年以上も大学の教員をしてきた加藤氏が言っていたのですから間違いないでしょう。
それでは意味がない。
その通りですが、問題点を見出して多くの人の考えを良き方向へ変えさせ、そして行動に駆り立てさせることが重要であるならば、そういうことが書いてある本を読んだり、勉強することが好きな人は、多くの人をよき方向へ導くために日々イニシアティブを握って、規則を作ったり、人に指摘したり、そして日々自身が行動してしかなくてはならないでしょう。
会社や親族内、その他いろんな場所において。
学問はそんなためにあるのだということを知って欲しいのです。
いろんな学問についての本を読んでそんなことを考えたものです。
その内の加藤秀俊の本は大いに感銘を受けたものです。
●そんな加藤秀俊氏の偉業について書いた電子書籍を以下紹介しておきたいです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。

・加藤秀俊ホーム
私は、大学時代に本をたくさん読みました。
大学や科学や学問ってどういう存在意義があるのだろうという好奇心の元、いろんな本を読んでそれを確かめたかったのです。
それまでは、小説を多く読んでいましたが、科学について書いてある論文の新書を読んで、そこで書かれている明快にことを論じる筆致に興味を覚えたのです。
その結果、科学の存立意義は、社会にある問題点を構造的に明らかにして、それをよき方向へ向かわせるためにある、ということがわかりました。
例えば、自動車やバイク等を使って移動することで、排気ガスが出てしまう。
それが大気汚染や温室効果ガスを発生してしまう原因になる。
ゆえに、そういう行動をする人が少なければ少ないほどいい。
ゆえに必要最低限しか、使わないことが大事、ということを気が付いて、自分の足や自転車で移動する人が多ければ多いほどいい。
だから、自動車やバイクを使わずに自分の足か、自転車で移動することが重要ということで生活習慣を変えていく。
こういう日々漫然たる生活では、こういうことが気が付けない。
ゆえに問題点を指摘して構造的に明らかにした本を読む必要があるのです。
そういう人が多ければ多いほどいいのです。
確かに、自動車やバイクを使わなければ行けない場面も出てくるでしょう。
人類が社会生活を営む上で、自動車や飛行機などの運用手段をどうしても使わなければならない場面は多く存在します。
ゆえに全否定はしないのです。
しかし、自分の足や自転車で済ませられる場合であれば、そういう手段で済ますべきなのは言うまでもないのです。
それによって地球のために繋がるのですから。
問題点は環境以外にもいろんな場面で存在するのです。
そして人間が社会生活を営んでいくことで永続して問題点は出続けるのです。
ゆえに、多面的に学び、そしてそれを永続していかなくてはいけない性質のモノなのです。
しかし、そういう本を読み、行動することで何ら栄誉がつくわけでもなければ、お金がもらえるわけでもないのです。
ゆえに、行動にかり立てさせるのは難しい事であるのは難しい事ですが、私はやめていくつもりはないですし、多くの人がこういった科学的な本を読み、考えを覚醒させて行動に結びつけていくことを願っているのです。
大学受験までの勉強は、科学を理解するための基礎的な知識を得るための前段階であって、大学にはいったら、そこからが社会生活を営む上で最も大事なことを学ぶ場所なのですが、その大学受験で終わってしまっている人が大半なのが現実のようです。
私が大学時代に本を読んで大いに奮起した社会学者.加藤秀俊さん(下写真)は、いろんな著書で、「大学で真剣に学んでいる人は全体の2割くらいなもの…」 と書いていました。
30年以上も大学の教員をしてきた加藤氏が言っていたのですから間違いないでしょう。
それでは意味がない。
その通りですが、問題点を見出して多くの人の考えを良き方向へ変えさせ、そして行動に駆り立てさせることが重要であるならば、そういうことが書いてある本を読んだり、勉強することが好きな人は、多くの人をよき方向へ導くために日々イニシアティブを握って、規則を作ったり、人に指摘したり、そして日々自身が行動してしかなくてはならないでしょう。
会社や親族内、その他いろんな場所において。
学問はそんなためにあるのだということを知って欲しいのです。
いろんな学問についての本を読んでそんなことを考えたものです。
その内の加藤秀俊の本は大いに感銘を受けたものです。
●そんな加藤秀俊氏の偉業について書いた電子書籍を以下紹介しておきたいです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。

・加藤秀俊ホーム
人の心は社会によって規定される?そういうことに関心がある人は…(加藤秀俊)
こんにちは。
2023年に亡くなった社会学者,加藤秀俊(下写真)の本は私の精神にとって大きな変革を、もたらすものでした。

身の回りの事物を巧みに分析し、その分析事象を読んで読者にこれからの行方を占い、どういうおこないや言動をしていくかを脳内で自覚出来るのではないか、と思われて仕方なかったからです。
大学で習う学問とは、科学や哲学の総称ですが、その学問とは身近な事象について研究し、構造的に明らかにして、それを読んだ人が、そこに存在する問題点についてどう考えて、どう行動するかを問うものであるということがわかりました。
いろんな学問の本を読んで、そう結論せざるを得なかったです。
ゆえに誰もが学問を学び問題点を抽出した理論を知り日々の行動に結びつけなくてはらないなのではないでしょうか?
加藤秀俊の書いた本である『比較文化への視角』という本に所収の「無目標社会の論理」と題する論文には、当時書かれた60年代の日本はもうすでに工業化を達成してしまった。
ゆえに、国民全体を1つの方向へ行動づける一大動機が喪失してしまった、ということでした。
もちろん、工業はいつまでも稼働し続けるわけですが、国民のほとんどが衣食住に困らない生活になっていたがゆえに、国全体を1つのベクトルに向かわせるようなものは喪失してしまった。

それゆえに、国民の関心はバラバラで、根性論なるものはすたれていってしまう、ということでした。
その結果、日々刹那的に生きる若者があふれていってしまう結果になるのは目に見えていたのでしょう。
これには、目の覚める思いがしたものでした。
工業化を達成するまでは逆境に負けない主人公を描いた漫画なり、物語小説が人々の心に明かりを灯したものですが、工業化を達成してしまった後の社会においては、そういうものが関心を集めることは少なくなっていったのも頷けます。

その結果、どの分野においても自己目的化していっているというのだろうと思います。
工業化を達成している前の社会においては、山に登るのは自分の心を鍛えるため、という名目でしていたのが、それ以降においては、「山があるからそこに登るんだ」という国家が向かっている方向への動機付けからは離れていってしまった、ということです。
これにはかなり説得力のある論理だと思いました。
やはり社会によって、人の心は規定されるのでしょう。
人の心を捉えるものも違ってきてしまう。
経済的にあまりに恵まれすぎると、打たれ弱くなってしまう。
豊かな社会に英雄は出てこない。
そんな結果になってしまうのは目に見えてます。
そういうのを弊ととらえるならば、人とすべきことは何か。
やはり妥当な教育でしょう。

自分の子が、経済的に不自由しなくなれば、ハングリー精神を失い、打たれ弱くなってしまうのであることが、こういった社会学的な面からも明らかならば、やはり厳しく教育をしなくてはならない。
何から何まで与えてしまうのは精神的にもよろしくない。
適度にあげて、適度にあげないという工夫が大事でしょう。
しかし、難しいのは子供だけに厳しくしているだけでは、子供に健全な精神を植え付けることはできません。
その際に励ましながら教育するのがいいのか?
貶すだけでいいのか?
それには多面的な検証が必須です。
いろんな人と会い、接する中で検証を試みるのがいいでしょう。
ゆえに誰もが、大学時代にバイトをしていくのは良い手段だと思います。

ゆえに、私は勉強だけの生活には反対なのです。
そして、学問を修める際にも、1つの専門だけに拘るのは学問のアプローチとして加藤氏は反対していますし、私も反対です。
実際の社会生活においても、1つの面だけを見てこれが妥当と思われるものだけに拘るのも反対です。
いろんな方法や意見を聞きながら取り入れて柔軟に対応していくのがいいでしょう。
それによって王道が見えてくるのは、これまでの生活で明らかだからです。
やはり王道は、どの世界においても一致しているように感じます。
1つの面だけからアプローチしない、ということです。
そしてその検証と行動は永続していかなくてはいけないものなのです。
学問とは何も難しいものではなく、日々の生活や社会を良くしていくためのモノなのです。
そういうことに関心のある人には、加藤秀俊の思想には是非とも触れて、覚醒し日々の生活を生き生きとしたものに変えていってほしいものです。
●そんな論旨に興味のある人にうってつけな電子書籍は以下です。
おすすめです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終了します。
では失礼いたします。
加藤秀俊ホーム
2023年に亡くなった社会学者,加藤秀俊(下写真)の本は私の精神にとって大きな変革を、もたらすものでした。
身の回りの事物を巧みに分析し、その分析事象を読んで読者にこれからの行方を占い、どういうおこないや言動をしていくかを脳内で自覚出来るのではないか、と思われて仕方なかったからです。
大学で習う学問とは、科学や哲学の総称ですが、その学問とは身近な事象について研究し、構造的に明らかにして、それを読んだ人が、そこに存在する問題点についてどう考えて、どう行動するかを問うものであるということがわかりました。
いろんな学問の本を読んで、そう結論せざるを得なかったです。
ゆえに誰もが学問を学び問題点を抽出した理論を知り日々の行動に結びつけなくてはらないなのではないでしょうか?
加藤秀俊の書いた本である『比較文化への視角』という本に所収の「無目標社会の論理」と題する論文には、当時書かれた60年代の日本はもうすでに工業化を達成してしまった。
ゆえに、国民全体を1つの方向へ行動づける一大動機が喪失してしまった、ということでした。
もちろん、工業はいつまでも稼働し続けるわけですが、国民のほとんどが衣食住に困らない生活になっていたがゆえに、国全体を1つのベクトルに向かわせるようなものは喪失してしまった。
それゆえに、国民の関心はバラバラで、根性論なるものはすたれていってしまう、ということでした。
その結果、日々刹那的に生きる若者があふれていってしまう結果になるのは目に見えていたのでしょう。
これには、目の覚める思いがしたものでした。
工業化を達成するまでは逆境に負けない主人公を描いた漫画なり、物語小説が人々の心に明かりを灯したものですが、工業化を達成してしまった後の社会においては、そういうものが関心を集めることは少なくなっていったのも頷けます。
その結果、どの分野においても自己目的化していっているというのだろうと思います。
工業化を達成している前の社会においては、山に登るのは自分の心を鍛えるため、という名目でしていたのが、それ以降においては、「山があるからそこに登るんだ」という国家が向かっている方向への動機付けからは離れていってしまった、ということです。
これにはかなり説得力のある論理だと思いました。
やはり社会によって、人の心は規定されるのでしょう。
人の心を捉えるものも違ってきてしまう。
経済的にあまりに恵まれすぎると、打たれ弱くなってしまう。
豊かな社会に英雄は出てこない。
そんな結果になってしまうのは目に見えてます。
そういうのを弊ととらえるならば、人とすべきことは何か。
やはり妥当な教育でしょう。
自分の子が、経済的に不自由しなくなれば、ハングリー精神を失い、打たれ弱くなってしまうのであることが、こういった社会学的な面からも明らかならば、やはり厳しく教育をしなくてはならない。
何から何まで与えてしまうのは精神的にもよろしくない。
適度にあげて、適度にあげないという工夫が大事でしょう。
しかし、難しいのは子供だけに厳しくしているだけでは、子供に健全な精神を植え付けることはできません。
その際に励ましながら教育するのがいいのか?
貶すだけでいいのか?
それには多面的な検証が必須です。
いろんな人と会い、接する中で検証を試みるのがいいでしょう。
ゆえに誰もが、大学時代にバイトをしていくのは良い手段だと思います。
ゆえに、私は勉強だけの生活には反対なのです。
そして、学問を修める際にも、1つの専門だけに拘るのは学問のアプローチとして加藤氏は反対していますし、私も反対です。
実際の社会生活においても、1つの面だけを見てこれが妥当と思われるものだけに拘るのも反対です。
いろんな方法や意見を聞きながら取り入れて柔軟に対応していくのがいいでしょう。
それによって王道が見えてくるのは、これまでの生活で明らかだからです。
やはり王道は、どの世界においても一致しているように感じます。
1つの面だけからアプローチしない、ということです。
そしてその検証と行動は永続していかなくてはいけないものなのです。
学問とは何も難しいものではなく、日々の生活や社会を良くしていくためのモノなのです。
そういうことに関心のある人には、加藤秀俊の思想には是非とも触れて、覚醒し日々の生活を生き生きとしたものに変えていってほしいものです。
●そんな論旨に興味のある人にうってつけな電子書籍は以下です。
おすすめです。
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終了します。
では失礼いたします。
加藤秀俊ホーム
大学生としての資質とはどういうものか?加藤秀俊の理論から考える。
こんにちは。
私が大学時代に、ある1冊の本を読んで、その著者の本を数冊古本屋で買い、その後、財布の事情が許す限り、本屋に取り寄せを頼んで買ってしまったことがありました。
その著者は加藤秀俊(下写真)という社会学者です。

惜しむらくは、この人は2024年に亡くなってしまいましたが…。
その肩書から、その専門は社会学、ということになりますが、加藤氏は、社会学のみならず、いろんな学問に好奇心の赴くまま本を読み、勉強を修めて、本を書き、講演をこなしてきたのです。
彼は1日に1冊という読書を大学時代に課したことがわかったのです。
その著『独学のすすめ』で知ることができました。
こういう行為は強制によってできることではないのです。
人と比べてではなく、それをする段かいになった時に、おのずとそういう行動においてやりこんでしまい、気が付いたら閉館の時間になってしまっていた。
そういうものが人生生活において見つけれて、それを生業にできたらそれはそれは素敵な人生でしょう。

そういう事を大学の勉学において学生のだれもがしていくのが当然、と私は思っていたのです。
「大学に入るのを希望して大学に入ったのだから誰もが、勉強好きで当然」…そんなことを思っていました。
しかし、私の通った大学は、レベル的には真ん中よりも上であったにもかかわらず、誰もが遊びほうけている。
これでは、汗水たらして働き、お金を貯めて、それを払い、子供を大学に行かせてあげているお母さん、お父さんへの不幸者たちめが!と怒りを心に燃え上がらせていたのです(笑)。
こんな学生ばかりでは日本の未来は暗い…そんなことを思っていましたが、それは杞憂と思っていいのでしょう。
かなりの文字好き、読書好きの加藤秀俊氏によって本から抽出された理論によって、どうしてこういう事象になってしまうのかが知ることができました。
文字好き、文字嫌い、その違いは生まれ持っての資質にあるのです。
だから、学業をおろそかにしてもいたしかたない、とその理論を知ることで、私はその怒りを鎮静し消去することができました。
しかし、当時は、団塊の世代といわれる親御さんの世代の息子や娘が大学に行く時代。
その世代は、日本のほぼ全員が高収入に恵まれていた時代だったから、それでも良かったのです。
しかし、今や格差社会。

そんな時代であるにもかかわらず、大学の学費は上がっているのです。
1コマ1時間半で3000円はするでしょうか?
しかし、大学在学中に気づいていればよかったですが、そんな価値が大学の講義にあるか?
絶対にないです(笑)。
Fランなる大学ランク付けの言葉は、私の時代にはなかったですが、そういうレベルの大学になればなるほど、学費はもっと高くなるのです。
そういうこと(=大学に行って学ぶ)をする必要はあるか?
全然ないです。

対費用効果の面でも、大学教授たちをのさばらせるという面でも全然意味がないです(笑)。
大学に行くことによってしか得れなかったものがあった時代においては、高いお金を払ってでも行くべきでだったしょうが、今はそんな時代ではないのです。
各種公務員試験、司法試験、会計士試験…etcは、昔は大学を卒業しなくては行けなかった時代があったようですが、今や大学に行かなくても試験は誰でも受けて合格する時代になったのです。
だから無理やり行く必要はないでしょう。
もちろん、これは文系大学のみの話しですし、理系の職業で大学を卒業しなくては資格を取れないものはこの限りではありませんが。
では昨今において大学の勉強をどのようにとらえればよいでしょうか?
以下の電子書籍をお読みくださいませ!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。
失礼いたします。
私が大学時代に、ある1冊の本を読んで、その著者の本を数冊古本屋で買い、その後、財布の事情が許す限り、本屋に取り寄せを頼んで買ってしまったことがありました。
その著者は加藤秀俊(下写真)という社会学者です。
惜しむらくは、この人は2024年に亡くなってしまいましたが…。
その肩書から、その専門は社会学、ということになりますが、加藤氏は、社会学のみならず、いろんな学問に好奇心の赴くまま本を読み、勉強を修めて、本を書き、講演をこなしてきたのです。
彼は1日に1冊という読書を大学時代に課したことがわかったのです。
その著『独学のすすめ』で知ることができました。
こういう行為は強制によってできることではないのです。
人と比べてではなく、それをする段かいになった時に、おのずとそういう行動においてやりこんでしまい、気が付いたら閉館の時間になってしまっていた。
そういうものが人生生活において見つけれて、それを生業にできたらそれはそれは素敵な人生でしょう。
そういう事を大学の勉学において学生のだれもがしていくのが当然、と私は思っていたのです。
「大学に入るのを希望して大学に入ったのだから誰もが、勉強好きで当然」…そんなことを思っていました。
しかし、私の通った大学は、レベル的には真ん中よりも上であったにもかかわらず、誰もが遊びほうけている。
これでは、汗水たらして働き、お金を貯めて、それを払い、子供を大学に行かせてあげているお母さん、お父さんへの不幸者たちめが!と怒りを心に燃え上がらせていたのです(笑)。
こんな学生ばかりでは日本の未来は暗い…そんなことを思っていましたが、それは杞憂と思っていいのでしょう。
かなりの文字好き、読書好きの加藤秀俊氏によって本から抽出された理論によって、どうしてこういう事象になってしまうのかが知ることができました。
文字好き、文字嫌い、その違いは生まれ持っての資質にあるのです。
だから、学業をおろそかにしてもいたしかたない、とその理論を知ることで、私はその怒りを鎮静し消去することができました。
しかし、当時は、団塊の世代といわれる親御さんの世代の息子や娘が大学に行く時代。
その世代は、日本のほぼ全員が高収入に恵まれていた時代だったから、それでも良かったのです。
しかし、今や格差社会。
そんな時代であるにもかかわらず、大学の学費は上がっているのです。
1コマ1時間半で3000円はするでしょうか?
しかし、大学在学中に気づいていればよかったですが、そんな価値が大学の講義にあるか?
絶対にないです(笑)。
Fランなる大学ランク付けの言葉は、私の時代にはなかったですが、そういうレベルの大学になればなるほど、学費はもっと高くなるのです。
そういうこと(=大学に行って学ぶ)をする必要はあるか?
全然ないです。
対費用効果の面でも、大学教授たちをのさばらせるという面でも全然意味がないです(笑)。
大学に行くことによってしか得れなかったものがあった時代においては、高いお金を払ってでも行くべきでだったしょうが、今はそんな時代ではないのです。
各種公務員試験、司法試験、会計士試験…etcは、昔は大学を卒業しなくては行けなかった時代があったようですが、今や大学に行かなくても試験は誰でも受けて合格する時代になったのです。
だから無理やり行く必要はないでしょう。
もちろん、これは文系大学のみの話しですし、理系の職業で大学を卒業しなくては資格を取れないものはこの限りではありませんが。
では昨今において大学の勉強をどのようにとらえればよいでしょうか?
以下の電子書籍をお読みくださいませ!
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する

今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。
失礼いたします。