宗教の長は多元的、信者は一元的。しかし、信者も多元的である方が望ましい。その理由は?(幸福の科学)
私は、いろんな宗教の会合に参加し、そしてそれらで発行されている新聞や機関誌を読ませてもらってきました。
創価学会、顕正会、キリストの幕屋、ものみの塔、幸福の科学、その他さまざまです。
それらを読んで、気が付いたのは、どの宗教も一貫して、長は多元主義的で、信者は一元主義的ということです。

長ならば会合時に講演をするのが当たり前です。
その際に、それらの長はいろんな文学作品や論文の本を読んできて、それらを引き合いに出して講演を行うのです。
ゆえに、その奥深さや知識の多さに信者たちは感動してしまうのでしょう。

私がいろんな宗教の会合に参加してきて、感動した場合もあれば、なかった場合もあります。
しかし、感動しなかったパターンの方が圧倒的に多いです(笑)
それは、そういった引き合いに出された内容が、それまで自分で読んできた本の理論と重なる場合がほとんどであるからです。
ゆえに、「別にこのことは、この宗教の会合に来なくても知っているよ」と思えるからこそ、感動しないのです。
人生が多元的か一元的であるかどうかは、生まれつきの性質によるのです。
ゆえに、変えることはできないのです。
しかし、感動してしまう人は、なぜ感動するかといえば、自分がこれまでに知らなかったことが引き合いに出されているからです。
しかし、それが既知のモノであれば感動しないのが普通なのです。

私は、創価学会にいたことがあるのですが、毎回毎回同じようなスピーチ内容にもかかわらず、なぜ信者たちは感動しているのか不思議でした。
信者に聞くと「同じ内容でも、違うこともいっている」ということです。
その違うことは、他の本でも学べる内容なのです。
創価学会でなければ学べない、という性質のものではないのです。
ならば、他の本をたくさん読めばいいだけの話しですが、そういったことを信者の大半はしない。
なぜか?
世の中の大半の人が文字嫌いゆえに、自分から主体的に学ぶ意欲がないからです。
これを説いたのが、アメリカの哲学者であるウィリアム.ジェイムズですが、この人の出した理論は、今でも当てはまるでしょう。
ゆえに創価学会信者は、日刊である聖教新聞しか読まないのです。

そして、毎月恒例の会合にしか行かないのです。
そして未知の言論に触れて感動してしまう、という結果になってしまうのです。
しかし、機関紙や機関誌だけでなく、自分から主体的に学んでいく気概のある人であるならば、いろんなことを自然に学んでいるわけです。
そういう人と、受動的にしか理論を学ばない人とではどちらが真理に近づくでしょうか?
もちろん後者ですよね?
後者が多くの信者の場合である宗教団体であることはあるか?
幸福の科学の信者がその例であると私はみなしているのです。
もちろん、その信者は様々で、多元主義で自分からいろんなもの読む人いれば、一元主義で当会で出されている月刊誌だけ読む人ももちろんあるでしょう。
しかし、私は受け身でことを学んでいくのは肌に合わないので、自分から主体的に学んでいくことを自然としてしまうのです。
それの方が、モラルにあっているし、気持ちがいいからです。
そういう主体的に、例えば自分から主体的に本を注文して、買って読むということをしているからといって、選民であるということを言いたいのではないのです。

それぞれに向き、不向きというものはあるわけで、その向いていると思うことを生業にすればいいだけのことですし、自分の宗教へのスタンスを決めて行動していけばいいということです。
幸福の科学に入会したからといって、毎日いろんな読書をしなければならない、といった強制ノルマなどは一切ないことをお断りしておきます。
私は、宗教に入ったとしても、その宗教で発行されている機関紙の類いだけを読んいるだけということはしていきたくないです。
そういうスタンスが気に入る人は、幸福の科学はスタンス的にあっているのではないか、と思われるのです。
私はスタンス的に合ってはいるけれども、入会はしないです。
しかし、当会のスタンスには共鳴しますし、学ぶものがあるということは断言したいです。
未知のものが学べるというメリットもあることは言えるでしょう。
普通の人間では到達できない宗教的な理論が学べるので。
●そんな当会に興味の出た人には、以下の本をお勧めしたいです。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!

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創価学会、顕正会、キリストの幕屋、ものみの塔、幸福の科学、その他さまざまです。
それらを読んで、気が付いたのは、どの宗教も一貫して、長は多元主義的で、信者は一元主義的ということです。

長ならば会合時に講演をするのが当たり前です。
その際に、それらの長はいろんな文学作品や論文の本を読んできて、それらを引き合いに出して講演を行うのです。
ゆえに、その奥深さや知識の多さに信者たちは感動してしまうのでしょう。

私がいろんな宗教の会合に参加してきて、感動した場合もあれば、なかった場合もあります。
しかし、感動しなかったパターンの方が圧倒的に多いです(笑)
それは、そういった引き合いに出された内容が、それまで自分で読んできた本の理論と重なる場合がほとんどであるからです。
ゆえに、「別にこのことは、この宗教の会合に来なくても知っているよ」と思えるからこそ、感動しないのです。
人生が多元的か一元的であるかどうかは、生まれつきの性質によるのです。
ゆえに、変えることはできないのです。
しかし、感動してしまう人は、なぜ感動するかといえば、自分がこれまでに知らなかったことが引き合いに出されているからです。
しかし、それが既知のモノであれば感動しないのが普通なのです。

私は、創価学会にいたことがあるのですが、毎回毎回同じようなスピーチ内容にもかかわらず、なぜ信者たちは感動しているのか不思議でした。
信者に聞くと「同じ内容でも、違うこともいっている」ということです。
その違うことは、他の本でも学べる内容なのです。
創価学会でなければ学べない、という性質のものではないのです。
ならば、他の本をたくさん読めばいいだけの話しですが、そういったことを信者の大半はしない。
なぜか?
世の中の大半の人が文字嫌いゆえに、自分から主体的に学ぶ意欲がないからです。
これを説いたのが、アメリカの哲学者であるウィリアム.ジェイムズですが、この人の出した理論は、今でも当てはまるでしょう。
ゆえに創価学会信者は、日刊である聖教新聞しか読まないのです。

そして、毎月恒例の会合にしか行かないのです。
そして未知の言論に触れて感動してしまう、という結果になってしまうのです。
しかし、機関紙や機関誌だけでなく、自分から主体的に学んでいく気概のある人であるならば、いろんなことを自然に学んでいるわけです。
そういう人と、受動的にしか理論を学ばない人とではどちらが真理に近づくでしょうか?
もちろん後者ですよね?
後者が多くの信者の場合である宗教団体であることはあるか?
幸福の科学の信者がその例であると私はみなしているのです。
もちろん、その信者は様々で、多元主義で自分からいろんなもの読む人いれば、一元主義で当会で出されている月刊誌だけ読む人ももちろんあるでしょう。
しかし、私は受け身でことを学んでいくのは肌に合わないので、自分から主体的に学んでいくことを自然としてしまうのです。
それの方が、モラルにあっているし、気持ちがいいからです。
そういう主体的に、例えば自分から主体的に本を注文して、買って読むということをしているからといって、選民であるということを言いたいのではないのです。

それぞれに向き、不向きというものはあるわけで、その向いていると思うことを生業にすればいいだけのことですし、自分の宗教へのスタンスを決めて行動していけばいいということです。
幸福の科学に入会したからといって、毎日いろんな読書をしなければならない、といった強制ノルマなどは一切ないことをお断りしておきます。
私は、宗教に入ったとしても、その宗教で発行されている機関紙の類いだけを読んいるだけということはしていきたくないです。
そういうスタンスが気に入る人は、幸福の科学はスタンス的にあっているのではないか、と思われるのです。
私はスタンス的に合ってはいるけれども、入会はしないです。
しかし、当会のスタンスには共鳴しますし、学ぶものがあるということは断言したいです。
未知のものが学べるというメリットもあることは言えるでしょう。
普通の人間では到達できない宗教的な理論が学べるので。
●そんな当会に興味の出た人には、以下の本をお勧めしたいです。
『比較;大川隆法論 非信者が論じる大川隆法氏の信憑性と天才性』
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!



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