学問を学ぶに際して、ゾレン.当為は必須か?いらないか? (加藤秀俊)
こんにちは。
これまで取り上げてきた加藤秀俊氏の盟友だった梅棹忠夫氏は、加藤氏と一緒に対談集を出したり、いろんな編著本を出したりといろんなことをしていました。

その他、小松左京、多田道太郎、米山俊直といった人たちとも一緒にそういう作業をして本を出していました。
いずれの人物も、高齢に達していて亡くなっていました。
そして最後に残ったのが加藤秀俊さんでしたが、惜しくも2023年に亡くなってしまいました。
93歳の高齢でした。
これらの人物の著作物は、非常にためになるもので、こういった人たちの本もたくさん読んできた私です。
やはりモラルがいずれの人物も似通っていたからです。
これまでの本に書かれていたことや、常識とされていたことに従順になるのではなく、自身の足でその場に赴いて、そして自身の頭で物事を考える、という面でどの人物も似通っていたのです。
著作家には、こういう部分がなければ、その人の本を読んでも面白くないのです。
その意見は大学時代から今まで、全然意見は変わっていません。
しかし、これらの人物のモラルが似通っていたとは言っても、若干異なる部分もあったことは確かです。
それは梅棹忠夫氏(下写真)のモラルと加藤秀俊氏のモラルは若干違っていた観があります。

梅棹氏の『わたしの生きがい論』を読むと、梅棹氏は、学問は知的な好奇心をもって物事を深く広く探ることで、新しいモノの見方や分析事項を自身で構成すればいい、という主旨の話しを書いているのです。
そういうモラルの結果、梅棹氏は、今も語られる『文明の生態史観』という超名著を送り出したのです。
梅棹氏は、巷の学問ではゾレン(当為)を語る旨の論調があるが、それは間違いであるというのです。
私は、そのゾレンを抜きにして『文明の生態史観』を書きあげた、ということです。
あそこまで大家、いや知の巨星とまで言われた梅棹氏の言葉ゆえに、胸に迫るものがありました。
しかし、加藤氏はそういうゾレンを導くことに反対するとまではいかないまでも、やはりその学問の意義を見つけることに意志が赴いていた観があったのでゾレンは必要というように感じれたのが私の正直なところです。
いろんな論文の本を読んでいくと、その分野内での問題点があって、それを構造的に明らかにして、その問題点を科学的な手段で解決させていく、という例が多く見当たりました。

それゆえに、大学で学ぶ学問というものこそ、人生で一番力を入れて学ばなくてはいけない、と思ったものです。
そういう前提で行けば、読書に対するスタンスも真剣になりますし、大学での講義も真剣になるのが必然でしょう。
私は誰に指図されることなく、いろんな本を主体的に大学時代は読みました。
その結果、大学4年時のゼミの最終日のコンパで後輩たちからメッセージが書かれた色紙をプレゼントされましたが、そこには「奥深く、普段から勉強していらっしゃるのがわかりました。」とか、「幅広くてびっくりしました。」といった、ゼミ内での発言やリポートの内容について嬉しいコメントしてくれていたのを思い出しました。
嬉しいけれども、自分としては本を読んだ内容や、講義での内容を思い出して、引き合いに出していただけだったし、こんなこと書いてあったなあということを思い出して、自分の脳内でちょっと考えて発信していただけの事でした。
やはり知的に思白く学ぶためには、学んだことを片っ端から覚える必要ないでしょう。
片端から記憶していかなくてはならないという意気込みであると学問自体がつまらなくなるし、億劫になるでしょう。
しかし、理論づけのためには、いろんなことを片っ端から覚えられるのであれば覚えてしまった方がいいのです。
理論づけの知識が多ければ多いほどいいのですから。
そういう力に富んだ人=高学歴の人こそが、学問に向いているのか、と問われれば、それもまた疑問なのです。
東京大学や慶應大学などの高学歴を持ちながら、祖述だけとか、引用ばかりの本を出す人は多いですから、そこはケースバイケースというほかないのです。
逆に偏差値40台の大学を出ただけにもかかわらず、ものすごい慧眼モノの本を出している例もあるのです。
それがユダヤ教研究で有名な土岐健治さんです。
気の赴くまま好奇心のわいた本を主体的に読んでいけば、印象深かったことや重要事項は大抵思いだせるものです。
「こんなこと書いてあったなあ」ということは、大抵。
ただし畑正則(下写真)のように私は頭よくないから、これは重要と思われた箇所については、ワードに書いて上書きしておくのです。

そして、そのワードを見直すことでおもいだすのです。
記憶力に自信がなければ、自身で工夫をしていくだけでいいのではないか?
そんな風に思うのです。
そして、これを修めて社会に何か善行することにつなげることができないか、と思うことでさらに真剣になるでしょう。
その際に必要なのは、ゾレン.当為を見つける、何か自分で考えなくてはという端緒があれば更に真剣になるでしょう。
それは梅棹氏は必要ないとしているのですが、私は必須としているのです。
真剣さを向上させるためにも!(笑)
これはどっちがいいとか悪いとかいう話しではないのです。
こういうスタンスの違いがあるという話なのです。
どちらを採択するかは、その人次第です。
●こういう内容について興味のわいた人におすすめの電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
これまで取り上げてきた加藤秀俊氏の盟友だった梅棹忠夫氏は、加藤氏と一緒に対談集を出したり、いろんな編著本を出したりといろんなことをしていました。
その他、小松左京、多田道太郎、米山俊直といった人たちとも一緒にそういう作業をして本を出していました。
いずれの人物も、高齢に達していて亡くなっていました。
そして最後に残ったのが加藤秀俊さんでしたが、惜しくも2023年に亡くなってしまいました。
93歳の高齢でした。
これらの人物の著作物は、非常にためになるもので、こういった人たちの本もたくさん読んできた私です。
やはりモラルがいずれの人物も似通っていたからです。
これまでの本に書かれていたことや、常識とされていたことに従順になるのではなく、自身の足でその場に赴いて、そして自身の頭で物事を考える、という面でどの人物も似通っていたのです。
著作家には、こういう部分がなければ、その人の本を読んでも面白くないのです。
その意見は大学時代から今まで、全然意見は変わっていません。
しかし、これらの人物のモラルが似通っていたとは言っても、若干異なる部分もあったことは確かです。
それは梅棹忠夫氏(下写真)のモラルと加藤秀俊氏のモラルは若干違っていた観があります。
梅棹氏の『わたしの生きがい論』を読むと、梅棹氏は、学問は知的な好奇心をもって物事を深く広く探ることで、新しいモノの見方や分析事項を自身で構成すればいい、という主旨の話しを書いているのです。
そういうモラルの結果、梅棹氏は、今も語られる『文明の生態史観』という超名著を送り出したのです。
梅棹氏は、巷の学問ではゾレン(当為)を語る旨の論調があるが、それは間違いであるというのです。
私は、そのゾレンを抜きにして『文明の生態史観』を書きあげた、ということです。
あそこまで大家、いや知の巨星とまで言われた梅棹氏の言葉ゆえに、胸に迫るものがありました。
しかし、加藤氏はそういうゾレンを導くことに反対するとまではいかないまでも、やはりその学問の意義を見つけることに意志が赴いていた観があったのでゾレンは必要というように感じれたのが私の正直なところです。
いろんな論文の本を読んでいくと、その分野内での問題点があって、それを構造的に明らかにして、その問題点を科学的な手段で解決させていく、という例が多く見当たりました。
それゆえに、大学で学ぶ学問というものこそ、人生で一番力を入れて学ばなくてはいけない、と思ったものです。
そういう前提で行けば、読書に対するスタンスも真剣になりますし、大学での講義も真剣になるのが必然でしょう。
私は誰に指図されることなく、いろんな本を主体的に大学時代は読みました。
その結果、大学4年時のゼミの最終日のコンパで後輩たちからメッセージが書かれた色紙をプレゼントされましたが、そこには「奥深く、普段から勉強していらっしゃるのがわかりました。」とか、「幅広くてびっくりしました。」といった、ゼミ内での発言やリポートの内容について嬉しいコメントしてくれていたのを思い出しました。
嬉しいけれども、自分としては本を読んだ内容や、講義での内容を思い出して、引き合いに出していただけだったし、こんなこと書いてあったなあということを思い出して、自分の脳内でちょっと考えて発信していただけの事でした。
やはり知的に思白く学ぶためには、学んだことを片っ端から覚える必要ないでしょう。
片端から記憶していかなくてはならないという意気込みであると学問自体がつまらなくなるし、億劫になるでしょう。
しかし、理論づけのためには、いろんなことを片っ端から覚えられるのであれば覚えてしまった方がいいのです。
理論づけの知識が多ければ多いほどいいのですから。
そういう力に富んだ人=高学歴の人こそが、学問に向いているのか、と問われれば、それもまた疑問なのです。
東京大学や慶應大学などの高学歴を持ちながら、祖述だけとか、引用ばかりの本を出す人は多いですから、そこはケースバイケースというほかないのです。
逆に偏差値40台の大学を出ただけにもかかわらず、ものすごい慧眼モノの本を出している例もあるのです。
それがユダヤ教研究で有名な土岐健治さんです。
気の赴くまま好奇心のわいた本を主体的に読んでいけば、印象深かったことや重要事項は大抵思いだせるものです。
「こんなこと書いてあったなあ」ということは、大抵。
ただし畑正則(下写真)のように私は頭よくないから、これは重要と思われた箇所については、ワードに書いて上書きしておくのです。
そして、そのワードを見直すことでおもいだすのです。
記憶力に自信がなければ、自身で工夫をしていくだけでいいのではないか?
そんな風に思うのです。
そして、これを修めて社会に何か善行することにつなげることができないか、と思うことでさらに真剣になるでしょう。
その際に必要なのは、ゾレン.当為を見つける、何か自分で考えなくてはという端緒があれば更に真剣になるでしょう。
それは梅棹氏は必要ないとしているのですが、私は必須としているのです。
真剣さを向上させるためにも!(笑)
これはどっちがいいとか悪いとかいう話しではないのです。
こういうスタンスの違いがあるという話なのです。
どちらを採択するかは、その人次第です。
●こういう内容について興味のわいた人におすすめの電子書籍.ペーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
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