瞠目すべき学者の数はかなり少数派?そのわけと特徴は? (加藤秀俊)
こんにちは。
学者たるもの好奇心の有無は非常に大事でしょう。
これがあることによって、学習領域は広くなり、本や資料をいっぱいあさるように読むことで、いろんな情報を得れて、ものの考え方も得れて、非常に説得力を得た理論を形成することが出来るようになるからです。
逆に、好奇心のない人は学者として成功することはおぼつかないでしょう。
狭い領域だけに関心があって、その中だけで情報を得て、ものの考え方を形成しようにも、説得力を得た理論を得ることは出来ません。
私が大学に在学中に、大学の廊下にあった学論集なるものがあって、そこにはその大学の教授たちが書いた論文が掲載されていたのですが、いずれもいろんな知的好奇心があって、その多岐にわたる好奇心からの研究結果から得た多面的な論文を書いている例は少なかったです。

やはり自分の属する学部会の領域だけにほぼ狭まった関心からできた論文しかできていなかったのです。
多分野にわかる研究結果から書いた論文を書いていた例は少なったです。
これは、そういう者であるという固定観念から来て、周りの教授たちもそういうスタンスで論文を書いているから、自分もそうであったいいのだろうという思い込みが外せていなかったのでしょう。
そういう思い込みを外せば、壮大な気宇を擁した論文が書けると思うのでしょうがどうでしょうか?
そういう狭い領域から抜け出せない学者は、そもそも学術的な論文を書けないという能力的な制約があるのでしょうか?
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏が書いたある編著本の中で「他の学者の書いた本からの引用ばかりで継ぎ接ぎした論文を大抵の学生は書く。教授といわれる人たちもそういう論文を書いて生計を立てているのが多いのが日本である」ということを書いてありました。
その、いろんな学論集をいっぱい持ち帰りました私は。
タダだし、高い学費の元を取ってやろうというモチベーションで(笑)。

その全部を見渡すも、やはり好奇心の狭い、引用ばかりの論文を書く教授が多かった、というのが正直なところです。
好奇心が多岐にわたり、引用の極力少ない学術性の高い教授の論文が掲載されている学論集は今でも保存していますが、それ以外のものに関しては、資源ごみ回収の日に出してしまいました(笑)。
前出の加藤秀俊氏(下写真)は、そういう他の教授の批判をしながらも、自身はそれに反する如く、地で行動に移していったのです。

社会学者という肩書でありながら、その関心領域は半端ない広がりを有していたのです。
彼の『人生のくくり方』という本は、主に教育の歴史が取り上げられていましたが、その内容たるや教育史の専門家か、と思われるほどの壮大さを備えているのです。
教育史という科目は、いろんな大学にあるでしょう。
しかし、それでもその教授でも太刀打ちできるのか?と思われるほどの知識の量と自身で形成した理論の高尚さには圧倒させるばかりです。
教育史ではペスタロッチという人が有名ですが、加藤氏は「ペスタロッチを読みたい」「他の教育史を読みたい」というように芋づる式に関心が芽生えていって、書き進めていきたい衝動に駆られて、それについて調べ、その概要を書き、自分の見解を書き、そして意義も書き、それらの作業から分岐していった関心事や他の物事との結びつけを施しながら論文を書いていったのでしょう。
そのことで、『人生のくくり方』という独自の教育史の観を呈した本を上梓することになったのです。
狭い領域だけで論文や本を上梓しようとすれば、その領域からの理論のなぞりや、引用ばかりになってしまい、その領域の専門家たちと似たような論文や本しか書けなくなり、独創性を持つこともできなくなってしまうのは必然です。
そうなりたくないのであれば、自然と好奇心が出てしまう学問の本を自然と読む習慣を身に着けることが必須でしょう。
私が属した大学で講義を受けた教授や助教授や講師といった人たちの今の業績をいまホームページで確認することが出来ますが、本を出している例は限りなく少ないですね。
大学から課された論文の数はそれなりにあるようですが…。

逆に、何冊か本を出している教授の例はありますが、限りなく少ないですね。
私は、模範としてほしい例は、いうまでもなく後者ですね。
後者の例の方が、読んでいて感銘を受けて、人生が明るくなり、人生の指針を得ることが出来るからですね。
学問とはもとよりそういう性質をもっているものなのですね。
●そんな内容に関心のある人にお勧めしたい電子書籍.パーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

・加藤秀俊ホーム
リンク1
リンク2
学者たるもの好奇心の有無は非常に大事でしょう。
これがあることによって、学習領域は広くなり、本や資料をいっぱいあさるように読むことで、いろんな情報を得れて、ものの考え方も得れて、非常に説得力を得た理論を形成することが出来るようになるからです。
逆に、好奇心のない人は学者として成功することはおぼつかないでしょう。
狭い領域だけに関心があって、その中だけで情報を得て、ものの考え方を形成しようにも、説得力を得た理論を得ることは出来ません。
私が大学に在学中に、大学の廊下にあった学論集なるものがあって、そこにはその大学の教授たちが書いた論文が掲載されていたのですが、いずれもいろんな知的好奇心があって、その多岐にわたる好奇心からの研究結果から得た多面的な論文を書いている例は少なかったです。
やはり自分の属する学部会の領域だけにほぼ狭まった関心からできた論文しかできていなかったのです。
多分野にわかる研究結果から書いた論文を書いていた例は少なったです。
これは、そういう者であるという固定観念から来て、周りの教授たちもそういうスタンスで論文を書いているから、自分もそうであったいいのだろうという思い込みが外せていなかったのでしょう。
そういう思い込みを外せば、壮大な気宇を擁した論文が書けると思うのでしょうがどうでしょうか?
そういう狭い領域から抜け出せない学者は、そもそも学術的な論文を書けないという能力的な制約があるのでしょうか?
私が敬愛していた故.加藤秀俊氏が書いたある編著本の中で「他の学者の書いた本からの引用ばかりで継ぎ接ぎした論文を大抵の学生は書く。教授といわれる人たちもそういう論文を書いて生計を立てているのが多いのが日本である」ということを書いてありました。
その、いろんな学論集をいっぱい持ち帰りました私は。
タダだし、高い学費の元を取ってやろうというモチベーションで(笑)。
その全部を見渡すも、やはり好奇心の狭い、引用ばかりの論文を書く教授が多かった、というのが正直なところです。
好奇心が多岐にわたり、引用の極力少ない学術性の高い教授の論文が掲載されている学論集は今でも保存していますが、それ以外のものに関しては、資源ごみ回収の日に出してしまいました(笑)。
前出の加藤秀俊氏(下写真)は、そういう他の教授の批判をしながらも、自身はそれに反する如く、地で行動に移していったのです。
社会学者という肩書でありながら、その関心領域は半端ない広がりを有していたのです。
彼の『人生のくくり方』という本は、主に教育の歴史が取り上げられていましたが、その内容たるや教育史の専門家か、と思われるほどの壮大さを備えているのです。
教育史という科目は、いろんな大学にあるでしょう。
しかし、それでもその教授でも太刀打ちできるのか?と思われるほどの知識の量と自身で形成した理論の高尚さには圧倒させるばかりです。
教育史ではペスタロッチという人が有名ですが、加藤氏は「ペスタロッチを読みたい」「他の教育史を読みたい」というように芋づる式に関心が芽生えていって、書き進めていきたい衝動に駆られて、それについて調べ、その概要を書き、自分の見解を書き、そして意義も書き、それらの作業から分岐していった関心事や他の物事との結びつけを施しながら論文を書いていったのでしょう。
そのことで、『人生のくくり方』という独自の教育史の観を呈した本を上梓することになったのです。
狭い領域だけで論文や本を上梓しようとすれば、その領域からの理論のなぞりや、引用ばかりになってしまい、その領域の専門家たちと似たような論文や本しか書けなくなり、独創性を持つこともできなくなってしまうのは必然です。
そうなりたくないのであれば、自然と好奇心が出てしまう学問の本を自然と読む習慣を身に着けることが必須でしょう。
私が属した大学で講義を受けた教授や助教授や講師といった人たちの今の業績をいまホームページで確認することが出来ますが、本を出している例は限りなく少ないですね。
大学から課された論文の数はそれなりにあるようですが…。
逆に、何冊か本を出している教授の例はありますが、限りなく少ないですね。
私は、模範としてほしい例は、いうまでもなく後者ですね。
後者の例の方が、読んでいて感銘を受けて、人生が明るくなり、人生の指針を得ることが出来るからですね。
学問とはもとよりそういう性質をもっているものなのですね。
●そんな内容に関心のある人にお勧めしたい電子書籍.パーパーバックは以下です。(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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