高校までの勉強と大学のそれはどう違うかを歴史を例にして詳説する?(加藤秀俊)
こんにちは。
高校までの勉強と、大学での勉強の一番の違いは、やはり「理論」の論述であるというところでしょう。
高校まではほぼ、知識を詰め込めばよろしかったのです。
それで知識を問われれば、それを書くだけで良かったのです。
しかし、大学では理論を書くわけです。
論述ですから、文章を書くことが基本になります。
そして自身の脳内で考えたことも書く必要があります。
高校までは単語を覚えるだけで良かったのですから、その問われる単語に赤ペンでマークをして、それに色付きの下敷きで隠して、そのマークを脳内で当てる。

そういうことでしたが、論述の内容を覚えなくてはいけないのですが、そんなペンでの暗記などあまり役立つとは言えないです、理論は長いですから。
ゆえに、大学での勉強の方が難易度は高い、という人がいてもおかしくはないでしょう。
しかし、それではその内容を覚えているためにはどうすればいいか?という疑問がわきますね。
それは、やはり、主体的にその学問に関する新書の類いを多く読んでいくことでしょう。
例えば「経済学概論」という科目を履修しているとするならば、経済学に関する新書の類いをむさぼるように読むのです、シーズンオフの時期から。
これこれこうでこうなる、といった理論を覚えていくためにはそれしかないでしょう。
その理論ですが、教科書などに書かれている文章をそっくりそのまま覚えている必要はないのです。
自分の言葉で変化させてもいいでしょう、文意が変わらなければ。
その理論ですが、年末の試験の前に、ほぼ一夜漬けで覚えようとしても、無理な話しでしょう。
少なくとも私にとってはそうでした。
でも、それをやってのけている人が大勢いましたから驚きでした(笑)
しかし、そのようにして暗記した内容はすぐに忘れてしまう性質をもっているのですから注意が必要です。
もとより、学問は社会にある問題点を見つけて、それを構造的に明らかにして、それを改善していくためにはどうすればいいか、を考えて行動することを学んだ人に期待しているわけですから、それは日々取り組まなくてはいけないことでしょう。
試験時だけすればいいということではないと思います。
高校までの勉強で、こと歴史を学ぶのは、年表と出来事を暗記するだけで良かったのです。
しかし、これを学んで何になるのかという素朴な疑問がわいた人が多いでしょう。
端的に書きましょう。
歴史を学ぶ意義は、過去の出来事を現代に生かすためにあるのです。
人間の思考や行動は古今東西そんなに変わるものではないですし、ゆえに歴史から学ぶ事項を探さなければなりません。
過去こういうことがあった。
現代でも同じようなことが起きた。
それは何故か?
ではそれを繰り返さないためにはどうすればいいか?
そんなことを探るためにあるのです。
現代に生かすために歴史は存在するのです。
経済史や経営史といった学問は大学にありますが、これらは現代の経済や経営に生かすためにあるのです。
ゆえに、それらの歴史についての論述だけ書いても、高得点は得られないでしょう年末試験で。
やはり現代の経済や経営までも勉強して、それを現代にどのように生かすかを論述しなくては及第点ギリギリか、教授によっては落第点をくれる場合もあるから注意が必要です。
しかし、学問は現代に生かすためにあるということを認識できていない教授も中にはいますから、そういう作業をしなくても高得点をくれる場合もありますから断定は難しいところです(笑)。
フランシス.フクヤマというアメリカ人の有名な歴史家がいますが、その人は『歴史の終わり』という本で有名です。
その人の歴史分析によれば、
人間が奴隷に甘んじたり服属することは、人間の尊厳を傷つけることであり、それから脱するための革命が起こるのは当然であり歴史の必然である。
そのために命落としても名誉ある死を遂げることであり何ら恥じることではない、としていた時代があった、ということです。
確かにそうですね。
自由の獲得や安寧のための闘争を舞台にした歴史ドラマを見ると、そんなかっこいい武将や武士はもちろん、家臣たちが大勢出てきますね。
このように、自由を求める闘争が、人間の歴史を作り出してきた、ということです。
休むことなく次々と大きな力求め、征服による名声得たいという意欲も出現してきたのです。
こういう人物は現代では全然見られませんが、歴史を紐解くとそういう人物は確かに現れていますね。
そういうことを考慮するに、やはり環境によって人間の精神を形作る、ということは間違いないですね。
古代の徳という市民的伝統を放棄し、それを生命延長といった近代は権利へと転化する。
これを承認求める闘争、自由求める闘争とヘーゲルは規定しましたが、フランシス氏(下写真)はヘーゲルの歴史観に多分に影響を受けているんがわかります。
現代においては、生存を確保する合理的な論理が自由を得る闘争の歴史に勝利したということです。そして、近代が動き出し、人類の闘争のために歴史が終わる、ということですね。
承認欲求や優越願望は人間にとっては根源的なものであり、その闘争の歴史が終わってもマイノリティ差別、人種差別、女性差別は永遠に終わらない。根絶は無理ということですフランシス氏にとっては。
それなりに批判はあるものの大筋では説得することが出来るので、かなりセンセーションを巻き起こした本ではあります『歴史の終わり』は。
社会の様相が当時とはかなり違うがゆえに、当時の人間の精神を理解することは難しい作業でありはしますが、いくばくかでも知るには当時のことが書いてある本を読んでどの程度かを知る必要があるし、そのまま「知りえない」というスタンスで固定的では意味がないです。
そのことを理解するために学問は存立しているのです。
その意義ですが、どの程度かは自身で主体的に研究して見極めなくてはならないのは言うまでもないことです。
第二次大戦後には、国民の大半以上が利害が一致して誰もかれもが国の立て直しに率先して働きづめになっていったのです。
ゆえに、大半の団塊の世代といわれる人たちには、現代特徴的なフリーランスな働き方には、理解できないでしょう。
やはり世相が変われば、人心も変化していくのです。
やはりそのことを心の片隅に留保しておいてほしいものです。
そんな世相に生まれ育った私の世代も団塊の世代の心情は理解できず、という感じです…って別にけんかを売るわけではないです(笑)
批判するわけでもないのです。
変化は必然という人類普遍の事象を確認しておきたいことである、ということだけです。
現代に特有の?なのかを吟味してほしいものです。
当時の経済状況、会社のシステム、機器類の違い、こういったものをくまなく調べるか、研究していった結果、このような状態に落ち着いたということを認識できれば、今の世代の働き方についての理解が出来るようになるでしょう。
自分の時代とは違うという単なる理由だけで批判するのは間違いというものです。
そして、団塊の世代の心情を理解するためには、やはり当時の人たちの事柄を書いた本を多少なりとも読むことが大事でしょう。
しかし、フランシス氏の指摘もさることながら、現代人がハングリー精神の欠如をきたしている、ということは瞠目すべき事項でしょう。
その他、武道家や歴史家といった人たちにも指摘されていたことで、いろんな本でそう書かれているのを読み、ドキッとしたものです。
そういうものの欠如は精神上よくないですし、人生を生きる上での心情上でも経済上でもよくないことは間違いないでしょう。
ゆえに、こういうものが必要と思われた人は、自身の子供や周りの人間がそういうものを持ってほしいという気概を持ったのであれば、それを模索して、答えやそれらしきものを見つけたら、実生活で実行していくことが大事でしょう。
それを学ぶには、何も大学に行かずとも、いろんな本を濫読することで限りなく探ることが出来るのです。
学問を学んでいると、そういうことをつい考えてしまうのです。
●そういう知的作業の好きな人、そんなスタンスに共鳴できる人は、以下の電子書籍.ペーパーバックはお勧めです!(※ペーパーバックとは、注文が入ったらソフトカバーで印刷をして購入者の家に届けるシステム本のことです)
⇒加藤秀俊‐この社会学者を科学する
今回はこれにて終わります。
ありがとうございました。
失礼いたします。

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