最初に宗教ありきでは人生好転しない…ではどうすればいい?
富士門流…いわゆる、日蓮の6人の弟子だった1人であった日興の流れを汲む団体である日蓮正宗は、幾多の分裂を経て今にいたります。
日蓮正宗本体、創価学会、顕正会…この3つがその中で大きな団体でしょう。
その団体に安住することなく、やはりその団体から、他の団体に移ってしまうことも往々にしてあるようです。
知り合いの顕正会の人から、その機関紙である『顕正新聞』をもらって読んでいますが、そこに書かれている体験談で、その多くを知ることができます。
以下は、創価学会から顕正会に移った例です。
以下読んでくださいませ。
「大石寺の方へ向かい勤行をするようになりました。すると、胸の奥から熱いものがこみ上げてきました。学会時代には一度も感じたことはない心が躍動する大喚起がわいてきた。」
ということです。
日蓮正宗の信徒であれば、法主といわれる人に本尊(下写真)を書いて下付され、それを家に持ち帰って、それを厨子に入れて、朝と夕に拝んで勤行する、ということが日課になっています。

しかし、創価学会にしろ、顕正会にしろ、日蓮正宗から破門処分にされていますから、会員たちは本尊を下付されなくなってしまったのです。
そこで、創価学会では、これまでにあった本尊のコピーを印刷工場でしてそれを下付することにしました。
そして、顕正会では、家にいるときに日蓮正宗の大石寺のある方角に向かって勤行するようにしたようです。
これを遥拝勤行というのだそうです。
創価と顕正会のした措置についての是非については、それぞれが論じてもらいましょう。
しかし、この体験談の人は、創価学会の偽本尊に拝んでも功徳は得られなかったようです。
しかし、遥拝勤行によってそれを感じるようになったのですから、それはそれで喜ばしいことでしょう。
学会版の本尊を家に下付することによって、金縛りになったり、大金を失ったり、事がうまく運ばなくなった、といった体験談は、新聞のみならず、動画でも多く観ることができます。
こういった意見を聞くと、やはり創価学会の本尊は良くないのだろうか?
そんなことを考えてしまいます。
私は敢然と駄目だ、という断定はしたくないです。
学会版の本尊で祈っても、そんな不幸など訪れてないし、事はうまくいっているという人も大勢知っているからです。

また、学会が日蓮正宗から破門にされる前に創価学会員だった人は、当時の法主から下付された本尊をおいて祈っているパターンもありますから、学会版の今のコピーした本尊でもいいということも断定できないのです。
じれったいですねえ…でも事実ですし、本心を書いたままです(笑)。
ことが上手くいかない。
その際にすることで最優先にすべきことは何でしょうか?
それが上手くいくために必要なことを洗いざらい列挙して、それらを敢然とこなしていくことではないでしょうか?
富士門流の人たちは、信心が最優先になってしまっている、と感じているのは私だけはないでしょう。
彼らは勤行をこなし、日蓮の仏法の素晴らしさを多くの人に語り、折伏(その団体の信者にする)していくことが最優先です。
無理もないです。
上手くいかないときは、そうするのがいい、とどの団体でも、日蓮の言葉を引き合いに出して説明しているのですから。
しかし、日蓮の仏法を語ることによって人生好転する…非常に滑稽とは思えないでしょうか?(笑)
こんにちのように科学が発達した社会においてそんなことを言うのは?
こう書くと私が無神論者と映るでしょうが、そんなことはないのです。

日蓮
日蓮の生きた鎌倉時代においては、政治の行方を占ううえで、宗教が非常に重要な役割を果たしていたのですが、その理論を現代において当てはめようとするのは間違いなのは明らかでしょう。
私がしていた空手ですが、これは体力をつけて、身体を頑強にして、攻撃を強く速くすることで勝てることなのです。
それを怠り、日蓮に縋っていっても決して強くはなれないのです。
その際にすることは、拳立て、腹筋、背筋、カーフレイズ、スクワット、、ビッグミットトレーニング、突きと蹴りの打ち込み、スパーリング、走り込み、ウェイトトレーニング…etcといろいろあるのです。
こういうすべきことを洗いざらいして列挙し、それらを全て毎日こなしてくことで強くなれるのです。
それを怠って、日蓮仏法を人に語り、折伏したって強くはなれないのです。
しかし、日蓮の思想にぞっこんになってしまった人は、すぐに日蓮の書物を引いたり、その団体で出されている冊子なり新聞なりを引き出して打開策を見出そうとしている。
やはり、受け入れる情報が最初から間違っているのです。
ゆえに上手くいかない。
それは何でか?
やはり、この団体が誤った団体だからか? という想念が浮かび、他の団体に移る。
それで好転したといって、その体験談を語るのです。
それでは根本解決にはならないでしょう。

例え一時的に上手くいっても、恒常的に上手くいくとは私は到底思えないのです。
付けたしですが、「学会時代には一度も感じたことはない心が躍動する大喚起がわいてきた。」ということですが、顕正会がしている遥拝勤行においては、大石寺にある日蓮大聖人様が生前に彫った大御本尊を想像しながら勤行しているのですから、それはコピーした本尊よりも荘厳さで勝るのは当然の事でしょう。
こういった物事の深い分析をしながら、事を見極めていき、それに適った行動を敢然とこなしていく。
その行動の積み重ねが、神や仏の支持を得て、大きな結果になるということだと私は思うのです。
しかし、そういった理にかなった方法だけではなく、他の事ですべきことも往々にしてあります。
それについて書いたのが以下の本です。
まず最初に宗教ありきではなく、論理的、合理的な判断の上ですべきことを察知して、それを敢然とこなしていく。
そういうスタンスを最初から説いているのです。
この団体ではだめだったから他の団体に移る…これでは何の解決にもならないでしょうし、その体験談を語っても人にはちょっとしか参考にならないで終わってしまうでしょう。
そして望ましい神仏へのスタンスも書いてあります。
そんな内容に興味ある人にはかなりの程度お勧めです。
●どうぞ読んでくださいませ。
→楽天Kobo
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。
次回も読んでくださいませ。

汗牛充棟.com ホーム
日蓮正宗本体、創価学会、顕正会…この3つがその中で大きな団体でしょう。
その団体に安住することなく、やはりその団体から、他の団体に移ってしまうことも往々にしてあるようです。
知り合いの顕正会の人から、その機関紙である『顕正新聞』をもらって読んでいますが、そこに書かれている体験談で、その多くを知ることができます。
以下は、創価学会から顕正会に移った例です。
以下読んでくださいませ。
「大石寺の方へ向かい勤行をするようになりました。すると、胸の奥から熱いものがこみ上げてきました。学会時代には一度も感じたことはない心が躍動する大喚起がわいてきた。」
ということです。
日蓮正宗の信徒であれば、法主といわれる人に本尊(下写真)を書いて下付され、それを家に持ち帰って、それを厨子に入れて、朝と夕に拝んで勤行する、ということが日課になっています。

しかし、創価学会にしろ、顕正会にしろ、日蓮正宗から破門処分にされていますから、会員たちは本尊を下付されなくなってしまったのです。
そこで、創価学会では、これまでにあった本尊のコピーを印刷工場でしてそれを下付することにしました。
そして、顕正会では、家にいるときに日蓮正宗の大石寺のある方角に向かって勤行するようにしたようです。
これを遥拝勤行というのだそうです。
創価と顕正会のした措置についての是非については、それぞれが論じてもらいましょう。
しかし、この体験談の人は、創価学会の偽本尊に拝んでも功徳は得られなかったようです。
しかし、遥拝勤行によってそれを感じるようになったのですから、それはそれで喜ばしいことでしょう。
学会版の本尊を家に下付することによって、金縛りになったり、大金を失ったり、事がうまく運ばなくなった、といった体験談は、新聞のみならず、動画でも多く観ることができます。
こういった意見を聞くと、やはり創価学会の本尊は良くないのだろうか?
そんなことを考えてしまいます。
私は敢然と駄目だ、という断定はしたくないです。
学会版の本尊で祈っても、そんな不幸など訪れてないし、事はうまくいっているという人も大勢知っているからです。

また、学会が日蓮正宗から破門にされる前に創価学会員だった人は、当時の法主から下付された本尊をおいて祈っているパターンもありますから、学会版の今のコピーした本尊でもいいということも断定できないのです。
じれったいですねえ…でも事実ですし、本心を書いたままです(笑)。
ことが上手くいかない。
その際にすることで最優先にすべきことは何でしょうか?
それが上手くいくために必要なことを洗いざらい列挙して、それらを敢然とこなしていくことではないでしょうか?
富士門流の人たちは、信心が最優先になってしまっている、と感じているのは私だけはないでしょう。
彼らは勤行をこなし、日蓮の仏法の素晴らしさを多くの人に語り、折伏(その団体の信者にする)していくことが最優先です。
無理もないです。
上手くいかないときは、そうするのがいい、とどの団体でも、日蓮の言葉を引き合いに出して説明しているのですから。
しかし、日蓮の仏法を語ることによって人生好転する…非常に滑稽とは思えないでしょうか?(笑)
こんにちのように科学が発達した社会においてそんなことを言うのは?
こう書くと私が無神論者と映るでしょうが、そんなことはないのです。

日蓮
日蓮の生きた鎌倉時代においては、政治の行方を占ううえで、宗教が非常に重要な役割を果たしていたのですが、その理論を現代において当てはめようとするのは間違いなのは明らかでしょう。
私がしていた空手ですが、これは体力をつけて、身体を頑強にして、攻撃を強く速くすることで勝てることなのです。
それを怠り、日蓮に縋っていっても決して強くはなれないのです。
その際にすることは、拳立て、腹筋、背筋、カーフレイズ、スクワット、、ビッグミットトレーニング、突きと蹴りの打ち込み、スパーリング、走り込み、ウェイトトレーニング…etcといろいろあるのです。
こういうすべきことを洗いざらいして列挙し、それらを全て毎日こなしてくことで強くなれるのです。
それを怠って、日蓮仏法を人に語り、折伏したって強くはなれないのです。
しかし、日蓮の思想にぞっこんになってしまった人は、すぐに日蓮の書物を引いたり、その団体で出されている冊子なり新聞なりを引き出して打開策を見出そうとしている。
やはり、受け入れる情報が最初から間違っているのです。
ゆえに上手くいかない。
それは何でか?
やはり、この団体が誤った団体だからか? という想念が浮かび、他の団体に移る。
それで好転したといって、その体験談を語るのです。
それでは根本解決にはならないでしょう。

例え一時的に上手くいっても、恒常的に上手くいくとは私は到底思えないのです。
付けたしですが、「学会時代には一度も感じたことはない心が躍動する大喚起がわいてきた。」ということですが、顕正会がしている遥拝勤行においては、大石寺にある日蓮大聖人様が生前に彫った大御本尊を想像しながら勤行しているのですから、それはコピーした本尊よりも荘厳さで勝るのは当然の事でしょう。
こういった物事の深い分析をしながら、事を見極めていき、それに適った行動を敢然とこなしていく。
その行動の積み重ねが、神や仏の支持を得て、大きな結果になるということだと私は思うのです。
しかし、そういった理にかなった方法だけではなく、他の事ですべきことも往々にしてあります。
それについて書いたのが以下の本です。

まず最初に宗教ありきではなく、論理的、合理的な判断の上ですべきことを察知して、それを敢然とこなしていく。
そういうスタンスを最初から説いているのです。
この団体ではだめだったから他の団体に移る…これでは何の解決にもならないでしょうし、その体験談を語っても人にはちょっとしか参考にならないで終わってしまうでしょう。
そして望ましい神仏へのスタンスも書いてあります。
そんな内容に興味ある人にはかなりの程度お勧めです。
●どうぞ読んでくださいませ。
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。
次回も読んでくださいませ。

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