山折哲雄 『空海に秘められた古寺の謎』

空海は真言宗の開祖です。
開祖になる人は、普通の人が経験しないような神秘的な経験もするのも特徴のようです。
「室戸岬にいって念誦に務めた空海、すると奥深い静かな谷が声に感応して明星が来映した」 という文章で、この本は始まります。
以後、日々物事を理解できるようになり、筆をおろせば自ずと文が書けるようになった。
空海の幼少期は生まれつき聡明でよく物事を知っており、5〜6歳過ぎるころには、神童とよばれるようになったようです。
待講(天皇や親王に仕えて学問の講義する)だった叔父について学問の基礎を修め、18歳で修学おえて、大学(官吏養成)へ。
官吏の道をすてて仏門へ。
処女作『三教指帰』を著す。
こんな経緯があるのです。
虚空蔵求聞持法(物事を理解し、記憶する力もとめる法)を空海は修めました。
呪句を100万回唱え続けるのが基本でした。 50〜100日間で終えなくてはならないのを空海はこれを修了しました。
そして、虚空蔵菩薩の化身である明星が大空に姿現しました。
こういう経験をするうちに立身出世や富の追及の暮らしには虚しさをおぼえるようになった空海は、正規の得度は得ずに、私度僧、優娑塞として活動していた。
官寺には属さない孤高の沙門として私道に歩み、四国や吉野の山野めぐる。
無常、縁起、輪廻転生の理を説き、菩提心をおこして仏道に励み儒教、道教、仏教教義にかなり精通するようになった。
そういった開祖になる人は、多くの道に精通していることが共通点として挙げられます。
知的に貪欲なんですね。 大乗仏教がインドで生まれ、それが中国へ渡り、ここから密教が生まれたのです。
バラモンの影響下の密教でした。
密教は悟りを得て、解脱に至ることです。
それを空海は遣唐使として中国に渡り学ぶのでした。
密教は雑密(真言、陀羅尼(呪句)による所願成就)と純密(大日経、金剛頂経)あり、空海は初め雑密を学び後に純密を学びます。
所願成就のためには、神秘的な呪術的な儀式が必要です。
空海は夢で、汝に必要なのは大日経だと啓示を受けたといいます。
また、新たな宗派を興す人の共通点として、神や仏から啓示を受けることもある、ということです。
イスラム教のムハンマドしかり、統一協会の文鮮明しかり、モルモン教のジョセフ.スミス(下写真)しかりです。

たぐいまれなる知的好奇心の盛んな空海は、久米寺で大日経も学ぶもよく理解できないから遣唐使として唐にわたったのです。
唐に渡り、そこで仏教を学び、それを日本に持ち帰った僧として空海とともに有名なのは最澄でしょう。
最澄は天台教学の研究、講説を盛んに送り、桓武天皇や貴族に信頼を得て、仏教界の寵児になったのです。
長安は西域から多くの人が往来していて、西明寺が空海の居所でした。
ここにはゾロアスター教、キリスト教ネトリウス派の施設もあり、大雲光明寺(マニ教寺院)もあったのです。
このようにいろんな宗教が雑居しているところでは、それぞれの特徴ある部分を知らず知らずのうちに取り込んでしまうのが人間の自然な性なのです。
真言でなされている、供え物を火に投じて祈願する護摩炊きは、当然、ゾロアスター教からの影響を受けていることは間違いないのです。

やはり純粋な仏教なるものはないのです。
最初に師事した醴泉寺の般若参蔵(南インドで密教学んだ北インド人)は、北インド人ゆえに梵語に習熟していました。
真言、陀羅尼は梵語を漢字によって音写したモノだったので、密教の解明には必須でした。
金剛頂経を恵果はコチラを重んじ、青龍寺に阿闍梨として密教を弘めました。
西明寺で恵果に空海は会います。 曼荼羅は美術品とほぼ同じ。観ながら呪句を唱え、深い瞑想に入り、この世界に没入します。
空海は伝法阿闍梨位灌位頂(密教の大法を人に教えてもいいという資格)を受けました。
密教は図画を用いなければ正しく伝えられない。 曼荼羅の図画、密教経典の書写、法具の制作をしたのです。
そこで重要なのは以下の行動です。
身密‐手指の形である印(印契、印相)を結ぶ。
口密‐マントラ、梵語の呪句の読誦
意密‐深い瞑想、祈念
かの有名な日蓮も身密は排除しながら、口密と意密は取り入れたのは明白です。
それは日蓮正宗の勤行要点を見れば明白です。
この3つを同時に実行して絶妙に作用させあうと、超常的なパワーが生じて、種々の祈願が成就して自我が仏と一体になり即身成仏に至るとしたのです。
これを密教修法というようです。
唐にいるのは20年のはずが、2年で申請し帰国した空海。
学術、芸術、技術のエッセンスを空海は中国から持ち込んだのです。
宇宙の中心は太陽、世界の中心に座るのは大日如来、この2つが同体 この2つの存在の働きで左右されるから太陽と大日如来の名を唱えよ!としたのです。
当時の京都は、密教がブームになっていました。
桓武天皇は、政争で敗れた人たちの怨霊の鎮撫、病気の治癒を祈祷に期待していたのです。
その際に密教が必要だったので、最澄に期待がかけられていたようですが、最澄は断片的に密教を学んだだけだったようです。

最澄
空海は、高雄山寺に入寺し、ここで最澄とかかわりあい、これが密教宣布の始まりだったのです。
弘仁13年2月、東大寺の南院灌頂道場;鎮護国家の法を学ぶように空海は命じられました。
天長1年(824) 3月26日 空海は少僧都になり、高雄寺が定額寺(一定数を限り官寺に準じて特典を与えられ,官稲などを賜わった私寺)になり、のちに神護国祚真言寺になりました。 真言院を宮中に設けられました。
1月8日から7日間、僧に真言密教まで収めさせて国家安穏を祈願したのです。
今は東寺でおこなわれるようになり、東寺長者が金剛峯寺の座主になりました。
東寺が本寺、金剛峯寺が末寺になったのでした。

ここを読むといかに当時、密教が国家行事として重宝されたいたかがわかり唖然とするでしょう。
私は大学受験に日本史を選びましたが、ここまで深く密教について学んではいなかったのです。
ですから驚きでした。
密教の経論には、深山の平地こそがもっとも密教修行にふさわしいとされ、高野山は密教の根本道場になり、僧の修行地を営むのに、理想的とされたのです。
布教だけでなく、空海は讃岐国の万農池に行き土木技術駆使しこれを修築しました。
社会事業として、橋かけ、井戸を掘りました。
これらは「済生利民」菩薩道の理念にかなっているのは明白でしょう。
また空海が展開したのは、種智院における総合教育で、ここにおいて僧侶と博士(儒教、道教)おかれたのです。
ここは、学費無料、衣食住給付、身分問わずだれでも門戸を開き、儒教、道教、仏教を教えられました(長老は幕府が任命)。
ここで疑問に思うのは、空海がこういう社会的、慈善的なことをしてきたにもかかわらず、なぜ日蓮は真言を邪道、悪法としたかわからないということです。
それはのちの私の研究に関わってくるのですが、空海よりも最澄の天台の方に意識や好みが偏っていったのは間違いないです。
日蓮は真言も学び、天台も学んだのは明白な事実で、その天台の部分を借用して、自身の宗教を展開していったのは明らかになっています。
それは以下の本でも解明されています。

承和元年3月21日 空海は臨終を迎え、淳和天皇が弔書送ることになりました。
「いまも衆生に利益をもたらしている空海」という弘法大師入定留身信仰が今も存在しているのです。
眼を閉じて言葉を発しないことが入定の意味だそうです。
金剛峯寺では今でも、空海が生きているとして、御廟に朝と昼に調理された供え物が給仕されているというのです。
その後、空海が入定している高野山を弥勒浄土と同一視する信仰派生し、鎌倉時代に皇族、貴族、武士の信仰を集めて霊場化がすすみ、新たな堂塔が建立されました。
体外的な布教活動が活発化し高野山の納骨を進め、高野山が納骨霊場になり、日本菩提所になったのです。
しかし、こういった密教が盛んになったにもかかわらず、それに否定的な意見を言う新たな仏教の派の開祖が現れるのでした。
前出の日蓮(下写真)です。

国が悪天候に見舞われて、争いが絶えず行われ、他国からの侵逼も起る。
これは、国が真言、律、念仏を唱えているからだ。
それを辞めさせて、法華経を唱えれば、国は治まると日蓮はしたのでした。
その論拠は、今になって思えば短絡的で片務的だったと思わざるを得ないですね。
日蓮の生きた鎌倉時代には、祈ることによって、事を好転させることができるとして宗教とくに仏教が重んじられていたのです。
しかし、世の中をくまなく分析する技術はなかったのです。
科学的な分析法ですね、気候、風土、経済活動などについての。
それがなかったがために、宗教に祈るほかなかった。
しかし、それだけでうまく事が運ぶはずはなく、いくら仏教の多団体が祈っても好転できなかった。
そこで既存の宗教が、否定されることになったのでしょう。
日蓮が自分で起こした宗教こそが真理だ、といったニュアンスを発したのでした。 当時の日本は旱魃が続き、草木は枯れて、水が不足していたのです。
当然餓死者も大勢出ていたのです。
そこで日蓮に反発した念仏宗の良観が、その念仏で雨を降らせると断言したのです。
そこで、日蓮はその念仏で雨が降ったら、私はあなたの臣下になるといったようです。
しかし良観が雨乞いの念仏を7日間あげたにもかかわらず雨は降らなかった。
そしてもう7日間あげても雨が降らなかったという史実は、日蓮系の宗教ではよく引き合いに出される事項です。
しかし、そこで疑問に思ったのは、ではなぜここで日蓮は南無妙法蓮華経と唱えなかったのか? ということです。
そこでそう唱えて雨がふれば、日蓮の理論は正しいし信憑性があるし、私は理に適っていると思ったのですがいかがでしょうか?
やはり、ここでうすうす日蓮も宗教の限界に気づいていたのではないでしょうか?

そこで、「末法になるといろんな天災厄が起きる。そして戦争の準備をして他国の人間を警戒させると、(戦争などの災厄が起きて)大勢の人が死んで地獄に堕ちる。しかし(妙法蓮華経と書かれた)曼荼羅を身に持していけば、王は国を助けて国民は難を逃れることができると」
といったのではないかと思われてならないのです。
ただ他の宗教については否定的な意見を言っていた。
確かに、日蓮の言ったことで当たっていた部分(他国侵逼難など)はあったことは間違いないです。
しかし、その理論も今となっては間違いであることは明白です。
これでは日蓮に全般の信頼を置くことはできないです、学ぶところは部分的にはありますが。
今でも真言宗寺院は全国に敢然と存在して、その利益にあずかっている人は大勢います。
日蓮系の寺院よりも少ないとはいえ、それでも空海の遺した史蹟や偉業や理念は敢然と存在し続けています。
それらがなくなるわけでは決してないのです。
それを無視して、この宗教を信じよなどと言っても誰も納得いかないでしょう。
私が住む東京には、一番距離的に近い真言宗寺院として高幡不動があります。
家から遠いので、そんなに回数はいけないけれども、近くに来た場合は立ち寄ることにしています。
そこに足を踏み入れた時の荘厳な気分は何とも言えないものを持っています。
そんな澄み切った気分になれる時間は他にかえがたいものがあります。
お賽銭を入れて、その境内にある出店で和菓子を買って食べて、そこで休むのです。
言っては悪いかもしれませんが、顕正会の会館に足を運んでも、こんな荘厳な気分にはなれないです(笑)
こういう特長を素直に認められずに、自分の宗教だけに意識をフォーカスするのは間違いでしょう。
その他、金剛峯寺にはどのような本尊や仏像が祀られ、どういった経緯で戦国武将たちの仏塔が高野山に建てられ、どのような経緯で金剛峯寺で神仏習合が進んでいったか、空海が帰朝した後にどのような影響を日本をもたらしたがなどが書かれています。
●興味ある方はおすすめです。

今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。
次回も読んでくださいませ。

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