日本歴史上、唯一の偉業をなした真言宗のその詳細は何か?
『空海に秘められた古寺の謎』を読んでいると、非常に興味深くなりました。
今の自分の周りには、創価学会やその信徒団体時代の本体であった日蓮正宗の寺院、そしてその信徒団体の1つでもあった顕正会の人たち、同じ日蓮の教えを基本とする立正佼成会の高校が近くにあったりと、日蓮系の関係が多いです。
全くと言っていいほど真言宗の関係のものはないです。
自転車で走っていて、わずかに、真言宗系の寺院をたまに見かけるくらいです。
何故ここまで真言系は少なくて、日蓮系は多いか? 真言宗は密教ゆえに、いかがわしいイメージを持たれてしまうようです。
そして護摩炊きのイメージもあり、それもまた忌避しがちであるという理由になってしまうでしょう。

しかし、日蓮系,とくに創価学会は清楚なイメージが強く、現代社会との融和が施されているといった感じを与えているために、すんなりと受けいられやすいのでしょう。
また、日蓮は、楽観的な協議を展開し、今生きている現世から逃避するのではなく、自ら自分の身の周りをよくしていくように勧めていたのです。
やはり目の前が、開けるような教えの方がウケがいいのは普遍的な事実であるようです。
しかし、空海(下写真)の展開した理論も、楽観主義であったことは間違いないでしょう。

ただ密教的なイメージが、好感度を下げていたと私は思うのです。
ここでは真言宗の広布のことについて言及しましょう。
空海の著作の鎬矢は『弁顕密二教論』であり、自らの悟りを自ら享受する真理そのものである大日如来がさとって境地を説いた。
これが密教の根本になるのでしょう。
空海は観自らの悟りを自ら享受する真理そのものである大日如来がさとって境地を説いた。
これが密教の根本になるのでし縁疏(かんえんのしょ)を弟子たちに持たせて、各地につかわし、写経を勧めたのでした。
その写経をおこなうにあたり、桓武天皇(下写真)の時世に、国費で賄われたようです。

それくらい、密教は国から尊重されていたのです。
桓武天皇は政争で敗れた人たちの怨霊の鎮撫、病気の治癒を祈祷に期待していた。
空海は、弘仁13年2月、東大寺の南院灌頂道場;鎮護国家の法を学ぶように命じられました。
日蓮正宗系の1つである顕正会の会長だった浅井昭衛氏は、日蓮正宗系がこういう状態になるのを夢見ていたに違いありません。
天長1(824)年3月26日、空海は少僧都に、高雄寺が定額寺(一定数を限り官寺に準じて特典を与えられ,官稲などを賜わった私寺)になりました。
のちに神護国祚真言寺になるのです。
真言院を宮中に設けます 1月8日から7日間、僧に真言密教まで収めさせて国家安穏を祈願しました。
今は東寺でおこなわれるようです。
承和元年3月21日、空海が臨終し、淳和天皇が弔書送るのです。
天皇のバックを経て、布教をなされた例は、日本では真言宗だけでしょう。
これくらい名誉的に栄えた真言宗でしたが、時代が下って室町時代になると、急速に地位を落としていきました。
応仁の乱によって天台、真言、禅の諸宗が壊滅状態になったようです。
京都.洛中には拡張された日蓮宗寺院が再興されて、本国寺の祖師二百遠忌の大法寺には、参詣の信者が多いのに目を見張るほどだったようです。
日蓮が描いていた仏国土顕現の夢が京都で実現したのです。

日蓮
しかし、ここをどう評価するかは、人によって違ってくるでしょう。
京都. 洛中という狭い地域だけで栄えただけでは仏国土とは言えないのではないか?
いな、天皇のバックを得ていないでこれまでにない前代未聞の事態であるから、それは仏国土として評価していいだろう。
いろいろあると思います。
しかし鎌倉時代に興った宗教が、長らく息絶えずに生きてきたという期間的な例と、かなりの信者を獲得したという2点で評価することができるのは、やはり日蓮正宗の信徒団体だった創価学会でしょう。
日蓮には6人の弟子がいて、そのうちの日興のみが日蓮の教えだけを一途に伝えていったのです。
この日興上人の流れを汲むのが日蓮正宗。
それ以外の5人の弟子たちは、日蓮の教えのほかに、神道などの他の教えも交えて展開していったようです。
その5人の僧たちの流れを汲むのが、日蓮宗とされているのです。
日興の流れを汲む日蓮正宗の再興にあたって、一番評価されていいのは、その信徒団体だった創価学会でしょう。
第二次大戦後、この団体の2代目会長だった戸田城聖氏によって、日蓮正宗の本山である大石寺への定期登山会が企画、推進されたのです。

土日、祝日は参詣者で境内は大いににぎわうことになり、それにより、大石寺は急激に潤うことになったようです。
なぜなら、当時急激に会員を増やしていた創価学会員が、登山のたびに拝観料を払っていたのみならず、周辺にはいろんな食べ物が売られた縁日が出ていて、そこで大勢の人がものを買えば当然、大石寺は潤うことになったのですから。
その時には、150軒もの縁日が軒を連ねていたのだそうです。 そしてそれによる収益は年100億円以上だったのが明らかになっているのです。
定期登山会が開始されてから、40年間で7000万人が大石寺に参詣しました。
これこそまさに仏国土と言っていいでしょう。
これも評価されていい事態ですね。
昨年亡くなった顕正会の会長だった浅井昭衛氏は、国民全員が日蓮の教えに帰依した状態こそが、広宣流布と言っていたのですが、そんなことは不可能です。
その状態になってこそ、日本に仏国土が到来するといっていたのです。

浅井昭衛
そんな経緯を経た歴史的な事実はないのに、こういうことが書ける根拠が分からないのです。
20年間キリスト教を信じていた人を日蓮正宗系に改宗させることは可能か?
不可能です。
30年以上浄土真宗の信者だった人に、日蓮正宗系に改宗させることは可能か?
不可能に決まっています。
昭衛氏は、日蓮正宗を国教にしてしまうことを目的にしていたようです。
これまでの歴史上で、天皇の支持を得て全国規模で布教をされたのは、1つだけ、真言宗だけなのです。
それ(真言宗)を国教にしようというのなら、まだ話は分かります。
そういう経験論があるのですから。
しかし、それも今の政教分離の時代では不可能です。
聖武天皇による大仏の建立は、特定の仏教の派を支持したことで成り立ったことではないのです。
聖武天皇の時代は、分派の間を隔てて仏教が論じられる時代的背景はなかったのです。
それだけ真言宗は偉業を持っているのです。
それについて知りたい人には、『空海に秘められた古寺の謎』を勧めしたいです。
非常にわかりやすい筆致で書かれていますので。
●お勧めです!

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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。
次回も読んでくださいませ!

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今の自分の周りには、創価学会やその信徒団体時代の本体であった日蓮正宗の寺院、そしてその信徒団体の1つでもあった顕正会の人たち、同じ日蓮の教えを基本とする立正佼成会の高校が近くにあったりと、日蓮系の関係が多いです。
全くと言っていいほど真言宗の関係のものはないです。
自転車で走っていて、わずかに、真言宗系の寺院をたまに見かけるくらいです。
何故ここまで真言系は少なくて、日蓮系は多いか? 真言宗は密教ゆえに、いかがわしいイメージを持たれてしまうようです。
そして護摩炊きのイメージもあり、それもまた忌避しがちであるという理由になってしまうでしょう。

しかし、日蓮系,とくに創価学会は清楚なイメージが強く、現代社会との融和が施されているといった感じを与えているために、すんなりと受けいられやすいのでしょう。
また、日蓮は、楽観的な協議を展開し、今生きている現世から逃避するのではなく、自ら自分の身の周りをよくしていくように勧めていたのです。
やはり目の前が、開けるような教えの方がウケがいいのは普遍的な事実であるようです。
しかし、空海(下写真)の展開した理論も、楽観主義であったことは間違いないでしょう。

ただ密教的なイメージが、好感度を下げていたと私は思うのです。
ここでは真言宗の広布のことについて言及しましょう。
空海の著作の鎬矢は『弁顕密二教論』であり、自らの悟りを自ら享受する真理そのものである大日如来がさとって境地を説いた。
これが密教の根本になるのでしょう。
空海は観自らの悟りを自ら享受する真理そのものである大日如来がさとって境地を説いた。
これが密教の根本になるのでし縁疏(かんえんのしょ)を弟子たちに持たせて、各地につかわし、写経を勧めたのでした。
その写経をおこなうにあたり、桓武天皇(下写真)の時世に、国費で賄われたようです。

それくらい、密教は国から尊重されていたのです。
桓武天皇は政争で敗れた人たちの怨霊の鎮撫、病気の治癒を祈祷に期待していた。
空海は、弘仁13年2月、東大寺の南院灌頂道場;鎮護国家の法を学ぶように命じられました。
日蓮正宗系の1つである顕正会の会長だった浅井昭衛氏は、日蓮正宗系がこういう状態になるのを夢見ていたに違いありません。
天長1(824)年3月26日、空海は少僧都に、高雄寺が定額寺(一定数を限り官寺に準じて特典を与えられ,官稲などを賜わった私寺)になりました。
のちに神護国祚真言寺になるのです。
真言院を宮中に設けます 1月8日から7日間、僧に真言密教まで収めさせて国家安穏を祈願しました。
今は東寺でおこなわれるようです。
承和元年3月21日、空海が臨終し、淳和天皇が弔書送るのです。
天皇のバックを経て、布教をなされた例は、日本では真言宗だけでしょう。
これくらい名誉的に栄えた真言宗でしたが、時代が下って室町時代になると、急速に地位を落としていきました。
応仁の乱によって天台、真言、禅の諸宗が壊滅状態になったようです。
京都.洛中には拡張された日蓮宗寺院が再興されて、本国寺の祖師二百遠忌の大法寺には、参詣の信者が多いのに目を見張るほどだったようです。
日蓮が描いていた仏国土顕現の夢が京都で実現したのです。

日蓮
しかし、ここをどう評価するかは、人によって違ってくるでしょう。
京都. 洛中という狭い地域だけで栄えただけでは仏国土とは言えないのではないか?
いな、天皇のバックを得ていないでこれまでにない前代未聞の事態であるから、それは仏国土として評価していいだろう。
いろいろあると思います。
しかし鎌倉時代に興った宗教が、長らく息絶えずに生きてきたという期間的な例と、かなりの信者を獲得したという2点で評価することができるのは、やはり日蓮正宗の信徒団体だった創価学会でしょう。
日蓮には6人の弟子がいて、そのうちの日興のみが日蓮の教えだけを一途に伝えていったのです。
この日興上人の流れを汲むのが日蓮正宗。
それ以外の5人の弟子たちは、日蓮の教えのほかに、神道などの他の教えも交えて展開していったようです。
その5人の僧たちの流れを汲むのが、日蓮宗とされているのです。
日興の流れを汲む日蓮正宗の再興にあたって、一番評価されていいのは、その信徒団体だった創価学会でしょう。
第二次大戦後、この団体の2代目会長だった戸田城聖氏によって、日蓮正宗の本山である大石寺への定期登山会が企画、推進されたのです。

土日、祝日は参詣者で境内は大いににぎわうことになり、それにより、大石寺は急激に潤うことになったようです。
なぜなら、当時急激に会員を増やしていた創価学会員が、登山のたびに拝観料を払っていたのみならず、周辺にはいろんな食べ物が売られた縁日が出ていて、そこで大勢の人がものを買えば当然、大石寺は潤うことになったのですから。
その時には、150軒もの縁日が軒を連ねていたのだそうです。 そしてそれによる収益は年100億円以上だったのが明らかになっているのです。
定期登山会が開始されてから、40年間で7000万人が大石寺に参詣しました。
これこそまさに仏国土と言っていいでしょう。
これも評価されていい事態ですね。
昨年亡くなった顕正会の会長だった浅井昭衛氏は、国民全員が日蓮の教えに帰依した状態こそが、広宣流布と言っていたのですが、そんなことは不可能です。
その状態になってこそ、日本に仏国土が到来するといっていたのです。

浅井昭衛
そんな経緯を経た歴史的な事実はないのに、こういうことが書ける根拠が分からないのです。
20年間キリスト教を信じていた人を日蓮正宗系に改宗させることは可能か?
不可能です。
30年以上浄土真宗の信者だった人に、日蓮正宗系に改宗させることは可能か?
不可能に決まっています。
昭衛氏は、日蓮正宗を国教にしてしまうことを目的にしていたようです。
これまでの歴史上で、天皇の支持を得て全国規模で布教をされたのは、1つだけ、真言宗だけなのです。
それ(真言宗)を国教にしようというのなら、まだ話は分かります。
そういう経験論があるのですから。
しかし、それも今の政教分離の時代では不可能です。
聖武天皇による大仏の建立は、特定の仏教の派を支持したことで成り立ったことではないのです。
聖武天皇の時代は、分派の間を隔てて仏教が論じられる時代的背景はなかったのです。
それだけ真言宗は偉業を持っているのです。
それについて知りたい人には、『空海に秘められた古寺の謎』を勧めしたいです。
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。
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