佐伯啓思 『神なき時代の終末論』


佐伯啓思氏の本は、相も変わらず身近なものに対して奥深く考えさせてくれる威力も持っていて、読み始めるといつしか時間がたつのを忘れてしまうものです。
何気なく当たり前に持っている思想の根源を今回の『神なき時代の終末論』は考えさせてくれました。
そして毎日聞かないことはない経済についてもです。
この世界にくらしていて、当然の権利になっているものに関して考えさせてもらいました。
『歴史の終焉』で有名なフランシス.フクヤマですが、この人はヘーゲルに影響を受けたのは明白で、ヘーゲルが言う「人間は称賛得たいという意欲が原動力になって歴史を動かしてきた」という文言をあまり変形や加味をしないで受けているようです。
そしてそれを自身の本の中で展開しているのです。

フランシス.フクヤマ
それが、ヘーゲルの時代において、それなりの支持を受けてきたということは、共感する人が多かったということでしょう。
しかし、今の私たちには、少なくとも私にはパッとしない理論ではあります。
そういった称賛を得ようという意欲がわいてこないからですね。
それは倫理学が発展して、人を貶すよりも褒めるほうが人間関係にはよろしいということが広く認識されるようなったからでしょうか?
であるとすれば、ヘーゲルが生きた時代よりも人心が高次にになったということでしょうか?
そして、それを公然と多く私にして来てくれた周りの人間たちに感謝しなくてはならないことだろうということでしょう。
また同時に倫理学の発達にもです。

そして、フクヤマは「この欲求は、しばしば自分が他人よりも優れているという優越願望に転嫁する。」としているのです。
そういう優越願望も不問にされてしまう現代においては、やはりさらに人心が高次なものになったということでしょう。
この言説は、ホッブズも唱えていたことからかなり普遍性を持ち、多くの人に支持されていたということでしょう。
そして、日本の福沢諭吉は、奴隷に甘んじ、服属することは、人間の尊厳を傷つけるとして、その状態が維持されれば革命が起こるのは当然だとしているのです。
これを覆すならば、命落としても名誉ある死を選ぶのが人間としての尊厳だとしているのです。
この「自由を求める闘争」が、歴史を作り出してきたのです。
西欧だけが歴史を先導してきたという自負があり、フランス革命が切り開いた近代市民社会にはもはや主人も奴隷もないとすれば、自由をめぐる闘争もない。
命をとしてまで戦う価値はない。
そこに情熱など生まれようはずはないのです。
「豊かな時代に英雄はいない」という言葉を某本で読んだことがあるのです。

そういう言説を読んでも、もはや異世界のことのように感じるのであれば、やはり私たちが豊かすぎる世の中に暮らしているゆえなのでしょう。
ここで何を考えて行動するか、ですね。
生存を確保する合理的な論理が自由を得る闘争の歴史に勝利する。
そこで近代が動き出し、そして「歴史が終わる」ということです。
実に現代人に頂門になりえる本だということがわかりました。
この本を読むだけでなく、こういう豊かすぎる社会に暮らして来たらどういう人間に育ってしまうか、という弊害について書いた本をも読むべきでしょう。
そういう積み重ねによって、自分の市民としてのすべきことが明らかになっていくのです。
ただ漫然と1つの本だけを読むのであれば、あまり意味は薄弱と言わざるを得ないでしょう。
かの有名なニーチェは、これらの思想家たちの言説から影響を受けたのか、以下のような言説を引き出しているのです。
「支配者からの支配権を奪い取るという 劣等感と嫉妬心と屈辱感がないまぜになった反感が、鬱積していく。
その負の感情がルサンチマンになり自らが、支配者になりたいという欲望をたきつけ、近代革命を起こした。
批判主義もこの近代革命の延長線上にある。
キリスト教道徳こそは、神という絶対の主人に服従する奴隷としての人間が、自己満足的に生み出した奴隷道徳だった!」
佐伯氏は過去の思想家や哲学者の言説を拾い上げて、巧みにつなぎ合わせて論じる能力があるようです。
巧みに溶け込んでいるのです。
「」をつけて引用して、他愛もないコメントをしているだけの似非学者とは違うようです。
その他、佐伯氏は、ユダヤ賤民資本主義、現在の主にアメリカの新自由主義の弊、現代経済学の世界全般での弊といった通底する問題群についてわかりやすい事例を引き合いに出しながら論じているのです。
そういう問題点を交えて言説は論じていかなくては本は出す意味がないのです。
出す意味が非常に高かったと思わざるを得ないこの本は非常にお勧めです。
●以下よりどうぞ。




♯佐伯啓思
♯文明
コメントを書く... Comments