宗教に入れば必ず楽園が築ける、は誤り。そんな宗教はあり得ない!
日蓮正宗からは、創価学会や顕正会といった信徒団体ができていました。
今、それらの信徒団体はいずれも正宗からは破門にされています。
そして別々の道をたどることになったのですが、そのなかで創価学会は最大の組織になり、全盛期には国民10人に1人が創価学会員になるまでになりました。
その創価学会から顕正会に移る人。
あるいは正宗から創価学会に移る人。
顕正会から創価学会に移る人。
いろいろあるようです。
その移る理由も千差万別のようです。
中でも多いのは、組織の人員、中でもその長の人間性に疑問を持ち、それが長年我慢していたのを我慢できなくなって抜ける、ということがあるようです。
創価学会から顕正会へ移った人の体験談を以下にあげましょう。
「千葉文化会館で池田大作と同じテーブルについた。
池田の横柄な態度や、学会幹部の理不尽さに嫌気がさし、学会活動へのやる気が失せて「総ブロック長」「教学部教授」という肩書を持ちながら、徐々に学会の組織から離れていきました。」
そして結局、学会から抜けたようです。
池田大作
宗教に入信あるいは入会する人は概して優しい人が多いようです。
礼儀正しくて、人の心を重んじて接してくれる。
そんな人が多いようです。
心優しい人は、そういう人たちを見て、そこに入会していくようです。
しかし、例外的にこういうことも出くわしてしまうのです。
この人の体験談だけでなく、他の創価学会について書いた本を紐解くと、やはり池田大作の人間性について嫌気が際して辞めていく人の例は多いようです。
そういう体験談を読むと、創価の機関紙である『聖教新聞』だけしか読んでこなかった人は、それはその人の偏見だ、出鱈目だ、インチキを書いているんだ、といったことを口走るのです。
聖教新聞においては、池田大作の批判など書くはずがないのです。
それらを書いたら、団体としての結束が緩くなりますから。
だから批判的な意見を聞くと、信じれなくなってしまうのです。
しかし、そういう批判があったら、謙虚にその人の意見を聞くべきなのです。
その人の意見が書いた本を謙虚に読んでみるべきなのです。
そしてその人の意見と、創価当局の意見を比較考慮していく姿勢を持つべきでしょう。
創価学会の意見だけ読んでいては、全貌は明らかにはなりませんし、創価の意見だけを聞いていて、批判する人の意見を聞かないで、その意見した人の意見を捨ててしまっては、何のための宗教かと疑問に思ってしまいます。
宗教のほうが大事で、その構成する人の意見は蔑ろにする。
これではまさに本末転倒です。
そうならずに、いろんな意見を取り込む必要があるのです。
私も創価学会に入っていた時期があるので、わかりますから池田大作無謬論などという姿勢にはならないのです。
いくら名誉会長であろうと、著作を多数出していてもです。
誰にだって完璧など目指すべくもできない芸当なのですから、そこは謙虚になるべきでしょう。
もちろん私だって完璧ではないです。
元々は池田大作氏も優しい人間だったのでしょう。
しかし、横柄になり、人を蔑ろにしてしまうように豹変してしまったのは、権力の魔性というべきものでしょうか?
世界で何億もの信者がいる組織の長ともなれば、自分に意見する人がいなくなる。
そして、ボトムアップで下の人の意見を汲まなくても組織は存続していける。
そうなれば、自分の姿勢を正す必要もない。
幼少のころ、青年だったころのように、𠮟責してもらいながらいろんなことを学び続けていた謙虚な心は雲散霧消してしまっている。
そうなれば、人が離れてしまうのは致し方ないでしょう。
創価学会に入るように私に勧めてくれた人は、「ここに入って祈れば必ず人生は好転する。」ということだったです。
問題点は必ず好転する、良き方向へ向かわせることができる、ということでしょう。
しかし、池田大作のこのような変貌ぶりを見たら、そんなことは到底信じれないでしょう。
ではどうすればいいか?
他の日蓮正宗系の団体に移籍すればいいか?
他の宗教にはいればいいか?
そういう議論ではないのです。
要は、その当人が良くなるように自身で目覚めるか、側近の人が諭し、当人が目覚めてその道を矯正できるかどうかなのです。
お経を唱えてどうにかなるものでもないのです。
そういう謙虚さを維持したいと思うからこそ、私は読書を通じて矯正を試みているのです。
大学を出たからもう学ぶものはない、ではないのです。
前代の法主であった阿部日顕が、創価学会員が350億円もの寄進をして作った正本堂を破壊することを決めた時に、正宗内部からも、当然創価学会からも、それを止めるべく署名を募り、そして多くの人がそれが止めるように「南無妙法蓮華経」と唱えたでしょう。
それでも結局、日顕(下写真)は破壊を決行したのでした。
やはり、良き方向へ導くのは、その人の心にかかっているということです。
宗教に入れば、経を唱えれば、という問題ではないのです。
死んだ日顕は、あの世で地獄に行っていることでしょう。
350億円もの寄進で建てたものを平然と壊すとは…私には信じれませんでした。
それ以外にも、日顕の悪行はいろんな本で明らかにされています。
そういった本からの借用をも含めて私は電子書籍を上梓しました。
それを読んだ某女性は、大幅に日顕の擁護をしているのです。
これまで日顕の悪行について読んだことがないのでしょう。
当たり前です。
正宗の発行する新聞で、日顕の悪行など書くはずはないのですから。
それで私の書籍を買って、その内容をいろいろ読んで、すべて「事実無根」などと書くのですから始末に困る情報弱者さんです(笑)
この宗教に入れば、誰もが全員天使のようになる、などということはあり得ません。
日蓮正宗系だろうが、他の仏教だろうが、他の宗教だろうが、それは普遍的な事象なのです。
それを認識しないで、宗教にすがり、現状打開を目指すなどというのは滑稽そのものなのです。
確かに神仏にすがることで、神仏が手を差し伸べてくれることもあるでしょう。
しかし、それによってすべてがすべて全面打開などできた話しではないのです。
ゆえに、池田大作および日顕が堕落した人物であるということを知っても別段驚きはしなかったし、両人を擁護する気にも、その批判した人を批判する気にもなれなかったのが正直なところです。
完璧な宗教などないと前提としながら、更にいろんなものを学び続けて謙虚になり、人や社会と調和し続けたいという、そういうスタンスがいいと思える人ならば私のだした電子書籍はお勧めです。
●以下よりご覧になってくださいませ!
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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今、それらの信徒団体はいずれも正宗からは破門にされています。
そして別々の道をたどることになったのですが、そのなかで創価学会は最大の組織になり、全盛期には国民10人に1人が創価学会員になるまでになりました。
その創価学会から顕正会に移る人。
あるいは正宗から創価学会に移る人。
顕正会から創価学会に移る人。
いろいろあるようです。
その移る理由も千差万別のようです。
中でも多いのは、組織の人員、中でもその長の人間性に疑問を持ち、それが長年我慢していたのを我慢できなくなって抜ける、ということがあるようです。
創価学会から顕正会へ移った人の体験談を以下にあげましょう。
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池田の横柄な態度や、学会幹部の理不尽さに嫌気がさし、学会活動へのやる気が失せて「総ブロック長」「教学部教授」という肩書を持ちながら、徐々に学会の組織から離れていきました。」
そして結局、学会から抜けたようです。
池田大作
宗教に入信あるいは入会する人は概して優しい人が多いようです。
礼儀正しくて、人の心を重んじて接してくれる。
そんな人が多いようです。
心優しい人は、そういう人たちを見て、そこに入会していくようです。
しかし、例外的にこういうことも出くわしてしまうのです。
この人の体験談だけでなく、他の創価学会について書いた本を紐解くと、やはり池田大作の人間性について嫌気が際して辞めていく人の例は多いようです。
そういう体験談を読むと、創価の機関紙である『聖教新聞』だけしか読んでこなかった人は、それはその人の偏見だ、出鱈目だ、インチキを書いているんだ、といったことを口走るのです。
聖教新聞においては、池田大作の批判など書くはずがないのです。
それらを書いたら、団体としての結束が緩くなりますから。
だから批判的な意見を聞くと、信じれなくなってしまうのです。
しかし、そういう批判があったら、謙虚にその人の意見を聞くべきなのです。
その人の意見が書いた本を謙虚に読んでみるべきなのです。
そしてその人の意見と、創価当局の意見を比較考慮していく姿勢を持つべきでしょう。
創価学会の意見だけ読んでいては、全貌は明らかにはなりませんし、創価の意見だけを聞いていて、批判する人の意見を聞かないで、その意見した人の意見を捨ててしまっては、何のための宗教かと疑問に思ってしまいます。
宗教のほうが大事で、その構成する人の意見は蔑ろにする。
これではまさに本末転倒です。
そうならずに、いろんな意見を取り込む必要があるのです。
私も創価学会に入っていた時期があるので、わかりますから池田大作無謬論などという姿勢にはならないのです。
いくら名誉会長であろうと、著作を多数出していてもです。
誰にだって完璧など目指すべくもできない芸当なのですから、そこは謙虚になるべきでしょう。
もちろん私だって完璧ではないです。
元々は池田大作氏も優しい人間だったのでしょう。
しかし、横柄になり、人を蔑ろにしてしまうように豹変してしまったのは、権力の魔性というべきものでしょうか?
世界で何億もの信者がいる組織の長ともなれば、自分に意見する人がいなくなる。
そして、ボトムアップで下の人の意見を汲まなくても組織は存続していける。
そうなれば、自分の姿勢を正す必要もない。
幼少のころ、青年だったころのように、𠮟責してもらいながらいろんなことを学び続けていた謙虚な心は雲散霧消してしまっている。
そうなれば、人が離れてしまうのは致し方ないでしょう。
創価学会に入るように私に勧めてくれた人は、「ここに入って祈れば必ず人生は好転する。」ということだったです。
問題点は必ず好転する、良き方向へ向かわせることができる、ということでしょう。
しかし、池田大作のこのような変貌ぶりを見たら、そんなことは到底信じれないでしょう。
ではどうすればいいか?
他の日蓮正宗系の団体に移籍すればいいか?
他の宗教にはいればいいか?
そういう議論ではないのです。
要は、その当人が良くなるように自身で目覚めるか、側近の人が諭し、当人が目覚めてその道を矯正できるかどうかなのです。
お経を唱えてどうにかなるものでもないのです。
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大学を出たからもう学ぶものはない、ではないのです。
前代の法主であった阿部日顕が、創価学会員が350億円もの寄進をして作った正本堂を破壊することを決めた時に、正宗内部からも、当然創価学会からも、それを止めるべく署名を募り、そして多くの人がそれが止めるように「南無妙法蓮華経」と唱えたでしょう。
それでも結局、日顕(下写真)は破壊を決行したのでした。
やはり、良き方向へ導くのは、その人の心にかかっているということです。
宗教に入れば、経を唱えれば、という問題ではないのです。
死んだ日顕は、あの世で地獄に行っていることでしょう。
350億円もの寄進で建てたものを平然と壊すとは…私には信じれませんでした。
それ以外にも、日顕の悪行はいろんな本で明らかにされています。
そういった本からの借用をも含めて私は電子書籍を上梓しました。
それを読んだ某女性は、大幅に日顕の擁護をしているのです。
これまで日顕の悪行について読んだことがないのでしょう。
当たり前です。
正宗の発行する新聞で、日顕の悪行など書くはずはないのですから。
それで私の書籍を買って、その内容をいろいろ読んで、すべて「事実無根」などと書くのですから始末に困る情報弱者さんです(笑)
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日蓮正宗系だろうが、他の仏教だろうが、他の宗教だろうが、それは普遍的な事象なのです。
それを認識しないで、宗教にすがり、現状打開を目指すなどというのは滑稽そのものなのです。
確かに神仏にすがることで、神仏が手を差し伸べてくれることもあるでしょう。
しかし、それによってすべてがすべて全面打開などできた話しではないのです。
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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