「日蓮大聖人がそういう言葉を遺しているから」…これでは教条的すぎて、信用を得られません!
宗教における成員たちの離合や集散は、どの宗教にもあるもので、こと日蓮正宗も例外ではないようです。
日蓮正宗の信徒団体だった顕正会は、正宗から破門にされているようで自身たちで組織を立ち上げているようで、今や300万世帯にまで広がっているようです。
それはそれで素晴らしいことでしょう。
日蓮正宗の信徒だったけれども、そこに嫌気がさして顕正会に移った人と例もあるようです。
その人の体験談を以下にご紹介しましょう。
「聞けば、住職が自宅に勤行をしに来て、その時に供養金を渡さなければならないらしく、ある日、封筒に2千円をいれて渡すと、後日、寺から「供養金は1万円から」と催促の葉書が来た。
更に毎月「納骨代」を5千円、1本2000円の塔婆代も6000円を願ってきた。
また本尊を取り換えるための5万円が必要とか塔婆代を申し込むようにとの葉書が届いており…。」
これは顕正会の機関紙である顕正新聞からの抜擢です。
これは、宗教の哀しい場面を映し出している典型例だなと思いました。
その団体に維持のためには、信者からお金を寄進してもらわないことにはなりたたないのです。
その寄進のお金を日蓮正宗では供養金というのだそうです。
その供養金によって、僧侶たちは生活できるわけです。
供養というと今の仏教では、死んだ人やそのお墓などに拝んで、故人をしのぶというニュアンスで言われることがありますが、実際は信者からの寄進のお金であるそうです。
「この宗教に帰依しているから自分は幸せに生きていられるんだ!」という実感は私はわかないものですが、日蓮正宗の場合も例外ではなく、そういう思いを起こす信者がどの寺院にもいるようです。
しかも何人も。
それによって鎌倉時代から800年以上も、それだけで維持してこれたのですから、それは大したものだと正直思います。
しかし、長年そういう決まりでしてきたからといって、それが不変でいいはずはないでしょう。
やはり信者が減ってしまうことがあるのは必然ですし、その際にどのような施策を講ずべきか、といったことを考えて行動する必要があるでしょう。
また、日蓮(下写真)が「仏、法、僧を敬え」としたのは日蓮の書いた御書を読めば出てくる文言です。
だからと言って、信者に出費を強要するのがいいのか?
それは、日蓮大聖人がいったことだから変えなくていい。
いろんな議論が出てくるでしょう。
しかし、私が僧侶だった場合、出費額を上げてそれを強要することはしないでしょう。
「これまでの額でいいし、しかも信者が出してくれる回数も信者に任せる」といいます。
信者の生活や信仰生活の向上のために出家したのであって、出費額を無理やり上げるのは仏教本来の理念に反すると思うからですね。
「では信者からの出費額が少なくなって、自分の生活が危うくなったらどうする?」と聞かれたら、そこはバイトでもして賄うわ、といいます。
いや本気です!(笑)
現にそういう山のへき地に寺を構えて檀家の数が少なくなっている僧侶でそういうことをしている例も知っていますからね。
やはり「日蓮大聖人が遺した言葉だから」という理由で、理不尽な要求を通らすのは私のスタンスに合わないです。
そこは柔軟に考えて、妥当と思われる道を行くしかないでしょう。
このような僧と一般の人との考えの乖離が、日蓮正宗と創価学会が袂を分かつきっかけとして大きいと、これまでのそれ関連の本を多数読んで感じました。
どちらが正しいとか、どちらが誤っているかといったことは、人によって違ってくるし、、自分が正しいとしても、相手を絶対に言い負かして変えさせることなどできた話しではないのです。
しかし、宗教団体で決まったことは自分が理不尽と感じてもそれを貫き通さなくてはいけない。
それが私には考えれないスタンスなのですね。
ゆえに1つの宗教には入会も入信もしないのです。
しかし、入ることは否定しませんし、入りたい人がいたら引き留めることもしないです。
しかし、入っても理不尽なことが決定されることは当然あるわけです。
その際は、やはりその組織内を変革していこうという気概を持ち、それを維持し続けて良き方向へ舵を取ろうという姿勢を維持していってもらいたいものです。
●そんなスタンスに興味ある人は、以下、私の本(電子書籍)をお勧めしたいです。
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
→楽天Kobo
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
汗牛充棟.com ホーム
日蓮正宗の信徒団体だった顕正会は、正宗から破門にされているようで自身たちで組織を立ち上げているようで、今や300万世帯にまで広がっているようです。
それはそれで素晴らしいことでしょう。
日蓮正宗の信徒だったけれども、そこに嫌気がさして顕正会に移った人と例もあるようです。
その人の体験談を以下にご紹介しましょう。
「聞けば、住職が自宅に勤行をしに来て、その時に供養金を渡さなければならないらしく、ある日、封筒に2千円をいれて渡すと、後日、寺から「供養金は1万円から」と催促の葉書が来た。
更に毎月「納骨代」を5千円、1本2000円の塔婆代も6000円を願ってきた。
また本尊を取り換えるための5万円が必要とか塔婆代を申し込むようにとの葉書が届いており…。」
これは顕正会の機関紙である顕正新聞からの抜擢です。
これは、宗教の哀しい場面を映し出している典型例だなと思いました。
その団体に維持のためには、信者からお金を寄進してもらわないことにはなりたたないのです。
その寄進のお金を日蓮正宗では供養金というのだそうです。
その供養金によって、僧侶たちは生活できるわけです。
供養というと今の仏教では、死んだ人やそのお墓などに拝んで、故人をしのぶというニュアンスで言われることがありますが、実際は信者からの寄進のお金であるそうです。
「この宗教に帰依しているから自分は幸せに生きていられるんだ!」という実感は私はわかないものですが、日蓮正宗の場合も例外ではなく、そういう思いを起こす信者がどの寺院にもいるようです。
しかも何人も。
それによって鎌倉時代から800年以上も、それだけで維持してこれたのですから、それは大したものだと正直思います。
しかし、長年そういう決まりでしてきたからといって、それが不変でいいはずはないでしょう。
やはり信者が減ってしまうことがあるのは必然ですし、その際にどのような施策を講ずべきか、といったことを考えて行動する必要があるでしょう。
また、日蓮(下写真)が「仏、法、僧を敬え」としたのは日蓮の書いた御書を読めば出てくる文言です。
だからと言って、信者に出費を強要するのがいいのか?
それは、日蓮大聖人がいったことだから変えなくていい。
いろんな議論が出てくるでしょう。
しかし、私が僧侶だった場合、出費額を上げてそれを強要することはしないでしょう。
「これまでの額でいいし、しかも信者が出してくれる回数も信者に任せる」といいます。
信者の生活や信仰生活の向上のために出家したのであって、出費額を無理やり上げるのは仏教本来の理念に反すると思うからですね。
「では信者からの出費額が少なくなって、自分の生活が危うくなったらどうする?」と聞かれたら、そこはバイトでもして賄うわ、といいます。
いや本気です!(笑)
現にそういう山のへき地に寺を構えて檀家の数が少なくなっている僧侶でそういうことをしている例も知っていますからね。
やはり「日蓮大聖人が遺した言葉だから」という理由で、理不尽な要求を通らすのは私のスタンスに合わないです。
そこは柔軟に考えて、妥当と思われる道を行くしかないでしょう。
このような僧と一般の人との考えの乖離が、日蓮正宗と創価学会が袂を分かつきっかけとして大きいと、これまでのそれ関連の本を多数読んで感じました。
どちらが正しいとか、どちらが誤っているかといったことは、人によって違ってくるし、、自分が正しいとしても、相手を絶対に言い負かして変えさせることなどできた話しではないのです。
しかし、宗教団体で決まったことは自分が理不尽と感じてもそれを貫き通さなくてはいけない。
それが私には考えれないスタンスなのですね。
ゆえに1つの宗教には入会も入信もしないのです。
しかし、入ることは否定しませんし、入りたい人がいたら引き留めることもしないです。
しかし、入っても理不尽なことが決定されることは当然あるわけです。
その際は、やはりその組織内を変革していこうという気概を持ち、それを維持し続けて良き方向へ舵を取ろうという姿勢を維持していってもらいたいものです。
●そんなスタンスに興味ある人は、以下、私の本(電子書籍)をお勧めしたいです。
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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