宗教の評価は一元か多元かで違ってくる。どちらが自分に合っているかを判断してからどの宗教を決めるべし!
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こんにちは。
人の判断というものはどうしても完璧には客観視できないものです。
2人の幼児がいて、片方はかわいいと思えるけれども、もう片方はそう思えない。
そして全者を可愛がり、後者は蔑ろにする。
そういったことはどこの世界にでもあるものです。
しかし、多くの人と良好な関係を築きたいのであれば、そういう思いは極力かなぐり捨てなければならないのは言うまでもないです。
しかし、こと宗教になると、そうはいかないという風になってしまうのでしょうか?
自分が「これだ!」と思った宗教を第一にして、それ以外の存在は求めるけれども、そんなに重宝しないというかほとんど放置してしまう。
最悪の場合、その宗教を排除してしまうまでに至る。
その態度は、傍から見ていると滑稽にしか思えないパターンも往々にしてあります。
「単なる価値観や好みを押し付けているだけじゃないか?」とすぐさま思ってしまうけれども、本人は大まじめでその持論を展開している。
これまで、顕正会の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)は、日蓮を大いに讃嘆するけれども、その論拠が実にあいまいで、まるで説得力に欠けるということを指摘してきました。
以下、再びその昭衛氏の『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』から引用します。
「日本国は全人類をお救いくださるご本仏日蓮大聖人がご出現あそばされた本国であり、本門の三大秘宝広宣流布の根本の妙国である。天照太神.八幡大菩薩等は御本仏日蓮大聖人を守護し奉る神々なのである。
仏は主君、神は主従を取り違え、御本仏日蓮大聖人を無視.軽蔑するならば、それが謗法になり、その人は亡び、国も必ず傾く」
この根拠は?とすぐさま思うのは私だけではないでしょう。
天照太神.八幡大菩薩等が日蓮を守護すべく理由がまるで書いていないし、価値観の押し付けであるとしか思えないのですね。
また私が思うのは、天照太神.八幡大菩薩等が日蓮大聖人を守護し奉ってくれるならば、それらの神を大切にしてもしかるべきではないか?
その神々たちについての勉強もしていいはずではないか?あまりにもないがしろにしすぎではないか?との誹りを免れないです。
朝夕の勤行の中の観念文の中で「諸天善神の〜」という文言は出てきます。
そこで思ったのは、「そう!この世は仏だけではないし、神もいる。ならばもっと神にも登場してくれてもいいんじゃないの?仏を最優先にしないといけない理由はなに?」とかつて創価学会に属していた時に思ったものです。
その明確な答えは今も見つからずじまいです。
創価学会は、日興上人の流れをくむ宗教団体なのです。
日蓮の弟子は6人いて、そのうちの5人は、日蓮の死後、日蓮以外の教えや神道なども取り入れて、宗教を展開したのです。
しかし、日興上人だけは日蓮の教えだけを忠実に教えていったのです。
それが日蓮正宗です。
他の5人の教えは日蓮宗というのだそうです。
それで、どちらを支持するかは、その人にお任せするしかないようです。
日興門流がとにかく素晴らしいんだ、というのであればそこを支持すればいいし、日蓮宗がいいと思うのであれば、そちらを支持すればいいでしょう。
私はどちらの味方をするわけでもなければ、どこを推めるかといえば「自身で選んでください」としか言いようがないです。
しかし、スタンス的には日蓮宗に近いです。
私が自分の家から行ける日蓮宗の寺院では、池上本門寺(下写真)がそばにありますが、そこには寺社以外にも神の祠もあったりして、神仏習合の観が強いですが、一番の芯は日蓮大聖人といういで立ちにしているのです。
まず、最初に日本には神がいて、その後、大陸から仏教が入ってきたのです。
その歴史を鑑みれば、後参入の宗教だったというわけです仏教は。
後参入が大きな顔してくれるな、と言いたい向きもあるでしょう。
そこは、本人の価値観ゆえにであり、自分が正しいと思われるものを選択していけないいいだけの話しです。
ただ、日蓮の宗教だけで事がすべてうまくいくのであれば、それでいいでしょう。
しかし、どう考えてもそれだけではうまく事が運ばないし、神道や儒教などの教えから人生が好転したという経験のある人ならば、その教えもまた、その人の哲学を形作るモラルになったのであれば、当然それを取り入れるのは必然でしょうし、それが普通でしょう。
日蓮だけでいいという一元論ではなく、他のいろんな宗教や教えをも柔軟に取り入れる多元主義のどちらがいいかと言われれば、私は後者を選びます。
宗教的なことのみならず、これまでの人生でそういうやり方で切り抜けてきたからにほかなりません。
しかし、日興門流では日蓮のみでよいとする考えを固辞しているわけです。
それが日蓮正宗であり、その信徒団体であった創価学会であり、顕正会であるのです。
私は、後者の日興門流に与することはできないのです。
あまりに狭窄すぎるし説得力がないからです。
しかし、世間一般では、日興門流のほうがウケがよく、信者数が多いのが実情です。
創価学会にしろ顕正会にしろ、信者数では国内で間違いなくベスト10に入る勢いを見せているのが実情です。
何故か?
それは人間の精神の古今東西変わらぬ精神性にまで突き詰めて考えるとわかることなのです。
これほど信者が多いのは「その教えが素晴らしいから」…ではないのです。
いくら、その社会が高学歴化しても、学問を自ら学び続けたいと思える人の割合は古今東西変わらないのです。
教育を施すことによって、その割合は若干は変わるでしょうが、それほど大きな変化はないのです。
大きな割合の人が受け入れるような教義を持った宗教団体こそが大きくなれる、ということです。
その大きな割合の人が受け入れるような教義は、私には受け入れられなかった、ということです。
モラルがまるで逆なのです。
大学で、毎回毎回同じような講義をしている教授の授業のほうが受講生は多い、という事実と関係しているのです。
それは何も大学だけでなく、宗教でも一緒なのです。
大きな割合を占める人たちに受け入れられるような教義にしていくことが大宗教になるには大事ということです。
「宇宙的スケールの力用を持つ諸天善神が日蓮大聖人を常に守護し、そのご化導を助け参らせているからに他ならない。」
これも故.浅井氏の言葉ですが、その根拠は?とまた問いたくなります。
浅井氏は釈尊とは違って、あの世とか異次元世界に行ける能力を持っていたのでしょうか?
おそらくなかったに違いないのです。
行けるのであれば、その描写をその著書の中で何度もしていたはずですが、それがまるでなかったのですから、やはりなかったと言わざるを得ないのです。
整序立った論文を何度も書けば、やはり威厳を感じますが、それに押されるのではなく、ちょっと間をおいて、距離を置いて冷静にまた読みこなすことが大事でしょう。
「諸天善神が日蓮大聖人を常に守護し〜」などというのは思い付きで書いているだけのことではないでしょうか?
やはり、日蓮(下写真)という偉大な開祖だけの言葉だけでなく、いろんな宗教家や学者の言葉を真摯に読みこなす。
それによって心理に近づくことができるのです。
1人の宗教家の言葉だけでは言い尽くせないことが往々にしてあるのですから、私は1つのことだけに拘泥はしないものです。
ゆえに、そういった宗教の講義は時間の無駄ですし、創価学会にいた当時もほとんど聞きにいかなかったです。
それよりも他の本を読んでいたほうが有意義な時間が過ごせていたことは間違いないのです。
こういった私のスタンスに共鳴できる方に読んでもらいたいのが以下の私の本(電子書籍)になります。
また、そういった一元的な宗教にちょっとでも疑問を感じている人であるならば、どんどん読み進めてしまうことも間違いないでしょう。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
→楽天Kobo
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。
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こんにちは。
人の判断というものはどうしても完璧には客観視できないものです。
2人の幼児がいて、片方はかわいいと思えるけれども、もう片方はそう思えない。
そして全者を可愛がり、後者は蔑ろにする。
そういったことはどこの世界にでもあるものです。
しかし、多くの人と良好な関係を築きたいのであれば、そういう思いは極力かなぐり捨てなければならないのは言うまでもないです。
しかし、こと宗教になると、そうはいかないという風になってしまうのでしょうか?
自分が「これだ!」と思った宗教を第一にして、それ以外の存在は求めるけれども、そんなに重宝しないというかほとんど放置してしまう。
最悪の場合、その宗教を排除してしまうまでに至る。
その態度は、傍から見ていると滑稽にしか思えないパターンも往々にしてあります。
「単なる価値観や好みを押し付けているだけじゃないか?」とすぐさま思ってしまうけれども、本人は大まじめでその持論を展開している。
これまで、顕正会の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)は、日蓮を大いに讃嘆するけれども、その論拠が実にあいまいで、まるで説得力に欠けるということを指摘してきました。
以下、再びその昭衛氏の『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』から引用します。
「日本国は全人類をお救いくださるご本仏日蓮大聖人がご出現あそばされた本国であり、本門の三大秘宝広宣流布の根本の妙国である。天照太神.八幡大菩薩等は御本仏日蓮大聖人を守護し奉る神々なのである。
仏は主君、神は主従を取り違え、御本仏日蓮大聖人を無視.軽蔑するならば、それが謗法になり、その人は亡び、国も必ず傾く」
この根拠は?とすぐさま思うのは私だけではないでしょう。
天照太神.八幡大菩薩等が日蓮を守護すべく理由がまるで書いていないし、価値観の押し付けであるとしか思えないのですね。
また私が思うのは、天照太神.八幡大菩薩等が日蓮大聖人を守護し奉ってくれるならば、それらの神を大切にしてもしかるべきではないか?
その神々たちについての勉強もしていいはずではないか?あまりにもないがしろにしすぎではないか?との誹りを免れないです。
朝夕の勤行の中の観念文の中で「諸天善神の〜」という文言は出てきます。
そこで思ったのは、「そう!この世は仏だけではないし、神もいる。ならばもっと神にも登場してくれてもいいんじゃないの?仏を最優先にしないといけない理由はなに?」とかつて創価学会に属していた時に思ったものです。
その明確な答えは今も見つからずじまいです。
創価学会は、日興上人の流れをくむ宗教団体なのです。
日蓮の弟子は6人いて、そのうちの5人は、日蓮の死後、日蓮以外の教えや神道なども取り入れて、宗教を展開したのです。
しかし、日興上人だけは日蓮の教えだけを忠実に教えていったのです。
それが日蓮正宗です。
他の5人の教えは日蓮宗というのだそうです。
それで、どちらを支持するかは、その人にお任せするしかないようです。
日興門流がとにかく素晴らしいんだ、というのであればそこを支持すればいいし、日蓮宗がいいと思うのであれば、そちらを支持すればいいでしょう。
私はどちらの味方をするわけでもなければ、どこを推めるかといえば「自身で選んでください」としか言いようがないです。
しかし、スタンス的には日蓮宗に近いです。
私が自分の家から行ける日蓮宗の寺院では、池上本門寺(下写真)がそばにありますが、そこには寺社以外にも神の祠もあったりして、神仏習合の観が強いですが、一番の芯は日蓮大聖人といういで立ちにしているのです。
まず、最初に日本には神がいて、その後、大陸から仏教が入ってきたのです。
その歴史を鑑みれば、後参入の宗教だったというわけです仏教は。
後参入が大きな顔してくれるな、と言いたい向きもあるでしょう。
そこは、本人の価値観ゆえにであり、自分が正しいと思われるものを選択していけないいいだけの話しです。
ただ、日蓮の宗教だけで事がすべてうまくいくのであれば、それでいいでしょう。
しかし、どう考えてもそれだけではうまく事が運ばないし、神道や儒教などの教えから人生が好転したという経験のある人ならば、その教えもまた、その人の哲学を形作るモラルになったのであれば、当然それを取り入れるのは必然でしょうし、それが普通でしょう。
日蓮だけでいいという一元論ではなく、他のいろんな宗教や教えをも柔軟に取り入れる多元主義のどちらがいいかと言われれば、私は後者を選びます。
宗教的なことのみならず、これまでの人生でそういうやり方で切り抜けてきたからにほかなりません。
しかし、日興門流では日蓮のみでよいとする考えを固辞しているわけです。
それが日蓮正宗であり、その信徒団体であった創価学会であり、顕正会であるのです。
私は、後者の日興門流に与することはできないのです。
あまりに狭窄すぎるし説得力がないからです。
しかし、世間一般では、日興門流のほうがウケがよく、信者数が多いのが実情です。
創価学会にしろ顕正会にしろ、信者数では国内で間違いなくベスト10に入る勢いを見せているのが実情です。
何故か?
それは人間の精神の古今東西変わらぬ精神性にまで突き詰めて考えるとわかることなのです。
これほど信者が多いのは「その教えが素晴らしいから」…ではないのです。
いくら、その社会が高学歴化しても、学問を自ら学び続けたいと思える人の割合は古今東西変わらないのです。
教育を施すことによって、その割合は若干は変わるでしょうが、それほど大きな変化はないのです。
大きな割合の人が受け入れるような教義を持った宗教団体こそが大きくなれる、ということです。
その大きな割合の人が受け入れるような教義は、私には受け入れられなかった、ということです。
モラルがまるで逆なのです。
大学で、毎回毎回同じような講義をしている教授の授業のほうが受講生は多い、という事実と関係しているのです。
それは何も大学だけでなく、宗教でも一緒なのです。
大きな割合を占める人たちに受け入れられるような教義にしていくことが大宗教になるには大事ということです。
「宇宙的スケールの力用を持つ諸天善神が日蓮大聖人を常に守護し、そのご化導を助け参らせているからに他ならない。」
これも故.浅井氏の言葉ですが、その根拠は?とまた問いたくなります。
浅井氏は釈尊とは違って、あの世とか異次元世界に行ける能力を持っていたのでしょうか?
おそらくなかったに違いないのです。
行けるのであれば、その描写をその著書の中で何度もしていたはずですが、それがまるでなかったのですから、やはりなかったと言わざるを得ないのです。
整序立った論文を何度も書けば、やはり威厳を感じますが、それに押されるのではなく、ちょっと間をおいて、距離を置いて冷静にまた読みこなすことが大事でしょう。
「諸天善神が日蓮大聖人を常に守護し〜」などというのは思い付きで書いているだけのことではないでしょうか?
やはり、日蓮(下写真)という偉大な開祖だけの言葉だけでなく、いろんな宗教家や学者の言葉を真摯に読みこなす。
それによって心理に近づくことができるのです。
1人の宗教家の言葉だけでは言い尽くせないことが往々にしてあるのですから、私は1つのことだけに拘泥はしないものです。
ゆえに、そういった宗教の講義は時間の無駄ですし、創価学会にいた当時もほとんど聞きにいかなかったです。
それよりも他の本を読んでいたほうが有意義な時間が過ごせていたことは間違いないのです。
こういった私のスタンスに共鳴できる方に読んでもらいたいのが以下の私の本(電子書籍)になります。
また、そういった一元的な宗教にちょっとでも疑問を感じている人であるならば、どんどん読み進めてしまうことも間違いないでしょう。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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ありがとうございました。
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