宗教団体は、その開祖の遺した教義を正確には伝えられない弊が存在している。ならどうすればいい?
こんにちは。
これまで顕正会の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)の、日蓮の書物だけに依拠して、それに無批判でいて、それを信者に勧める態度を評してきました。
それはさながら日蓮原理主義とでも言いたくなるなるものでした。
日蓮のみが至高の存在であり、それに従えば必ず幸せになれるんだ、といったニュアンスの発言には辟易していました私は。
確かに、鎌倉時代の僧侶がいったことでも現代においても見倣い、学べるところがあるのは否定はしないです。
しかし、科学が発達して、その言葉よりも有効と思われる事項ができたのであるならば、そちらを優先すべきであるとしか私には言いようがないのです。
絶え間なく仏法の実践…これで本当に人生が好転するのならば、その方法に縋るのがいいでしょう。
しかし、それでは好転しないからこそ、科学的な方法や他の宗教や教えを学んで実践していくという方途を取る人が出てくるのでしょう。
その一人が私です。
依拠するのが日蓮大聖人だけでいいとしたのが直弟子だった日興上人(下写真)で、その流れをくむのが日蓮正宗でありかつ、その信徒団体だった創価学会であり、顕正会であるのです。
その顕正会の会長だった浅井昭衛氏は、学生時代に日蓮の『立正安国論』を読み、それに感化を受けて、かなりぞっこんになったのがわかります。
それ以降、日蓮の書物をたくさん読み、この教えを世に広めなければ、という思いになったのでしょう。
その書物は、かなり多くありますから、それを全部読み通し、修めるだけでもかなりの労力がかかりますし、その労力をかければかけるほど、それしか見えなくなり、それこそが至高であるという思いになったのはわかります。
わき目も振らずに集中する。
そういう猪突猛進ぶりは、若いころには陥りがちですし、見た目にもオーラが出ていてかっこいいのは認めますが、それから精神的に成長したのならば、もっと脇目を振ることも大事だろうと思うのです。
そう、他の分野にも目を向けて、「日蓮大聖人以外でも学べるものがあるんではないか?」という思いに駆られなかったのかなあといぶかし気に思います。
他のいろんな本や人からも多くのことを学べるのですし、正直、日蓮の書いた本だけでは物足りない、と思ったのです、私が創価学会にいた時に。
しかも、学会で講演する人たち、ほとんどは幹部たちですが、その人たちは、自分が大事と思った部分を中心に講義をするのです。
講演内容は各自の自由ですから、やはり裁量に任せられる。
すると毎回毎回同じような講義内容になってしまうという悪弊が存在してしまうのです。
それも咎めだてされることもない。
すると私にとっては非常に味気ないものになっていたのです。
それもまた、私が創価学会の講演に行かなくなってしまった理由の1つでもあるのです。
自分が疑問に思っていた「こういうことは日蓮は言っていなかったのか?」「この分野については言ってなかったのか?」という疑問は当然わいてくるものですが、信者の中からそういうことを聞いたことがないのですね。
そういう疑問がわいてきたら、やはり日蓮の遺した代表的な書物である『御書』をくまなく全部読むのがいいと思います。
それによって、その疑問が晴れると思います。
やはりその開祖の思想の勉強をくまなくするのであれば、やはり全部を網羅して読むことが大事でしょう。
創価学会から顕正会に移籍して幸福になった人の『顕正新聞』での講演では「創価学会時代には、日蓮大聖人の三大秘宝抄について講義されることはなかったですが、顕正会にきて、それを聞いて、それから私の人生は好転しました」という経験談がありました。
もちろん、そのことで創価学会を責める気はないです。
どんな団体でもそういう悪弊は存在するのですから。
その開祖の遺した教義をすべてくまなく講義できるはずはありませんから、どうしても講演者の好みに合った部分だけを講義してしまうということになるのです。
その人は幸運にも三大秘宝抄を学べることができたけれども、創価学会においても顕正会で話されていないことを聞いて人生を好転させたという例も当然あるでしょう。
そこでも、顕正会を責める気はないです。
ゆえに、その開祖にぞっこんになったのであれば、やはりその開祖の遺した書物をくまなく読むことが大事でしょう。
日蓮
顕正会では月に1度、創価学会はほぼ日刊で新聞が届きますが、それだけで満足せずに、主体的に学んでいくことが大事でしょう。
しかし、私は日蓮の言ったことだけが人生のすべてに通じるといった短絡的な考えにはならないので、どちらの新聞も読みませんし、日蓮の遺した書物もこれからほとんど読まないでしょう(笑)。
日蓮の言ったことだけで世の中に通用するはずもないですし、まだまだ学ばなくてはならないことが大いにあることは間違いないのです。
以下、ふたたび浅井昭衛氏の書物からの引用をしましょう。
「崩れぬ幸福をもたらす福運、果報等は仏法の実践のみによってその人の身にあらわれるのである」
ということです。
ここを読んでそんなことはないだろうとすぐさま思ったのです。
日々の生活で人の苦労、痛みを身をもって体感していくことも大事なのは言うまでもないです。
やはり外に出て、冷たい思いをする、暑い思いをする、また転んだり、滑ったりして痛みを知る。
またけんかなどもして痛みを知る。
そして人と言い合い等もして、どういうことを言ったら人が喜び、どういうことを言ったら人が悲しむか、といったことも体感して行くことも大事でしょう。
日蓮の仏法の実践だけで事足りる…妄想もはなはだしいです(笑)
確かに仏法の教えを学んだり、それを実践することによって人生が好転することもあるわけではあるゆえに仏法も大事だが、それが最優先ではだめだということを私は言いたいのです。
仏法を学ぶことで人の痛みがわかるようになるんですか、と非常に疑問なのです。
世の中を簡単に考えて生きていきたい気持ちはわかりますが、実際はそうではないということを悟ってほしいものです。
そういう簡単に生きていきたい気持ちは、小学生くらいで卒業していってほしいものです。
浅井城衛
息子である浅井城衛氏は、父上の跡を継いで、いま顕正会の会長になられましたが、こういった父上の日蓮原理主義を受けて、どのように展開していくのかが見ものなのです。
顕正会の幹部会のビデオを動画で見ることがありますのでその様子が見れるのです。
父上の思想を踏襲していくのか、あるいは改良していくのか、あるいは第三の道にいくのか、希望をもって見守っていきたいと思います。
この人はかなり毅然として、日蓮の、そして父上の言葉に非常に感銘を受けて、両者を心から尊敬し、そして毅然とした話し方をしているので、私が顕正会の会員だったら、かなり憧れの対象になっただろうことは間違いないです。
しかし、私はあくまでも多元的に物事を考えていくたちなので、顕正会には入らないだろうことは確定的ですので残念ながら…ですね(笑)。
ここまで書いてきたことについてピンときた人や、賛同した人には以下の本(電子書籍)を推奨したいです!
●以下よりどうぞ。
→楽天Kobo
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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これまで顕正会の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)の、日蓮の書物だけに依拠して、それに無批判でいて、それを信者に勧める態度を評してきました。
それはさながら日蓮原理主義とでも言いたくなるなるものでした。
日蓮のみが至高の存在であり、それに従えば必ず幸せになれるんだ、といったニュアンスの発言には辟易していました私は。
確かに、鎌倉時代の僧侶がいったことでも現代においても見倣い、学べるところがあるのは否定はしないです。
しかし、科学が発達して、その言葉よりも有効と思われる事項ができたのであるならば、そちらを優先すべきであるとしか私には言いようがないのです。
絶え間なく仏法の実践…これで本当に人生が好転するのならば、その方法に縋るのがいいでしょう。
しかし、それでは好転しないからこそ、科学的な方法や他の宗教や教えを学んで実践していくという方途を取る人が出てくるのでしょう。
その一人が私です。
依拠するのが日蓮大聖人だけでいいとしたのが直弟子だった日興上人(下写真)で、その流れをくむのが日蓮正宗でありかつ、その信徒団体だった創価学会であり、顕正会であるのです。
その顕正会の会長だった浅井昭衛氏は、学生時代に日蓮の『立正安国論』を読み、それに感化を受けて、かなりぞっこんになったのがわかります。
それ以降、日蓮の書物をたくさん読み、この教えを世に広めなければ、という思いになったのでしょう。
その書物は、かなり多くありますから、それを全部読み通し、修めるだけでもかなりの労力がかかりますし、その労力をかければかけるほど、それしか見えなくなり、それこそが至高であるという思いになったのはわかります。
わき目も振らずに集中する。
そういう猪突猛進ぶりは、若いころには陥りがちですし、見た目にもオーラが出ていてかっこいいのは認めますが、それから精神的に成長したのならば、もっと脇目を振ることも大事だろうと思うのです。
そう、他の分野にも目を向けて、「日蓮大聖人以外でも学べるものがあるんではないか?」という思いに駆られなかったのかなあといぶかし気に思います。
他のいろんな本や人からも多くのことを学べるのですし、正直、日蓮の書いた本だけでは物足りない、と思ったのです、私が創価学会にいた時に。
しかも、学会で講演する人たち、ほとんどは幹部たちですが、その人たちは、自分が大事と思った部分を中心に講義をするのです。
講演内容は各自の自由ですから、やはり裁量に任せられる。
すると毎回毎回同じような講義内容になってしまうという悪弊が存在してしまうのです。
それも咎めだてされることもない。
すると私にとっては非常に味気ないものになっていたのです。
それもまた、私が創価学会の講演に行かなくなってしまった理由の1つでもあるのです。
自分が疑問に思っていた「こういうことは日蓮は言っていなかったのか?」「この分野については言ってなかったのか?」という疑問は当然わいてくるものですが、信者の中からそういうことを聞いたことがないのですね。
そういう疑問がわいてきたら、やはり日蓮の遺した代表的な書物である『御書』をくまなく全部読むのがいいと思います。
それによって、その疑問が晴れると思います。
やはりその開祖の思想の勉強をくまなくするのであれば、やはり全部を網羅して読むことが大事でしょう。
創価学会から顕正会に移籍して幸福になった人の『顕正新聞』での講演では「創価学会時代には、日蓮大聖人の三大秘宝抄について講義されることはなかったですが、顕正会にきて、それを聞いて、それから私の人生は好転しました」という経験談がありました。
もちろん、そのことで創価学会を責める気はないです。
どんな団体でもそういう悪弊は存在するのですから。
その開祖の遺した教義をすべてくまなく講義できるはずはありませんから、どうしても講演者の好みに合った部分だけを講義してしまうということになるのです。
その人は幸運にも三大秘宝抄を学べることができたけれども、創価学会においても顕正会で話されていないことを聞いて人生を好転させたという例も当然あるでしょう。
そこでも、顕正会を責める気はないです。
ゆえに、その開祖にぞっこんになったのであれば、やはりその開祖の遺した書物をくまなく読むことが大事でしょう。
日蓮
顕正会では月に1度、創価学会はほぼ日刊で新聞が届きますが、それだけで満足せずに、主体的に学んでいくことが大事でしょう。
しかし、私は日蓮の言ったことだけが人生のすべてに通じるといった短絡的な考えにはならないので、どちらの新聞も読みませんし、日蓮の遺した書物もこれからほとんど読まないでしょう(笑)。
日蓮の言ったことだけで世の中に通用するはずもないですし、まだまだ学ばなくてはならないことが大いにあることは間違いないのです。
以下、ふたたび浅井昭衛氏の書物からの引用をしましょう。
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日蓮の仏法の実践だけで事足りる…妄想もはなはだしいです(笑)
確かに仏法の教えを学んだり、それを実践することによって人生が好転することもあるわけではあるゆえに仏法も大事だが、それが最優先ではだめだということを私は言いたいのです。
仏法を学ぶことで人の痛みがわかるようになるんですか、と非常に疑問なのです。
世の中を簡単に考えて生きていきたい気持ちはわかりますが、実際はそうではないということを悟ってほしいものです。
そういう簡単に生きていきたい気持ちは、小学生くらいで卒業していってほしいものです。
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息子である浅井城衛氏は、父上の跡を継いで、いま顕正会の会長になられましたが、こういった父上の日蓮原理主義を受けて、どのように展開していくのかが見ものなのです。
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この人はかなり毅然として、日蓮の、そして父上の言葉に非常に感銘を受けて、両者を心から尊敬し、そして毅然とした話し方をしているので、私が顕正会の会員だったら、かなり憧れの対象になっただろうことは間違いないです。
しかし、私はあくまでも多元的に物事を考えていくたちなので、顕正会には入らないだろうことは確定的ですので残念ながら…ですね(笑)。
ここまで書いてきたことについてピンときた人や、賛同した人には以下の本(電子書籍)を推奨したいです!
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ありがとうございました!
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