開祖の教義を必死に学ぶのは良い!しかし、それだけにこだわるべからず。さもなくば原理主義に陥る?
こんにちは。
顕正会の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)は、その著書『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅ぶ』において「巷には、残忍な事件が増えている。」といったニュアンスの言葉をだしていました。
そして「こんにちほど人の心が荒廃した時代はない」とも書いていたのです。
こういった言葉は、人類の全歴史を垣間見てからいうべきなのです。
根拠薄弱のそしりはまぬかれないのです。
確かによの中には残忍な事件が増えています。
そのことは看過してはならないでしょう。
しかし、江戸時代の拷問の内容を見よ!とも言いたくなりました。
そこでは、鞭打ち、石抱き、海老攻め、釣責といった現代でも起こりえないような拷問ばかり行われていたのです。
世界の歴史を見ればもっと残忍な拷問があったのです。
処刑においてはそれどころではないのです。
また浅井氏は、「末法になると人の心が荒廃し、大戦乱の時代に入るということを日蓮が予言していた」
ということも書いているのです。
仏の在世から遠く隔たったため、教法が次第に微細・瑣末になり、僧侶が戒律を修めず、争いばかりを起こして邪見がはびこり、釈迦の仏教がその効力をなくしてしまう時期というのが末法ということです。
日蓮の言葉を引き合いに出して、そういった残忍な事件を見ると、それだけで「日蓮大聖人の言ったとおりだ」→「ゆえに日蓮大聖人は偉大だ」→「ゆえにこの人の仏法に帰依しなければ」という決論に達してしまうのです。
この結論への達し方を見ると、やはり「違う!」という結論に私は達してしまうのですね(笑)。
やはり、宗教的な力に無関心になる時代はどこにでもあるようです。
それは「あまりに豊かになりすぎた時代」というのが私には妥当と思います。
食うに困らず、苦労もせず、そして利器が発達して、人の身体的、精神的痛みもわからなくなると、人殺しや虐めや嫌がらせなどが平気でできるようになる。
何不自由なく生活できるようになって、日々やることがなくなるときも同じなのです。
何も日蓮の言葉だけを引き合いに出すべきではないと思うのですがどうでしょうか?
日蓮
確かに、浅井氏がその著で引き合いに出していた現代における殺人、強盗、放火、婦女暴行、誘拐の頻度とその暴虐性は忘れてはならないでしょう。
しかし、それらは日蓮に帰依すればなくなるのでしょうか?
そんなことはないでしょう。
そういった事件が起きるようになったからと言って現代が末法ならば、これまでの戦争などが頻発した時代、例えば幕末、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、第二次大戦、イランイラク戦争、イラク戦争、等々枚挙にいとまがないのです。
それより前の時代である室町、江戸といつの世でも戦闘はあったのであり、「ゆえにいつの時代でも末法ではないか!」と私は疑問に思うのですね。
そういった事件や戦争や人心の荒廃については看過してはならないでしょう。
しかし、その起きた全貌をつまびらかにして、そして打開策を練り、それにかなう方法を実行していくのが王道ではないか?と思われてならないのです。
浅井氏は、その著書『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅ぶ』のP.12において、日蓮の仏法が「全人類をお救い下さる」とまで書いているのです。
ここを読んで私は、「何を根拠にそんな大言壮語を!」といぶかし気に思いました。
日蓮正宗、日蓮宗ともに世界にはそれらの信者の総数は何億人もいます。
ということは、毎日、何億もの南無妙法蓮華経という経文が唱えられていることになります。
これで人類は救われているはずですが、やはりそんなことにはなっていないのです。
そのことを顕正会の会員に聞いたら、「全日本人が日蓮大聖人に帰依していないからだ」などと言っているので苦笑してしまいました。
そんなことは無理だし、全国民が帰依しないと効力がないとなぜ言い切れるのか?
そんな全国民が帰依した時代があったのか?
あったがゆえにそんなことを言っているのならばわかるが、そんな経験理論がないのにそんな戯言を言っているのは滑稽でしかなかったですね(笑)。
やはり、日蓮が生前にいっていた「広宣流布」を引き合いにものを言っているのでしょう。
この単語は、どれだけの人が日蓮に帰依した状態なのかはわかりかねますが、顕正会では全国民ということなのだそうです。
そんなことは大人ならば絶対に無理とわかるのですが、顕正会の人はそうは考えていないようで信じられないです(笑)。
顕正会の発表では、顕正会の会員は300万世帯にまで広がったようで、それは素晴らしい偉業ですが、全国民までには到底おぼつかないですね。
よしんば、それに到達しようとしても、「やっぱり抜けるわ!」という人が出たら、それだけでもうやり直しです。
そうならないように辞めそうな人を監視員をつけて監視していなくてはならないでしょう。
そうなったら非常にお金もかかります。
それでも顕正会は全国民がなることを目指すのでしょうか?
辞めたほうがいいです(笑)。
浅井氏は更に、
「広宣流布の時来れば、日本は御本仏を国の魂となるゆえに仏国となる。この仏国は衰微せず、三災七難もなく安泰となる」
とまで書いているのです。
即座に思うのは、「日本がこのような状態になった歴史があったのだろうか?」ということです。
ないでしょう?
ないのに立正安国の実現となるといわれても単なる大言壮語にしか聞こえないのです。
現代社会を俯瞰して、どれだけ兼ね合わせが可能かといったことを考慮せずに、ひたすら開祖の言ったことを第一に考え、それを強制させようとするのを一般的に原理主義というのです。
さながら、故.浅井昭衛氏は日蓮原理主義者とでも言いたくなります。
これまでのこういった議論に賛同できる人にお勧めなのは、以下の本(電子書籍)ですね。
かなり共鳴できると思います。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
→楽天Kobo
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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顕正会の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)は、その著書『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅ぶ』において「巷には、残忍な事件が増えている。」といったニュアンスの言葉をだしていました。
そして「こんにちほど人の心が荒廃した時代はない」とも書いていたのです。
こういった言葉は、人類の全歴史を垣間見てからいうべきなのです。
根拠薄弱のそしりはまぬかれないのです。
確かによの中には残忍な事件が増えています。
そのことは看過してはならないでしょう。
しかし、江戸時代の拷問の内容を見よ!とも言いたくなりました。
そこでは、鞭打ち、石抱き、海老攻め、釣責といった現代でも起こりえないような拷問ばかり行われていたのです。
世界の歴史を見ればもっと残忍な拷問があったのです。
処刑においてはそれどころではないのです。
また浅井氏は、「末法になると人の心が荒廃し、大戦乱の時代に入るということを日蓮が予言していた」
ということも書いているのです。
仏の在世から遠く隔たったため、教法が次第に微細・瑣末になり、僧侶が戒律を修めず、争いばかりを起こして邪見がはびこり、釈迦の仏教がその効力をなくしてしまう時期というのが末法ということです。
日蓮の言葉を引き合いに出して、そういった残忍な事件を見ると、それだけで「日蓮大聖人の言ったとおりだ」→「ゆえに日蓮大聖人は偉大だ」→「ゆえにこの人の仏法に帰依しなければ」という決論に達してしまうのです。
この結論への達し方を見ると、やはり「違う!」という結論に私は達してしまうのですね(笑)。
やはり、宗教的な力に無関心になる時代はどこにでもあるようです。
それは「あまりに豊かになりすぎた時代」というのが私には妥当と思います。
食うに困らず、苦労もせず、そして利器が発達して、人の身体的、精神的痛みもわからなくなると、人殺しや虐めや嫌がらせなどが平気でできるようになる。
何不自由なく生活できるようになって、日々やることがなくなるときも同じなのです。
何も日蓮の言葉だけを引き合いに出すべきではないと思うのですがどうでしょうか?
日蓮
確かに、浅井氏がその著で引き合いに出していた現代における殺人、強盗、放火、婦女暴行、誘拐の頻度とその暴虐性は忘れてはならないでしょう。
しかし、それらは日蓮に帰依すればなくなるのでしょうか?
そんなことはないでしょう。
そういった事件が起きるようになったからと言って現代が末法ならば、これまでの戦争などが頻発した時代、例えば幕末、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、第二次大戦、イランイラク戦争、イラク戦争、等々枚挙にいとまがないのです。
それより前の時代である室町、江戸といつの世でも戦闘はあったのであり、「ゆえにいつの時代でも末法ではないか!」と私は疑問に思うのですね。
そういった事件や戦争や人心の荒廃については看過してはならないでしょう。
しかし、その起きた全貌をつまびらかにして、そして打開策を練り、それにかなう方法を実行していくのが王道ではないか?と思われてならないのです。
浅井氏は、その著書『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅ぶ』のP.12において、日蓮の仏法が「全人類をお救い下さる」とまで書いているのです。
ここを読んで私は、「何を根拠にそんな大言壮語を!」といぶかし気に思いました。
日蓮正宗、日蓮宗ともに世界にはそれらの信者の総数は何億人もいます。
ということは、毎日、何億もの南無妙法蓮華経という経文が唱えられていることになります。
これで人類は救われているはずですが、やはりそんなことにはなっていないのです。
そのことを顕正会の会員に聞いたら、「全日本人が日蓮大聖人に帰依していないからだ」などと言っているので苦笑してしまいました。
そんなことは無理だし、全国民が帰依しないと効力がないとなぜ言い切れるのか?
そんな全国民が帰依した時代があったのか?
あったがゆえにそんなことを言っているのならばわかるが、そんな経験理論がないのにそんな戯言を言っているのは滑稽でしかなかったですね(笑)。
やはり、日蓮が生前にいっていた「広宣流布」を引き合いにものを言っているのでしょう。
この単語は、どれだけの人が日蓮に帰依した状態なのかはわかりかねますが、顕正会では全国民ということなのだそうです。
そんなことは大人ならば絶対に無理とわかるのですが、顕正会の人はそうは考えていないようで信じられないです(笑)。
顕正会の発表では、顕正会の会員は300万世帯にまで広がったようで、それは素晴らしい偉業ですが、全国民までには到底おぼつかないですね。
よしんば、それに到達しようとしても、「やっぱり抜けるわ!」という人が出たら、それだけでもうやり直しです。
そうならないように辞めそうな人を監視員をつけて監視していなくてはならないでしょう。
そうなったら非常にお金もかかります。
それでも顕正会は全国民がなることを目指すのでしょうか?
辞めたほうがいいです(笑)。
浅井氏は更に、
「広宣流布の時来れば、日本は御本仏を国の魂となるゆえに仏国となる。この仏国は衰微せず、三災七難もなく安泰となる」
とまで書いているのです。
即座に思うのは、「日本がこのような状態になった歴史があったのだろうか?」ということです。
ないでしょう?
ないのに立正安国の実現となるといわれても単なる大言壮語にしか聞こえないのです。
現代社会を俯瞰して、どれだけ兼ね合わせが可能かといったことを考慮せずに、ひたすら開祖の言ったことを第一に考え、それを強制させようとするのを一般的に原理主義というのです。
さながら、故.浅井昭衛氏は日蓮原理主義者とでも言いたくなります。
これまでのこういった議論に賛同できる人にお勧めなのは、以下の本(電子書籍)ですね。
かなり共鳴できると思います。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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