汗牛充棟.ブログ

人類が創造した本という素晴らしきもののうち、私が接したのは、その内の限りなく少ないものですが、その片鱗でも素晴らしさを伝えたいと思っております。どうぞお付き合い下さいませ。
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人類が創造した本という素晴らしきもののうち、私が接したのは、その内の限りなく少ないものですが、その片鱗でも素晴らしさを伝えたいと思っております。

どうぞお付き合い下さいませ。

この開祖こそが至高の人間と思えるのならば帰依してもいいが、そういう気にならない人の望ましいスタンスはどんなものか?

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日恭上人
とは、日蓮正宗の第62代法主です。

火中の御遷化ということで有名になったようです。

1945年…終戦の年ですね。

この年に、一国謗法の責任と宗内僧俗の一切の最終的責任を一身に負われ、法衣をまとい、御宝蔵にまします大御本尊を遥拝しつつ覚悟の御遷化を遂げたということです。

つまり座ったまま自分の身を焼いたのです。

この時は、日蓮正宗からまだ破門にされていなかったので顕正会の人たちは、この日恭上人顕正会に好意的な人として扱われているようです。

神の国として立国して、これから戦争をしていくということで、神の札を受け入れろといった軍部に対して、日蓮正宗は受け入れてしまったようです。

これを顕正会は否定的にとらえていますが、しかし、とことんまで日蓮の御遺命に忠実であろうとしたという面において日恭上人顕正会は評価しているのです。

あくまで日蓮に忠実であろうとした、ということですね。



    日蓮



これは、人によって評価が分かれると思いますが、日蓮一筋というのがウケがいい、ということですね。

それが日興上人の流れをくむ日蓮正宗系の宗教ということになります。

しかし、日蓮の弟子であった日興上人以外のほかの弟子たちは、日蓮の教えのほかに神道儒教など様々なことも取り入れているのです。

日蓮宗の寺院である池上本門寺に行くことがよくある私ですが、そこに行くと、境内に神の祠があったりするのです。

こういう日蓮一筋でない宗教は、日蓮正宗系では異端のようです。

ゆえに、日蓮宗まで悪く評していたのですね、顕正会の長だった故.浅井昭衛氏(下写真)は。






だから日蓮宗系僧侶たちをまで「悪僧ども」などと蔑んでいたのです。

会ったことも話したこともない人に向かって「悪僧ども」とは非常に失礼な言い様じゃないか、と私は思ったものです(笑)。

とにかく浅井氏は、日蓮門下、日興上人の流れを汲む日蓮正宗、その中でただ一つ顕正会のみが素晴らしいとしていたのです。

それが、論理的に詳らかに、誰にでも納得のいくように説明してくれているのであれば、それにも目をくれてもいいとは思いますが、ただ自分の価値観を押し付けているだけである、というのが私が浅井氏『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』を最初から最後まで読んだ後の感想です。

日興上人の流れを汲む団体、それは日蓮正宗、創価学会、そして顕正会とありますが、その中で日蓮正宗、創価学会まで否定していては、まるで自家孫尺も甚だしいです。

そして当然ながら、浅井氏真言宗も、念仏宗も、律宗も否定しているのです。






そして日蓮宗も。

そして顕正会の人は、これらの宗派もすべて邪教としているのです。

確かに日蓮は生前、これらの宗派を否定していたのです。

だから邪教というのでしょう。

根拠もなく、邪教といわれても納得がいかないですね。

日蓮邪教と言っていたからという理由も納得いかないです私は。


失礼ながら、顕正会会館(下写真は東京会館)は全国津々浦々にありますが、そこには、日蓮正宗に破門にされる前に顕正会に好意的だった法主顕正会のために書いてくれた本尊があるのです。





そこに会員が来て、その本尊を拝む勤行を定期的にしているのです。

しかし、正直その会館にいっても単なる会館に本尊があるというだけで、そんな神仏と共存しているという気分になるような敬虔な気分になることもなければ、荘厳で気宇の大きな空気に包まれるような気分になることはなかったですね、正直なところ(笑)

所詮、会館は会館なのです。

それならば、池上本門寺高幡不動(真言宗)に行って足を踏み入れたほうが、よっぽどそういう晴れやかな気分になれます。

顕正会では、そういう邪教のに行くなと散々言われますが、顕正会員でない自分がなぜそんなこと言われないといけないのかといぶかし気に思います。

顕正会会館に行くよりも断然、荘厳な気分になれるのに…(笑)。

もともと日蓮正宗系の団体では、法主よりご本尊(下写真)を書いてもらい、それを家の厨子に飾り、それを拝みながら勤行をしていたのです。





しかし、それ以外でも御形木本尊といって、法主が書いていない別版があったのです。

その御形木本尊は戦国時代に海道梗塞、交通不便なときなどに末寺住職が信徒に仮曼荼羅を授与したいわば台車のようなものであったのです。

ゆえに、書いてもらうにも法主の許可が必須だったのです。

住職の自由にはできないかった性質のものだったのです。

しかし、日蓮正宗から破門処分にされてしまって、顕正会員はご本尊を法主から書いてもらえなくなったのです。

すると、顕正会員は、正宗の本山である大石寺にある第ご本尊、これは日蓮が生前に書いた大きな本尊(下写真)がある方角に向かって勤行をすることになったのでした。






これを遥拝勤行というのです。

こういう行動様式ゆえに、顕正会の正式名称を「富士大石寺顕正会」というのでしょう。

しかし、大石寺日蓮正宗の本山であり、かつ日蓮正宗の所有なのです。

その日蓮正宗から破門にされたのに、なぜ富士大石寺という文言をつけるのかは、まったく不思議ですね(笑)。

私から言わせれば、そういった日蓮の遺した言葉がすべて真理であるとは思えないがゆえに、日蓮ご本尊法主が書け、としていても、それはどうでもいいというスタンスなのですね。

法主からもらえなくなってしまったから遥拝勤行…これではあまりに形式主義かつ原理主義ですね。

もともと、仏教を創始したのは釈迦であり、その釈迦を心底神聖化するような気分になった、という経験がありかつ、釈迦南無妙法蓮華経と唱えよ、その唱える際に法主が書いた本尊を拝め、といったのならばまだわかりますが、釈迦南無妙法蓮華経と唱えよとも、法主の書いた本尊を拝めとも言っていないのです。


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日蓮という僧が、アレンジして信者に申し伝えただけの話しではないか、というのが私のスタンスなのです。

確かに、日蓮はかなりの勉強家で、使命に燃えていたのは、この人の伝記やその御書を読めばわかります。

しかし、私は日蓮の遺した書物の現代語訳をいくら読んでも一向に感動をよび起さないのですね。

そうなっては、この人に帰依する気にはなれないのが必然です。

部分的に学ぶところはありますが、「この人の仏教を人に弘めなければ!」と思ったことは一度もないのが正直なところです。

しかし、世の中には自分の尺度だけでは測れない人が大勢いるのですし、そういう人が自分ができないことを日々してくれているからこそ、この世で生活できるんだなあ、と感謝はしているのです。

しかし、顕正会にも創価学会にも正宗にも帰依しないし、どの宗教にも帰依しないというのが正直なところです。

顕正会にはいって浅井氏の話しを聞き、遥拝勤行で人生を好転させた、という経験談が顕正会幹部会でよく聞くことができました。

それを浅井氏は後ろで聞いていたのです。

こういう体験談が多く重ねれば、浅井氏自身も自分に自信が持てたし、心晴れやかな気分だったろうことは間違いないです。

その偉業は認めたいと思います。






そういう経験談を何度も聞けば浅井氏は、「いま、大聖人様の仰せのままに、三大秘宝を弘め、人を救い、国を救わんと戦っている仏弟子の大集団はただ顕正会だけである。」と書く気になったのもわかります。

しかし、人間には2タイプが某哲学者によって析出されていて、宗教にハマるタイプとそうでないタイプがあるのを明らかにされています。

前者はその宗教に一途になり、あまりにその気分が高揚しすぎて、「この宗教に入らない奴は人間じゃない」というような気分にまでなってしまうから要注意です。

その気分が高揚しすぎたがゆえにか、顕正会員が布教の際の暴力事件、拉致監禁事件を起こしている、ということは脳内に入れておいたほうがいいでしょう。

私は、その宗教がいいと思えるのならば入ればいいし、入りたいと思わなければ入らなければいい、というスタンスです。

そういったスタンスの人にお勧めしたいのが、『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』という本(電子書籍)です。

その目次は以下のようになります。


宗教の本質(教えの変遷が必然) 
分裂は不可避?それが自然体?
正宗の弊害
世界最高峰の宗教の弊害
宗教に入る人の典型 
宗教全般の特長
宗教の限界(人間の限界) 
日本の宗教の歴史


私としては、日蓮が絶対であるといいたくなる人の精神内容の訳がわからないですし、他のもいろいろ読めば、そういった宗教にハマることはないだろうと思います。

ゆえに、どの宗教もすすめないし、自分も入らないです。

ただ万遍なくいろんなものを学び武装していくことによって、自分の哲学を形成する事に役立つというスタンスでいるので、私は日蓮正宗よりも日蓮宗のほうが近いです。

日蓮宗のほうが自然であるし、人間社会には必然なスタンスだと思うのですがどうでしょうか?





かといってその日蓮宗について、それだけ学んでいればいいはずはないです。

さらなる脳内のコンテンツのレベルと量のアップを目指さなくてはならないのは言うまでもないです。

他にもいろんなものを学んでいかなくてはならないのです。


望ましいスタンスは、いろいろ欠点はどの派にもあるがゆえに、それについて愚痴を言っていては始まらないですから、それを一度受けいれて、その中で望ましいスタンスを決めて他の分野にも手を伸ばすのがいいだろうということです。

そして、私はどの派にも与しないし不参加ということです。

神仏の存在は措定して、それに感謝しつつ、周りの物はすべてに感謝しさらにいろんな物事を学び続け、望ましいことについては行動し続けていく、ということですね。

そんなスタンスに共鳴していける人には、この電子書籍はお勧めです!



●以下よりどうぞ



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今回はこれにて終了します。

ありがとうございました。


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