文字嫌いが社会の大半を占める、それに着目した宗教が大宗教になった?
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現代においては思想信条は、本人の自由とされています。
憲法で保証されているのです。
ゆえに、公共の福祉に反しなければ、どのような考えを持とうが自由なのです。
自分の意思で自由を謳歌していくのが筋ということでしょうし、どのような思想や信条を形成していくかは本人に任せていくべきなのです。
しかし、事、宗教内においては、それが保てなくなる場所になっていく危険性があるのです。
いや最終的に、思想を形成していくのは本人なのですから、こういういい方は若干誤りかとは思います。
そのことを譲歩して論を進めていきたいと思います。
自分の思想信条を形作っていく材料になるのは、やはり文字を媒体とした本が一番有効でしょう。
その他、新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、インターネットなど、いろんな媒体に接することで、それを取り入れて自分の思想を形作るものなのです。
わたしは、大学に入った時に、好奇心旺盛でいろんな論文の本を読むようになりました。
それまでは小説の類のものばかりでしたが、ある時論文の本を読み、明快に主張が書かれていることに潔さを感じて、それにひかれていろんなジャンルの本を読むようになりました。
そういう似たような過程を通じて、誰もが自分のモラルは形成されていくのです。
人によって、接して、そして取り入れてきた情報は千差万別…ゆえに、人の思想信条は人によって違ったものに変わってくるのが必然です。
しかし、宗教内において言われていることを信者は、全部鵜呑みにして、それを自己のモラルにしてしまうことが往々にしてあるのが不思議でした。
私は母親が創価学会員だったことで、周りの学会員から話されて、創価学会に入らないかと持ちかけられて、「創価学会こそが世界最高峰の宗教だ!」といわれていたので、入ることにしました。
しかし、新聞や講演で言われていることは毎回毎回一緒で、味気ないと感じた私は学会からは遠ざかり疎遠になりました。
世界最高峰の宗教が聞いてあきれました(笑)
その入った時に思ったのは「なんで学会員たちは、新聞や講演で話されていることを吟味せずに肯定してしまうのだろう?」とか「自分で吟味して立候補者を選ぶべきなのに、なぜ誰もが公明党議員に入れるのだろう?」といったことですね。
そして何度も学会員に接していくことで分かったのは、ここにいる人たちは、文字嫌いだということですね。
文字嫌いゆえに、創価の新聞や冊子しか読まない。
そして、そこらで書かれていることしか信じない、ということですね。
立場の異なる人の意見を取り入れて、自身の脳で考えて自分のモラルにする、という市民ならだれでもすべき作業を怠っているのですね。
ゆえに、学会で素晴らしいと言われている公明党議員に投票する。
これでは真の市民社会を築くことはできないでしょう。
ことは大きな宗教ならば、どこでも同じような事態なのでしょうということが、観て取れます。
日蓮正宗の信徒団体だった創価学会は、その正宗から破門にされ、同じく信徒団体だった顕正会も破門にされているのです。
その顕正会の知り合いでも、やはり日蓮に関する本や冊子しか読んでいない。
ゆえに、日蓮だけにぞっこんになる。
確かに日蓮の遺した書物は膨大なものであり、それを読破するだけで大変な作業であることは認めます。
しかし、それだけでは真実は見えてこないです。
他の仏教宗派のことも勉強していかなければ、真実は見えてこないでしょう。
その宗教が一番素晴らしいというのならば、その他の宗派との多くの比較の上で論じなければ、誰も説得できないでしょうし、現に私がそうでした。
その宗教だけ見ていれば、それが最高と思えるようになるのは必然です。
しかし、一歩そこからはみ出て、いろんな宗教について知ることが大事です。
すると、その宗教だけが素晴らしいことを言っていたり、素晴らしい思想を掲げているるのではないことが一目瞭然で分かるはずです。
しかし、そういう作業をしている創価学会員、顕正会員を見たことがないいのですね。
選挙でもそうです。
公明党議員も確かに素晴らしいと思われる公約を掲げているのは確かです。
しかし、他の政党の議員も同じように素晴らしいことを、いな、それ以上に素晴らしいことを言っていることは確かなのです。
それなのに、その議員に入れずに公明党議員だけに入れる。
これでは民主主義の意味がないのです。
直接国民が全員集まって、議論を重ねて法案を出し可決するなどということは現代社会では無理です。
いろんな理由で。
それゆえに、自分がいいと思う、自分の思いを託せると思った議員に投票して、その思いを実現してもらう。
これが間接民主主義の理念であるはずが、創価学会をぼたいにしてできた公明党の議員だけにしか学会員は投票しないというのであれば、間接民主主義の理念が形骸化しているのは言うまでもないことです。
たしかに、その公明党議員に投票するのは強制ではないし、強制されたわけでもないです。
ただし、学会員によって電話が来たり、学会員が私の家まで来て「投票しに行こう!」などといわれたこともありました。
それでも私は公明党議員に入れたことはほとんどありませんでした(笑)
立候補者全員の声明文が書かれた紙をくまなく読んで、自分の思いと一致する人を選んできました。
それが基本と思うからですね。
しかし創価学会員は、そういう知的な作業を怠っているのです。
それはなぜか?
先に指摘したように文字嫌いだからですね。
だから学会について書いた文物しか読まないで、これが真実と思ってしまう。
これは明らかに私のモラルと反するので、人には勧めないですし、私自身そうしようとも思いません。
しかし、これの理由というか原因はいろんな本を読んでいけば出くわして納得できる論にいきつくかもしれないです。
それは19世紀に生きた某哲学者の言葉ですね。
その人の言ったことは古今東西、変わらぬ事実なのです。
要約すれば、世の中は文字嫌いが大半を占めている、ということですね。
それはいまも昔も未来もそうということです。
それゆえに、世の中の多数派である文字嫌いが納得できる宗教の講義にすることが功を奏して、創価学会がこのような大きな団体になったのだということが納得できるわけです。
これだけ信じていればいいという宗教のほうが、あれもこれも学んでいくべきだとする宗教よりもウケがいいのは明白です。
私は、アレもこれも学んで行きたい、というモラルゆえに、そういうスタンスには与することができないのですね。
創価学会を世界最高峰の宗教と私にいった人は、単にその信者の多さを逆手に取っていただけのことだったのがわかりました。
自分には非常に味気ない宗教でした創価学会は(笑)
もちろん、顕正会もです。
同じ日蓮正宗系の団体ですが、新聞や講演で言われていることは、やはり毎回毎回同じ内容。
ゆえに、聞いていて5分か10分で席を立ちたくなるのです。
しかし、この団体は国内で300万世帯にまで広がっているようです。
それは、毎回違うことを言われるよりも、毎回同じことを言っているほうがウケがいいからでしょう。
それのほうが大衆受けして信者獲得に有利なのです。
その結果、やはり自分の意見を持つ人が少ないし、新聞や講演で言われていることが真実と断定して、それに反論することがまずないのです。
しかし、どんなに創価学会や顕正会が大きな団体になっても、私はこれらの団体に与することはしないでしょう。
いろんな本を読み、いろんな情報に接していくことのほうが断然有意義ですし、愉しい時間が過ごせるからですね。
「日蓮諸宗派が釈尊を本仏とし、大聖人は釈尊の弟子、上行菩薩の再誕に過ぎないとみるのは謗法であり…」というのは、顕正会の講演で話した信者の言葉です。
顕正会では、日蓮こそが至高の存在であり、これ以外を奉ることはけしからんとしていた故.浅井昭衛氏の言葉をそのまま信じ切っているのです。
他のいろんな情報を取り入れたうえで、脳内で自分で思考錯誤しないままに。
私は、釈迦がいなければ仏教も生まれなかったし、当然、日蓮が自身の宗教を開始することもできなかった話しです。
ゆえに、釈迦を上位においているのです。
日蓮正宗ならぬ日蓮宗では、宗派によっては釈迦のほうを上位においているパターンも当然あります。
しかし、顕正会員は逆においているのです。
それは、やはり顕正会員は日蓮の言ったことだけを勉強しているから、必然ですが、それではあまりに視野狭窄の観は否めないです。
それは、その人の選んだ道ですから、私がどうこう言うわけではないですが、私はそういう気にはなれないというだけでのことです。
そんなスタンスに共鳴できる人にお勧めなのが、以下の電子書籍になります。
1つのことだけに拘泥しないで、いろんなものをどん欲に追及していくことに幸せを感じるのならば、それを読むことで心晴れやかになることは間違いないでしょう。
真理なるものは誰にも到達できるものではないです。
しかし、いろんな視覚から、そして深く追及いていくことで、それに近づくことができるのは明白です。
そういう道を目指したい人は是非とも勧めたいです。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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現代においては思想信条は、本人の自由とされています。
憲法で保証されているのです。
ゆえに、公共の福祉に反しなければ、どのような考えを持とうが自由なのです。
自分の意思で自由を謳歌していくのが筋ということでしょうし、どのような思想や信条を形成していくかは本人に任せていくべきなのです。
しかし、事、宗教内においては、それが保てなくなる場所になっていく危険性があるのです。
いや最終的に、思想を形成していくのは本人なのですから、こういういい方は若干誤りかとは思います。
そのことを譲歩して論を進めていきたいと思います。
自分の思想信条を形作っていく材料になるのは、やはり文字を媒体とした本が一番有効でしょう。
その他、新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、インターネットなど、いろんな媒体に接することで、それを取り入れて自分の思想を形作るものなのです。
わたしは、大学に入った時に、好奇心旺盛でいろんな論文の本を読むようになりました。
それまでは小説の類のものばかりでしたが、ある時論文の本を読み、明快に主張が書かれていることに潔さを感じて、それにひかれていろんなジャンルの本を読むようになりました。
そういう似たような過程を通じて、誰もが自分のモラルは形成されていくのです。
人によって、接して、そして取り入れてきた情報は千差万別…ゆえに、人の思想信条は人によって違ったものに変わってくるのが必然です。
しかし、宗教内において言われていることを信者は、全部鵜呑みにして、それを自己のモラルにしてしまうことが往々にしてあるのが不思議でした。
私は母親が創価学会員だったことで、周りの学会員から話されて、創価学会に入らないかと持ちかけられて、「創価学会こそが世界最高峰の宗教だ!」といわれていたので、入ることにしました。
しかし、新聞や講演で言われていることは毎回毎回一緒で、味気ないと感じた私は学会からは遠ざかり疎遠になりました。
世界最高峰の宗教が聞いてあきれました(笑)
その入った時に思ったのは「なんで学会員たちは、新聞や講演で話されていることを吟味せずに肯定してしまうのだろう?」とか「自分で吟味して立候補者を選ぶべきなのに、なぜ誰もが公明党議員に入れるのだろう?」といったことですね。
そして何度も学会員に接していくことで分かったのは、ここにいる人たちは、文字嫌いだということですね。
文字嫌いゆえに、創価の新聞や冊子しか読まない。
そして、そこらで書かれていることしか信じない、ということですね。
立場の異なる人の意見を取り入れて、自身の脳で考えて自分のモラルにする、という市民ならだれでもすべき作業を怠っているのですね。
ゆえに、学会で素晴らしいと言われている公明党議員に投票する。
これでは真の市民社会を築くことはできないでしょう。
ことは大きな宗教ならば、どこでも同じような事態なのでしょうということが、観て取れます。
日蓮正宗の信徒団体だった創価学会は、その正宗から破門にされ、同じく信徒団体だった顕正会も破門にされているのです。
その顕正会の知り合いでも、やはり日蓮に関する本や冊子しか読んでいない。
ゆえに、日蓮だけにぞっこんになる。
確かに日蓮の遺した書物は膨大なものであり、それを読破するだけで大変な作業であることは認めます。
しかし、それだけでは真実は見えてこないです。
他の仏教宗派のことも勉強していかなければ、真実は見えてこないでしょう。
その宗教が一番素晴らしいというのならば、その他の宗派との多くの比較の上で論じなければ、誰も説得できないでしょうし、現に私がそうでした。
その宗教だけ見ていれば、それが最高と思えるようになるのは必然です。
しかし、一歩そこからはみ出て、いろんな宗教について知ることが大事です。
すると、その宗教だけが素晴らしいことを言っていたり、素晴らしい思想を掲げているるのではないことが一目瞭然で分かるはずです。
しかし、そういう作業をしている創価学会員、顕正会員を見たことがないいのですね。
選挙でもそうです。
公明党議員も確かに素晴らしいと思われる公約を掲げているのは確かです。
しかし、他の政党の議員も同じように素晴らしいことを、いな、それ以上に素晴らしいことを言っていることは確かなのです。
それなのに、その議員に入れずに公明党議員だけに入れる。
これでは民主主義の意味がないのです。
直接国民が全員集まって、議論を重ねて法案を出し可決するなどということは現代社会では無理です。
いろんな理由で。
それゆえに、自分がいいと思う、自分の思いを託せると思った議員に投票して、その思いを実現してもらう。
これが間接民主主義の理念であるはずが、創価学会をぼたいにしてできた公明党の議員だけにしか学会員は投票しないというのであれば、間接民主主義の理念が形骸化しているのは言うまでもないことです。
たしかに、その公明党議員に投票するのは強制ではないし、強制されたわけでもないです。
ただし、学会員によって電話が来たり、学会員が私の家まで来て「投票しに行こう!」などといわれたこともありました。
それでも私は公明党議員に入れたことはほとんどありませんでした(笑)
立候補者全員の声明文が書かれた紙をくまなく読んで、自分の思いと一致する人を選んできました。
それが基本と思うからですね。
しかし創価学会員は、そういう知的な作業を怠っているのです。
それはなぜか?
先に指摘したように文字嫌いだからですね。
だから学会について書いた文物しか読まないで、これが真実と思ってしまう。
これは明らかに私のモラルと反するので、人には勧めないですし、私自身そうしようとも思いません。
しかし、これの理由というか原因はいろんな本を読んでいけば出くわして納得できる論にいきつくかもしれないです。
それは19世紀に生きた某哲学者の言葉ですね。
その人の言ったことは古今東西、変わらぬ事実なのです。
要約すれば、世の中は文字嫌いが大半を占めている、ということですね。
それはいまも昔も未来もそうということです。
それゆえに、世の中の多数派である文字嫌いが納得できる宗教の講義にすることが功を奏して、創価学会がこのような大きな団体になったのだということが納得できるわけです。
これだけ信じていればいいという宗教のほうが、あれもこれも学んでいくべきだとする宗教よりもウケがいいのは明白です。
私は、アレもこれも学んで行きたい、というモラルゆえに、そういうスタンスには与することができないのですね。
創価学会を世界最高峰の宗教と私にいった人は、単にその信者の多さを逆手に取っていただけのことだったのがわかりました。
自分には非常に味気ない宗教でした創価学会は(笑)
もちろん、顕正会もです。
同じ日蓮正宗系の団体ですが、新聞や講演で言われていることは、やはり毎回毎回同じ内容。
ゆえに、聞いていて5分か10分で席を立ちたくなるのです。
しかし、この団体は国内で300万世帯にまで広がっているようです。
それは、毎回違うことを言われるよりも、毎回同じことを言っているほうがウケがいいからでしょう。
それのほうが大衆受けして信者獲得に有利なのです。
その結果、やはり自分の意見を持つ人が少ないし、新聞や講演で言われていることが真実と断定して、それに反論することがまずないのです。
しかし、どんなに創価学会や顕正会が大きな団体になっても、私はこれらの団体に与することはしないでしょう。
いろんな本を読み、いろんな情報に接していくことのほうが断然有意義ですし、愉しい時間が過ごせるからですね。
「日蓮諸宗派が釈尊を本仏とし、大聖人は釈尊の弟子、上行菩薩の再誕に過ぎないとみるのは謗法であり…」というのは、顕正会の講演で話した信者の言葉です。
顕正会では、日蓮こそが至高の存在であり、これ以外を奉ることはけしからんとしていた故.浅井昭衛氏の言葉をそのまま信じ切っているのです。
他のいろんな情報を取り入れたうえで、脳内で自分で思考錯誤しないままに。
私は、釈迦がいなければ仏教も生まれなかったし、当然、日蓮が自身の宗教を開始することもできなかった話しです。
ゆえに、釈迦を上位においているのです。
日蓮正宗ならぬ日蓮宗では、宗派によっては釈迦のほうを上位においているパターンも当然あります。
しかし、顕正会員は逆においているのです。
それは、やはり顕正会員は日蓮の言ったことだけを勉強しているから、必然ですが、それではあまりに視野狭窄の観は否めないです。
それは、その人の選んだ道ですから、私がどうこう言うわけではないですが、私はそういう気にはなれないというだけでのことです。
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1つのことだけに拘泥しないで、いろんなものをどん欲に追及していくことに幸せを感じるのならば、それを読むことで心晴れやかになることは間違いないでしょう。
真理なるものは誰にも到達できるものではないです。
しかし、いろんな視覚から、そして深く追及いていくことで、それに近づくことができるのは明白です。
そういう道を目指したい人は是非とも勧めたいです。
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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