自分の哲学は誰でも雑種。世界最高峰の宗教を創立した開祖でも例外ではなし!
日蓮正宗では、寺に住職なる人がいて、信者は月に1回寺に行き、その人を中心に勤行をして講話をしてもらうのです。
その結果、自分たちは幸福な生活を送れているんだという気持ちで、信者たちは供養金をその寺に渡すのだそうです。
その額が、僧侶たちが生活できるレベルのまで達していない事には、その宗教自体が存続できないわけです。
日蓮(下写真)は、鎌倉時代を生きた僧侶でしたが、そういう形式で今まで存続してきたのですから、その恩恵はあるのでしょう。
その供養金の額は、人によってまちまちで、1万円という人もいれば10万円、あるいは100万円以上出す人もいるというから驚きです。
また、信者がなくなり、その人の葬式においても、お経を唱えれば、またお金がもらえるのです。
だいたい日本人ならば誰もが仏教形式で葬式をするのが一般的でしょう。
その時にお坊さんにだいたい100万円以上は出すのが相場になっています。
それでまた僧侶が儲かることになるのです。
日蓮正宗でも同様なのです。
こういう供養金や弔い金というのは、どこから由来するのでしょうか?
日蓮正宗では、当然日蓮の遺した以下の言葉です。
「僧の恩をいはば仏法、法宝は必ず僧によりて住す。譬えば薪なければ火無く、大地なければ草木生ずべからず。
仏法ありといえども、僧ありて、習い伝えずんば、伝わるべからず。乃至、然れば、僧の恩を報じ難し。
されば、三宝の恩を報じ給うべし」
これにより、僧侶たちは尊崇の対象になったのです。
そして、この言葉は無から有というかたちで日蓮が考えたわけではないのです。
それは、何か?
聖徳太子の制定した憲法十七条なのです。
その2条に、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏、法、僧なり。」とあるのです。
これを日蓮は借用し、装飾を施しているのです。
聖徳太子創建の日本最古の官寺である天王寺でも学んだ日蓮ゆえに、こういうことになるのです。
しかし、日々仏教に関する勉強もおろそかにして、親身になって相談に乗ってくれなくても、僧侶たちが生活できる、ということであれば当然、僧侶の堕落はまぬかれないでしょう。
ただし、僧侶なら必ず堕落するとは限らないもので、そうなるかどうかは僧侶次第ということになります。
しかし、どうしてもそういう生活になると堕落してしまう僧がすくなからず出てしまうことがあるのがわかりました。
日蓮正宗の信徒団体だった顕正会の会員だった人の体験談を、その機関紙である『顕正新聞』で知ることができました。
長野県諏訪町にある正宗の威徳寺において、住職は寺そっちのけでゴルフや旅行などの贅沢三昧になり、その素行の悪さが話題になり、岩手県の末寺に飛ばされたということです。
こういう僧侶にあきれをきたして、正宗から顕正会に移籍してしていった人がいたということです。
顕正新聞においては、そういう経験談をたくさん読むことができるので興味深いです。
しかし、その「仏法僧を敬え」という日蓮の言葉は開祖であるだけに、なかなか捨て去ってしまうことができず、そういう堕落坊主で出てもうやむやのまま、ということになってしまう例が多数あるのです。
日蓮正宗は、91年に創価学会を破門処分にしてから、どんどん信徒が減っていき、91年から数えていまに至っては2%にまで減ってしまったというから驚きです。
その情報は池袋にある正宗の寺院である法道院という寺の前に通りかかったことがあり、その前にある仏壇屋に50過ぎの女性がいました。
そこで仏壇屋の店員をしているということは、日蓮正宗信徒であるのは間違いないです。
その女性に聞いてみました。
「日蓮正宗の信者がかつての2%まで減ってしまったというのは本当なのですか?」と。
するとその女性曰く、「うん、そうみたいね」とあっけらかんと言っていたから驚きました(笑)
普通、自分の属する宗教団体の信者がそんな減ったら、哀しんだりするだろう、ということですね。
しかし、その女性は何とも思っていない。
やはり、その宗教の長がしていることによって、そういう結果になってしまったということに考慮がいかなくなってしまっているパターンというのは往々にしてあるようです。
創価学会と日蓮正宗が一体だった時に、創価学会員が350億円も出して作った正本堂を、前代の法主であった日顕は、10億円もかけて破壊したようです。
創価学会の人はかなりの無念だったのは間違いないです。
そんな大金をかけて作ったにもかかわらず無為に壊して更地にする。
こんな輩は、死後、当然地獄に落ちているのは間違いないです。
日顕が、死後、今では地獄の中を彷徨っていることは間違いないでしょう。
そんな法主だったにもかかわらず、日顕に依然として従い続けていた人がたとえかつての2%といえども、いたのが私には信じれませんでした。
そのことを私が出した電子書籍で批判しました。
それを買って読んだ某女性が、「日顕上人が嫉妬や見栄えで行動する人とは到底思えません」だの「事実無根の情報が多すぎ」などと言って批判しているのです。
日顕
自分の属する団体の出す機関雑誌や機関新聞だけを拠り所にして、それまで知らなかったことに関してはデマだなどというニュアンスの言葉を吐いて信じない…古今東西こういう人は少なからずいるもので、それに逐一落胆している暇はないですが…でも、事実無根ではないので、こういう言葉は書かないでほしいですね(苦笑)
こういう法主はもちろん、住職も、日蓮正宗という「高尚な」宗教を信奉していても出てきてしまうのですから、敢然と批判をしていかなくてはならないのは言うまでないことです。
無批判でいていいわけはないのです。
それで変わらないのであるならば、その寺院の信徒は辞めるべきなのです。
そうでなければ、その堕落した坊主に賛同していることになるのですから。
それがたとえ日蓮大聖人が言ったことに反することになってもです。
先に、私は日蓮が聖徳太子の言葉を拝借し、それを装飾して御書に言葉をしたためたことを指摘しました。
また天台宗の総本山である延暦寺においても遊学したがゆえに、日蓮正宗系の人たちが毎日唱えている方便自我偈はそっくりそのまま天台宗から借用したのです日蓮は。
嘘と思うのならば、天台宗の経本を買って確認してみるのがいいでしょう。
その他、日蓮は様々な宗教を遊学していって、その中で自分には必要と思われる部分は取り入れて、そうでないものは捨てて自分の宗教体系を作り上げたのです。
まさに、守破離なのです。
その守破離を一般人もしていったらいいだろうというのが私の意見です。
なぜ日蓮のセンスと自分のは違うのに、そのまましたがわなくてはいけないのでしょうか?
従わなくてはならない絶対的な理由を言ってもらいたいものです。
それで私が屈服したら、日蓮正宗系の信者になろうではないですか!(笑)
ただし、自分で行った守破離については、自分で責任は取る所存なのは言うまでもないです。
物事が上手くいかなかった…これは日蓮に帰依しなかったからだ、などという風には考えないです私は。
何もかも日蓮に縋っていれば上手くいくし、最善の方法に巡り合えるなどというのは幻想にしか過ぎないのです。
そんな幻想に従うことはできた話ではないのです、私は(笑)
こんな私の立場に共感してもらえるのならば、以下の電子書籍は役に立つでしょう。
●興味ある人は以下、覗いてみてほしいものです。
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
→楽天Kobo
→Amazon Kindle
今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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その結果、自分たちは幸福な生活を送れているんだという気持ちで、信者たちは供養金をその寺に渡すのだそうです。
その額が、僧侶たちが生活できるレベルのまで達していない事には、その宗教自体が存続できないわけです。
日蓮(下写真)は、鎌倉時代を生きた僧侶でしたが、そういう形式で今まで存続してきたのですから、その恩恵はあるのでしょう。
その供養金の額は、人によってまちまちで、1万円という人もいれば10万円、あるいは100万円以上出す人もいるというから驚きです。
また、信者がなくなり、その人の葬式においても、お経を唱えれば、またお金がもらえるのです。
だいたい日本人ならば誰もが仏教形式で葬式をするのが一般的でしょう。
その時にお坊さんにだいたい100万円以上は出すのが相場になっています。
それでまた僧侶が儲かることになるのです。
日蓮正宗でも同様なのです。
こういう供養金や弔い金というのは、どこから由来するのでしょうか?
日蓮正宗では、当然日蓮の遺した以下の言葉です。
「僧の恩をいはば仏法、法宝は必ず僧によりて住す。譬えば薪なければ火無く、大地なければ草木生ずべからず。
仏法ありといえども、僧ありて、習い伝えずんば、伝わるべからず。乃至、然れば、僧の恩を報じ難し。
されば、三宝の恩を報じ給うべし」
これにより、僧侶たちは尊崇の対象になったのです。
そして、この言葉は無から有というかたちで日蓮が考えたわけではないのです。
それは、何か?
聖徳太子の制定した憲法十七条なのです。
その2条に、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏、法、僧なり。」とあるのです。
これを日蓮は借用し、装飾を施しているのです。
聖徳太子創建の日本最古の官寺である天王寺でも学んだ日蓮ゆえに、こういうことになるのです。
しかし、日々仏教に関する勉強もおろそかにして、親身になって相談に乗ってくれなくても、僧侶たちが生活できる、ということであれば当然、僧侶の堕落はまぬかれないでしょう。
ただし、僧侶なら必ず堕落するとは限らないもので、そうなるかどうかは僧侶次第ということになります。
しかし、どうしてもそういう生活になると堕落してしまう僧がすくなからず出てしまうことがあるのがわかりました。
日蓮正宗の信徒団体だった顕正会の会員だった人の体験談を、その機関紙である『顕正新聞』で知ることができました。
長野県諏訪町にある正宗の威徳寺において、住職は寺そっちのけでゴルフや旅行などの贅沢三昧になり、その素行の悪さが話題になり、岩手県の末寺に飛ばされたということです。
こういう僧侶にあきれをきたして、正宗から顕正会に移籍してしていった人がいたということです。
顕正新聞においては、そういう経験談をたくさん読むことができるので興味深いです。
しかし、その「仏法僧を敬え」という日蓮の言葉は開祖であるだけに、なかなか捨て去ってしまうことができず、そういう堕落坊主で出てもうやむやのまま、ということになってしまう例が多数あるのです。
日蓮正宗は、91年に創価学会を破門処分にしてから、どんどん信徒が減っていき、91年から数えていまに至っては2%にまで減ってしまったというから驚きです。
その情報は池袋にある正宗の寺院である法道院という寺の前に通りかかったことがあり、その前にある仏壇屋に50過ぎの女性がいました。
そこで仏壇屋の店員をしているということは、日蓮正宗信徒であるのは間違いないです。
その女性に聞いてみました。
「日蓮正宗の信者がかつての2%まで減ってしまったというのは本当なのですか?」と。
するとその女性曰く、「うん、そうみたいね」とあっけらかんと言っていたから驚きました(笑)
普通、自分の属する宗教団体の信者がそんな減ったら、哀しんだりするだろう、ということですね。
しかし、その女性は何とも思っていない。
やはり、その宗教の長がしていることによって、そういう結果になってしまったということに考慮がいかなくなってしまっているパターンというのは往々にしてあるようです。
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創価学会の人はかなりの無念だったのは間違いないです。
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日顕が、死後、今では地獄の中を彷徨っていることは間違いないでしょう。
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また天台宗の総本山である延暦寺においても遊学したがゆえに、日蓮正宗系の人たちが毎日唱えている方便自我偈はそっくりそのまま天台宗から借用したのです日蓮は。
嘘と思うのならば、天台宗の経本を買って確認してみるのがいいでしょう。
その他、日蓮は様々な宗教を遊学していって、その中で自分には必要と思われる部分は取り入れて、そうでないものは捨てて自分の宗教体系を作り上げたのです。
まさに、守破離なのです。
その守破離を一般人もしていったらいいだろうというのが私の意見です。
なぜ日蓮のセンスと自分のは違うのに、そのまましたがわなくてはいけないのでしょうか?
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それで私が屈服したら、日蓮正宗系の信者になろうではないですか!(笑)
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ありがとうございました!
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