父上の原理主義をいかに脱していくか…それが浅井城衛氏の課題?
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日蓮正宗にはいくつか信徒団体がありました。
創価学会や顕正会がそれでした。
それぞれはともに今は正宗から破門にされています。
時の法主と敵対関係になってしまったので。
その敵対関係の内容について、ここでは詳述はしないです、ものすごく長くなってしまうので(笑)。
その破門になってからの創価学会に、私は入ったことがありましたが、あまりに同じことばかり新聞で書かれているのと、信心をすることで人生が開けるとは全く思わなかくなったので、新聞の購読を停止し、講演等にもいかなくなっていました。
それでも後悔は全くしていないです。
そしてそれから何年かして、うちに顕正会の人が来て、日蓮の講義をしました。
それで話しを聞きましたが、まるで感銘を受けることはなかったです。
そして無料でいいというので、その機関紙である『顕正新聞』を読んでくれと言われたので読んでみると、そこには日蓮正宗と創価学会(下写真)の非難が毎回なされているのです。
創価学会は日蓮正宗の批判だけをしていましたが、ここでは違うのですね。
違うがゆえに、ここで聞いていれば、創価学会時代に開けなかった目が開けるかもしれないと思い、新聞を読むのみならず、講演を聴いたりしてみるも、やはり結果は一緒でした。
「やはり自分には必要がない。あっても少ししかない。」
この程度でした。
また、当時の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)の本を読んでみるも結果は一緒でした。
その本である『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』には以下のように書かれていました。
「学会、宗門ともに何たる無道心、何たる師敵対か。
所詮かれらには、戒壇の大御本尊に対し奉る信心が全くないのである。
だからこのような師敵対を平然となしうるのである。」
人間である以上、このような意見の相違が生じてしまうのは致し方ないでしょう。
その敵対関係の程については、会長という立場で実際にその場にいたこともあって臨場感をもって語られているのがわかります。
開祖.日蓮を鎌倉時代にまでさかのぼってタイムマシーンで連れてきて、議題に上がった内容について裁断してもらえれば、一発で決着がつくのは言うまでもないですが、それが不可能ゆえに、収拾がつかないまま決裂してしまうのは、日蓮正宗系でなくても、いろんな宗教でも同様ですね。
日蓮(下写真)が生前に遺した「戒壇を作れ」としたことについても、やはり意見が分かれてしまっていたのですね。
日蓮は、「広宣流布した暁に、天皇の許可を得て、富士山天生が原に戒壇を作れ」としたのですが、これだけでも不満分子がいたのです。
浅井氏ですね。
広宣流布は達成していないし、天皇の許可をえていないし、富士山天生が原ではなく大石寺の境内に建てようとしている、ということで反対したのです。
広宣流布という語は非常に抽象的で、日蓮は国民の何割が帰依したらという明確な数字は書いていなかったのですね。
しかし、浅井氏は日本人全員が、というように解釈していたようですが、そんなことは不可能に決まっているのは小学生でもわかります。
鎌倉時代においては、戒壇を建立するには天皇の許可必要だったのです。
しかし、今の政教分離の時代において天皇に許可を得るなどということ自体が不可能なことなのです。
それを浅井氏は無理強いさせようとしていたのです。
単なる駄々っ子ですね(笑)
そして富士山天生が原というのは、非常に水はけが悪く、非常に辺鄙で、人が行き来するには不向きということで大石寺内に建てようとしたのです。
その事実を踏まえずして、天生が原ではない、として反対するのも、また現実を無視して、開祖の言うことだけを最優先にしているのです。
こんなでは先に進めないと日蓮正宗側は判断したのでしょう。
その他、浅井氏とは考え方が基本的に乖離すること何度もあったのでしょう。
時の法主、細井日達上人(下写真)によって顕正会は破門にされてしまうのです。
学会、正宗、顕正会と、当時いちばん信者が多く、金もあった学会と、それらに劣る顕正会では、やはり発言権に差が出たのは致し方ないです。
その面だけで裁断するのは慎まなくてはならないのは言うまでもないですが、それを差し引いても、浅井氏はあまりに現実を見なさすぎだったのは否めないです。
大石寺建立から700年のちょうどいい時期に、しかも戒壇を建てるに充分な資金が集まったのであれば、全国民が帰依しなくても、天皇の許可を得なくても、天生が原でなくても、そこでいいじゃないか、と誰しも思ったでしょう。
それに浅井氏が意見すれどもやはり切り捨てて行動しなくてはならないのがしかたなかったでしょう。
それについて、浅井氏は戒壇=正本堂の設立について、「池田の御遺命破壊」として批判したのです。
池田大作氏(下写真)は、創価学会の会長でした。
「池田は政治的野心のために御遺命の国立戒壇を否定し、偽戒壇.正本堂を建てて、それを御遺命の戒壇と偽った。」と昭衛氏は批判していたのです。
しかし、私は必ずしも政治的野心ではなく、資金的にもタイミング的にもちょうどいい節目だったからという気がしてならないのです。
そして、池田大作氏は、創価学会までも破門処分になった後に、それまでに法主に書いてもらっていた会員たちの本尊を捨てさせたということです。
日蓮大聖人は、「本尊は法主が書くべし」としていたのです。
日蓮正宗においては、入信した人には、法主が本尊(下写真)を書いてそれを受持していたのです。
しかし、日蓮正宗から破門にされてしまっていたので、それ以降は受持されることができなくなってしまったのです。
そして、それからは、それまで受持されていた人の本尊を印刷工場でコピーして、それを受持させていくことにしたのです。
それまでの本尊を捨てさせたことによって、浅井氏は憤りを見せたようです。
日蓮が言った、本尊は法主が書くべし、としていたからなのでしょう。
しかし、浅井氏のいう「戒壇の大御本尊を捨てさせた」というのは表現は間違いでしょう。
大御本尊というのは、大石寺にある、日蓮が遺したものに他ならないです。
ここまで俯瞰して、やはり浅井氏は現実をあまりにみなさすぎていたという観は拭えなかったです。
しかし、彼のカリスマ性に惹かれて、信者になった人は大勢いましたし、今その数は300万世帯にまで上がったそうです。
これは瞠目すべきでしょう。
しかし、私は日蓮の言ったことこそが至上であるとは、何度も日蓮の書物を読んで思えなかったので、顕正会には入らないですし、その素晴らしさについて誰かに語り、入会を勧めることもないです。
そして、浅井氏は2023年に死を迎えました。
私はこれまで組織論を研究してきてわかったのは、団体の長の死後、分裂してしまうのは、その長の跡を継いだ人のワンマンな指揮というのが最大のようです。
しかし、ワンマンでなくてもやはり分裂は避けられないようです。
今は、昭衛氏の子供である城衛氏(下写真)が会長を務めているのです。
親族が後を継ぐということでは、、分裂は起こりにくいのです。
それまでの長とは血縁のない人が長になるよりかは断然に。
城衛氏は、氏の講演を聴く限り非常に謙虚な印象を得ますし、それゆえに、ワンマンな決定はしないだろうことについては安心はしているのです。
それでも分裂になってしまうかどうかは保証のしようがないです。
浅井昭衛氏の後を継いでも、分裂しないかはわからないです。
私の関心は、そこにはあまりなくて、やはり昭衛氏がしていたあまりに原理主義的な思想をいかに拭っていくかだと思います。
あまりに現代社会との兼ね合いを考慮せずに、日蓮の言ったことだけに依拠して事を進めていくのは正直いただけなかったです。
それが城衛氏がどのように変化させていくか、に興味がわいているのです。
こんな私の立場にどれだけの共鳴がされるでしょうか?
共鳴できた人にお勧めなのが以下の電子書籍です。
単に開祖が言ったことだけに依拠するのではなく、いろんな情報を摂取して最良と思われるものを採択して、行動していく。
もちろん神仏の存在は信じながらも、コンテンツを拡大させていくのが王道、というモラルがいいということですね。
●その電子書籍は以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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日蓮正宗にはいくつか信徒団体がありました。
創価学会や顕正会がそれでした。
それぞれはともに今は正宗から破門にされています。
時の法主と敵対関係になってしまったので。
その敵対関係の内容について、ここでは詳述はしないです、ものすごく長くなってしまうので(笑)。
その破門になってからの創価学会に、私は入ったことがありましたが、あまりに同じことばかり新聞で書かれているのと、信心をすることで人生が開けるとは全く思わなかくなったので、新聞の購読を停止し、講演等にもいかなくなっていました。
それでも後悔は全くしていないです。
そしてそれから何年かして、うちに顕正会の人が来て、日蓮の講義をしました。
それで話しを聞きましたが、まるで感銘を受けることはなかったです。
そして無料でいいというので、その機関紙である『顕正新聞』を読んでくれと言われたので読んでみると、そこには日蓮正宗と創価学会(下写真)の非難が毎回なされているのです。
創価学会は日蓮正宗の批判だけをしていましたが、ここでは違うのですね。
違うがゆえに、ここで聞いていれば、創価学会時代に開けなかった目が開けるかもしれないと思い、新聞を読むのみならず、講演を聴いたりしてみるも、やはり結果は一緒でした。
「やはり自分には必要がない。あっても少ししかない。」
この程度でした。
また、当時の会長だった故.浅井昭衛氏(下写真)の本を読んでみるも結果は一緒でした。
その本である『日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる』には以下のように書かれていました。
「学会、宗門ともに何たる無道心、何たる師敵対か。
所詮かれらには、戒壇の大御本尊に対し奉る信心が全くないのである。
だからこのような師敵対を平然となしうるのである。」
人間である以上、このような意見の相違が生じてしまうのは致し方ないでしょう。
その敵対関係の程については、会長という立場で実際にその場にいたこともあって臨場感をもって語られているのがわかります。
開祖.日蓮を鎌倉時代にまでさかのぼってタイムマシーンで連れてきて、議題に上がった内容について裁断してもらえれば、一発で決着がつくのは言うまでもないですが、それが不可能ゆえに、収拾がつかないまま決裂してしまうのは、日蓮正宗系でなくても、いろんな宗教でも同様ですね。
日蓮(下写真)が生前に遺した「戒壇を作れ」としたことについても、やはり意見が分かれてしまっていたのですね。
日蓮は、「広宣流布した暁に、天皇の許可を得て、富士山天生が原に戒壇を作れ」としたのですが、これだけでも不満分子がいたのです。
浅井氏ですね。
広宣流布は達成していないし、天皇の許可をえていないし、富士山天生が原ではなく大石寺の境内に建てようとしている、ということで反対したのです。
広宣流布という語は非常に抽象的で、日蓮は国民の何割が帰依したらという明確な数字は書いていなかったのですね。
しかし、浅井氏は日本人全員が、というように解釈していたようですが、そんなことは不可能に決まっているのは小学生でもわかります。
鎌倉時代においては、戒壇を建立するには天皇の許可必要だったのです。
しかし、今の政教分離の時代において天皇に許可を得るなどということ自体が不可能なことなのです。
それを浅井氏は無理強いさせようとしていたのです。
単なる駄々っ子ですね(笑)
そして富士山天生が原というのは、非常に水はけが悪く、非常に辺鄙で、人が行き来するには不向きということで大石寺内に建てようとしたのです。
その事実を踏まえずして、天生が原ではない、として反対するのも、また現実を無視して、開祖の言うことだけを最優先にしているのです。
こんなでは先に進めないと日蓮正宗側は判断したのでしょう。
その他、浅井氏とは考え方が基本的に乖離すること何度もあったのでしょう。
時の法主、細井日達上人(下写真)によって顕正会は破門にされてしまうのです。
学会、正宗、顕正会と、当時いちばん信者が多く、金もあった学会と、それらに劣る顕正会では、やはり発言権に差が出たのは致し方ないです。
その面だけで裁断するのは慎まなくてはならないのは言うまでもないですが、それを差し引いても、浅井氏はあまりに現実を見なさすぎだったのは否めないです。
大石寺建立から700年のちょうどいい時期に、しかも戒壇を建てるに充分な資金が集まったのであれば、全国民が帰依しなくても、天皇の許可を得なくても、天生が原でなくても、そこでいいじゃないか、と誰しも思ったでしょう。
それに浅井氏が意見すれどもやはり切り捨てて行動しなくてはならないのがしかたなかったでしょう。
それについて、浅井氏は戒壇=正本堂の設立について、「池田の御遺命破壊」として批判したのです。
池田大作氏(下写真)は、創価学会の会長でした。
「池田は政治的野心のために御遺命の国立戒壇を否定し、偽戒壇.正本堂を建てて、それを御遺命の戒壇と偽った。」と昭衛氏は批判していたのです。
しかし、私は必ずしも政治的野心ではなく、資金的にもタイミング的にもちょうどいい節目だったからという気がしてならないのです。
そして、池田大作氏は、創価学会までも破門処分になった後に、それまでに法主に書いてもらっていた会員たちの本尊を捨てさせたということです。
日蓮大聖人は、「本尊は法主が書くべし」としていたのです。
日蓮正宗においては、入信した人には、法主が本尊(下写真)を書いてそれを受持していたのです。
しかし、日蓮正宗から破門にされてしまっていたので、それ以降は受持されることができなくなってしまったのです。
そして、それからは、それまで受持されていた人の本尊を印刷工場でコピーして、それを受持させていくことにしたのです。
それまでの本尊を捨てさせたことによって、浅井氏は憤りを見せたようです。
日蓮が言った、本尊は法主が書くべし、としていたからなのでしょう。
しかし、浅井氏のいう「戒壇の大御本尊を捨てさせた」というのは表現は間違いでしょう。
大御本尊というのは、大石寺にある、日蓮が遺したものに他ならないです。
ここまで俯瞰して、やはり浅井氏は現実をあまりにみなさすぎていたという観は拭えなかったです。
しかし、彼のカリスマ性に惹かれて、信者になった人は大勢いましたし、今その数は300万世帯にまで上がったそうです。
これは瞠目すべきでしょう。
しかし、私は日蓮の言ったことこそが至上であるとは、何度も日蓮の書物を読んで思えなかったので、顕正会には入らないですし、その素晴らしさについて誰かに語り、入会を勧めることもないです。
そして、浅井氏は2023年に死を迎えました。
私はこれまで組織論を研究してきてわかったのは、団体の長の死後、分裂してしまうのは、その長の跡を継いだ人のワンマンな指揮というのが最大のようです。
しかし、ワンマンでなくてもやはり分裂は避けられないようです。
今は、昭衛氏の子供である城衛氏(下写真)が会長を務めているのです。
親族が後を継ぐということでは、、分裂は起こりにくいのです。
それまでの長とは血縁のない人が長になるよりかは断然に。
城衛氏は、氏の講演を聴く限り非常に謙虚な印象を得ますし、それゆえに、ワンマンな決定はしないだろうことについては安心はしているのです。
それでも分裂になってしまうかどうかは保証のしようがないです。
浅井昭衛氏の後を継いでも、分裂しないかはわからないです。
私の関心は、そこにはあまりなくて、やはり昭衛氏がしていたあまりに原理主義的な思想をいかに拭っていくかだと思います。
あまりに現代社会との兼ね合いを考慮せずに、日蓮の言ったことだけに依拠して事を進めていくのは正直いただけなかったです。
それが城衛氏がどのように変化させていくか、に興味がわいているのです。
こんな私の立場にどれだけの共鳴がされるでしょうか?
共鳴できた人にお勧めなのが以下の電子書籍です。
単に開祖が言ったことだけに依拠するのではなく、いろんな情報を摂取して最良と思われるものを採択して、行動していく。
もちろん神仏の存在は信じながらも、コンテンツを拡大させていくのが王道、というモラルがいいということですね。
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『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました!
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