宗教の役割や位置づけは時代によって大幅に変わってくる。それを踏まえて自分が宗教に関わるスタンスを決めるべし?
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日本の歴史を垣間見ると面白いのですが、日本は聖徳太子の時代までは、誰もが神を奉る国だったのです。
それが、中国から仏教が渡り、その素晴らしさに政治を執る人たちの多くが目覚めて、それを政治に取り入れることにしたのです。
その際に、人間たるもの保守的なもので、それまで神を信奉していた人たちの反乱があり、その結果戦争が起きたのです。
その後、推古天皇が即位し摂政になった聖徳太子が、冠位十二階(推古天皇11年(603年))・十七条憲法(推古天皇12年(604年))を制定し、仏教を中心として国家事業が着直と勧められたのです。
その後、いろんな僧たちが中国にわたり仏教を学び、それを日本に取り入れたのみならず、国教にまでした時代があったのです。
それが桓武天皇の時代の真言宗です。
その後、紆余曲折を経て、またいろんな仏教が勃興します。
そして、当然ながら神の信仰も生きていて、それだけで単体で存続してたパターンもあれば、仏信仰とも交じり合って神仏習合という形に変形したりと、様々なパターンがあったのは、これまでの歴史を見れば瞭然です。
しかし、江戸時代の末期において、西洋列強の侵略めいた出来事が起き、その結果、幕府の政権が危うくなり、その政権が終わりになるのです。
その後、明治時代になり、岩倉遣欧使節を代表する西欧を視察させた政府の決断は、神を中心にした国に国民全部をまとめ上げていって、西洋のように富国産業を興さなくては、日本は西洋列強の植民地にされてしまう!ということだったようです。
その手段として、天皇を神に祀り上げていく、という手段を採択したのです。
そして1868年の明治維新より、実に1200年以上ぶりに神を中心にした宗教に鞍替えされたのです。
その富国産業政策は功を奏し、日本は列強の仲間入りを果たすことに成功したのです。
いろんな戦争に参戦し、いずれも勝利。
しかし、第二次大戦での敗北を経て、1945年には天皇の人間宣言。
その後、日本は信教の自由をようやく認めることができたのです。
このように、宗教はその時々の政治によって利用されたり、その土地柄に合わせて人々の欲求を満たすために、いろんな解釈がなされて変形されてきたことが一目瞭然なのです。
宗教とは多元的な知識を多くの民衆に教えて、その信仰によって民衆を救わなくてはならないという使命を負っているわけで、教える側(主に僧)が、その際に必要なことをたくさん覚えなくてはならなかったのです。
しかも正確に。
しかもこんにちのように紙などほとんどない時代においては特に大きな使命を負っていたのは言うまでもないことです。
それゆえにエリート=多くの観念を素早く脳内に叩き込める人の養成が不可欠だったのです。
それで選ばれた人のみを選別して、エリート教育を施す。
真言宗は、エリート主義だったように見えたのは仕方がなかったのでしょう。
それが批判の理由になった。
しかも、空海が中国に渡った時の寺院のそばにはゾロアスター教の寺院もあったがゆえに、それを取り込んでの護摩炊き、加持祈祷をしていた姿もまた、異様に映ったのでしょう。
それゆえに日蓮は真言を邪教と断定したと思えるのです。
その他にも、日蓮の信条と相いれない部分もあったがゆえに。
そういう時代背景があったので、それを深く考慮すれば、民衆をないがしろにするように映ってしまったことについて、わざわざ批判すべき筋合いのものではないと思うのです。
それを次の代になって改善すればいいだけの話しですので。
しかも、1つの宗教だけを信奉していれば、そこで展開されている宗旨も、宗教的な事情や時代的な要請上、変形されざるを得ないもので、やはり前の時代と言っていることが違うとして、非難の対象にされざるを得ないのです。
しかし、それもわざわざ取り上げたくはないけれども、やはり引っかかるものはあるのです。
それは創価学会についてです。
例えば、日蓮は聖徳太子にならって「仏法僧を敬え」と言っていたのです。
仏=開祖、法=その開祖の教え、そして僧はそのまま僧です。
それは、創価学会が日蓮正宗の信徒団体であった時代では維持できていましたが、日蓮正宗の信徒として認められなくなったとき、すなわち日蓮正宗から破門にされて以降はできなくなってしまったのです。
それで、創価学会が新たな信者になった人に、その日蓮の「仏法僧を敬え」という言葉を教えるときに、僧=学会員としたのです。
これはあまりにこじつけで笑いそうになってしまったのです。
これをあなたは嗤いますか?
しかし、これは、やはり破門処分によってそうなってしまったがゆえに仕方ないのです。
また、鎌倉時代に、雨が降らない期間が長く続き、飢饉が懸念されたのです。
そこで極楽寺の念仏宗の良観(下写真)なる人物が、念仏を唱えて、雨を降らせる祈念を100日にわたって行ったのです。
そこで日蓮は「念仏によって雨が降ったら念仏宗の信徒に私がなろう!」と宣言したのです。
しかし、結局雨は降らなかったのです。
そこで、良観は日蓮を逆恨みし、日蓮を殺す計画を立てたようです。
それは結局失敗に終わったのですが。
そこで疑問に思わなかったでしょうか?
なら日蓮が題目を上げればどうなっていたか?
降ったのか降らなかったのか?
ということですよね。
そこで、題目を唱えて雨が降ったのであれば、信心する期になったかもしれないですが、それがないならばやはり片手落ちという気がするのです。
これは700年以上も前ということもあって、真実なのかどうかがわからないのです。
たとえ、それが本当のことであると判明されたとしても、それだけで日蓮正宗系信徒にはならないですね、私は。
日蓮
それだけでは、人生をよりよく生きるためにはコンテンツが不十分でしょう?
それは、いろんな本を濫読していくことで見つけることができてここまで生きてきた、という結果が備わっているからですね。
紙のほとんどない時代において、いろんな観念を持っていた仏教界においては、やはり僧侶は尊崇の相手ではあったけれども、いつでもだれでもいろんなことが学べる時代においては、尊崇の対象ではなくなることは必然です。
「僧を敬え」と日蓮が言ったとしても、それに甘んじて僧侶が堕落してしまったり、敬うに値する人格でないならば、それに従うことはできないはずです。
やはり、世界中に広まった宗教であっても、そのまま受け入れるわけにもいかないですし、いろんな人からいろんな用途として使われてきた、という経緯も、このページに書いた通りです。
ゆえに、各宗教の学べるところは学びながら、排除するべきところは排除しなければならないのは言うまでもないことなのです。
そういうことを多面的に考えていけば、やはり1つの宗教に一途にはなれない、というのが正直なところです。
そんな私のスタンスに興味ある人は以下の電子書籍がおススメです。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。
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日本の歴史を垣間見ると面白いのですが、日本は聖徳太子の時代までは、誰もが神を奉る国だったのです。
それが、中国から仏教が渡り、その素晴らしさに政治を執る人たちの多くが目覚めて、それを政治に取り入れることにしたのです。
その際に、人間たるもの保守的なもので、それまで神を信奉していた人たちの反乱があり、その結果戦争が起きたのです。
その後、推古天皇が即位し摂政になった聖徳太子が、冠位十二階(推古天皇11年(603年))・十七条憲法(推古天皇12年(604年))を制定し、仏教を中心として国家事業が着直と勧められたのです。
その後、いろんな僧たちが中国にわたり仏教を学び、それを日本に取り入れたのみならず、国教にまでした時代があったのです。
それが桓武天皇の時代の真言宗です。
その後、紆余曲折を経て、またいろんな仏教が勃興します。
そして、当然ながら神の信仰も生きていて、それだけで単体で存続してたパターンもあれば、仏信仰とも交じり合って神仏習合という形に変形したりと、様々なパターンがあったのは、これまでの歴史を見れば瞭然です。
しかし、江戸時代の末期において、西洋列強の侵略めいた出来事が起き、その結果、幕府の政権が危うくなり、その政権が終わりになるのです。
その後、明治時代になり、岩倉遣欧使節を代表する西欧を視察させた政府の決断は、神を中心にした国に国民全部をまとめ上げていって、西洋のように富国産業を興さなくては、日本は西洋列強の植民地にされてしまう!ということだったようです。
その手段として、天皇を神に祀り上げていく、という手段を採択したのです。
そして1868年の明治維新より、実に1200年以上ぶりに神を中心にした宗教に鞍替えされたのです。
その富国産業政策は功を奏し、日本は列強の仲間入りを果たすことに成功したのです。
いろんな戦争に参戦し、いずれも勝利。
しかし、第二次大戦での敗北を経て、1945年には天皇の人間宣言。
その後、日本は信教の自由をようやく認めることができたのです。
このように、宗教はその時々の政治によって利用されたり、その土地柄に合わせて人々の欲求を満たすために、いろんな解釈がなされて変形されてきたことが一目瞭然なのです。
宗教とは多元的な知識を多くの民衆に教えて、その信仰によって民衆を救わなくてはならないという使命を負っているわけで、教える側(主に僧)が、その際に必要なことをたくさん覚えなくてはならなかったのです。
しかも正確に。
しかもこんにちのように紙などほとんどない時代においては特に大きな使命を負っていたのは言うまでもないことです。
それゆえにエリート=多くの観念を素早く脳内に叩き込める人の養成が不可欠だったのです。
それで選ばれた人のみを選別して、エリート教育を施す。
真言宗は、エリート主義だったように見えたのは仕方がなかったのでしょう。
それが批判の理由になった。
しかも、空海が中国に渡った時の寺院のそばにはゾロアスター教の寺院もあったがゆえに、それを取り込んでの護摩炊き、加持祈祷をしていた姿もまた、異様に映ったのでしょう。
それゆえに日蓮は真言を邪教と断定したと思えるのです。
その他にも、日蓮の信条と相いれない部分もあったがゆえに。
そういう時代背景があったので、それを深く考慮すれば、民衆をないがしろにするように映ってしまったことについて、わざわざ批判すべき筋合いのものではないと思うのです。
それを次の代になって改善すればいいだけの話しですので。
しかも、1つの宗教だけを信奉していれば、そこで展開されている宗旨も、宗教的な事情や時代的な要請上、変形されざるを得ないもので、やはり前の時代と言っていることが違うとして、非難の対象にされざるを得ないのです。
しかし、それもわざわざ取り上げたくはないけれども、やはり引っかかるものはあるのです。
それは創価学会についてです。
例えば、日蓮は聖徳太子にならって「仏法僧を敬え」と言っていたのです。
仏=開祖、法=その開祖の教え、そして僧はそのまま僧です。
それは、創価学会が日蓮正宗の信徒団体であった時代では維持できていましたが、日蓮正宗の信徒として認められなくなったとき、すなわち日蓮正宗から破門にされて以降はできなくなってしまったのです。
それで、創価学会が新たな信者になった人に、その日蓮の「仏法僧を敬え」という言葉を教えるときに、僧=学会員としたのです。
これはあまりにこじつけで笑いそうになってしまったのです。
これをあなたは嗤いますか?
しかし、これは、やはり破門処分によってそうなってしまったがゆえに仕方ないのです。
また、鎌倉時代に、雨が降らない期間が長く続き、飢饉が懸念されたのです。
そこで極楽寺の念仏宗の良観(下写真)なる人物が、念仏を唱えて、雨を降らせる祈念を100日にわたって行ったのです。
そこで日蓮は「念仏によって雨が降ったら念仏宗の信徒に私がなろう!」と宣言したのです。
しかし、結局雨は降らなかったのです。
そこで、良観は日蓮を逆恨みし、日蓮を殺す計画を立てたようです。
それは結局失敗に終わったのですが。
そこで疑問に思わなかったでしょうか?
なら日蓮が題目を上げればどうなっていたか?
降ったのか降らなかったのか?
ということですよね。
そこで、題目を唱えて雨が降ったのであれば、信心する期になったかもしれないですが、それがないならばやはり片手落ちという気がするのです。
これは700年以上も前ということもあって、真実なのかどうかがわからないのです。
たとえ、それが本当のことであると判明されたとしても、それだけで日蓮正宗系信徒にはならないですね、私は。
日蓮
それだけでは、人生をよりよく生きるためにはコンテンツが不十分でしょう?
それは、いろんな本を濫読していくことで見つけることができてここまで生きてきた、という結果が備わっているからですね。
紙のほとんどない時代において、いろんな観念を持っていた仏教界においては、やはり僧侶は尊崇の相手ではあったけれども、いつでもだれでもいろんなことが学べる時代においては、尊崇の対象ではなくなることは必然です。
「僧を敬え」と日蓮が言ったとしても、それに甘んじて僧侶が堕落してしまったり、敬うに値する人格でないならば、それに従うことはできないはずです。
やはり、世界中に広まった宗教であっても、そのまま受け入れるわけにもいかないですし、いろんな人からいろんな用途として使われてきた、という経緯も、このページに書いた通りです。
ゆえに、各宗教の学べるところは学びながら、排除するべきところは排除しなければならないのは言うまでもないことなのです。
そういうことを多面的に考えていけば、やはり1つの宗教に一途にはなれない、というのが正直なところです。
そんな私のスタンスに興味ある人は以下の電子書籍がおススメです。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。
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