事の是非を論じる場合や、事の成就を願うならば万般にわたる情報を得てすべし?!宗教だけに縋るべからず!。


日蓮正宗の信徒団体だった創価学会ですが、日蓮正宗から破門処分にされてしまうのです。
それが91年です。

その内容については、ここでは詳説はできないです、かなりの長い文章になってしまうので。
ただ、こういう場合、それぞれの言い分があるわけで、それぞれの立場の声明文を同じ文量で読んで、どちらが正しいのかを判定するべきでしょう。
しかし、日蓮正宗の信者は正宗の発行する新聞や雑誌だけを読み、創価学会員は創価学会の発行する新聞や雑誌だけを読む。
そうなれば日蓮正宗の信者は日蓮正宗寄り、創価学会は創価学会寄りになるのは必然でしょう。
それぞれの言い分を、両者とも同じ量読むことで、はじめて中立的になるのは言うまでもないのですが、それぞれの立場の人間がそういうスタンスでいる人はどれだけいるのか、非常に疑わしいのです。
そういうことを全員に望むのは不可能に近いでしょう。
しかし、そのままでいいとも思えないのです。
92年に日蓮正宗の法主だった阿部日顕によって発行された本があるのです。
それが『創価学会、池田大作に騙されるな』という本です。
これには日顕(下写真)の書いた文章だけでなく、日蓮正宗信徒による経験談も収められているのです。

「学会を辞めてよかった編」として以下の興味深い文章が収められていました。
「仏罰と思われる現証が…母娘関係の険悪化から女子部の幹部である娘が、自宅に火を放ったり、本部長をはじめとして50歳代で急死する学会員が後を絶たないのです。
また会社を倒産させたり、店を閉めざるを得なくなった学会員も続出しています。」
これは国内の信徒ですが、以下フランスの元創価学会員で正宗に移った人の意見も載っていました。
「SG(創価学会)の教学に対する不満が募っていきました。会合で教える幹部の御書に対する理解が大変浅く、講義する能力がなかった。ご法主上人に対する退座要求書に署名求めるのが信じれなかった。」
これ以外にも、いろんな体験談が載っていました。
学会か正宗か、どちらに行くべきか悩み、学会からの情報をうのみにした人が学会にとどまり、学会に疑問を抱き解消されなかった人が学会を脱会したということでしょう。
日蓮正宗と創価学会、私はどちらの味方でもないのです。
「仏罰と思われる現証」とは書いてありますが、それが本当に仏罰なのか、たまたまそういうことが起きただけかもしれないですので、その是非を確認するすべは私にはないです。
それに急死といっても、創価学会にいたからだ、などということも言えないのです。
本当に仏罰なのか、もともと病気持ちゆえなのか不摂生が原因なのかも判定のしようがないのです。
しかし、思わないでしょうか?
同じ南無妙法蓮華経と唱える団体であるにも関わらず、団体が違うからというだけで、急死してしまうというのは?

そんな薄氷を踏みわたるのがこの宗教の本質であるならば、そんな宗教団体自体辞めるべきではないのかと。
日蓮正宗にしろ、創価学会にしろ、顕正会にしろ、入るべきではないのではないでしょうか?
「会合で教える幹部の御書に対する理解が大変浅く、講義する能力がなかった。」ということですが、これも幹部に講義能力がないならば自身で勉強すればいいことでしょう。
そして、創価学会側が法主だった日顕に退座要求をしたことが信じれなかったということですが、創価学会と宗門のすれ違いの経緯をつまびらかに勉強すれば当然の結果だったと思いますが、その経緯を知ろうとしなかったこの婦人に非がある気がします。
私はそういう立場ですが、その経緯のすべてを知ることは、仕事や家事に忙しい婦人には難しいのはわかりますが、そのままでは真実は見えてこないのは言うまでもないことです。
そして、宗教の長に対しては全くの無批判でいていいという気になれない私には、そういう婦人の気持ちを理解できないのです。
その是非を論じるには、その長のことについてつぶさに述べられた文を読むことが必須なのですが、そういう作業も欠けているのです。
また、他の創価学会に疑問を抱き、正宗にとどまった人の経験談は以下です。
「池田先生は、日蓮大聖人の生まれ変わりだというようになった。日蓮正宗の正しい信仰から離れていく創価学会のいく末を憂いてしました。ことあるごとにその疑問を幹部に直接質問してみましたが、受け入れられないばかりか、危険人物としてみなされるようになったのです。」(P.69)
これも、創価学会の批判ですが、創価学会員は創価学会員で池田大作に対して無批判でいる例が、この人以外にも私の周りでも大勢います。
本来、日蓮正宗信徒であるならば、日蓮を崇め奉るのが本道ですが、正宗の信徒団体であった創価学会が別途、活動していくと、その長である池田大作(下写真)を崇め始めてしまったのでしょう。

これでは明らかに本道から外れていることは間違いないです。
外れた道を矯正するのは必須でしょうし、それに気づいたこの人は立派でしょう。
しかし、正宗、創価学会、顕正会、どの団体にも与しない私は、どの団体の味方もしないので、それほど重要視はしないのです(笑)。
予定調和説とはキリスト教の概念ですが、これは神に祈った後に起こったことは結果がどうなれ、それには感謝しなくてはならないという立場です。
これは、日蓮正宗系でなくとも、いろんな仏教の団体でも陥ってしまう弊があるでしょう。
祈った後に起きた結果は望みどおりでなくても、キリスト教徒が「これは神様がお計らいになったことなんだ」といって満足してしまうのと同じように「これは仏様がお計らいになったことなんだ」と言って満足してしまうのです。
それならば、祈る意味がないのです。
結果が欲しいならば、それがかなうように何を自分がすべきか、を分析して、それにかなうように日々行動を重ねる。
それで望んだ結果が得られなかったら、これから何をすべきかを再び考えて行動するのが王道でしょう。
そのためには縋るのは宗教ではないのです。
その結果が欲しいために何をすべきか示唆してくれる内容を持った本なのです。
それを得ずして、いくらその仏教の本尊に対して祈っても結果は得られないのです。
確かに、神や仏に祈って結果を得た人の例は無数にあります。
ただし、それはその結果を得るために王道の行動をし続けたうえで、祈った人のパターンなのです。
神や仏にただ祈るだけで結果を得たい…これは王道ではなく邪道なのです。
こういう立場に与することができる人や、神や仏についての王道のスタンスを自分で構築したい人には以下の電子書籍はお勧めです。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
→楽天Kobo
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今回はこれにて終了します。
ありがとうございました。


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