開祖の言ったことをそのまま引き合いに出しても説得力はない。現代なら、そこに科学的なアプローチを加えなくては説得力がない?!
人間というのは得てして、宗教に入っていると、その宗教で言われていることには無批判になってしまう嫌いがあります。
人智を超えた神仏の言ったことは絶対なのであり、それに批判を加えることなど人間には恐れ多くも不要なのだというスタンスになってしまうのですね。
そして、その神仏を批判することなどは、罰当たりになってしまうのだから、恐れ多くもそんなことはできない、ということでもあるようです。
そういう思想に染まってしまうのは、やはり危険でしょう。
その宗教当局のすることに無批判になってしまえば、その当局の悪事にし放題という状態を引き起こすことは間違いないからです。
そして物事を成就するにあたっては、宗教だけに縋っていればいいかというとそんなことは絶対にないからですね。
青年期に日蓮の思想にぞっこんになってしまった故人の浅井昭衛氏(下写真)は、かなりの日蓮へのほれ込みようだったようで、日蓮の言ったことに関しては微に入り細にわたって知っている人でした。

「ここまでよくも勉強したな!」と感心するに十分でした。
しかし、今も、そして日蓮の存命中だった鎌倉時代においても、日蓮の言ったことすべてが無謬であったとは思えないです。
浅井氏は、完全に日蓮にぞっこんになっていたようでした。
それは氏の出した本を読めば一目瞭然です。
身延相承書、池上相承書によって日蓮から日興に法が付託された、ということも浅井氏の本で知りました。
それゆえに、その日興の流れを汲む日蓮正宗(下写真)の門流こそが最高の団体なのだということです。

日興の門流は、他の日蓮系とは違って、その教えに神道や儒教といったものを取り入れていない団体なのです。
日蓮一筋で一切のものを入れない純血主義なのでした。
それを信奉することで万事がうまくいくならば問題視する必要はないでしょう。
しかし、それではうまくいかないからこそ、日蓮の思想以外にも拠り所を探して、見つかったらそれに縋って行動していくことが必要なのだ、というのが私の立場なのです。
現に私はそういうスタンスです。
ゆえに日興門流よりも日蓮宗系にスタンスは近いです。
また、浅井氏の本から、釈尊が言ったこととして、「法華経を信じずに謗るならば、その人は臨終ののち、無間地獄に堕ちると喝破した。」ということも脳裏に残っています。
この言葉も浅井氏の本から知ることができたのですが、その釈尊の言ったことも、釈尊の死後かなりの年月が経ってしまっているがゆえに、その内容が無批判でいいのかどうかもかなり疑問視されていることなのです。

当時は、パソコンがあるこんにちとは違って、言った言葉はすべて紙に書かれたのです。
その際に、まったく誤りなく書き写されていたかというと、かなり疑問でしょう。
そして、書いた人の価値観によって変化して書かれたり、脚色して書かれた可能性も大いにあるのです。
いな、そうなるのが必然なのです。
法華経に思いを抱いていた人が多くの人にそれを取り入れてほしいという思いまら、過大に脚色して書いたりしてしまった可能性も大きいのです。
こうした人類の普遍的な現象を抜きにして、宗教で言われていることをそっくりそのまま信じることはできない、というのが私の立場なのです。
また、浅井氏は「いま第六天の大魔王の障礙により、正系門家が敵対関係になってしまった。」ということも氏の本の中で書いているのです。
第六天の魔王とは日蓮の御書にたびたび出てくる言葉ですが、災いをもたらす悪神といった概念でしょうか。
そして正系門家というのは、日蓮正宗系の団体という言葉です。
その第六天魔王も、のちの研究によってそういうものは存在しうるのかどうか疑問視されているものです。
先代の法主だった日顕(下写真)について、浅井氏もかなり批判しているのです。

また、日蓮正宗にいた人達が書いた本で、その実態を暴露した例がかなりあるのです。
法主としてあるまじき横柄な態度や、信者たちの供養金を使って豪華なマンションを買ったり、宴会をしたりといった奢侈の消費といった面について本が多く出されているのです。
それを浅井氏は「第六天魔王が降り立ったからだ」と、氏の本の中で書いているのですが、そうではないのです。
その理由を以下の本の中で心理学的に明らかにされているのですが、その方が説得力があるのです。
どういう家庭に生まれ、どのような教育を施されると、日顕のような人間が育ってしまうのかをつまびらかにしているのです。
その内情を知らずして「南無妙法蓮華経と唱えれば、何もかもうまく解決する」などという日興門流の人たちの言葉など信用できないでしょう。
あの日顕の性格を直そうと多くの人が唱えたでしょう。
しかし、結局あの性格は死ぬまで治らなかった。
それを見てもやはり、「南無妙法蓮華経と唱えれば…」といった言葉はまるで説得力がないのは明白です。

やはり宗教だけですべて解決するというのは、現代では間違いで、やはり科学的なアプローチが必須なのです。
宗教にゾっこんになってしまう人は、宗教だけで解決することしか頭が回らず、科学的なアプローチがまるで足りない。
足りないから説得力がないのです。
開祖.日蓮も同様なのです。
やはり科学的なアプローチが足りないのは御書をよめばわかります。
しかし、それを批判する気にはなれないです。
なぜなら、日蓮のいた鎌倉時代には、心理学などの科学なかったのですから、それを批判しても仕方がないのです。
しかし、その日蓮の言ったことだけで解決できないのであれば、やはり科学的なアプローチが不可欠なのは言うまでもないのです。
そんなスタンスに興味のある人は以下の本をお勧めしたいです。
なぜ、日顕のような人格の人間ができてしまったのか?
そしてそういう人間が出てこないようにするためにはどうすればいいかをつまびらかにしているのです。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
→楽天Kobo
→Amazon Kindle

ここまで読んでいただき感謝します。
ありがとうございました!
スポンサーリンク
スポンサーリンク
汗牛充棟.com ホーム
人智を超えた神仏の言ったことは絶対なのであり、それに批判を加えることなど人間には恐れ多くも不要なのだというスタンスになってしまうのですね。
そして、その神仏を批判することなどは、罰当たりになってしまうのだから、恐れ多くもそんなことはできない、ということでもあるようです。
そういう思想に染まってしまうのは、やはり危険でしょう。
その宗教当局のすることに無批判になってしまえば、その当局の悪事にし放題という状態を引き起こすことは間違いないからです。
そして物事を成就するにあたっては、宗教だけに縋っていればいいかというとそんなことは絶対にないからですね。
青年期に日蓮の思想にぞっこんになってしまった故人の浅井昭衛氏(下写真)は、かなりの日蓮へのほれ込みようだったようで、日蓮の言ったことに関しては微に入り細にわたって知っている人でした。

「ここまでよくも勉強したな!」と感心するに十分でした。
しかし、今も、そして日蓮の存命中だった鎌倉時代においても、日蓮の言ったことすべてが無謬であったとは思えないです。
浅井氏は、完全に日蓮にぞっこんになっていたようでした。
それは氏の出した本を読めば一目瞭然です。
身延相承書、池上相承書によって日蓮から日興に法が付託された、ということも浅井氏の本で知りました。
それゆえに、その日興の流れを汲む日蓮正宗(下写真)の門流こそが最高の団体なのだということです。

日興の門流は、他の日蓮系とは違って、その教えに神道や儒教といったものを取り入れていない団体なのです。
日蓮一筋で一切のものを入れない純血主義なのでした。
それを信奉することで万事がうまくいくならば問題視する必要はないでしょう。
しかし、それではうまくいかないからこそ、日蓮の思想以外にも拠り所を探して、見つかったらそれに縋って行動していくことが必要なのだ、というのが私の立場なのです。
現に私はそういうスタンスです。
ゆえに日興門流よりも日蓮宗系にスタンスは近いです。
また、浅井氏の本から、釈尊が言ったこととして、「法華経を信じずに謗るならば、その人は臨終ののち、無間地獄に堕ちると喝破した。」ということも脳裏に残っています。
この言葉も浅井氏の本から知ることができたのですが、その釈尊の言ったことも、釈尊の死後かなりの年月が経ってしまっているがゆえに、その内容が無批判でいいのかどうかもかなり疑問視されていることなのです。
当時は、パソコンがあるこんにちとは違って、言った言葉はすべて紙に書かれたのです。
その際に、まったく誤りなく書き写されていたかというと、かなり疑問でしょう。
そして、書いた人の価値観によって変化して書かれたり、脚色して書かれた可能性も大いにあるのです。
いな、そうなるのが必然なのです。
法華経に思いを抱いていた人が多くの人にそれを取り入れてほしいという思いまら、過大に脚色して書いたりしてしまった可能性も大きいのです。
こうした人類の普遍的な現象を抜きにして、宗教で言われていることをそっくりそのまま信じることはできない、というのが私の立場なのです。
また、浅井氏は「いま第六天の大魔王の障礙により、正系門家が敵対関係になってしまった。」ということも氏の本の中で書いているのです。
第六天の魔王とは日蓮の御書にたびたび出てくる言葉ですが、災いをもたらす悪神といった概念でしょうか。
そして正系門家というのは、日蓮正宗系の団体という言葉です。
その第六天魔王も、のちの研究によってそういうものは存在しうるのかどうか疑問視されているものです。
先代の法主だった日顕(下写真)について、浅井氏もかなり批判しているのです。

また、日蓮正宗にいた人達が書いた本で、その実態を暴露した例がかなりあるのです。
法主としてあるまじき横柄な態度や、信者たちの供養金を使って豪華なマンションを買ったり、宴会をしたりといった奢侈の消費といった面について本が多く出されているのです。
それを浅井氏は「第六天魔王が降り立ったからだ」と、氏の本の中で書いているのですが、そうではないのです。
その理由を以下の本の中で心理学的に明らかにされているのですが、その方が説得力があるのです。
どういう家庭に生まれ、どのような教育を施されると、日顕のような人間が育ってしまうのかをつまびらかにしているのです。
その内情を知らずして「南無妙法蓮華経と唱えれば、何もかもうまく解決する」などという日興門流の人たちの言葉など信用できないでしょう。
あの日顕の性格を直そうと多くの人が唱えたでしょう。
しかし、結局あの性格は死ぬまで治らなかった。
それを見てもやはり、「南無妙法蓮華経と唱えれば…」といった言葉はまるで説得力がないのは明白です。

やはり宗教だけですべて解決するというのは、現代では間違いで、やはり科学的なアプローチが必須なのです。
宗教にゾっこんになってしまう人は、宗教だけで解決することしか頭が回らず、科学的なアプローチがまるで足りない。
足りないから説得力がないのです。
開祖.日蓮も同様なのです。
やはり科学的なアプローチが足りないのは御書をよめばわかります。
しかし、それを批判する気にはなれないです。
なぜなら、日蓮のいた鎌倉時代には、心理学などの科学なかったのですから、それを批判しても仕方がないのです。
しかし、その日蓮の言ったことだけで解決できないのであれば、やはり科学的なアプローチが不可欠なのは言うまでもないのです。
そんなスタンスに興味のある人は以下の本をお勧めしたいです。
なぜ、日顕のような人格の人間ができてしまったのか?
そしてそういう人間が出てこないようにするためにはどうすればいいかをつまびらかにしているのです。
●以下よりどうぞ!
『日蓮正宗、創価学会、顕正会 どのように選び接していくか』
→楽天Kobo
→Amazon Kindle

ここまで読んでいただき感謝します。
ありがとうございました!


汗牛充棟.com ホーム
コメントを書く... Comments